日置電機:電気指示計器の製造開始と日置電機の設立
1935年〜仲間3、4人で始めた東京の日置電機製作所と、疎開先の坂城で出した自社製の指示電気計器
日置美三氏は1935年6月、東京都内に個人企業の日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。日置美三氏が計測器に初めて触れたのは、兄弟で営んだ撞球場が戦時色の強まりで行き詰まり、山鹿電機の機械工になったときである。山鹿電機は横河電機の下請で、理研電計への吸収に伴う争議に加わった日置美三氏は短期間で退社した。独立にあたっての後ろ盾は、山鹿電機で組立を担当していた小山浜吉氏の技術。受注先は末弟の日置健五氏が用意し、学友が東洋計器に勤めていた縁で兄を目黒工場の下請に紹介した。仕事は支給部品を航空機の無線機用小型計器に組み上げることで、人員は1年半ほどで十数人に増えた。技術を持つ仲間と弟の人脈が、経験の乏しさを補ったとみられる。
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「航空機用計器に手を染める」
- [1]1935年6月、日置美三が東洋計器目黒工場の下請として東京都内に日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。組立技術は山鹿電機で知り合った小山浜吉、下請の紹介は末弟の日置健五による
- [3]1935年6月、日置美三が東洋計器目黒工場の下請として東京都内に日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。組立技術は山鹿電機で知り合った小山浜吉、下請の紹介は末弟の日置健五による
- [4]1935年6月、日置美三が東洋計器目黒工場の下請として東京都内に日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。組立技術は山鹿電機で知り合った小山浜吉、下請の紹介は末弟の日置健五による
- [5]1935年6月、日置美三が東洋計器目黒工場の下請として東京都内に日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。組立技術は山鹿電機で知り合った小山浜吉、下請の紹介は末弟の日置健五による
- [6]1935年6月、日置美三が東洋計器目黒工場の下請として東京都内に日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。組立技術は山鹿電機で知り合った小山浜吉、下請の紹介は末弟の日置健五による
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「信州坂城で再出発」
- [2]撞球場の商売が戦時色で成り立たなくなり、日置美三は山鹿電機の機械工の職に就いた
日置電機製作所は1945年、終戦を待たずに工場を長野県埴科郡坂城町へ移した。1943年なかばに日置美三氏が応召すると、長兄の日置峰二氏と弟の日置四郎氏が加わり、のちに義弟の海瀬四郎氏も参加。1944年後半には約20人で東洋計器の下請を続けたものの、1945年3月の空襲で中目黒の工場を焼失した。移った中野の借家も1カ月後に焼け、東京での操業継続は難しくなった。会社を解散するか疎開して事業を続けるかの選択で、日置電機製作所は無傷で残った支給部品を元手に存続を選んだ。疎開先は日置峰二氏の夫人シサオ氏の郷里で、その地縁で借りたのが同町新町の前田家の離れである。組立の大半が手作業で、場所さえあれば翌日から作業を再開できたことも、移転を後押ししたと考えられる。
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「信州坂城で再出発」
- [7]1945年3月の空爆で中目黒の工場、1カ月後に中野の借家も焼失。終戦前に日置峰二の妻シサオの郷里・坂城町へ移り、前田家の離れで東洋計器の下請を続けた
- [9]1945年3月の空爆で中目黒の工場、1カ月後に中野の借家も焼失。終戦前に日置峰二の妻シサオの郷里・坂城町へ移り、前田家の離れで東洋計器の下請を続けた
- [10]1945年3月の空爆で中目黒の工場、1カ月後に中野の借家も焼失。終戦前に日置峰二の妻シサオの郷里・坂城町へ移り、前田家の離れで東洋計器の下請を続けた
- [11]1945年3月の空爆で中目黒の工場、1カ月後に中野の借家も焼失。終戦前に日置峰二の妻シサオの郷里・坂城町へ移り、前田家の離れで東洋計器の下請を続けた
- [12]1945年3月の空爆で中目黒の工場、1カ月後に中野の借家も焼失。終戦前に日置峰二の妻シサオの郷里・坂城町へ移り、前田家の離れで東洋計器の下請を続けた
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「航空機用計器に手を染める」
- [8]1943年なかばに日置美三が応召し、日置峰二・日置四郎、1944年半ばに海瀬四郎が加わった
戦後の日置電機製作所が最初に出した自社製品は、H-45型とH-65型の指示電気計器2機種である。親会社の東洋計器は戦局の悪化で経営が傾き、工賃を未払いのまま敗戦を迎えていた。日置電機製作所は手元に残った部品を使い、何をつくりどこへ販売するかを自ら決めて事業を立て直した。販路は、日置美三氏が完成品を背負って北越地方の問屋を訪ね、委託で置いてもらう方法で築いた。テスタは試作の「H甲號回路試験器」に続き、1948年から1951年にTH-1〜TH-4の4機種を製造販売した。1951年には外注先が5社に達し、大阪の二宮無線や国華電機など大手卸への販売が増えた。工場は民家の畳敷きの部屋で、手作業の組立では製造が販売に追いつかなくなった。下請時代に覚えた組立技術と残された部品が、自社製品へ切り替える元手になったのだろう。
