第2章 年〜年

三洋電機:北米テレビ現地生産による輸出依存からの転換

ウォーイック買収の現地生産から東京三洋との合併へ

1962年〜カラーテレビの北米輸出がつくった四年三倍の成長

カラーテレビを北米へ大量に送る

家電業界は1964年秋から、戦後ではほぼ初めてといえる国内需要の落ち込みに直面していた。1965年7月、井植歳男社長は東芝の土光社長、日立の駒井社長、三菱の大久保社長、ソニーの井深社長と連れ立って佐藤首相のもとを訪れた。求めたのはカラーテレビ産業を育て振興することと、物品税を軽くすることだった。その前年、カラー受像機の国内向け出荷は十倍に伸びたが、なお三万一千二百七十四台にとどまっていた。井植歳男社長はまた、宮本善史テレビ事業部長を米国に派遣し、テレビ受像機を大量に輸出できないか調べさせた。カラーテレビの輸出は1965年、米シンフォニック社と結んだ契約で始まり、以後は増える一途だった。売上高は1965年11月期の732億円から1969年11月期の2,151億円へ、四年で約三倍になった。国内の普及を待たずに北米の需要へ設備を向けたことが、この時期の伸びを支えた。

  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [1]家電業界は戦後初めてともいうべき内需の停滞に見舞われ、家電販売店の倒産が昭和38年秋ごろから顕著になった
    • [2]昭和40年7月、井植歳男社長は土光東芝社長・駒井日立社長・大久保三菱社長・井深ソニー社長とともに佐藤首相を訪ね、カラーテレビ産業の育成・振興と物品税の軽減を陳情した
    • [3]昭和39年のカラー受像機の国内向け出荷台数は前年比10倍の31,274台にとどまった
    • [4]井植歳男社長は宮本善史テレビ事業部長にアメリカ出張を命じ、テレビ受像機の大量輸出を探らせた
    • [5]カラーテレビの輸出もシンフォニック社と契約し昭和40年から始まり、その後増加の一途をたどった
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [6]単体売上高は1965年11月期732億円、1969年11月期2,151億円
商品部制で収益の責任を割る

1964年11月期に741億円あった売上高は1965年11月期に732億円へ減り、当期純利益は31億7,000万円から22億1,000万円へ落ちた。生産に明るい井植薫専務に売る側の経験も積ませる意味を込めて、1965年1月、同氏を営業本部長に据え、販売事業本部はその営業本部に吸収した。井植薫は全国の販売店を訪ね歩き、家電の流通の仕組みにおかしな動きが出ていると感じ取った。店頭では安売り業者がはびこって価格の体系が崩れ、その影響で販売店の売掛金が膨らみ、それがまたメーカーに跳ね返っていた。収益を守るために導入されたのが商品部制である。扇風機と換気扇、掃除機とジューサーミキサー、発電ランプといった形で商品をまとめ、何を作るかを決める段階から組み立て、完成、出荷後のアフターケアまでをひとつの部に一貫して受け持たせた。収益もその商品グループごとに見る責任の体制だった。

  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [7]単体売上高は1964年11月期741億円・1965年11月期732億円、当期純利益は31.7億円・22.1億円
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [8]生産部門に通暁する専務にあえて販売部門での経験を重ねさせる創業者の意図があった
    • [9]昭和40年1月、井植薫専務が営業本部長に就任し販売事業本部を営業本部に吸収した
    • [10]営業本部長に就任した井植薫は全国の販売店を訪問し、電化製品の流通機構に異変が生じていると判断した
    • [11]末端の流通機構はバッタ屋の横行などで価格体系が乱れ、販売店の売上債権の増加となってメーカーへはねかえった
    • [12]商品部制は扇風機・換気扇、掃除機・ジューサーミキサー、発電ランプなどの商品グループごとに企画から組立・完成・出荷後のアフターケアまで一貫して担当し、収益も商品グループ単位であげる収益責任体制であった
廃液と発火の事故で品質の組織を構築する

