第1章 年〜年

シントム:新東京無線の設立と東芝協力工場のカーラジオ

1955年〜蒲田の東京無線を離れた技術者たちと、品川で興した新東京無線

井上信太郎氏は1955年、勤め先の東京無線電機を離れて独立を決めた。井上信太郎氏は1941年に蒲田の東京無線へ入社し、研究室で軍用レーダーの開発を手伝った技術者だった。東京無線電機は戦時中に軍の通信機を製造し、戦後はラジオや学校放送用の拡声器へ転じたものの、業績が悪化して1955年に倒産した。井上信太郎氏は後年の講演で、軍の指示どおりに納めるだけだった経営陣が販売を知らなかったことを行き詰まりの原因に挙げた。当時の井上信太郎氏は37歳で妻子を抱え、雇い先の当ても乏しかったと振り返っている。辞職は技術者としての選択というより、勤め先の消滅に押し出された結果とみられる。

  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [1]東京無線電機は1955年(昭和30年)に倒産、井上信太郎は当時37歳・妻子あり・雇い先の当てが乏しかったと回想
    • [4]東京無線電機は1955年(昭和30年)に倒産、井上信太郎は当時37歳・妻子あり・雇い先の当てが乏しかったと回想
    • [6]東京無線電機は1955年(昭和30年)に倒産、井上信太郎は当時37歳・妻子あり・雇い先の当てが乏しかったと回想
  • 証券アナリストジャーナル 13(9) 1975年 井上信太郎(講演要旨)
    • [2]井上信太郎は1941年に蒲田の東京無線に入社し研究室で軍用レーダー等の開発に従事、経営者が販売を知らず経営が行き詰まり辞職
    • [5]井上信太郎は1941年に蒲田の東京無線に入社し研究室で軍用レーダー等の開発に従事、経営者が販売を知らず経営が行き詰まり辞職
  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [3]東京無線電機は戦時中に兵器用通信機を製造、戦後は小型ラジオ・学校放送用拡声器等を受注生産したが業績悪化で倒産

1955年6月28日、井上信太郎氏らが通信機器と部品の製造販売を目的に、東京都品川区で設立したのが新東京無線株式会社。創業の顔ぶれは、井上信太郎氏が設計課長や東京工場次長を務めた時代の部下である佐々木康雄氏らで、半年後には同じ設計課出身の平田修氏も加わった。経営陣の大半は東京無線電機から移った人々で、旧社名への愛着から新会社の名に「東京無線」を残した。井上信太郎氏は、数人のエンジニアとともに始めた会社だと紹介している。後年の車載ラジオやカーステレオも、軍用無線機や東芝の下請けで培った技術とアイデアを基礎にしたと井上信太郎氏は位置づけた。設備や販路より先に、旧職場で組んだ設計陣を引き継いだことが新会社の元手だったと推測される。

  • 証券 27(8)(317) 1975年(新規上場会社紹介)
    • [7]1955年6月28日、通信機器及び部品の製造販売を目的に東京都品川区で新東京無線(株)として設立
  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [8]井上信太郎(東京無線電機の設計課長・東京工場次長)が設計課の部下佐々木康雄らと設立、半年後に平田修が入社。役員の大半が東京無線電機出身で社名に愛着
    • [9]井上信太郎(東京無線電機の設計課長・東京工場次長)が設計課の部下佐々木康雄らと設立、半年後に平田修が入社。役員の大半が東京無線電機出身で社名に愛着
  • 証券アナリストジャーナル 13(9) 1975年 井上信太郎(講演要旨)
    • [10]1955年6月に数人のエンジニアと新東京無線を開始。カーラジオ・カーステレオは軍用無線機・東芝下請時代の技術とアイデアが基礎
    • [11]1955年6月に数人のエンジニアと新東京無線を開始。カーラジオ・カーステレオは軍用無線機・東芝下請時代の技術とアイデアが基礎

