クラリオン:カラオケ・ペイテレビによる自動車依存9割からの多角化
1979年〜部品会社に甘んじない小山田豊社長
クラリオンは1978年の暮れ、3年で売上高を倍増させて1,000億円企業になるという3カ年計画を掲げた。当時の社長は下田俊雄氏で、計画の先兵には輸出市場の拡大を据えた。1979年に入るとスウェーデンに1社、米国に2社、カナダに1社の販売子会社を相次いで設け、それまでの代理店契約を資本関係のある子会社方式へ切り替えた。1979年9月期の売上高は672億円、経常利益は51億円で、4年連続の増益となった。この決算の直後、1979年12月に小山田豊氏が社長へ就任した。小山田豊氏は1928年3月に満州で生まれ、中華航空養成所を出て1949年4月に前身の帝国電波へ入社し、1959年に営業部長、1962年に取締役、1979年に副社長を務めた。小山田豊社長は1955年から4年間、初めは門前払いされた日産自動車へ通いつめ、カーラジオの純正部品の指定を取り付けた。
- 実業往来 1980年新年号
- [1]1978年暮れに3年で売上倍増・1,000億円企業を掲げる3カ年計画
- [2]当時の社長は下田俊雄。3カ年計画のリード役は輸出市場拡大策
- [3]1979年にスウェーデン1社・米国2社・カナダ1社の販売子会社を設立し、代理店方式から子会社方式へ変更
- [4]1979年9月期は売上672億円、経常利益51億円、4年連続増益
- 日経ビジネス 1981年5月4日号
- [5]1979年12月に小山田豊が社長就任
- [6]1928年3月満州生まれ、中華航空養成所卒、1949年4月帝国電波入社、1959年営業部長、1962年取締役、1979年副社長
- [7]1955年から4年間、門前払いされた日産自動車に通いつめカーラジオの純正部品指定を受けた
カーオーディオは1969年9月期に売上高のほぼ90%を占め、そのうち4割が日産自動車へ流れた。日産自動車への納入は1959年の純正部品指定に始まり、国内純正部品では30〜35%のシェアで首位に立っていた。専業の利点は納入の安定にあり、裏返せば自動車メーカーの生産動向がそのまま業績に響く関係でもあった。1974年9月期と1975年9月期は自動車メーカーの減産を受け、経常利益が2期連続で半減した。1973年9月期に16億円あった経常利益は、1975年9月期には3億円まで減少した。日産自動車は筆頭株主でありながら歴史的にも人的にも関係が深いわけではなく、納入の安定を保証する力は薄れていた。1984年9月時点でも日産自動車の持株数は14,935,000株で、なお筆頭を占めた。
- 実業往来 1980年新年号
- [8]1969年9月期にカーオーディオが売上のほぼ90%、その4割が日産自動車向け
- [9]1959年に日産自動車の純正部品指定。国内純正部品でシェア30〜35%の首位
- [10]専業は納入安定性という利点と自動車メーカーの生産動向に左右される欠点を併せ持つ
- [11]1974年・1975年に自動車メーカーの減産で経常利益が2期連続半減
- [13]日産自動車は筆頭株主だが歴史的にも人的にも関係は深くなく、納入安定性への効力は薄くなりつつあった
- 会社年鑑(1976年版)/会社年鑑(1986年版)
- [12]経常利益は1973年9月期16億円、1975年9月期3億円
- 会社年鑑(1986年版)
- [14]1984年9月時点の筆頭株主は日産自動車で14,935,000株
小山田豊社長は、部品としての色彩が強い商品ばかりが増えれば納入先の要請をこなすだけになり、消費者が何を求めているかをつかんで商品を開発する機能が失われると社内へ訴えた。多角化そのものは、常務だった1970年から1971年にかけて小山田豊社長が言い出していた。1973年には家庭用コンポステレオへ進出して3年足らずで撤退し、1974年に手がけたトランシーバーは需要の激減に遭った。それでも消費者と直結する市場への足がかりは残り、1976年8月の業務用カラオケ発売へつながった。カラオケ演奏装置は金融筋も代理店も反対するなかで開発を通し、発売後に売れ行きを伸ばして、高くなかったクラリオンの知名度を全国へ広げた。1981年の売上構成は自動車会社向けとそれ以外が72%対28%で、これを1985年までに半々にする中期3カ年計画を策定していた。