洲本市内で稲が立ち枯れ、兵庫県が調べるとカドミウムが検出された。原因は三洋電機洲本工場の廃液とみられ、1968年9月26日、四段抜きの見出しでこれが報じられた。井植歳男会長はすぐさま洲本に駆けつけて現場を見て回り、県庁と県議会、記者クラブへ自ら足を運び、排水処理をどう改めるかの具体案を示した。人体への影響は認められないというのが県の総合調査班の結論で、同年10月6日に中間発表、11月14日に最終報告が出された。それでも三洋電機は、排水溝一帯の田を工場の敷地として買い取った。翌1969年の夏には、カドニカ電池を使った旧型の充電式ライトとカミソリが充電中に発火する事故が各地で起き、回収と新品交換に追われている。同年7月には創業者の井植歳男が世を去った。1969年8月、社長直属の品質経営本部を後藤清一本部長のもとに置き、製造と出荷の検査を強めた。のちにカラーテレビは日本消費者協会の商品テストで二年続けてA評価を受け、国内のサービス件数は大幅に減っている。

  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [13]昭和43年9月26日、大阪朝日新聞が四段抜きの見出しで「洲本に廃液被害」と報じ、三洋電機洲本工場からのものとみられる廃液で稲が立ち枯れ兵庫県の分析でカドミウムが検出されたと伝えた
    • [14]井植歳男会長はただちに洲本へ飛んで実情を検分し、県庁・県議会・新聞記者クラブへ出向いて排水処理改善の具体案を発表した
    • [15]兵庫県総合調査班は10月6日の中間発表と11月14日の最終報告で人体への影響は認められないとしたが、当社は排水溝一帯のたんぼを工場敷地として買い上げた
    • [16]昭和44年夏、カドニカ電池を使った旧型充電式ライトとカミソリが充電中に火を吹く事故が各地で発生し、回収と新品交換に着手した
    • [17]創業者井植歳男の葬儀は昭和44年7月19日に守口市民会館で行なわれた
    • [18]昭和44年8月、社長直属の品質経営本部(本部長 後藤清一)を発足させ、商品の製造・出荷を厳しくチェックした
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [19]カラーテレビは日本消費者協会の商品テストで2年連続A評価を受け、国内ではサービス件数が大幅に低下した
参考文献[1]-[19]
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [1]家電業界は戦後初めてともいうべき内需の停滞に見舞われ、家電販売店の倒産が昭和38年秋ごろから顕著になった
    • [2]昭和40年7月、井植歳男社長は土光東芝社長・駒井日立社長・大久保三菱社長・井深ソニー社長とともに佐藤首相を訪ね、カラーテレビ産業の育成・振興と物品税の軽減を陳情した
    • [3]昭和39年のカラー受像機の国内向け出荷台数は前年比10倍の31,274台にとどまった
    • [4]井植歳男社長は宮本善史テレビ事業部長にアメリカ出張を命じ、テレビ受像機の大量輸出を探らせた
    • [5]カラーテレビの輸出もシンフォニック社と契約し昭和40年から始まり、その後増加の一途をたどった
    • [8]生産部門に通暁する専務にあえて販売部門での経験を重ねさせる創業者の意図があった
    • [9]昭和40年1月、井植薫専務が営業本部長に就任し販売事業本部を営業本部に吸収した
    • [10]営業本部長に就任した井植薫は全国の販売店を訪問し、電化製品の流通機構に異変が生じていると判断した
    • [11]末端の流通機構はバッタ屋の横行などで価格体系が乱れ、販売店の売上債権の増加となってメーカーへはねかえった
    • [12]商品部制は扇風機・換気扇、掃除機・ジューサーミキサー、発電ランプなどの商品グループごとに企画から組立・完成・出荷後のアフターケアまで一貫して担当し、収益も商品グループ単位であげる収益責任体制であった
    • [13]昭和43年9月26日、大阪朝日新聞が四段抜きの見出しで「洲本に廃液被害」と報じ、三洋電機洲本工場からのものとみられる廃液で稲が立ち枯れ兵庫県の分析でカドミウムが検出されたと伝えた
    • [14]井植歳男会長はただちに洲本へ飛んで実情を検分し、県庁・県議会・新聞記者クラブへ出向いて排水処理改善の具体案を発表した
    • [15]兵庫県総合調査班は10月6日の中間発表と11月14日の最終報告で人体への影響は認められないとしたが、当社は排水溝一帯のたんぼを工場敷地として買い上げた
    • [16]昭和44年夏、カドニカ電池を使った旧型充電式ライトとカミソリが充電中に火を吹く事故が各地で発生し、回収と新品交換に着手した
    • [17]創業者井植歳男の葬儀は昭和44年7月19日に守口市民会館で行なわれた
    • [18]昭和44年8月、社長直属の品質経営本部(本部長 後藤清一)を発足させ、商品の製造・出荷を厳しくチェックした
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [6]単体売上高は1965年11月期732億円、1969年11月期2,151億円
    • [7]単体売上高は1964年11月期741億円・1965年11月期732億円、当期純利益は31.7億円・22.1億円
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [19]カラーテレビは日本消費者協会の商品テストで2年連続A評価を受け、国内ではサービス件数が大幅に低下した