設立当初の製品は、幼稚園向けの放送装置とも学校用の拡声機とも伝わる。どちらにせよ買い手はつかず、代金の回収にも苦しんだ新東京無線は、東芝の下請けとして回ってくる放送機器の修理で経営をつないだ。1957年ごろから民間放送局のスタジオ建設が増え、新東京無線は東芝の下請けとして全国の民放の工事を担った。井上信太郎氏は、戦後から1955年までに放送機器とスタジオ装置を手がけた経験が、民放ブームの需要に生きたと述べた。当時の取引先はNHKと民放テレビ局で、品目は音響装置だった。自前の販路を持たない会社にとって、東芝経由の受注が当座の生命線だったのだろう。

  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [12]設立当初は幼稚園向け放送装置を製造販売したが不成功、東芝から修理の仕事を得る。1957年ごろから民放スタジオ建設が活発化し東芝の下請として全国の民放の仕事
    • [14]設立当初は幼稚園向け放送装置を製造販売したが不成功、東芝から修理の仕事を得る。1957年ごろから民放スタジオ建設が活発化し東芝の下請として全国の民放の仕事
    • [16]設立当初は幼稚園向け放送装置を製造販売したが不成功、東芝から修理の仕事を得る。1957年ごろから民放スタジオ建設が活発化し東芝の下請として全国の民放の仕事
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [13]発足当初の製品は学校用拡声機で買い手・代金回収に苦労、東芝の下請けとしての放送機器の修理業務が支えた
    • [15]発足当初の製品は学校用拡声機で買い手・代金回収に苦労、東芝の下請けとしての放送機器の修理業務が支えた
  • 証券アナリストジャーナル 13(9) 1975年 井上信太郎(講演要旨)
    • [17]放送機器・スタジオ装置は戦後から1955年までに経験があり、民放ブームで仕事を得た
  • 証券 27(8)(317) 1975年(新規上場会社紹介)
    • [18]設立当初、NHKをはじめ民放TV局向けの音響装置を取り扱った
参考文献[1]-[18]
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [1]東京無線電機は1955年(昭和30年)に倒産、井上信太郎は当時37歳・妻子あり・雇い先の当てが乏しかったと回想
    • [4]東京無線電機は1955年(昭和30年)に倒産、井上信太郎は当時37歳・妻子あり・雇い先の当てが乏しかったと回想
    • [6]東京無線電機は1955年(昭和30年)に倒産、井上信太郎は当時37歳・妻子あり・雇い先の当てが乏しかったと回想
    • [13]発足当初の製品は学校用拡声機で買い手・代金回収に苦労、東芝の下請けとしての放送機器の修理業務が支えた
    • [15]発足当初の製品は学校用拡声機で買い手・代金回収に苦労、東芝の下請けとしての放送機器の修理業務が支えた
  • 証券アナリストジャーナル 13(9) 1975年 井上信太郎(講演要旨)
    • [2]井上信太郎は1941年に蒲田の東京無線に入社し研究室で軍用レーダー等の開発に従事、経営者が販売を知らず経営が行き詰まり辞職
    • [5]井上信太郎は1941年に蒲田の東京無線に入社し研究室で軍用レーダー等の開発に従事、経営者が販売を知らず経営が行き詰まり辞職
    • [10]1955年6月に数人のエンジニアと新東京無線を開始。カーラジオ・カーステレオは軍用無線機・東芝下請時代の技術とアイデアが基礎
    • [11]1955年6月に数人のエンジニアと新東京無線を開始。カーラジオ・カーステレオは軍用無線機・東芝下請時代の技術とアイデアが基礎
    • [17]放送機器・スタジオ装置は戦後から1955年までに経験があり、民放ブームで仕事を得た
  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [3]東京無線電機は戦時中に兵器用通信機を製造、戦後は小型ラジオ・学校放送用拡声器等を受注生産したが業績悪化で倒産
    • [8]井上信太郎(東京無線電機の設計課長・東京工場次長)が設計課の部下佐々木康雄らと設立、半年後に平田修が入社。役員の大半が東京無線電機出身で社名に愛着
    • [9]井上信太郎(東京無線電機の設計課長・東京工場次長)が設計課の部下佐々木康雄らと設立、半年後に平田修が入社。役員の大半が東京無線電機出身で社名に愛着
    • [12]設立当初は幼稚園向け放送装置を製造販売したが不成功、東芝から修理の仕事を得る。1957年ごろから民放スタジオ建設が活発化し東芝の下請として全国の民放の仕事
    • [14]設立当初は幼稚園向け放送装置を製造販売したが不成功、東芝から修理の仕事を得る。1957年ごろから民放スタジオ建設が活発化し東芝の下請として全国の民放の仕事
    • [16]設立当初は幼稚園向け放送装置を製造販売したが不成功、東芝から修理の仕事を得る。1957年ごろから民放スタジオ建設が活発化し東芝の下請として全国の民放の仕事
  • 証券 27(8)(317) 1975年(新規上場会社紹介)
    • [7]1955年6月28日、通信機器及び部品の製造販売を目的に東京都品川区で新東京無線(株)として設立
    • [18]設立当初、NHKをはじめ民放TV局向けの音響装置を取り扱った

