不二越:井村荒喜の不二越鋼材工業創立と金切りのこ刃・ドリル
1928年〜中越水電の支配人だった井村荒喜氏の転身と、資本金20万円の不二越鋼材工業
1928年12月21日、中越水電の元支配人の井村荒喜氏は、富山県上新川郡山室村石金に資本金20万円の不二越鋼材工業を創立した。中越水電は昼間の余剰電力を消化する策として電気による熱処理に着目し、1924年10月にぜんまいを熱処理する中越製作所を設けていた。井村荒喜氏は電気工夫のペンチまで輸入品である実態に驚き、工具の国産化を志したと回想した。1927年に中越水電が富山電気と合併すると、井村荒喜氏は新会社に加わらず、温めていた工具事業の準備に移った。株式4,000株のうち2,800株を井村荒喜氏が引き受け、払込資本金は8万円。電力の供給側から消費側への転身は、余剰電力の活用と輸入工具の置き換えを1つの事業で果たす狙いだったと考えられる。
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [1]1928年12月21日、富山県上新川郡山室村石金20番地に公称資本金20万円で不二越鋼材工業株式会社を創立
- [5]株式総数4,000株のうち井村荒喜が2,800株を引受け、払込資本金は8万円、株主29名
- 不二越五十年史(1978)序章 創業の背景
- [2]中越水電は昼間の余剰電力消化のため電気熱処理に着目し、1924年10月に資本金6万円で中越製作所を設立(ぜんまい生産)
- [4]1927年8月に中越水電と富山電気が合併、井村荒喜は新会社に入らず電気業界を離れて新事業に移った
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [3]井村荒喜は電気工夫のペンチ・手びきノコ・ドリルまで輸入品であることに驚き、工具国産化を志した
不二越鋼材工業の事業計画書は、ばね・金属熱処理・ハクソー(金切鋸刃)の製作を第1期に置き、原材料の生産と工具の製作を第2期に回した。目標はばねと鋼材焼入れで月産120〜150トン、ハクソーで月産5,000グロス。井村荒喜氏は工具の最も難しい工程を熱処理とみて、中越製作所の時代からばねで焼入れを試していた。1929年3月18日に試運転を終え、同月下旬からばねとハクソーの生産を始めた。ハクソーは輸入材の納期遅れと熱処理炉の不調で量産に至らず、鉄道車両用ばねを当初の主力に置いた。ハクソーの出荷は11月にずれ込み、ばねも安値受注で赤字が続いた。焼入れの実績があるばねで操業を支え、ハクソーの立ち上げまでの時間を稼ぐ順序だったといえる。
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [6]事業計画書は第1期にばね製作・金属熱処理・ハクソー製作、第2期に原材料の生産加工と工具製作を置いた
- [7]当初目標はばね製作・鋼材焼入れ月産120〜150トン、ハクソー月産5,000グロス
- [9]1929年3月18日試運転、3月23日操業式、3月下旬にばねとハクソーの生産開始
- [10]ショーラーブレックマン材の輸入遅れ、コンベヤ式熱処理炉の不成功でハクソー生産が進まず、ばね(鉄道車両用中心)を主力とした
- [11]ハクソーは1929年11月に出荷、ばねは安値受注で赤字が続いた
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [8]井村荒喜は工具で最も難しいのは熱処理とみて、中越製作所でばね(スプリング)により熱処理を試みた
不二越は創立と同時に大阪に営業所を置き、翌年には東京にも出張所を設けた。工具の需要先は全国に散り、1件ごとの取引量も小さかったため、販売には機械工具商の協力が欠かせなかった。創立当初、井村荒喜氏はハクソーをみかん箱に詰め、自転車で大阪・立売堀の問屋筋を回ったと伝えられる。井村荒喜氏は日本製を不良品とみなす町工場の説得に苦労し、最初に購入した民間の大工場は三菱長崎造船所だったと振り返った。販売を委ねた酒井寛三商店では成果が出ず、1930年に大阪の有力な機械工具商7店と取引契約を結んだ。社長自らの行商は、販路を持たない新規参入者が評判を得るまでの手段だったと推察される。
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [12]創立と同時に大阪に営業所、翌年東京に出張所を設置
- [13]工具の需要は全国にわたり取引量が小さく、販売には機械工具商の協力が必要だった
- [14]創立当初、井村荒喜はハクソーをみかん箱に入れ自転車で立売堀の問屋筋を回った
- [16]当初販売を酒井寛三商店に委ねたが成果が出ず、1930年に岩田兄弟商会・三木市三郎商店など大阪の機械工具商7店と取引契約
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [15]代理店制度以前は需要家に直接販売し、舶来万能で苦労した。大工場で最初に購入したのは三菱長崎造船所
参考文献[1]-[16]
