三洋電機:二次電池への傾斜投資と1992年の社内分社制度
1990年〜ソフトエナジー事業本部への660億円と松茂のニッケル水素専用工場
三洋電機は1964年にニッカド電池の量産を始め、二次電池の市場に参入していた。1991年11月期、電池を担うソフトエナジー事業本部の売上高は994億円と前年より21.7%伸び、全社売上の約8%を占めた。三洋電機はこの事業本部に、1991〜1995年度の中期5カ年計画で660億円の設備投資を割り当てた。年100億円強という額は全社の年間設備投資の約2割にあたり、1995年度に売上高を1,500億円へ引き上げる計画だった。同じころ全社はAV機器の不振で、1992年5月の中間決算で営業赤字に落ちた。電池は利益を公表していなかったが、前期の全社営業利益112億円の7〜8割を稼いだと証券アナリストは推定した。本業が崩れる局面で、確実に利益を生む部門へ投資を寄せた判断だったとみられる。
- 三洋電機『Annual Report 2000』「Batteries」
- [1]1964年にニッカド電池の量産を始めて二次電池市場に参入した
- 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
- [2]ソフトエナジー事業本部の1991年11月期売上高は994億円で全体の約8%、前年同期比21.7%増
- [3]中期5カ年計画(1991〜95年度)での同本部の設備投資計画は660億円
- [4]年間100億円強は全社の年間設備投資額の約2割に相当し、95年度の同本部売上高は1500億円を見込んだ
- [5]三洋電機は1992年5月中間決算で営業赤字に転落した。AV機器の売れ行き不振が背景
- [6]電池事業の利益は非公表だが、証券アナリストの推定では前期の全社営業利益112億円の7〜8割を電池事業が稼いだ
ニッカドの次に製品化したのはニッケル水素電池である。カドミウムを使わず、1回の充電で使える時間はニッカドの約2倍になる。研究開発本部は1977年に水素を扱う素材の研究へ着手し、1988年ごろにはニッカドの技術者を研究部隊に加えた。1992年4月、徳島県松茂町に約90億円を投じた専用工場を動かし、月産300万個と業界首位の供給体制に立った。極板を作る工程が近いため、ニッカドの設備の一部を共用し、生産技術者も新工場へ送った。それでも技術者の配置はニッカド3に対しニッケル水素1で、どちらに寄せるかは決まっていなかった。木本豊専務ソフトエナジー事業本部長は、電池で優位を保つには『あれもこれもではなく、戦略の絞り込みが必要になる』と語った。
- 三洋電機『Annual Report 2000』「Batteries」
- [7]ニッカド電池に続いてニッケル水素電池を製品化した
- 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
- [8]ニッケル水素電池はカドミウムの代わりに水素を使い、一度の充電で使える時間がニッカドの2倍近い
- [9]研究開発本部で水素にかかわる素材の研究を始めたのは77年で業界最早。ソフトエナジー本部から技術者が派遣されたのは88年ごろ
- [10]1992年4月、徳島県松茂町に約90億円で業界最大規模のニッケル水素電池専用工場を稼働させ、月産300万個体制で業界トップに立った
- [11]ニッケル水素の製造は極板製造工程などニッカドと類似点が多く、製造設備の一部を共用し、生産技術者を派遣した
- [12]技術者陣は約3対1の割合でニッカド電池に比重を置いていた
- [13]木本豊専務ソフトエナジー事業本部長は電池事業で優位を保つには戦略の絞り込みが必要と述べた
1990年代の後半、二次電池の需要は携帯電話とPHS、ノートパソコンへ移った。三洋電機はニッケル水素とリチウムイオンを相次いで製品化し、2000年3月期の時点で両方の世界市場で3割を超える占有率を持った。携帯電話とPHSに使う角形リチウムイオン電池は、国内で首位の占有率を保った。1999年にハイブリッド車向けのニッケル水素電池を開発し、2001年1月には米フォード・モーターの新型SUVへ単独で供給することで合意した。同年4月には東芝グループのニッケル水素電池事業の譲り受けを終え、この電池の世界有数の作り手となった。2001年3月期の電池部門の売上高は3,039億円で、競争による値下がりを抱えながら19.2%伸びた。1990年に始めた傾斜投資が、携帯機器の普及に乗って全社の柱の一つに育ったのだろう。