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「信州坂城で再出発」
- [13]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- [14]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- [15]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- [16]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- [17]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- [18]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「日置電機株式会社の発足」
- [19]1951年ごろは民家の畳敷きの部屋で手作業で組立て、5カ所に外注しても製造が販売に追いつかなかった
参考文献[1]-[19]
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「航空機用計器に手を染める」
- [1]1935年6月、日置美三が東洋計器目黒工場の下請として東京都内に日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。組立技術は山鹿電機で知り合った小山浜吉、下請の紹介は末弟の日置健五による
- [3]1935年6月、日置美三が東洋計器目黒工場の下請として東京都内に日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。組立技術は山鹿電機で知り合った小山浜吉、下請の紹介は末弟の日置健五による
- [4]1935年6月、日置美三が東洋計器目黒工場の下請として東京都内に日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。組立技術は山鹿電機で知り合った小山浜吉、下請の紹介は末弟の日置健五による
- [5]1935年6月、日置美三が東洋計器目黒工場の下請として東京都内に日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。組立技術は山鹿電機で知り合った小山浜吉、下請の紹介は末弟の日置健五による
- [6]1935年6月、日置美三が東洋計器目黒工場の下請として東京都内に日置電機製作所を創立し、仲間3、4人で指示電気計器の組立を始めた。組立技術は山鹿電機で知り合った小山浜吉、下請の紹介は末弟の日置健五による
- [8]1943年なかばに日置美三が応召し、日置峰二・日置四郎、1944年半ばに海瀬四郎が加わった
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「信州坂城で再出発」
- [2]撞球場の商売が戦時色で成り立たなくなり、日置美三は山鹿電機の機械工の職に就いた
- [7]1945年3月の空爆で中目黒の工場、1カ月後に中野の借家も焼失。終戦前に日置峰二の妻シサオの郷里・坂城町へ移り、前田家の離れで東洋計器の下請を続けた
- [9]1945年3月の空爆で中目黒の工場、1カ月後に中野の借家も焼失。終戦前に日置峰二の妻シサオの郷里・坂城町へ移り、前田家の離れで東洋計器の下請を続けた
- [10]1945年3月の空爆で中目黒の工場、1カ月後に中野の借家も焼失。終戦前に日置峰二の妻シサオの郷里・坂城町へ移り、前田家の離れで東洋計器の下請を続けた
- [11]1945年3月の空爆で中目黒の工場、1カ月後に中野の借家も焼失。終戦前に日置峰二の妻シサオの郷里・坂城町へ移り、前田家の離れで東洋計器の下請を続けた
- [12]1945年3月の空爆で中目黒の工場、1カ月後に中野の借家も焼失。終戦前に日置峰二の妻シサオの郷里・坂城町へ移り、前田家の離れで東洋計器の下請を続けた
- [13]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- [14]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- [15]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- [16]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- [17]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- [18]東洋計器が工賃未払いのまま敗戦を迎え、残った部品でH-45型・H-65型の指示電気計器を製造販売。日置美三が北越の問屋に委託販売し、1948〜1951年にテスタTH-1〜TH-4を製造販売。1951年に外注5社・社員20名
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「日置電機株式会社の発足」
- [19]1951年ごろは民家の畳敷きの部屋で手作業で組立て、5カ所に外注しても製造が販売に追いつかなかった
1952年〜資本金180万円の日置電機株式会社と、米国極東空軍から受けたマルチテスタの特需
日置電機製作所は1952年1月、資本金180万円で株式会社に改組し、社名を日置電機株式会社に改めた。朝鮮動乱の特需を背景に、1951年には販売地盤がおおむね固まり、かなりの利益を生むようになっていた。一方で経営形態は、日置美三氏の個人事業に兄弟と義弟が加わった戦前からの体制。税務対策をはじめ多くの点で、旧来の組織を続けるのは望ましくないと判断した。役員の顔ぶれは、社長に日置峰二氏、専務に日置四郎氏、常務に日置美三氏、監査役に海瀬四郎氏である。社史は、人と金銭の管理に長けた日置峰二氏、営業に向く日置美三氏、独学で設計を学んだ日置四郎氏という分担を記している。利益の拡大で個人事業の枠に収まらなくなり、三兄弟の役割を役職として定めたと推察される。