1971年〜貿易摩擦が迫ったウォーイック買収と海外合弁の網

シアーズの依頼でウォーイックを買収する

1976年9月、三洋電機は米ウォーイック社を約31億円で買収し、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産に入った。きっかけは最大の顧客である米シアーズ・ローバックからの経営再建の打診で、これを断れば北米向けテレビの販路を失う恐れがあった。日本の家電各社が一斉に北米へ殺到した結果、貿易摩擦はダンピング問題へ発展し、三洋電機は米政府当局の介入で約三割の減産を受け入れていた。国内でつくって北米へ運ぶという形は、そのままでは続けられなくなっていた。新会社サンヨー・マニュファクチャリング・コーポレーションはシアーズ向けの相手先ブランド供給を軸に生産を担い、1977年9月14日にはアーカンソー州知事が州の発展への貢献を讃えて井植敏社長を表彰した。技術支援のつもりで始めた関与が資産の買収にまで進んだ、受け身の判断であった。

  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [20]1976年にSMCを設立しウォーイック社を約31億円で買収、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産を開始した
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [21]最大顧客の米シアーズからウォーイック社の経営再建を打診され、断れば北米向けテレビの販路を失う恐れがあった
    • [22]日本の家電各社の北米殺到で貿易摩擦がダンピング問題へ発展し、三洋は米政府当局の介入で約3割の減産を受け入れた
    • [23]国内生産・北米輸出というモデルの限界が表に出ていた
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [24]サンヨー・マニファクチャリング(SMC)は三洋電機と世界最大の小売業シアーズ・ローバックの合弁会社で、1977年1月4日から操業を開始した
    • [25]1977年9月14日、アーカンソー州のブライアー知事がSMCの州への貢献を讃え井植敏SMC社長を表彰した
5割出資の合弁で海外に生産拠点を設置する

海外での生産は、現地資本との5割出資による合弁を基本の形とした。井植薫社長は、外国の本当の事情は日本側には分からず現地の人々の協力が要るため、半分は進出先の国の事情を、半分は日本のことを考えるのが5割出資の精神だと説明している。『合弁会社を設立するときはいかにいいパートナーを見いだすかが大切です。私は外国語は読めませんが、物や人をみる目はあります。見ればわかりますよ。結婚と同じです』(日経ビジネス 1977年10月24日号)1977年の時点で海外の合弁会社は香港・台湾・ガーナ・シンガポール・マレーシア・ブラジル・ケニアなど20社を超え、創業者が掲げた世界に百拠点というスローガンを引き継いでいた。1975年11月期のグループの年間生産高は約5,250億円で、うち海外での生産は約800億円、輸出比率は前年の31.6%から38.4%へ上がり、業界平均の約28%を上回った。輸出規制を受けるたびに現地へ拠点を移す反復が、この網を作った。

  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [26]海外への進出は50%出資の合弁会社が基本方針
    • [27]半分は進出先の国の事情を考え半分は日本のことを考えるのが50%出資の合弁会社の精神という井植薫の説明
    • [28]1977年時点の海外合弁会社は香港・台湾・ガーナ・シンガポール・マレーシア・ブラジル・ケニアなど20社を超えた
    • [29]創業者は世界に100拠点を作ることをスローガンにした
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [30]グループ全体の年間生産高は昭和50年度実績で約5,250億円、うち海外での生産は約800億円
    • [31]昭和50年11月期の輸出比率は38.4%で前年の31.6%から増加、業界平均は約28%
借金を返し終えても主力商品を持てない