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [1]1928年12月21日、富山県上新川郡山室村石金20番地に公称資本金20万円で不二越鋼材工業株式会社を創立
- [5]株式総数4,000株のうち井村荒喜が2,800株を引受け、払込資本金は8万円、株主29名
- [6]事業計画書は第1期にばね製作・金属熱処理・ハクソー製作、第2期に原材料の生産加工と工具製作を置いた
- [7]当初目標はばね製作・鋼材焼入れ月産120〜150トン、ハクソー月産5,000グロス
- [9]1929年3月18日試運転、3月23日操業式、3月下旬にばねとハクソーの生産開始
- [10]ショーラーブレックマン材の輸入遅れ、コンベヤ式熱処理炉の不成功でハクソー生産が進まず、ばね(鉄道車両用中心)を主力とした
- [11]ハクソーは1929年11月に出荷、ばねは安値受注で赤字が続いた
- [12]創立と同時に大阪に営業所、翌年東京に出張所を設置
- [13]工具の需要は全国にわたり取引量が小さく、販売には機械工具商の協力が必要だった
- [14]創立当初、井村荒喜はハクソーをみかん箱に入れ自転車で立売堀の問屋筋を回った
- [16]当初販売を酒井寛三商店に委ねたが成果が出ず、1930年に岩田兄弟商会・三木市三郎商店など大阪の機械工具商7店と取引契約
- 不二越五十年史(1978)序章 創業の背景
- [2]中越水電は昼間の余剰電力消化のため電気熱処理に着目し、1924年10月に資本金6万円で中越製作所を設立(ぜんまい生産)
- [4]1927年8月に中越水電と富山電気が合併、井村荒喜は新会社に入らず電気業界を離れて新事業に移った
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [3]井村荒喜は電気工夫のペンチ・手びきノコ・ドリルまで輸入品であることに驚き、工具国産化を志した
- [8]井村荒喜は工具で最も難しいのは熱処理とみて、中越製作所でばね(スプリング)により熱処理を試みた
- [15]代理店制度以前は需要家に直接販売し、舶来万能で苦労した。大工場で最初に購入したのは三菱長崎造船所
1930年〜火災で5万7,300円に減った資本と、特約店11店のナチ鋸刃会
1930年3月14日、倉庫付近から出た火が工場に燃え移り、試験室とハクソー焼入室を除く建物が焼けた。不二越は3月30日に従業員37名をいったん整理し、大阪系の株主は再建資金と引き換えに経営権と販売権の移譲を求めた。井村荒喜氏は委託経営を拒み、9月の臨時株主総会で払込資本金11万5,380円を5万7,300円に減資して事業を続ける案を通した。生産再開にあたっては、赤字続きのばねをやめ、ハクソーへ経営資源を集中。ハクソーの製造技術はすでに固まっており、工場の復旧も早かった。同年9月には鉄道省がナチ製品を外国製品より優秀と認定し、再建を後押しした。減資は損失を確定させる代わりに、経営権を手元に残す選択だったのだろう。
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [17]1930年3月14日、倉庫付近から出火し試験室とハクソー焼入室以外を焼失
- [18]3月30日に全従業員37名を整理。大阪系株主(酒井寛三ら)が資金提供と引換えに委託経営・経営権と販売権の移譲を提唱
- [19]9月の臨時株主総会で事業継続を決め、払込資本金11万5,380円を5万7,300円に減資
- [20]生産再開にあたり赤字のばね生産をやめ、ハクソーに集中
- [22]1930年9月、鉄道省が「ナチ製品は外国製品よりも優秀」と認定発表
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [21]1930年3月の火災は一部の被害で、技術的基礎を確立していたためまもなく復旧した
生産を再開したころからナチ印ハクソーの評価が高まり、大阪と東京の大手機械工具商が不二越に関心を寄せた。井村荒喜氏は取引先の岩田米次郎氏・三木市三郎氏と相談し、1931年初めに名古屋・東京の4店を加えた11店と特約店契約を結んだ。この11店でナチ鋸刃会が発足した。契約は1店あたり6か月通算1,000グロスを単位とし、未達の店の分を他店が引き受ける連帯制をとった。10インチ品の工場原価は1グロス6円33銭で、問屋卸値8円70銭〜10円のグーデルプラット(米)を下回る水準である。井村荒喜氏は即納の倉庫を自前で抱える資本は無いとみて、先輩の反対を押し切って代理店制度を採った。連帯で販売を請け負わせる仕組みは、在庫と販路の負担を特約店と分け合う工夫と思われる。
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [23]生産再開のころからナチ製品の評価が高まり、大阪・東京の大手機械工具商が関心を寄せた
- [24]岩田米次郎・三木市三郎と相談し、1931年初めに大阪7店と名古屋の岡谷、東京の曾根商店・井坂屋本店・大沢商会の計11店と特約店契約、ナチ鋸刃会結成