- 日経ビジネス 1981年5月4日号
- [15]部品会社に甘んじれば納入先の要請をこなすだけとなり、消費者の求めを掴んで商品を開発する創造的機能が失われるという小山田豊社長の主張
- [16]多角化路線を打ち出したのは1970〜1971年で、当時常務だった小山田豊が仕掛け役
- [17]1973年に家庭用コンポステレオへ進出し3年足らずで撤退、1974年にトランシーバー生産を手がけ需要激減に見舞われた
- [19]金融筋も代理店も反対したがカラオケ演奏装置は大ヒットし、高くなかったクラリオンの知名度が全国に浸透した
- [20]自動車会社向けとそれ以外の売上構成は72%対28%、1985年までに半々とする中期3カ年計画を策定中
- クラリオン 有価証券報告書【沿革】
- [18]1976年8月に業務用カラオケを発売
参考文献[1]-[20]
- 実業往来 1980年新年号
- [1]1978年暮れに3年で売上倍増・1,000億円企業を掲げる3カ年計画
- [2]当時の社長は下田俊雄。3カ年計画のリード役は輸出市場拡大策
- [3]1979年にスウェーデン1社・米国2社・カナダ1社の販売子会社を設立し、代理店方式から子会社方式へ変更
- [4]1979年9月期は売上672億円、経常利益51億円、4年連続増益
- [8]1969年9月期にカーオーディオが売上のほぼ90%、その4割が日産自動車向け
- [9]1959年に日産自動車の純正部品指定。国内純正部品でシェア30〜35%の首位
- [10]専業は納入安定性という利点と自動車メーカーの生産動向に左右される欠点を併せ持つ
- [11]1974年・1975年に自動車メーカーの減産で経常利益が2期連続半減
- [13]日産自動車は筆頭株主だが歴史的にも人的にも関係は深くなく、納入安定性への効力は薄くなりつつあった
- 日経ビジネス 1981年5月4日号
- [5]1979年12月に小山田豊が社長就任
- [6]1928年3月満州生まれ、中華航空養成所卒、1949年4月帝国電波入社、1959年営業部長、1962年取締役、1979年副社長
- [7]1955年から4年間、門前払いされた日産自動車に通いつめカーラジオの純正部品指定を受けた
- [15]部品会社に甘んじれば納入先の要請をこなすだけとなり、消費者の求めを掴んで商品を開発する創造的機能が失われるという小山田豊社長の主張
- [16]多角化路線を打ち出したのは1970〜1971年で、当時常務だった小山田豊が仕掛け役
- [17]1973年に家庭用コンポステレオへ進出し3年足らずで撤退、1974年にトランシーバー生産を手がけ需要激減に見舞われた
- [19]金融筋も代理店も反対したがカラオケ演奏装置は大ヒットし、高くなかったクラリオンの知名度が全国に浸透した
- [20]自動車会社向けとそれ以外の売上構成は72%対28%、1985年までに半々とする中期3カ年計画を策定中
- 会社年鑑(1976年版)/会社年鑑(1986年版)
- [12]経常利益は1973年9月期16億円、1975年9月期3億円
- 会社年鑑(1986年版)
- [14]1984年9月時点の筆頭株主は日産自動車で14,935,000株
- クラリオン 有価証券報告書【沿革】
- [18]1976年8月に業務用カラオケを発売
1980年〜11億7,000万円の特別損失で閉じた米ペイテレビ
クラリオンは、ペイテレビ用の送受信機システムを売るために米国のペイテレビ事業へ自ら出資した。初期投資の重い事業であり、機器を納めると同時に資本を入れて事業者を後押しし、運営のノウハウと技術の改善を同時並行で進めた。まず大市場の米国に狙いを定め、1978年にロサンゼルス、1980年にミルウォーキーで、それぞれ現地のペイテレビ会社へ資本参加した。ミルウォーキーでは米国の販売子会社とともにペイテレビ会社STVWへ40万ドルを出資し、約45%の株式を握った。同市のテレビ視聴世帯は約80万でロサンゼルスの5分の1にとどまるものの、競合会社が少ないぶん成功すると読んだ。
- 日経ビジネス 1984年11月12日号
- [21]ペイテレビ事業に直接乗り出したのはペイテレビ用送受機システムの販売促進のため
- [22]初期投資が重いため機器販売と同時に資本を出して事業者を後押しし、運営ノウハウと技術改善を同時並行で進めた