1975年11月期の規模は、資本金281億円・売上高3,502億円・従業員1万5,000人・株主約9万人であった。1973年と1975年には、外貨建ても含めて約235億円の転換社債を出していた。これに販売代金の回収強化と輸出の拡大が加わり、翌1976年11月期、三洋電機はかねて目指した借金ゼロの経営にたどり着く。手元の現金・預金は前年の二倍を上回り、有価証券まで合わせれば600億円を超える額になった。とはいえ、どの商品もシェアは二位以下で一位を取ったものが一つもなく、株価は松下電器やソニーに大きく差をつけられ、シャープにも及ばなかった。販売を担う役員は33人のうち六人しかおらず、生産を重んじる社風がなお強かった。良い品を安く大量に生産する技術には不足がなかった。弱かったのは、新たな商品を生み出す開発の力である。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [32]昭和50年11月末の資本金281億円・年間売上高3,502億円・従業員1万5,000名・株主約9万名
    • [33]昭和48年と50年に外貨建てを含めて約235億円の転換社債を発行し、販売代金の回収強化と輸出の増大で資金面の対策が効果を上げた
    • [35]現金・預金が前年比で2倍以上に増え、有価証券を含めると600億円を超えた
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [34]三洋電機は昭和51年11月期で念願の借金ゼロ経営を達成した
    • [36]どの商品もシェアは2位以下で、シェアトップの商品がなかった
    • [37]株価は松下電器やソニーに遠く及ばず、シャープをも大きく下回った
    • [38]役員33人中、販売担当はわずか6人で生産志向の体質であった
    • [39]品質がよくコストの安い商品を大量に作り出す技術は身につけたが、新しい商品を生み出す製品開発力が弱かった
参考文献[20]-[39]
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [20]1976年にSMCを設立しウォーイック社を約31億円で買収、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産を開始した
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [21]最大顧客の米シアーズからウォーイック社の経営再建を打診され、断れば北米向けテレビの販路を失う恐れがあった
    • [22]日本の家電各社の北米殺到で貿易摩擦がダンピング問題へ発展し、三洋は米政府当局の介入で約3割の減産を受け入れた
    • [23]国内生産・北米輸出というモデルの限界が表に出ていた
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [24]サンヨー・マニファクチャリング(SMC)は三洋電機と世界最大の小売業シアーズ・ローバックの合弁会社で、1977年1月4日から操業を開始した
    • [25]1977年9月14日、アーカンソー州のブライアー知事がSMCの州への貢献を讃え井植敏SMC社長を表彰した
    • [26]海外への進出は50%出資の合弁会社が基本方針
    • [27]半分は進出先の国の事情を考え半分は日本のことを考えるのが50%出資の合弁会社の精神という井植薫の説明
    • [28]1977年時点の海外合弁会社は香港・台湾・ガーナ・シンガポール・マレーシア・ブラジル・ケニアなど20社を超えた
    • [29]創業者は世界に100拠点を作ることをスローガンにした
    • [34]三洋電機は昭和51年11月期で念願の借金ゼロ経営を達成した
    • [36]どの商品もシェアは2位以下で、シェアトップの商品がなかった
    • [37]株価は松下電器やソニーに遠く及ばず、シャープをも大きく下回った
    • [38]役員33人中、販売担当はわずか6人で生産志向の体質であった
    • [39]品質がよくコストの安い商品を大量に作り出す技術は身につけたが、新しい商品を生み出す製品開発力が弱かった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [30]グループ全体の年間生産高は昭和50年度実績で約5,250億円、うち海外での生産は約800億円
    • [31]昭和50年11月期の輸出比率は38.4%で前年の31.6%から増加、業界平均は約28%
    • [32]昭和50年11月末の資本金281億円・年間売上高3,502億円・従業員1万5,000名・株主約9万名
    • [33]昭和48年と50年に外貨建てを含めて約235億円の転換社債を発行し、販売代金の回収強化と輸出の増大で資金面の対策が効果を上げた
    • [35]現金・預金が前年比で2倍以上に増え、有価証券を含めると600億円を超えた