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「日置電機株式会社の発足」
- [20]1951年に販売地盤が固まり利益が出たため、税務対策などから1952年1月に資本金180万円で株式会社に改組し日置電機株式会社に改称
- [21]1951年に販売地盤が固まり利益が出たため、税務対策などから1952年1月に資本金180万円で株式会社に改組し日置電機株式会社に改称
- [22]1951年に販売地盤が固まり利益が出たため、税務対策などから1952年1月に資本金180万円で株式会社に改組し日置電機株式会社に改称
- [23]1951年に販売地盤が固まり利益が出たため、税務対策などから1952年1月に資本金180万円で株式会社に改組し日置電機株式会社に改称
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「米国極東空軍向けマルチテスタの受注」
- [24]設立時の役員は社長日置峰二、専務日置四郎、常務日置美三、監査役海瀬四郎。三兄弟の得意分野の違いを記述
- [25]設立時の役員は社長日置峰二、専務日置四郎、常務日置美三、監査役海瀬四郎。三兄弟の得意分野の違いを記述
日置電機は1952年、米国極東空軍向けマルチテスタの指名入札で落札し、約1,000台を期限内に全量納めた。極東空軍は東南アジア向け援助物資のテスタを日本で調達することとし、東京丸の内の米軍特別調達局を通じて入札を実施した。指名先は横河電機製作所、島津製作所、竹本電機計器製作所と日置電機の4社である。社員20名足らずの日置電機が指名されたのは、製品の優劣とコストで選ぶ入札であったためと社史はみている。落札の見込みは薄いと考えつつも応札し、日置健五氏が特別調達局との折衝を代わり、日置四郎氏が原価を見積もった。製造は海瀬四郎氏が統括し、英文の仕様書の翻訳から設計、低温・高温試験までを初めて経験した。受注額は約2,200万円で、1952年の売上は3,900万円に増えた。
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「米国極東空軍向けマルチテスタの受注」
- [26]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- [27]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- [28]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- [29]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- [30]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- [31]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「新工場の建設とテスタの拡充」
- [32]1952年の売上は米軍向け特需で3,900万円、1953年は2,600万円
日置電機は1958年10月、坂城町に新築した本社工場へ移転し、操業を始めた。それまでの立町工場は民家を改造した建物で、生産量の面で限界に達していた。用地4,264m2は1954年秋から手当てし、建設資金は1952年の特需による蓄積と2回の増資で賄った。同じ1958年には、枠をベークライトからアクリルに替えた低価格のL33テスタを発売し、学校の教材にも採用された。販売では、日置美三氏個人の力で築いた大阪中心の地盤を見直した。拠点の開設は、1959年9月の東京出張所、1961年6月の大阪営業所、1963年2月の名古屋営業所の順である。1963年の売上は1億5,200万円となり、社員は臨時採用を含めて143人に増えた。工場と三大都市圏の営業所が、テスタの量的拡大を進める土台になったと思われる。
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「新工場の建設とテスタの拡充」
- [33]1958年10月に坂城町の新本社工場(1,148m2)へ移転。用地4,264m2を1954年秋から手当てし、特需の蓄積と増資で資金を賄い資本金560万円
- [34]1958年10月に坂城町の新本社工場(1,148m2)へ移転。用地4,264m2を1954年秋から手当てし、特需の蓄積と増資で資金を賄い資本金560万円
- [35]1958年10月に坂城町の新本社工場(1,148m2)へ移転。用地4,264m2を1954年秋から手当てし、特需の蓄積と増資で資金を賄い資本金560万円
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「三大営業拠点の設置」
- [36]1958年にL33テスタを発売。1959年9月東京出張所、1961年6月大阪営業所、1963年2月名古屋営業所を開設。1963年の売上1億5,200万円・社員143人
- [37]1958年にL33テスタを発売。1959年9月東京出張所、1961年6月大阪営業所、1963年2月名古屋営業所を開設。1963年の売上1億5,200万円・社員143人
- [38]1958年にL33テスタを発売。1959年9月東京出張所、1961年6月大阪営業所、1963年2月名古屋営業所を開設。1963年の売上1億5,200万円・社員143人