- [23]大市場の米国に狙いを定め、1978年ロサンゼルス、1980年ミルウォーキーで現地ペイテレビ会社に資本参加
- [24]米国の販売子会社とともにペイテレビ会社STVWへ40万ドルを出資し約45%の株式を保有
- [25]ミルウォーキーのテレビ視聴世帯は約80万でロサンゼルスの5分の1だが競合が少なく成功するとの読み
利用者数は採算に乗る4万5,000世帯へ届かなかった。3万3,000軒までは伸びたものの一進一退が続き、1983年に入ると減り始めた。ペイテレビは設備一式をそろえてから開業する事業のため、見込んだ利用者数に達しない限り黒字化の手はない。クラリオンは、ミルウォーキーではペイテレビ自体の人気が乏しいという判断へ傾いた。1983年半ばから小山田豊社長は撤退を検討したが、そのまま清算すれば損害が大きすぎた。主力のカーオーディオが順調な一方でカラオケなどは不振に落ち、1984年当時のクラリオンの業績は厳しかった。
- 日経ビジネス 1984年11月12日号
- [26]利用者数は採算分岐点の4万5,000世帯を超えなかった
- [27]3万3,000軒まで伸びたが一進一退が続き、1983年に入ると減り始めた
- [28]ペイテレビは最初に設備一式を抱えて始めるため、予定した利用者数に達しない限り黒字化の手がない
- [29]ミルウォーキーではペイテレビの人気がないというクラリオンの判断
- [30]1983年半ば頃から小山田豊社長の苦悩が深まり、撤退しても損害が大きすぎた
- [31]主力のカーオーディオは順調だがカラオケなどが不振で業績は厳しい状態にあった
衛星の電波を共同アンテナで受けて各戸へ分配するSMATVの開発がクラリオン社内で技術的に完成し、撤退の目算がついた。1984年初め、クラリオンはSMATVを運営するテルスター社へ接近し、電波妨害の暗号を解読するデコーダーを転用できるよう改造して売り込んだ。改造設備の実験を同年5月から始め、テルスター社が中古設備の引き取りを決めると同時に、小山田豊社長はミルウォーキー撤退を決めた。STVWの他の株主へ会社解散を通告し、視聴者には1カ月前に知らせ、7月初めに営業を中止した。引き上げたデコーダーはそのままSMATVへ振り向け、デコーダーだけで約300万ドルの損失を防いだ。清算は1984年9月期中に終わり、決算では11億7,000万円の特別損失を計上した。同期の売上高は1,090億円、経常利益は23億円、当期純利益は5億円で、経常利益は前期の60億円から6割超減少した。
- 日経ビジネス 1984年11月12日号
- [32]衛星電波を共同アンテナで受け小型ケーブルテレビ装置で視聴者に分配するSMATVがクラリオン社内で技術的に完成
- [33]1984年初めにSMATVを運営するテルスター社へ接近し、改造デコーダーを売り込んだ
- [34]1984年5月から改造設備の実験。テルスター社の中古設備引き取り決定と同時に小山田豊社長がミルウォーキー撤退を決断
- [35]STVWの他株主へ会社解散を通告、1カ月前に視聴者へ通知し7月初めに営業中止
- [36]引き上げたデコーダーをSMATVへ振り向け、デコーダーだけで約300万ドルの損失を回避
- [37]1984年9月期中に清算を終え、同期決算で11億7,000万円の特別損失を計上
- 会社年鑑(1986年版)
- [38]1984年9月期は売上高1,090億円、経常利益23億円、当期純利益5億円。1983年9月期の経常利益は60億円
参考文献[21]-[38]
- 日経ビジネス 1984年11月12日号
- [21]ペイテレビ事業に直接乗り出したのはペイテレビ用送受機システムの販売促進のため
- [22]初期投資が重いため機器販売と同時に資本を出して事業者を後押しし、運営ノウハウと技術改善を同時並行で進めた
- [23]大市場の米国に狙いを定め、1978年ロサンゼルス、1980年ミルウォーキーで現地ペイテレビ会社に資本参加
- [24]米国の販売子会社とともにペイテレビ会社STVWへ40万ドルを出資し約45%の株式を保有
- [25]ミルウォーキーのテレビ視聴世帯は約80万でロサンゼルスの5分の1だが競合が少なく成功するとの読み
- [26]利用者数は採算分岐点の4万5,000世帯を超えなかった
- [27]3万3,000軒まで伸びたが一進一退が続き、1983年に入ると減り始めた