1981年〜円高が崩した大量生産と東京三洋電機との合併

輸出六割の国際分業で1兆円に届く

1985年度、三洋電機の生産拠点は全世界で43カ所、販売拠点は30カ所に達した。三洋電機と東京三洋電機は輸出向け製品の生産に徹し、販売は切り離して三洋電機貿易に委ねていた。グループのこの商社が両社の製品を全量買い取り、海外の販路を開拓する役目を負った。海外での生産にも早くから踏み出しており、1970年代にはシンガポールや韓国といった原価の低い土地に欧米への輸出拠点となる工場を置き、日本から部品を送り込んで現地で組み立て、そのまま現地で売る形も先行して手がけた。円高が進むなら海外生産の比重を一段と高めて採算を守り、さらに上げる、というのが1981年に井植薫社長が示した方針である。海外生産額は1984年度に5,400億円と国内製造業で首位の規模になり、1985年度には売上高が1兆円に届いて、6割超を輸出が稼いだ。

  • 日経ビジネス 1988年2月29日号
    • [40]昭和60年度には全世界で43カ所の生産拠点、30カ所の販売拠点を有する国際分業体制を築いた
    • [41]三洋電機と東京三洋など関連会社は輸出向け製品の生産に励めば後は三洋電機貿易がさばくという図式であった
    • [42]海外への販売の第一線に立ったのは関連会社の三洋電機貿易で、三洋電機と東京三洋電機から全製品を買い取って市場開拓にあたった
    • [43]1970年代に欧米への輸出基地としてコストの安いシンガポール・韓国などに生産工場を構え、部品を日本から送る海外生産・海外販売にも早くから取り組んだ
    • [45]昭和59年度の海外生産は総額5,400億円で日本の全製造業中トップだった
    • [46]昭和60年度に念願の売上高1兆円を達成し、6割以上を輸出で稼ぎ出した
  • 日経産業新聞(1981年1月9日)
    • [44]井植薫社長は1981年、円高が進むなら海外生産をさらに強めて採算の維持・向上を図ると表明した
ファンヒーターの死亡事故で社長が代わる

1985年の暮れ、三洋電機の石油ファンヒーターの欠陥で死者が出た。約6万台の同機種を回収し、原因の究明に時間と労力を費やしている。1986年2月、1971年から社長を務めた井植薫が退き、創業者の長男である井植敏が後を継いだ。井植敏は1956年に同志社大学工学部を出て三洋電機へ入り、1959年に東京三洋電機取締役、1961年に三洋電機取締役となって、常務・専務を経ての就任であった。同じころ、1985年9月のプラザ合意を受けた円高が輸出の採算を直撃していた。一ドル160円となった1986年春の段階で輸出各社は国内と海外の生産拠点の再構築を始めたが、三洋電機は同年の暮れまで組織的な対策を講じられなかった。事故の処理に費やした一年が、円高への着手を遅らせた。

  • 日経ビジネス 1988年2月29日号
    • [47]昭和60年暮れ、死者を出した欠陥石油ファンヒーター事件が起きた
    • [48]約6万台の同機種の製品の回収と原因究明に時間と労力を費やした
    • [51]昭和60年9月のプラザ合意以降の円高が輸出採算を悪化させた
    • [52]1ドル160円になった昭和61年春の段階で輸出メーカーは生産拠点の再構築を始めたが、三洋電機は61年暮れの合併まで組織的な対策を講じられなかった
  • 日経ビジネス 1989年10月9日号
    • [49]1986年2月、石油ファンヒーター事件で井植薫前社長の後を継いで井植敏が社長に就任した
    • [50]井植敏は1956年に同志社大学工学部を卒業して三洋電機に入社、59年に東京三洋電機取締役、61年に三洋電機取締役となり常務・専務を経た
東京三洋と合併しても赤字が残る