- [25]岩田米次郎・三木市三郎と相談し、1931年初めに大阪7店と名古屋の岡谷、東京の曾根商店・井坂屋本店・大沢商会の計11店と特約店契約、ナチ鋸刃会結成
- [26]鋸刃会の契約は1店あたり6か月通算1,000グロス単位、未達分を他店が引き受ける連帯性
- [27]10インチハクソーの工場原価は1グロス6円33銭、グーデルプラットなど外国品の問屋卸値は8円70銭〜10円
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [28]工具は即納できる倉庫網が必要で大資本がいるため、先輩友人の反対を押して代理店制度を採用した
ハクソーの量産は1931年秋ごろ安定し、不二越は次の品目としてドリルの研究に着手した。ドリルは切削工具の中で需要が最も大きく、大量生産を見込めるうえ、販路もハクソーと重なる。1931年9月、不二越は呉でドリルを製造していた三宅工具製作所の機械設備と営業権を1万7,500円で買収した。三宅森助氏は工員10数名と設備一式を携えて富山に移り、翌10月からドリルの製作に取りかかった。井村荒喜氏は中越水電の時代から、手びきのこやドリルまで外国品で占められる状況を問題視していた。国内のドリルメーカーが出そろった後の参入だったため、技術者と設備を一度に得る買収で立ち上げを早めたとみられる。
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [29]ハクソー生産は1931年秋ごろ本格的に軌道に乗り、ドリルの研究に取り組んでいた
- [30]ドリルは切削工具で最大の需要があり大量生産を望め、市場もハクソーと共通
- [31]1931年9月、呉でドリルを生産していた三宅工具製作所の機械設備と営業権を1万7,500円で買収
- [32]三宅森助は部下工員10数名と設備一式で富山に移り入社、10月からドリル製作に着手
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [33]井村荒喜は電気事業時代、ペンチ・手びきノコ・ドリルが外国品であることを問題視した
参考文献[17]-[33]
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [17]1930年3月14日、倉庫付近から出火し試験室とハクソー焼入室以外を焼失
- [18]3月30日に全従業員37名を整理。大阪系株主(酒井寛三ら)が資金提供と引換えに委託経営・経営権と販売権の移譲を提唱
- [19]9月の臨時株主総会で事業継続を決め、払込資本金11万5,380円を5万7,300円に減資
- [20]生産再開にあたり赤字のばね生産をやめ、ハクソーに集中
- [22]1930年9月、鉄道省が「ナチ製品は外国製品よりも優秀」と認定発表
- [23]生産再開のころからナチ製品の評価が高まり、大阪・東京の大手機械工具商が関心を寄せた
- [24]岩田米次郎・三木市三郎と相談し、1931年初めに大阪7店と名古屋の岡谷、東京の曾根商店・井坂屋本店・大沢商会の計11店と特約店契約、ナチ鋸刃会結成
- [25]岩田米次郎・三木市三郎と相談し、1931年初めに大阪7店と名古屋の岡谷、東京の曾根商店・井坂屋本店・大沢商会の計11店と特約店契約、ナチ鋸刃会結成
- [26]鋸刃会の契約は1店あたり6か月通算1,000グロス単位、未達分を他店が引き受ける連帯性
- [27]10インチハクソーの工場原価は1グロス6円33銭、グーデルプラットなど外国品の問屋卸値は8円70銭〜10円
- [29]ハクソー生産は1931年秋ごろ本格的に軌道に乗り、ドリルの研究に取り組んでいた
- [30]ドリルは切削工具で最大の需要があり大量生産を望め、市場もハクソーと共通
- [31]1931年9月、呉でドリルを生産していた三宅工具製作所の機械設備と営業権を1万7,500円で買収
- [32]三宅森助は部下工員10数名と設備一式で富山に移り入社、10月からドリル製作に着手
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [21]1930年3月の火災は一部の被害で、技術的基礎を確立していたためまもなく復旧した
- [28]工具は即納できる倉庫網が必要で大資本がいるため、先輩友人の反対を押して代理店制度を採用した
- [33]井村荒喜は電気事業時代、ペンチ・手びきノコ・ドリルが外国品であることを問題視した
1932年〜高速度鋼ドリルでクリーブランド社に挑んだナチ工具と、300万円に増えた資本金