1957年〜東芝経由で日産から回ったカーラジオと、民放一巡で撤退した音響装置

新東京無線がカーラジオの製造を始めたのは1957年で、東芝が日産自動車から受注したオースチン向けのカーラジオの仕事を回したことが発端だった。設立当初から、新東京無線は東芝を通じて日産自動車向けの自動車用ラジオを製造販売していた。当初の生産台数は200台程度にとどまったものの、日産自動車が1958年にブルーバードを発表すると、自動車販売の拡大に比例してカーラジオの生産も増えた。井上信太郎氏は、同じ仕事に松下通信や帝国電波も加わるなかで、下請けの立場ながら最も早く着手したのは新東京無線だったと語った。東芝から回ったこの受注が、その後の会社の進路を決めた。通信機で積んだ受信の技術を車載へ移せたことも、着手を後押ししたと推察される。

  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [19]1957年、東芝が日産自動車から受注したオースチン用カーラジオを流され製造に着手。当初200台程度、1958年ブルーバード発表後に生産が伸びる
    • [21]1957年、東芝が日産自動車から受注したオースチン用カーラジオを流され製造に着手。当初200台程度、1958年ブルーバード発表後に生産が伸びる
  • 証券 27(8)(317) 1975年(新規上場会社紹介)
    • [20]設立当初、東芝を通じて日産自動車向け自動車用ラジオを製造販売
  • 証券アナリストジャーナル 13(9) 1975年 井上信太郎(講演要旨)
    • [22]オースチン用カーラジオを受注、松下通信・帝国電波も同時期、下請ながらカーラジオに最も早く着手
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [23]カーラジオ参入のきっかけは東芝が日産から受注した仕事、東芝からの受注が進路を決めたと評価

テレビ局向けの音響装置は1960年以降、民放局の新設と増設が一巡して需要が減り、新東京無線は製造を中止した。同じ時期に、カーラジオはモータリゼーションの進展で需要が拡大し、とりわけ米国でその傾向が強かった。新東京無線は1960年5月に本社と工場を神奈川県横浜市へ移した。ただし、民放の設備が一通り終わって放送向けとの二本立てをやめ、カーラジオ一本に絞った年を1967年とする資料もある。1967年以降も、新東京無線は東芝の協力工場として日産自動車・日野・いすゞへカーラジオを納めた。打ち切りの年は資料で異なるものの、放送向けの需要が減り、車の販売が拡大した流れはどちらも一致する。