- 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
- [14]電池部門の売上は携帯電話・PHSとパソコン向け二次電池の需要の強さで伸びた
- [19]2001年3月期の電池部門売上高は3,039億円で19.2%増。競争激化による値下がりを需要増で補った
- 三洋電機『Annual Report 2000』「Batteries」
- [15]ニッカドに続きニッケル水素電池とリチウムイオン電池を製品化し、両方の世界市場で30%超の占有率を得た
- [16]携帯電話・PHS向けの角形リチウムイオン二次電池は国内首位の占有率を維持した
- 三洋電機『Annual Report 2001』「Developing Our Battery Business」
- [17]1999年にハイブリッド車用ニッケル水素電池を開発し、2001年1月にフォードの新型SUV向けHEV電池の単独供給者となることで合意した
- [18]東芝グループのニッケル水素電池事業の取得で合意し、2001年4月に譲渡を完了して同電池の世界有数のメーカーの地位を固めた
参考文献[1]-[19]
- 三洋電機『Annual Report 2000』「Batteries」
- [1]1964年にニッカド電池の量産を始めて二次電池市場に参入した
- [7]ニッカド電池に続いてニッケル水素電池を製品化した
- [15]ニッカドに続きニッケル水素電池とリチウムイオン電池を製品化し、両方の世界市場で30%超の占有率を得た
- [16]携帯電話・PHS向けの角形リチウムイオン二次電池は国内首位の占有率を維持した
- 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
- [2]ソフトエナジー事業本部の1991年11月期売上高は994億円で全体の約8%、前年同期比21.7%増
- [3]中期5カ年計画(1991〜95年度)での同本部の設備投資計画は660億円
- [4]年間100億円強は全社の年間設備投資額の約2割に相当し、95年度の同本部売上高は1500億円を見込んだ
- [5]三洋電機は1992年5月中間決算で営業赤字に転落した。AV機器の売れ行き不振が背景
- [6]電池事業の利益は非公表だが、証券アナリストの推定では前期の全社営業利益112億円の7〜8割を電池事業が稼いだ
- [8]ニッケル水素電池はカドミウムの代わりに水素を使い、一度の充電で使える時間がニッカドの2倍近い
- [9]研究開発本部で水素にかかわる素材の研究を始めたのは77年で業界最早。ソフトエナジー本部から技術者が派遣されたのは88年ごろ
- [10]1992年4月、徳島県松茂町に約90億円で業界最大規模のニッケル水素電池専用工場を稼働させ、月産300万個体制で業界トップに立った
- [11]ニッケル水素の製造は極板製造工程などニッカドと類似点が多く、製造設備の一部を共用し、生産技術者を派遣した
- [12]技術者陣は約3対1の割合でニッカド電池に比重を置いていた
- [13]木本豊専務ソフトエナジー事業本部長は電池事業で優位を保つには戦略の絞り込みが必要と述べた
- 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
- [14]電池部門の売上は携帯電話・PHSとパソコン向け二次電池の需要の強さで伸びた
- [19]2001年3月期の電池部門売上高は3,039億円で19.2%増。競争激化による値下がりを需要増で補った
- 三洋電機『Annual Report 2001』「Developing Our Battery Business」
- [17]1999年にハイブリッド車用ニッケル水素電池を開発し、2001年1月にフォードの新型SUV向けHEV電池の単独供給者となることで合意した
- [18]東芝グループのニッケル水素電池事業の取得で合意し、2001年4月に譲渡を完了して同電池の世界有数のメーカーの地位を固めた
1992年〜8事業本部の社内分社から5カンパニー制への権限委譲