- [39]1958年にL33テスタを発売。1959年9月東京出張所、1961年6月大阪営業所、1963年2月名古屋営業所を開設。1963年の売上1億5,200万円・社員143人
参考文献[20]-[39]
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「日置電機株式会社の発足」
- [20]1951年に販売地盤が固まり利益が出たため、税務対策などから1952年1月に資本金180万円で株式会社に改組し日置電機株式会社に改称
- [21]1951年に販売地盤が固まり利益が出たため、税務対策などから1952年1月に資本金180万円で株式会社に改組し日置電機株式会社に改称
- [22]1951年に販売地盤が固まり利益が出たため、税務対策などから1952年1月に資本金180万円で株式会社に改組し日置電機株式会社に改称
- [23]1951年に販売地盤が固まり利益が出たため、税務対策などから1952年1月に資本金180万円で株式会社に改組し日置電機株式会社に改称
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「米国極東空軍向けマルチテスタの受注」
- [24]設立時の役員は社長日置峰二、専務日置四郎、常務日置美三、監査役海瀬四郎。三兄弟の得意分野の違いを記述
- [25]設立時の役員は社長日置峰二、専務日置四郎、常務日置美三、監査役海瀬四郎。三兄弟の得意分野の違いを記述
- [26]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- [27]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- [28]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- [29]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- [30]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- [31]1952年、米軍特別調達局を通じた極東空軍向けマルチテスタの指名入札(横河・島津・竹本・日置の4社)で落札し、約1,000台とパネルメータを期限内に納入。受注額約2,200万円
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「新工場の建設とテスタの拡充」
- [32]1952年の売上は米軍向け特需で3,900万円、1953年は2,600万円
- [33]1958年10月に坂城町の新本社工場(1,148m2)へ移転。用地4,264m2を1954年秋から手当てし、特需の蓄積と増資で資金を賄い資本金560万円
- [34]1958年10月に坂城町の新本社工場(1,148m2)へ移転。用地4,264m2を1954年秋から手当てし、特需の蓄積と増資で資金を賄い資本金560万円
- [35]1958年10月に坂城町の新本社工場(1,148m2)へ移転。用地4,264m2を1954年秋から手当てし、特需の蓄積と増資で資金を賄い資本金560万円
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「三大営業拠点の設置」
- [36]1958年にL33テスタを発売。1959年9月東京出張所、1961年6月大阪営業所、1963年2月名古屋営業所を開設。1963年の売上1億5,200万円・社員143人
- [37]1958年にL33テスタを発売。1959年9月東京出張所、1961年6月大阪営業所、1963年2月名古屋営業所を開設。1963年の売上1億5,200万円・社員143人
- [38]1958年にL33テスタを発売。1959年9月東京出張所、1961年6月大阪営業所、1963年2月名古屋営業所を開設。1963年の売上1億5,200万円・社員143人
- [39]1958年にL33テスタを発売。1959年9月東京出張所、1961年6月大阪営業所、1963年2月名古屋営業所を開設。1963年の売上1億5,200万円・社員143人
1964年〜赤井電機・ティアック向けに量産したVU計と、RCAとの直貿で広げたテスタの輸出
日置電機は1960年代半ばから、輸出と国内音響機器メーカー向けのOEM生産の2つで量的拡大を進めた。国内のテスタ市場では三和電気計器のブランドが浸透しており、HIOKIブランドは苦戦していた。メータとテスタの専業で、全国に販売網を敷くだけの製品群を出す技術の裏付けも育っていなかった。日置電機は1962年に輸出振興を社是の1つに定め、北米ではラファイエット社とオルソン社のブランドでテスタを輸出していた。国内では赤井電機向けのVU計を1965年に本格生産へ移し、1968年からはティアック向けも加わった。両社向けの生産量はピーク時に月産それぞれ3万〜4万個に達し、1969年の売上は初めて10億円に乗った。輸出は出荷と同時に代金を回収でき、大手の系列に入らずに資金を回す手段にもなった。
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「輸出拡大政策」
- [40]国内では三和のブランドが強く技術の裏付けも乏しかったため、輸出と国内OEM生産の2極で量的拡大を図った
- [41]国内では三和のブランドが強く技術の裏付けも乏しかったため、輸出と国内OEM生産の2極で量的拡大を図った
- [42]国内では三和のブランドが強く技術の裏付けも乏しかったため、輸出と国内OEM生産の2極で量的拡大を図った
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「VU計の量産」