  • 証券 27(8)(317) 1975年(新規上場会社紹介)
    • [24]TV局向け音響装置は1960年以降民放局の新・増設一巡で需要が減り製造中止。カーラジオはモータリゼーションで需要増、特に米国。1960年5月に本社・工場を横浜市へ移転
    • [25]TV局向け音響装置は1960年以降民放局の新・増設一巡で需要が減り製造中止。カーラジオはモータリゼーションで需要増、特に米国。1960年5月に本社・工場を横浜市へ移転
    • [26]TV局向け音響装置は1960年以降民放局の新・増設一巡で需要が減り製造中止。カーラジオはモータリゼーションで需要増、特に米国。1960年5月に本社・工場を横浜市へ移転
    • [29]TV局向け音響装置は1960年以降民放局の新・増設一巡で需要が減り製造中止。カーラジオはモータリゼーションで需要増、特に米国。1960年5月に本社・工場を横浜市へ移転
  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [27]1967年に民放設備が一通り終わりカーラジオ一本に絞り、東芝の協力工場として日産・日野・いすゞへ納入
    • [28]1967年に民放設備が一通り終わりカーラジオ一本に絞り、東芝の協力工場として日産・日野・いすゞへ納入
    • [30]1967年に民放設備が一通り終わりカーラジオ一本に絞り、東芝の協力工場として日産・日野・いすゞへ納入

カーラジオ市場の拡大を見て新規参入が相次ぎ、東芝のカーラジオのシェアは年々低下した。参入した顔ぶれは、後藤弘氏の記事によればクラリオン、松下電器産業、日立製作所。東芝はカーラジオから撤退する方針を固めた。新東京無線はすでに設備投資を済ませており、カーラジオのほかに事業の当てはなかった。井上信太郎氏は後年、10年に及んだ下請けの立場のつらさを身をもって知ったと振り返った。井上信太郎氏は、1955年から1965年までを、東芝の下請けとして放送機器とカーラジオを手がけた時期と区切っている。東芝経由の受注で成り立ってきた下請けにとって、元請けの撤退は事業の前提が崩れる事態だったと思われる。

  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [31]カーラジオの成長に新規参入が続出し東芝のシェアは年々低下、東芝は撤退を決めたが設備投資済みの同社には他に道がなかった。井上信太郎は10年間の下請けの悲哀を知ると回想
    • [33]カーラジオの成長に新規参入が続出し東芝のシェアは年々低下、東芝は撤退を決めたが設備投資済みの同社には他に道がなかった。井上信太郎は10年間の下請けの悲哀を知ると回想
    • [34]カーラジオの成長に新規参入が続出し東芝のシェアは年々低下、東芝は撤退を決めたが設備投資済みの同社には他に道がなかった。井上信太郎は10年間の下請けの悲哀を知ると回想
    • [35]カーラジオの成長に新規参入が続出し東芝のシェアは年々低下、東芝は撤退を決めたが設備投資済みの同社には他に道がなかった。井上信太郎は10年間の下請けの悲哀を知ると回想
  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [32]クラリオン・松下電産・日立製作所などの進出で東芝のシェアが縮小傾向
  • 証券アナリストジャーナル 13(9) 1975年 井上信太郎(講演要旨)
    • [36]1955年から1965年までは東芝の下請として放送機器・カーラジオを手がけた
参考文献[19]-[36]
  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [19]1957年、東芝が日産自動車から受注したオースチン用カーラジオを流され製造に着手。当初200台程度、1958年ブルーバード発表後に生産が伸びる
    • [21]1957年、東芝が日産自動車から受注したオースチン用カーラジオを流され製造に着手。当初200台程度、1958年ブルーバード発表後に生産が伸びる
    • [27]1967年に民放設備が一通り終わりカーラジオ一本に絞り、東芝の協力工場として日産・日野・いすゞへ納入
    • [28]1967年に民放設備が一通り終わりカーラジオ一本に絞り、東芝の協力工場として日産・日野・いすゞへ納入
    • [30]1967年に民放設備が一通り終わりカーラジオ一本に絞り、東芝の協力工場として日産・日野・いすゞへ納入
    • [32]クラリオン・松下電産・日立製作所などの進出で東芝のシェアが縮小傾向
  • 証券 27(8)(317) 1975年(新規上場会社紹介)
    • [20]設立当初、東芝を通じて日産自動車向け自動車用ラジオを製造販売
    • [24]TV局向け音響装置は1960年以降民放局の新・増設一巡で需要が減り製造中止。カーラジオはモータリゼーションで需要増、特に米国。1960年5月に本社・工場を横浜市へ移転
    • [25]TV局向け音響装置は1960年以降民放局の新・増設一巡で需要が減り製造中止。カーラジオはモータリゼーションで需要増、特に米国。1960年5月に本社・工場を横浜市へ移転
    • [26]TV局向け音響装置は1960年以降民放局の新・増設一巡で需要が減り製造中止。カーラジオはモータリゼーションで需要増、特に米国。1960年5月に本社・工場を横浜市へ移転
    • [29]TV局向け音響装置は1960年以降民放局の新・増設一巡で需要が減り製造中止。カーラジオはモータリゼーションで需要増、特に米国。1960年5月に本社・工場を横浜市へ移転
  • 証券アナリストジャーナル 13(9) 1975年 井上信太郎(講演要旨)
    • [22]オースチン用カーラジオを受注、松下通信・帝国電波も同時期、下請ながらカーラジオに最も早く着手
    • [36]1955年から1965年までは東芝の下請として放送機器・カーラジオを手がけた
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [23]カーラジオ参入のきっかけは東芝が日産から受注した仕事、東芝からの受注が進路を決めたと評価
    • [31]カーラジオの成長に新規参入が続出し東芝のシェアは年々低下、東芝は撤退を決めたが設備投資済みの同社には他に道がなかった。井上信太郎は10年間の下請けの悲哀を知ると回想
    • [33]カーラジオの成長に新規参入が続出し東芝のシェアは年々低下、東芝は撤退を決めたが設備投資済みの同社には他に道がなかった。井上信太郎は10年間の下請けの悲哀を知ると回想
    • [34]カーラジオの成長に新規参入が続出し東芝のシェアは年々低下、東芝は撤退を決めたが設備投資済みの同社には他に道がなかった。井上信太郎は10年間の下請けの悲哀を知ると回想
    • [35]カーラジオの成長に新規参入が続出し東芝のシェアは年々低下、東芝は撤退を決めたが設備投資済みの同社には他に道がなかった。井上信太郎は10年間の下請けの悲哀を知ると回想