1992年11月期、三洋電機は単体で166億9,100万円の営業赤字を出し、1993年11月期には赤字が194億1,500万円に広がった。主な原因は採算割れが続いたAV事業であった。1992年12月に社長となった高野泰明は営業畑の出身で、本社スタッフを減らして事業本部へ権限を移す小さな本社を自らの役目とした。同じ月、8つの事業本部に開発から販売までを一貫して受け持たせ、収益と投資の責任も負わせる改革に踏み切った。それまでは生産部門と販売子会社で指揮系統が分かれ、事業本部制が機能していなかった。1993年12月には社内規定を改め、事業本部長が稟議を経ずに投資できる金額を明文化した。社内ではこの体制を分社化と呼び、事業本部長の英文の肩書をプレジデントとした。
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [20]営業損益は1992年11月期166億9100万円の赤字、93年11月期194億1500万円の赤字
- [21]業績悪化の主因は大幅な採算割れのAV事業の不振
- [23]92年12月の機構改革で、8事業本部に開発から販売までを一貫して担当させ、収益・投資の責任を持たせた
- [24]生産部門と販売子会社の指揮系統が違うなどの問題で、事業本部制が完全に機能していなかった
- [25]93年12月に社内規定を改め、事業本部長が稟議を通さずに投資できる金額の範囲を明示した
- [26]新しい事業本部制を社内では「分社化」と呼び、事業本部長の名刺の英文肩書は「プレジデント」
- 日経ビジネス 1993年1月4日号
- [22]高野泰明氏は営業畑出身で1992年12月に社長就任。本社スタッフをスリム化し事業本部に権限を大幅委譲する「小さな本社づくり」を役目とした
1993年9月、吉江洋専務半導体事業本部長は、DRAMの新規開発をやめてフラッシュメモリーへ移る計画を経営会議に報告した。DRAMは月200万個の規模だったが、世代ごとに数百億円の設備が要り、韓国の三星電子も伸びていた。設備投資は各事業本部の減価償却の範囲に抑え、半導体と電池の2本部だけにそれを超える額を認めた。1994年11月期の半導体事業本部の投資額350億円は、全社の減価償却費500億円強と比べて突出していた。1998年3月期も電池と半導体の増強を投資の中心に置き、1997年5月には500億円の普通社債を出した。井植敏会長は『わが社はこれまで、どちらかというと総合主義でやってきた。その総合主義を、いかにして専門主義に変えるかに今日、取り組んでいる。』と改革の狙いを語った。
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [27]1993年9月8日の経営会議で吉江洋専務半導体事業本部長が、DRAMの新規開発中止と米シリコン・ストレージ・テクノロジーとの提携によるフラッシュメモリー参入を報告し、事業本部で決定した
- [28]1メガ・4メガビットDRAMを月200万個生産していたが、世代交代ごとに数百億円単位の設備投資が要り、韓国・三星電子の成長で競争が厳しくなっていた
- [29]各事業本部の設備投資は原則減価償却の範囲内とし、半導体事業本部とソフトエナジー事業本部だけは減価償却を超える投資を展開した
- [30]半導体事業本部は94年11月期に350億円を投資する。全社の減価償却は500億円強
- [32]井植敏会長は、総合主義から専門主義への転換に取り組んでいると述べた
- 三洋電機『Annual Report 1998』「To Our Stockholders」
- [31]1998年3月期の設備投資は電池と半導体の生産設備の増強が中心で、資金として1997年5月20日に500億円の普通社債を国内で発行した
1994年11月期、三洋電機は連結の純損益と単体の営業損益をともに黒字に戻した。回復を引っ張ったのは電池と半導体で、AVの不振は続き、売上高に占める家電と非家電の比率は半々から4対6へ移った。高野社長の就任後に別法人とした関連会社は15社に上り、事業本部長は数十億円程度まで自ら決裁できるようになった。1998年6月には半導体部門を歩んだ近藤定男が、井植家と血縁も姻戚もない初めての社長に就いた。1999年3月期に259億円の最終赤字を出すと、同年4月1日に事業本部を5つのカンパニーへ再編した。会長と社長は株主に『This new structure is not merely a modification of the former business headquarters but positions each product group as a truly independent company within a larger company.』(訳:旧事業本部の手直しではなく、各製品群を大きな会社の中の独立した会社と位置づける)と説いた。