- [28]ペイテレビは最初に設備一式を抱えて始めるため、予定した利用者数に達しない限り黒字化の手がない
- [29]ミルウォーキーではペイテレビの人気がないというクラリオンの判断
- [30]1983年半ば頃から小山田豊社長の苦悩が深まり、撤退しても損害が大きすぎた
- [31]主力のカーオーディオは順調だがカラオケなどが不振で業績は厳しい状態にあった
- [32]衛星電波を共同アンテナで受け小型ケーブルテレビ装置で視聴者に分配するSMATVがクラリオン社内で技術的に完成
- [33]1984年初めにSMATVを運営するテルスター社へ接近し、改造デコーダーを売り込んだ
- [34]1984年5月から改造設備の実験。テルスター社の中古設備引き取り決定と同時に小山田豊社長がミルウォーキー撤退を決断
- [35]STVWの他株主へ会社解散を通告、1カ月前に視聴者へ通知し7月初めに営業中止
- [36]引き上げたデコーダーをSMATVへ振り向け、デコーダーだけで約300万ドルの損失を回避
- [37]1984年9月期中に清算を終え、同期決算で11億7,000万円の特別損失を計上
- 会社年鑑(1986年版)
- [38]1984年9月期は売上高1,090億円、経常利益23億円、当期純利益5億円。1983年9月期の経常利益は60億円
1979年〜1999年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1979年09月期 | 単体 | 672 | n/a | 52 | 27 | 4.0% | n/a |
| 1980年09月期 | 単体 | 816 | +21.4% | 67 | 35 | 4.3% | n/a |
| 1981年09月期 | 単体 | 923 | +13.1% | 69 | 39 | 4.2% | n/a |
| 1982年09月期 | 単体 | 1,008 | +9.2% | 75 | 30 | 3.0% | n/a |
| 1983年09月期 | 単体 | 1,062 | +5.4% | 60 | 30 | 2.8% | n/a |
| 1984年09月期 | 単体 | 1,090 | +2.6% | 23 | 5 | 0.5% | n/a |
| 1985年09月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年09月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年09月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年09月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年09月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年09月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1993年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1994年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1995年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1996年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1997年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1998年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1999年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
6件
- クラリオン 有価証券報告書【沿革】
- 会社年鑑(1976年版)/会社年鑑(1986年版)
- 会社年鑑(1986年版)
- 日経ビジネス 1981年5月4日号
- 日経ビジネス 1984年11月12日号
- 実業往来 1980年新年号