1965年〜国内向けと並べて始めたカーラジオ輸出と、次に製造を始めたカーステレオ

新東京無線は1965年1月、カーラジオを海外へ輸出する業務を始めた。上場時の紹介は、カーラジオの需要が米国で特に大きく伸びていたことを輸出開始の背景に挙げた。井上信太郎氏は、国内でナショナル、クラリオンと独力で競うには大きな苦労が伴うと判断し、その局面で『それなら輸出をやろう』と決断した。後年も井上信太郎氏は、国内では販売業者への根回しや接待に手間がかかり、資金効率も見合わないと説明している。国内では納入から手形回収まで90日かかる一方、輸出では5日ほどで現金を受け取れた。新東京無線はその後、国内向けから輸出向けへ生産の重点を少しずつ移したが、国内向けの生産を完全にやめたのは1975年6月期だった。1965年の売上高は207百万円である。

  • 証券 27(8)(317) 1975年(新規上場会社紹介)
    • [37]1965年1月にカーラジオの輸出業務を開始。背景にモータリゼーションによる需要増、特に米国で顕著
    • [38]1965年1月にカーラジオの輸出業務を開始。背景にモータリゼーションによる需要増、特に米国で顕著
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [39]東芝撤退の局面で井上信太郎が国内でナショナル・クラリオンと競う苦労を理由に輸出を決断。国内は接待等が多く資金効率が悪い、国内は手形回収90日・輸出は約5日で現金
    • [40]東芝撤退の局面で井上信太郎が国内でナショナル・クラリオンと競う苦労を理由に輸出を決断。国内は接待等が多く資金効率が悪い、国内は手形回収90日・輸出は約5日で現金
    • [41]東芝撤退の局面で井上信太郎が国内でナショナル・クラリオンと競う苦労を理由に輸出を決断。国内は接待等が多く資金効率が悪い、国内は手形回収90日・輸出は約5日で現金
  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [42]売上高 昭和40年(1965年)207百万円。国内向け生産から輸出向け生産へ重点を移し輸出比率を高めた。国内向けは前々期2.8%・前期1%、1975年6月期に国内向け生産を完全にやめ100%輸出
    • [43]売上高 昭和40年(1965年)207百万円。国内向け生産から輸出向け生産へ重点を移し輸出比率を高めた。国内向けは前々期2.8%・前期1%、1975年6月期に国内向け生産を完全にやめ100%輸出