- 日経ビジネス 1997年1月27日号
- [33]92年11月期に連結純損益で赤字に転落したが、94年11月期に連結純損益の黒字転換を果たし、単体の営業損益も黒字に転換した
- [34]業績回復の牽引役は電池や半導体でAVは依然不振。売上高の家電・非家電の比率は半々から4対6になった
- [35]高野社長の就任後に独立させた関連会社は15社。数十億円程度までなら事業本部長の裁量で決裁できる
- 日経ビジネス 1998年7月27日号
- [36]近藤定男氏は半導体部門を一貫して歩み、1998年6月26日に井植家と血縁も姻族もない初めての社長に就任した
- 三洋電機『Annual Report 1999』「To Our Stockholders」
- [37]1999年3月期の連結純損失は259億円
- [38]1999年4月1日付で事業本部をマルチメディア・ホームアプライアンス・コマーシャル機器システム・セミコンダクター・ソフトエナジーの5カンパニーに再編した
- [39]新体制は旧事業本部の修正ではなく、各製品群を大きな会社の中の独立した会社と位置づけるものと説明した
参考文献[20]-[39]
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [20]営業損益は1992年11月期166億9100万円の赤字、93年11月期194億1500万円の赤字
- [21]業績悪化の主因は大幅な採算割れのAV事業の不振
- [23]92年12月の機構改革で、8事業本部に開発から販売までを一貫して担当させ、収益・投資の責任を持たせた
- [24]生産部門と販売子会社の指揮系統が違うなどの問題で、事業本部制が完全に機能していなかった
- [25]93年12月に社内規定を改め、事業本部長が稟議を通さずに投資できる金額の範囲を明示した
- [26]新しい事業本部制を社内では「分社化」と呼び、事業本部長の名刺の英文肩書は「プレジデント」
- [27]1993年9月8日の経営会議で吉江洋専務半導体事業本部長が、DRAMの新規開発中止と米シリコン・ストレージ・テクノロジーとの提携によるフラッシュメモリー参入を報告し、事業本部で決定した
- [28]1メガ・4メガビットDRAMを月200万個生産していたが、世代交代ごとに数百億円単位の設備投資が要り、韓国・三星電子の成長で競争が厳しくなっていた
- [29]各事業本部の設備投資は原則減価償却の範囲内とし、半導体事業本部とソフトエナジー事業本部だけは減価償却を超える投資を展開した
- [30]半導体事業本部は94年11月期に350億円を投資する。全社の減価償却は500億円強
- [32]井植敏会長は、総合主義から専門主義への転換に取り組んでいると述べた
- 日経ビジネス 1993年1月4日号
- [22]高野泰明氏は営業畑出身で1992年12月に社長就任。本社スタッフをスリム化し事業本部に権限を大幅委譲する「小さな本社づくり」を役目とした
- 三洋電機『Annual Report 1998』「To Our Stockholders」
- [31]1998年3月期の設備投資は電池と半導体の生産設備の増強が中心で、資金として1997年5月20日に500億円の普通社債を国内で発行した
- 日経ビジネス 1997年1月27日号
- [33]92年11月期に連結純損益で赤字に転落したが、94年11月期に連結純損益の黒字転換を果たし、単体の営業損益も黒字に転換した
- [34]業績回復の牽引役は電池や半導体でAVは依然不振。売上高の家電・非家電の比率は半々から4対6になった
- [35]高野社長の就任後に独立させた関連会社は15社。数十億円程度までなら事業本部長の裁量で決裁できる
- 日経ビジネス 1998年7月27日号
- [36]近藤定男氏は半導体部門を一貫して歩み、1998年6月26日に井植家と血縁も姻族もない初めての社長に就任した