当時の輸入ドリルは大半が炭素工具鋼製で、市場ではクリーブランド社(米)の製品が優位を占めていた。不二越も炭素工具鋼のストレートシャンクドリルから始め、1931年10月に「ホーブ」印で発売した。欧米の例から高速度鋼ドリルの普及を見込み、1932年末に高速度鋼ドリルの製造を始めた。焼入れ温度が上がらない問題には直熱式塩浴炉で対処し、1933年に民間で初めて実用化した。売上高は1931年の8万3,100円から1932年に23万8,000円へ約3倍となり、同年上期には初めて6%の配当に踏み切った。1935年のドリル売上高は91万8,000円で、1932年の14倍にあたる。井村荒喜氏は日本の使い方に合わせて製品を改め、1932年ごろから利益が目に見えて増えたと回想した。
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [34]輸入ドリルのほとんどは炭素工具鋼製で、クリーブランド社(米)が市場で優位
- [35]最初は炭素工具鋼のストレートシャンクドリルを「ホーブ」印で1931年10月に発売
- [36]高速度鋼ドリルの一般化を見込み、1932年末から製造開始
- [37]高速度鋼の焼入れのため直熱式塩浴炉をつくり、1933年に民間で初めて実用化
- [38]売上高は1931年8万3,100円、1932年23万8,000円(約3倍)。1932年上期に初の6%配当
- [39]ドリル売上高は1935年に91万8,000円、1932年の14倍
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [40]日本の方式に合う製品をつくったところよく売れ、1932年ごろから利益が目にみえて上昇した
不二越は1台4万〜7万円の外国製工作機械を輸入し、1937年には世界最高水準の機種をほぼそろえた。設備資金は利益だけでは賄えず、資本金は1931年11月の7万円を皮切りに4回の増資を経て、1937年3月に300万円となった。資産は1931年下期末の13万2,000円から1937年下期末の607万円へ46倍に増え、1936年には大阪株式取引所に上場した。井村荒喜氏は銀行融資を得られない中で、利益を設備の増強と研究費に充当したと振り返った。一方、材料はショーラーブレックマン社(オーストリア)やドイツ特殊製鋼社の外国材に依存した。安来製鋼所が1935年に開発した高速度鋼も、全面採用には至らなかった。量産が進むほど輸入鋼材への依存が弱点として顕在化し、素材の自社生産へ向かわせたと推測される。
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [41]1台4〜7万円の外国製工作機械を輸入し、1937年には世界最高水準の工作機械のほとんどの機種をそろえた
- [42]資本金は1931年11月7万円に増資後4回増資し、1937年3月に300万円。増資資金の大部分を生産設備拡張に充当
- [43]資産は1931年下期末13万2,000円から1937年下期末607万円(46倍)。1936年に大阪株式取引所に上場
- [45]ドリル材料はショーラーブレックマン社・ドイツ特殊製鋼社の外国材に依存
- [46]安来製鋼所が1935年に開発したHSXを採用したが全面使用には至らず
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [44]銀行融資は不可能で、利益は設備の増強と研究費に振り向けた
参考文献[34]-[46]
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- [34]輸入ドリルのほとんどは炭素工具鋼製で、クリーブランド社(米)が市場で優位
- [35]最初は炭素工具鋼のストレートシャンクドリルを「ホーブ」印で1931年10月に発売
- [36]高速度鋼ドリルの一般化を見込み、1932年末から製造開始
- [37]高速度鋼の焼入れのため直熱式塩浴炉をつくり、1933年に民間で初めて実用化
- [38]売上高は1931年8万3,100円、1932年23万8,000円(約3倍)。1932年上期に初の6%配当
- [39]ドリル売上高は1935年に91万8,000円、1932年の14倍
- [41]1台4〜7万円の外国製工作機械を輸入し、1937年には世界最高水準の工作機械のほとんどの機種をそろえた
- [42]資本金は1931年11月7万円に増資後4回増資し、1937年3月に300万円。増資資金の大部分を生産設備拡張に充当
- [43]資産は1931年下期末13万2,000円から1937年下期末607万円(46倍)。1936年に大阪株式取引所に上場
- [45]ドリル材料はショーラーブレックマン社・ドイツ特殊製鋼社の外国材に依存
- [46]安来製鋼所が1935年に開発したHSXを採用したが全面使用には至らず
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」
- [40]日本の方式に合う製品をつくったところよく売れ、1932年ごろから利益が目にみえて上昇した
- [44]銀行融資は不可能で、利益は設備の増強と研究費に振り向けた
出典・参考
3件
- 不二越五十年史(1978)1章 事業基礎の確立
- 不二越五十年史(1978)序章 創業の背景
- 私の履歴書 経済人4「井村荒喜」