東京三洋電機と別会社のままでは、国内外の生産拠点の集約にも流通の整理にも手を着けられなかった。欧州では三洋電機が英国で、東京三洋電機が西独で、VTRとテレビの製造と販売をそれぞれ抱え、米国でも両社はフィッシャーとサンヨーの二つのブランドに分かれて製品を供給していた。半導体の研究や設備投資も二重に進んでいた。円高に耐える体制づくりを目的に掲げ、三洋電機は1986年12月に東京三洋電機を吸収合併した。合併一年目の1987年11月期は、売上高が9,090億円と8.4%増える一方、営業損益は55億円の赤字となった。合併直前の1986年度に三洋電機28億円・東京三洋電機24億円あった営業赤字を、そのまま引き継いだ形であった。二期続けて本業で稼げないまま、次の柱を情報機器に求めることになる。

  • 日経ビジネス 1988年2月29日号
    • [53]別会社である以上は国内はおろか海外も容易に生産拠点の集約化・流通の合理化に手がつけられなかった
    • [54]欧州では英国で三洋が、西独で東京三洋がそれぞれVTR・テレビを生産販売し、米国ではフィッシャーとサンヨーの2ブランドに両社が別々に搬入していた
    • [55]半導体などは両社が別々に研究投資をして設備投資する二重投資になっていた
    • [56]円高に対応できる体制作りを目指して昭和61年12月に三洋電機と東京三洋電機が合併した
    • [58]昭和62年11月期は売上高9,090億円で8.4%増だったが営業損益は55億円の赤字となった
    • [59]合併直前の昭和61年度の三洋・東京三洋の営業損益はそれぞれ28億円・24億円の赤字だった
    • [60]拡家電を目指し高付加価値製品のビジネス機器の充実を図るとして情報システム分野に注力した
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [57]昭和61年12月 東京三洋電機を吸収合併
参考文献[40]-[60]
  • 日経ビジネス 1988年2月29日号
    • [40]昭和60年度には全世界で43カ所の生産拠点、30カ所の販売拠点を有する国際分業体制を築いた
    • [41]三洋電機と東京三洋など関連会社は輸出向け製品の生産に励めば後は三洋電機貿易がさばくという図式であった
    • [42]海外への販売の第一線に立ったのは関連会社の三洋電機貿易で、三洋電機と東京三洋電機から全製品を買い取って市場開拓にあたった
    • [43]1970年代に欧米への輸出基地としてコストの安いシンガポール・韓国などに生産工場を構え、部品を日本から送る海外生産・海外販売にも早くから取り組んだ
    • [45]昭和59年度の海外生産は総額5,400億円で日本の全製造業中トップだった
    • [46]昭和60年度に念願の売上高1兆円を達成し、6割以上を輸出で稼ぎ出した
    • [47]昭和60年暮れ、死者を出した欠陥石油ファンヒーター事件が起きた
    • [48]約6万台の同機種の製品の回収と原因究明に時間と労力を費やした
    • [51]昭和60年9月のプラザ合意以降の円高が輸出採算を悪化させた
    • [52]1ドル160円になった昭和61年春の段階で輸出メーカーは生産拠点の再構築を始めたが、三洋電機は61年暮れの合併まで組織的な対策を講じられなかった
    • [53]別会社である以上は国内はおろか海外も容易に生産拠点の集約化・流通の合理化に手がつけられなかった
    • [54]欧州では英国で三洋が、西独で東京三洋がそれぞれVTR・テレビを生産販売し、米国ではフィッシャーとサンヨーの2ブランドに両社が別々に搬入していた
    • [55]半導体などは両社が別々に研究投資をして設備投資する二重投資になっていた
    • [56]円高に対応できる体制作りを目指して昭和61年12月に三洋電機と東京三洋電機が合併した
    • [58]昭和62年11月期は売上高9,090億円で8.4%増だったが営業損益は55億円の赤字となった
    • [59]合併直前の昭和61年度の三洋・東京三洋の営業損益はそれぞれ28億円・24億円の赤字だった
    • [60]拡家電を目指し高付加価値製品のビジネス機器の充実を図るとして情報システム分野に注力した
  • 日経産業新聞(1981年1月9日)
    • [44]井植薫社長は1981年、円高が進むなら海外生産をさらに強めて採算の維持・向上を図ると表明した
  • 日経ビジネス 1989年10月9日号
    • [49]1986年2月、石油ファンヒーター事件で井植薫前社長の後を継いで井植敏が社長に就任した
    • [50]井植敏は1956年に同志社大学工学部を卒業して三洋電機に入社、59年に東京三洋電機取締役、61年に三洋電機取締役となり常務・専務を経た
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [57]昭和61年12月 東京三洋電機を吸収合併