- 三洋電機『Annual Report 1999』「To Our Stockholders」
- [37]1999年3月期の連結純損失は259億円
- [38]1999年4月1日付で事業本部をマルチメディア・ホームアプライアンス・コマーシャル機器システム・セミコンダクター・ソフトエナジーの5カンパニーに再編した
- [39]新体制は旧事業本部の修正ではなく、各製品群を大きな会社の中の独立した会社と位置づけるものと説明した
1994年〜鳥取三洋のSTN液晶、デジタルカメラの生産首位とコダックとの有機EL提携
液晶のうちTFT方式は三洋電機本体が手がけ、子会社の鳥取三洋電機は価格の安いSTN方式に特化した。宅間増治専務は、応答速度や視野角で劣っても価格性能比なら対抗できると判断していた。1994年11月期の鳥取三洋の売上高は1,507億円と前期比26.5%増え、液晶を中心とする電子部品は300億円から605億円へ倍増した。カラーSTNで画面を左右に2分して同時に走査する独自の方式が、この伸びを支えた。1992年12月の社内分社で独立採算を求められて以降、液晶に独自のブランドを掲げ、大型投資も本体の社長を通さず井植敏会長との調整で決めた。本体側は低温ポリシリコンのTFT液晶を開発し、1998年3月期にはこれを積んだデジタルスチルカメラを出した。
- 日経ビジネス 1995年2月20日号
- [40]TFT方式は三洋電機が手掛けており、鳥取三洋電機はSTN方式の液晶に特化した
- [41]宅間増治専務は、STNは応答速度や視野角でTFTにかなわないが価格性能比で対抗できるとした
- [42]鳥取三洋の94年11月期売上高は過去最高の1507億円で前年度比26.5%増。電子部品部門の売上高は93年11月期300億円から94年11月期605億円に倍増
- [43]液晶躍進の原動力は画面を左右2分して同時に走査する「ダブル・スキャン」をカラーSTNで実現した独自技術
- [44]92年12月の社内分社制で独立採算を求められ、液晶に独自ブランド「TORiSAN」を掲げ、大型投資は井植敏会長に根回しするが高野社長には相談しない
- 三洋電機『Annual Report 1998』「To Our Stockholders」
- [45]1998年3月期に、独自開発の低温ポリシリコンTFT液晶を組み込んだデジタルスチルカメラなどを開発した
1998年6月に社長となった近藤定男は、半導体事業本部長の時代にデジタルカメラ向けの半導体の開発を指揮していた。フィルムのカメラと違い、デジタルカメラは半導体の性能が製品の良しあしを決める。三洋電機は相手先ブランドでの供給が多く、自社の名前は表に出にくかったが、1998年には国内の生産量で首位となった。翌1999年の年次報告では、マルチメディアカンパニーがデジタルカメラの生産で世界首位にあると記している。1993年に研究開発本部長となった桑野幸徳は、研究部門を事業部と一体の体制に改めた。携帯電話・デジタルカメラ・液晶プロジェクターの3本柱はそこから育った。2001年3月期、デジタルカメラと携帯電話・PHSが伸びたAV・情報通信機器部門の売上高は7,928億円と14.1%増えた。
- 日経ビジネス 1998年7月27日号
- [46]近藤定男氏は社長就任直前の半導体事業本部長時代にデジタルカメラ向け半導体の開発を指揮した
- [47]デジタルカメラではシャッター速度やレンズの精度より半導体の性能がカメラの良しあしを決める
- [48]デジタルカメラは相手先ブランドでの供給割合が高くサンヨーのブランドは表に出にくいが、生産量で国内シェア1位
- 三洋電機『Annual Report 1999』「Multimedia Company」
- [49]マルチメディアカンパニーはデジタルカメラの生産で世界首位
- 日経ビジネス 2001年3月5日号
- [50]桑野幸徳氏は93年に研究開発本部長に就任し、研究部門を商品設計や生産を担う事業部と一体の体制に改革した
- [51]携帯電話、デジタルカメラ、液晶プロジェクターの3本柱は事業部と一体の研究開発から生まれた
- 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