- [43]1962年に輸出振興を社是化。北米でラファイエット・オルソンのOEM輸出。1965年に赤井電機向けVU計を本格生産、1968年からティアック向け、ピーク時各月産3万〜4万個。1969年売上10億円
- [44]1962年に輸出振興を社是化。北米でラファイエット・オルソンのOEM輸出。1965年に赤井電機向けVU計を本格生産、1968年からティアック向け、ピーク時各月産3万〜4万個。1969年売上10億円
- [45]1962年に輸出振興を社是化。北米でラファイエット・オルソンのOEM輸出。1965年に赤井電機向けVU計を本格生産、1968年からティアック向け、ピーク時各月産3万〜4万個。1969年売上10億円
- [46]1962年に輸出振興を社是化。北米でラファイエット・オルソンのOEM輸出。1965年に赤井電機向けVU計を本格生産、1968年からティアック向け、ピーク時各月産3万〜4万個。1969年売上10億円
日置電機は1969年、米RCAとの間で商社を介さない直接取引を始めた。社長の日置峰二氏は1968年、輸出比率を40%から60%まで高めたいという方針を示していた。それまでの輸出は全面的に商社に委ねており、主導権を握られて利幅が乏しく、情報が直接届かずにトラブルも起きた。日置電機は経路を短くして情報を密に交わすため、1969年に担当者を米国へ長期出張させ、RCAやシンプソンなどに照会状を送った。RCA測定器部門の責任者リスカ氏がこれに応じ、テスタ5機種のOEM輸出が決まって1970年6月に初の船積みを行った。1972年のRCA向け取引額は年間3億円で、全売上の10%、輸出総額の30%にあたる。米国の50ドル以下のテスタ市場では日本メーカー数社がOEMで競っており、1973年には日本から渡る分の約8割をRCAなどと組んだ日置電機が占めていた。
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「RCAとの直貿始まる」
- [47]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- [48]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- [49]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- [50]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- [51]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- [52]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- 日経ビジネス 1973年8月6日号
- [53]1973年時点で、RCAなど大手を通じ米国の50ドル以下市場で日本からの輸出のほぼ80%を押さえ、前年の対米輸出は6億円余り
日置電機は1972年9月、坂城から西北に約30キロ離れた信州新町に分工場の新町工場を発足させた。組立を人手に依存する生産では、求人難が深まると増産の手段が限られていた。新町工場は下請工場から独立した4人を正社員として迎え、メータ月産2万台を目標に立ち上げた。同じ1972年には7月に台湾の宇鋒電機と、11月に韓国の正豊物産と生産技術提携を結び、宇鋒電機でL33テスタの委託生産を始めた。1973年5月には韓国に合弁会社の光州電子精密工業を設立した。同年8月時点で社長の日置恒明氏が掲げた方針は、2月期の年商17億円を基に、国内首位の三和電気計器を追い抜くことである。専務の関戸寿雄氏は外注化を進め、男子社員を研究開発に振り向ける方針を打ち出した。
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「海外生産の試み」
- [54]1972年9月に信州新町に分工場を発足、メータ月産2万台が目標。1972年7月台湾・宇鋒電機、同年11月韓国・正豊物産と生産技術提携し、宇鋒電機でL33テスタを委託生産
- [55]1972年9月に信州新町に分工場を発足、メータ月産2万台が目標。1972年7月台湾・宇鋒電機、同年11月韓国・正豊物産と生産技術提携し、宇鋒電機でL33テスタを委託生産
- [56]1972年9月に信州新町に分工場を発足、メータ月産2万台が目標。1972年7月台湾・宇鋒電機、同年11月韓国・正豊物産と生産技術提携し、宇鋒電機でL33テスタを委託生産
- [57]1972年9月に信州新町に分工場を発足、メータ月産2万台が目標。1972年7月台湾・宇鋒電機、同年11月韓国・正豊物産と生産技術提携し、宇鋒電機でL33テスタを委託生産
- 日経ビジネス 1973年8月6日号
- [58]1973年5月に韓国合弁・光州電子精密工業を設立。日置恒明社長は2月期年商17億円で業界2位、首位三和電気計器の追い抜きを掲げ、関戸寿雄専務は男子社員を研究開発に投入する方針
- [59]1973年5月に韓国合弁・光州電子精密工業を設立。日置恒明社長は2月期年商17億円で業界2位、首位三和電気計器の追い抜きを掲げ、関戸寿雄専務は男子社員を研究開発に投入する方針
- [60]1973年5月に韓国合弁・光州電子精密工業を設立。日置恒明社長は2月期年商17億円で業界2位、首位三和電気計器の追い抜きを掲げ、関戸寿雄専務は男子社員を研究開発に投入する方針
参考文献[40]-[60]
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「輸出拡大政策」
- [40]国内では三和のブランドが強く技術の裏付けも乏しかったため、輸出と国内OEM生産の2極で量的拡大を図った