筆者考察

三洋電機の1960年代からの20数年は、国内で得られなかった規模を海外で取りにいった期間である。カラーテレビの国内普及がまだ3万台規模だった時期に米国向けの大量輸出へ設備を向け、売上高は四年で三倍になった。ただしその伸びは、自ら開いた市場ではなく、米シアーズ・ローバックという一社の注文に支えられていた。貿易摩擦で約三割の減産を迫られ、そのシアーズから経営再建を打診されたとき、断れば販路ごと失う。約31億円を投じたウォーイック社の買収は、戦略として構想されたものではなく、断れないという事情から始まっている。

顧客の求めに応じて形を変えるやり方は、規模を作るあいだは有効に働く。1985年度に四十三カ所の生産拠点と売上高1兆円へ届いたとき、その6割以上は輸出であった。しかし為替が動けば、同じ構造がそのまま損失に変わる。一ドル160円の段階で各社が拠点を組み直しはじめたころ、三洋電機は石油ファンヒーターの死亡事故の処理に追われていた。東京三洋電機との合併は、創業期に関東進出のために切り分けた別法人を27年後に戻す作業でもある。それでも二期続けて営業赤字が残ったのは、直すべきものが組織の重複ではなく、自らの商品で市場を開けないことだったからであった。

売上高(単体) 1965年11月期〜1987年11月期(億円)

732 65.11 2,151 69.11 3,118 73.11 3,502 75.11 4,676 76.11 9,090 87.11
  • 棒はすべて単体。
  • 1965年11月期から1976年11月期は三洋電機 会社年鑑(単体業績)。1975年11月期は証券アナリストジャーナル 1976年14(3)の講演要旨も同じ3,502億円を掲げる。1987年11月期は日経ビジネス 1988年2月29日号。
  • 1987年11月期は1986年12月の東京三洋電機との合併後の数字で、それ以前の期とは範囲が異なる。

1962年〜1989年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1962年11月期 単体 630 n/a n/a 51 8.2% n/a
1963年11月期 単体 675 +7.1% n/a 46 6.8% n/a
1964年11月期 単体 741 +9.8% n/a 31 4.3% n/a
1965年11月期 単体 732 ▲1.2% n/a 22 3.0% n/a
1966年11月期 単体 928 +26.8% n/a 33 3.6% n/a
1967年11月期 単体 1,290 +39.0% n/a 51 4.0% n/a
1968年11月期 単体 1,723 +33.6% n/a 78 4.5% n/a
1969年11月期 単体 2,151 +24.8% n/a 87 4.1% n/a
1970年11月期 単体 2,417 +12.4% n/a 76 3.1% n/a
1971年11月期 単体 2,477 +2.5% n/a 49 2.0% n/a
1972年11月期 単体 2,630 +6.2% n/a 54 2.1% n/a
1973年11月期 単体 3,118 +18.6% n/a 63 2.0% n/a
1974年11月期 単体 3,588 +15.1% n/a 57 1.6% n/a
1975年11月期 単体 3,502 ▲2.4% 78 57 1.7% n/a
1976年11月期 単体 4,675 +33.5% 199 92 2.0% n/a
1977年11月期 単体 5,321 +13.8% 195 109 2.1% n/a
1978年11月期 単体 5,275 ▲0.9% 206 113 2.2% n/a
1979年11月期 単体 5,840 +10.7% 285 151 2.6% n/a
1980年11月期 単体 6,805 +16.5% 390 211 3.1% n/a
1981年11月期 単体 7,524 +10.6% 437 239 3.2% n/a
1982年11月期 単体 7,614 +1.2% 441 246 3.2% n/a
1983年11月期 単体 8,197 +7.7% 427 228 2.8% n/a
1984年11月期 単体 9,917 +21.0% 556 275 2.8% n/a
1985年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
  • 日経ビジネス 1988年2月29日号
  • 日経ビジネス 1989年10月9日号
  • 日経産業新聞(1981年1月9日)

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