- [52]2001年3月期のAV・情報通信機器部門の売上高は14.1%増の7,928億円。デジタルカメラ、携帯電話・PHS、光ピックアップが好調
2000年11月、太陽光発電システムの出力不足問題で近藤社長が辞任し、太陽電池の開発者だった桑野幸徳が急きょ後を継いだ。桑野社長は、占有率が1位か2位の製品に力を注ぎ、3位以下は巻き返しの計画が通らなければ撤退させる方針を掲げた。2001年度からの3カ年の中期経営計画チャレンジ21では、自己資本利益率を6.4%から2004年3月期に9.3%へ上げる目標を置いた。会長と社長は株主に『To achieve its goals, we will become increasingly selective and focused in our businesses and our allocation of business resources.』(訳:目標達成に向け、事業と資源配分で選別と集中を強めていく)と記した。次の表示装置には有機ELを選び、1999年2月に米イーストマン・コダックと共同開発で提携した。2001年12月、有機ELディスプレーを量産する合弁会社を同社と設立した。
- 日経ビジネス 2001年3月5日号
- [53]2000年11月、太陽光発電システムの出力不足問題で近藤定男社長が辞任し、太陽電池技術を製品に育てた桑野幸徳氏が急遽社長を引き継いだ
- [54]桑野社長は市場シェアが1番か2番の製品に注力し、3番手・4番手の製品は逆襲のシナリオを出させ、経営陣が納得できなければ撤退する方針
- 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
- [55]中期経営計画チャレンジ21は2001年3月期終了後に始まる3カ年計画で、ROEを2001年3月期の6.4%から2004年3月期に9.3%へ高める目標を掲げた
- [56]会長と社長は事業と経営資源配分の選別と集中を強めると述べた
- 三洋電機『Annual Report 1999』「To Our Stockholders」
- [57]1999年2月、有機ELディスプレーの共同開発で米イーストマン・コダックと包括提携した
- 三洋電機『Annual Report 2002』「To Our Stockholders」
- [58]2001年12月、イーストマン・コダックと有機ELディスプレーを製造する合弁会社を設立した
参考文献[40]-[58]
- 日経ビジネス 1995年2月20日号
- [40]TFT方式は三洋電機が手掛けており、鳥取三洋電機はSTN方式の液晶に特化した
- [41]宅間増治専務は、STNは応答速度や視野角でTFTにかなわないが価格性能比で対抗できるとした
- [42]鳥取三洋の94年11月期売上高は過去最高の1507億円で前年度比26.5%増。電子部品部門の売上高は93年11月期300億円から94年11月期605億円に倍増
- [43]液晶躍進の原動力は画面を左右2分して同時に走査する「ダブル・スキャン」をカラーSTNで実現した独自技術
- [44]92年12月の社内分社制で独立採算を求められ、液晶に独自ブランド「TORiSAN」を掲げ、大型投資は井植敏会長に根回しするが高野社長には相談しない
- 三洋電機『Annual Report 1998』「To Our Stockholders」
- [45]1998年3月期に、独自開発の低温ポリシリコンTFT液晶を組み込んだデジタルスチルカメラなどを開発した
- 日経ビジネス 1998年7月27日号
- [46]近藤定男氏は社長就任直前の半導体事業本部長時代にデジタルカメラ向け半導体の開発を指揮した
- [47]デジタルカメラではシャッター速度やレンズの精度より半導体の性能がカメラの良しあしを決める
- [48]デジタルカメラは相手先ブランドでの供給割合が高くサンヨーのブランドは表に出にくいが、生産量で国内シェア1位
- 三洋電機『Annual Report 1999』「Multimedia Company」
- [49]マルチメディアカンパニーはデジタルカメラの生産で世界首位
- 日経ビジネス 2001年3月5日号
- [50]桑野幸徳氏は93年に研究開発本部長に就任し、研究部門を商品設計や生産を担う事業部と一体の体制に改革した
- [51]携帯電話、デジタルカメラ、液晶プロジェクターの3本柱は事業部と一体の研究開発から生まれた
