井上信太郎

シントム・元代表取締役社長

Inoue Taro(敬称略)

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社長就任 1955年
生年月日 —
学歴 —
出自 —
社長就任までの出自
出自

1941年に蒲田の東京無線へ入社し、研究室で軍用レーダーなどの開発と研究に携わった。同社は軍用機や戦車向けの通信機器を東芝などと手がける軍需工場で、戦後は疎開先の新潟から約2,000人を東京へ呼び戻し、ラジオや拡声機など民生用の弱電機器に切り替えて工場を再開した。同社では管理職に就任したが、1955年に倒産している。1975年7月の東証二部上場時には発行済株式の26.6%を持つ筆頭株主で、井上孝子氏の11.1%と合わせて創業者側で3分の1超を握っていた。

社長に選ばれた経緯
抜擢

東京無線は戦時中に軍の指示で作ったものを納めるだけの体質で、経営者が売ることを知らないまま経営が行き詰まった。与えられた職責で努力を重ねても実らず辞職を決意し、1955年6月28日、数人のエンジニアとともに東京都品川区で新東京無線を設立した。倒産当時は37歳で、妻子を抱えて雇い先の当てもなく、途方にくれた。設立後も役員の大半を東京無線電機の出身者が占めた。

在任中の主な施策
施策

学校用の拡声機と東芝向け放送機器の修理から始め、1957年に東芝の協力工場としてカーラジオの生産に入った。新規参入が相次いで東芝がカーラジオから手を引くと、国内で大手を押しのけて売るのは難しいと判断して輸出へ移り、1965年1月に輸出業務を開始、1967年にカーステレオの輸出専門メーカーとして下請けから脱した。1975年7月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。ねらいは人材の調達にあった。売上高は1975年6月期の74億円から1976年6月期には135億円へ伸びた。

在任の評価
評価
執筆予定
経歴 1955〜2000年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-
参考文献 3件

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