輸出の次に新東京無線が手がけた品目は、カーステレオ。新東京無線がカーステレオ単体の製造に着手したのは1967年1月だった。売上高は1965年の207百万円から1966年に352百万円、1967年に976百万円へ拡大した。井上信太郎氏は、1965年以降の主力を車載ラジオとカーステレオに置き、その技術は軍用無線機と東芝の下請けの時代に培ったものだとしている。1967年には、カーステレオを中心に輸出を専業とするメーカーとして独立し、下請けからの脱皮を目指した。車載の受信技術を音響機器へ広げたことが、東芝に依存しない事業の足場になったと考えられる。

  • 証券 27(8)(317) 1975年(新規上場会社紹介)
    • [44]1967年1月にカーステレオ単体の製造に着手
    • [45]1967年1月にカーステレオ単体の製造に着手
  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [46]売上高 1965年207百万円、1966年352百万円、1967年976百万円
  • 証券アナリストジャーナル 13(9) 1975年 井上信太郎(講演要旨)
    • [47]1965年以降はカーラジオ・カーステレオが主体、技術は軍用無線機・東芝下請時代が基礎
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [48]1967年(昭和42年)カーステレオなどの輸出専門メーカーとして独立、下請け脱皮をめざす
参考文献[37]-[48]
  • 証券 27(8)(317) 1975年(新規上場会社紹介)
    • [37]1965年1月にカーラジオの輸出業務を開始。背景にモータリゼーションによる需要増、特に米国で顕著
    • [38]1965年1月にカーラジオの輸出業務を開始。背景にモータリゼーションによる需要増、特に米国で顕著
    • [44]1967年1月にカーステレオ単体の製造に着手
    • [45]1967年1月にカーステレオ単体の製造に着手
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
    • [39]東芝撤退の局面で井上信太郎が国内でナショナル・クラリオンと競う苦労を理由に輸出を決断。国内は接待等が多く資金効率が悪い、国内は手形回収90日・輸出は約5日で現金
    • [40]東芝撤退の局面で井上信太郎が国内でナショナル・クラリオンと競う苦労を理由に輸出を決断。国内は接待等が多く資金効率が悪い、国内は手形回収90日・輸出は約5日で現金
    • [41]東芝撤退の局面で井上信太郎が国内でナショナル・クラリオンと競う苦労を理由に輸出を決断。国内は接待等が多く資金効率が悪い、国内は手形回収90日・輸出は約5日で現金
    • [48]1967年(昭和42年)カーステレオなどの輸出専門メーカーとして独立、下請け脱皮をめざす
  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
    • [42]売上高 昭和40年(1965年)207百万円。国内向け生産から輸出向け生産へ重点を移し輸出比率を高めた。国内向けは前々期2.8%・前期1%、1975年6月期に国内向け生産を完全にやめ100%輸出
    • [43]売上高 昭和40年(1965年)207百万円。国内向け生産から輸出向け生産へ重点を移し輸出比率を高めた。国内向けは前々期2.8%・前期1%、1975年6月期に国内向け生産を完全にやめ100%輸出
    • [46]売上高 1965年207百万円、1966年352百万円、1967年976百万円
  • 証券アナリストジャーナル 13(9) 1975年 井上信太郎(講演要旨)
    • [47]1965年以降はカーラジオ・カーステレオが主体、技術は軍用無線機・東芝下請時代が基礎

出典・参考

4件
出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 13(9) 1975年 井上信太郎(講演要旨)
  • 日経ビジネス 1976年1月5日号
  • マネジメント 34(14) 1975年 後藤弘
  • 証券 27(8)(317) 1975年(新規上場会社紹介)

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