- [53]2000年11月、太陽光発電システムの出力不足問題で近藤定男社長が辞任し、太陽電池技術を製品に育てた桑野幸徳氏が急遽社長を引き継いだ
- [54]桑野社長は市場シェアが1番か2番の製品に注力し、3番手・4番手の製品は逆襲のシナリオを出させ、経営陣が納得できなければ撤退する方針
- 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
- [52]2001年3月期のAV・情報通信機器部門の売上高は14.1%増の7,928億円。デジタルカメラ、携帯電話・PHS、光ピックアップが好調
- [55]中期経営計画チャレンジ21は2001年3月期終了後に始まる3カ年計画で、ROEを2001年3月期の6.4%から2004年3月期に9.3%へ高める目標を掲げた
- [56]会長と社長は事業と経営資源配分の選別と集中を強めると述べた
- 三洋電機『Annual Report 1999』「To Our Stockholders」
- [57]1999年2月、有機ELディスプレーの共同開発で米イーストマン・コダックと包括提携した
- 三洋電機『Annual Report 2002』「To Our Stockholders」
- [58]2001年12月、イーストマン・コダックと有機ELディスプレーを製造する合弁会社を設立した
1990年〜2001年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年11月期 | 連結 | 15,657 | n/a | n/a | ▲12 | ▲0.1% | n/a |
| 1993年11月期 | 連結 | 15,568 | ▲0.6% | n/a | ▲15 | ▲0.1% | n/a |
| 1994年11月期 | 連結 | 16,936 | +8.8% | n/a | 113 | 0.7% | n/a |
| 1995年11月期 | 連結 | 17,422 | +2.9% | n/a | 155 | 0.9% | n/a |
| 1996年03月期 | 連結 | 5,246 | ▲69.9% | n/a | ▲37 | ▲0.7% | n/a |
| 1997年03月期 | 連結 | 18,462 | +251.9% | n/a | 176 | 1.0% | n/a |
| 1998年03月期 | 連結 | 19,246 | +4.2% | n/a | 123 | 0.6% | n/a |
| 1999年03月期 | 連結 | 18,824 | ▲2.2% | 318 | ▲258 | ▲1.4% | n/a |
| 2000年03月期 | 連結 | 20,142 | +7.0% | 621 | 216 | 1.1% | n/a |
| 2001年03月期 | 連結 | 22,409 | +11.3% | 1,066 | 422 | 1.9% | n/a |
出所:会社年鑑、有価証券報告書
出典・参考
14件
- 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
- 日経ビジネス 1993年1月4日号
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- 日経ビジネス 1995年2月20日号
- 日経ビジネス 1997年1月27日号
- 日経ビジネス 1998年7月27日号
- 日経ビジネス 2001年3月5日号
- 三洋電機『Annual Report 1998』「To Our Stockholders」
- 三洋電機『Annual Report 1999』「To Our Stockholders」
- 三洋電機『Annual Report 1999』「Multimedia Company」
- 三洋電機『Annual Report 2000』「Batteries」
- 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
- 三洋電機『Annual Report 2001』「Developing Our Battery Business」
- 三洋電機『Annual Report 2002』「To Our Stockholders」