- [41]国内では三和のブランドが強く技術の裏付けも乏しかったため、輸出と国内OEM生産の2極で量的拡大を図った
- [42]国内では三和のブランドが強く技術の裏付けも乏しかったため、輸出と国内OEM生産の2極で量的拡大を図った
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「VU計の量産」
- [43]1962年に輸出振興を社是化。北米でラファイエット・オルソンのOEM輸出。1965年に赤井電機向けVU計を本格生産、1968年からティアック向け、ピーク時各月産3万〜4万個。1969年売上10億円
- [44]1962年に輸出振興を社是化。北米でラファイエット・オルソンのOEM輸出。1965年に赤井電機向けVU計を本格生産、1968年からティアック向け、ピーク時各月産3万〜4万個。1969年売上10億円
- [45]1962年に輸出振興を社是化。北米でラファイエット・オルソンのOEM輸出。1965年に赤井電機向けVU計を本格生産、1968年からティアック向け、ピーク時各月産3万〜4万個。1969年売上10億円
- [46]1962年に輸出振興を社是化。北米でラファイエット・オルソンのOEM輸出。1965年に赤井電機向けVU計を本格生産、1968年からティアック向け、ピーク時各月産3万〜4万個。1969年売上10億円
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「RCAとの直貿始まる」
- [47]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- [48]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- [49]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- [50]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- [51]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- [52]1969年、商社任せの輸出の弊害を避けるため米国市場調査で照会状を送り、RCAとの直接貿易が決定。1970年6月初船積み、1972年に年間3億円(全売上の10%、輸出の30%)。1968年に日置峰二社長が輸出比率60%を目標と表明
- 日経ビジネス 1973年8月6日号
- [53]1973年時点で、RCAなど大手を通じ米国の50ドル以下市場で日本からの輸出のほぼ80%を押さえ、前年の対米輸出は6億円余り
- [58]1973年5月に韓国合弁・光州電子精密工業を設立。日置恒明社長は2月期年商17億円で業界2位、首位三和電気計器の追い抜きを掲げ、関戸寿雄専務は男子社員を研究開発に投入する方針
- [59]1973年5月に韓国合弁・光州電子精密工業を設立。日置恒明社長は2月期年商17億円で業界2位、首位三和電気計器の追い抜きを掲げ、関戸寿雄専務は男子社員を研究開発に投入する方針
- [60]1973年5月に韓国合弁・光州電子精密工業を設立。日置恒明社長は2月期年商17億円で業界2位、首位三和電気計器の追い抜きを掲げ、関戸寿雄専務は男子社員を研究開発に投入する方針
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「海外生産の試み」
- [54]1972年9月に信州新町に分工場を発足、メータ月産2万台が目標。1972年7月台湾・宇鋒電機、同年11月韓国・正豊物産と生産技術提携し、宇鋒電機でL33テスタを委託生産
- [55]1972年9月に信州新町に分工場を発足、メータ月産2万台が目標。1972年7月台湾・宇鋒電機、同年11月韓国・正豊物産と生産技術提携し、宇鋒電機でL33テスタを委託生産
- [56]1972年9月に信州新町に分工場を発足、メータ月産2万台が目標。1972年7月台湾・宇鋒電機、同年11月韓国・正豊物産と生産技術提携し、宇鋒電機でL33テスタを委託生産
- [57]1972年9月に信州新町に分工場を発足、メータ月産2万台が目標。1972年7月台湾・宇鋒電機、同年11月韓国・正豊物産と生産技術提携し、宇鋒電機でL33テスタを委託生産
出典・参考
11件
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「航空機用計器に手を染める」
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「信州坂城で再出発」
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「日置電機株式会社の発足」
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「米国極東空軍向けマルチテスタの受注」
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「新工場の建設とテスタの拡充」
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「三大営業拠点の設置」
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「輸出拡大政策」
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「VU計の量産」
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「RCAとの直貿始まる」
- 刊行社史『日置電機50年史』(1985)「海外生産の試み」
- 日経ビジネス 1973年8月6日号