サトー:佐藤竹工機械製作所の設立と全国販売子会社網の構築
1951年〜大宮の竹材加工機械の佐藤竹工機械製作所と、自動結束機で得たサトー機工の名
佐藤竹工機械製作所は1951年5月、埼玉県大宮市で株式会社に改組し、佐藤陽氏が代表取締役に就任した。源流は1940年に佐藤陽氏が父の佐藤清治氏と始めた、軍需物資を運ぶ竹の行李をつくる加工機の発明と製造である。終戦で需要は消えると見込まれたものの、東南アジアの国々は竹や藤の民芸品を輸出用につくるため、この機械を賠償の品目として求めた。佐藤陽氏は資金の乏しい相手国に賠償金を充てて機械を購入するよう説いて回り、ビルマやインドとの商談をまとめた。定款の目的は竹材加工機械の製造と販売。株式会社への改組は、賠償輸出という戦後の需要を事業として固める手続きだったとみられる。
- 新日本経済 33(2) 1969年2月 佐沢康満
- [1]佐藤陽は昭和26年に株式会社に改め佐藤竹工機械製作所の代表取締役に就任(1994年記事は1951年5月に株式会社へ改組と記す)
- [4]佐藤陽は資金のない諸国に賠償金で機械を買うよう説いて回り、ビルマ・インドなどに機械が売れた
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- [2]1940年に佐藤陽が父清治と大宮市で発足、軍需物資を運ぶ竹の行李の加工機を発明・製造。戦後は東南アジア各国が竹・藤の民芸品輸出用に賠償として求め製造が続いた
- [3]1940年に佐藤陽が父清治と大宮市で発足、軍需物資を運ぶ竹の行李の加工機を発明・製造。戦後は東南アジア各国が竹・藤の民芸品輸出用に賠償として求め製造が続いた
- 証券 46(10)(547) 1994年(新規上場会社紹介)
- [5]1951年5月に竹材加工機械の製造・販売を目的として埼玉県大宮市に佐藤竹工機械製作所を設立
佐藤竹工機械製作所は1958年3月に自動結束機を開発して製造と販売を始め、1960年4月に商号をサトー機工に改めた。転換の起点は輸出先の変化で、竹工機械の買い手だった途上国は米国やソ連の援助に依存して財源が安定せず、販売の伸びが鈍った。佐藤陽氏は『企業というものは将来の成長市場の流れにのせることができなければ本当の経営者じゃない』と考え、成長が見込める包装の領域で新しい機械の開発に着手した。完成した「ヒット」自動結束機は駅弁や段ボール箱を縛る機械で、日本と米国で特許を得た製品である。注文は製本出版、百貨店、新聞社、銀行、運輸会社から相次ぎ、結束機は国内で最大の占有率を得た。包装への転換により、顧客は途上国の政府から国内の幅広い業種へ移ったと推察される。
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- [6]1958年3月に自動結束機を開発して製造・販売に入り、1960年4月に商号をサトー機工に変更
- 新日本経済 33(2) 1969年2月 佐沢康満
- [7]後進国は米ソの経済援助を受け財源が思うにならず取引の伸びが鈍化。佐藤陽は成長市場の流れに乗る必要を考え結束機に着手し、1958年に「ヒット」自動結束機が完成。日米で特許、各業界から注文、国内最大の占有率
- [8]後進国は米ソの経済援助を受け財源が思うにならず取引の伸びが鈍化。佐藤陽は成長市場の流れに乗る必要を考え結束機に着手し、1958年に「ヒット」自動結束機が完成。日米で特許、各業界から注文、国内最大の占有率
- [9]後進国は米ソの経済援助を受け財源が思うにならず取引の伸びが鈍化。佐藤陽は成長市場の流れに乗る必要を考え結束機に着手し、1958年に「ヒット」自動結束機が完成。日米で特許、各業界から注文、国内最大の占有率
- [10]後進国は米ソの経済援助を受け財源が思うにならず取引の伸びが鈍化。佐藤陽は成長市場の流れに乗る必要を考え結束機に着手し、1958年に「ヒット」自動結束機が完成。日米で特許、各業界から注文、国内最大の占有率
参考文献[1]-[10]
- 新日本経済 33(2) 1969年2月 佐沢康満
- [1]佐藤陽は昭和26年に株式会社に改め佐藤竹工機械製作所の代表取締役に就任(1994年記事は1951年5月に株式会社へ改組と記す)
- [4]佐藤陽は資金のない諸国に賠償金で機械を買うよう説いて回り、ビルマ・インドなどに機械が売れた
- [7]後進国は米ソの経済援助を受け財源が思うにならず取引の伸びが鈍化。佐藤陽は成長市場の流れに乗る必要を考え結束機に着手し、1958年に「ヒット」自動結束機が完成。日米で特許、各業界から注文、国内最大の占有率
- [8]後進国は米ソの経済援助を受け財源が思うにならず取引の伸びが鈍化。佐藤陽は成長市場の流れに乗る必要を考え結束機に着手し、1958年に「ヒット」自動結束機が完成。日米で特許、各業界から注文、国内最大の占有率
- [9]後進国は米ソの経済援助を受け財源が思うにならず取引の伸びが鈍化。佐藤陽は成長市場の流れに乗る必要を考え結束機に着手し、1958年に「ヒット」自動結束機が完成。日米で特許、各業界から注文、国内最大の占有率
- [10]後進国は米ソの経済援助を受け財源が思うにならず取引の伸びが鈍化。佐藤陽は成長市場の流れに乗る必要を考え結束機に着手し、1958年に「ヒット」自動結束機が完成。日米で特許、各業界から注文、国内最大の占有率
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- [2]1940年に佐藤陽が父清治と大宮市で発足、軍需物資を運ぶ竹の行李の加工機を発明・製造。戦後は東南アジア各国が竹・藤の民芸品輸出用に賠償として求め製造が続いた
- [3]1940年に佐藤陽が父清治と大宮市で発足、軍需物資を運ぶ竹の行李の加工機を発明・製造。戦後は東南アジア各国が竹・藤の民芸品輸出用に賠償として求め製造が続いた
- [6]1958年3月に自動結束機を開発して製造・販売に入り、1960年4月に商号をサトー機工に変更
- 証券 46(10)(547) 1994年(新規上場会社紹介)
- [5]1951年5月に竹材加工機械の製造・販売を目的として埼玉県大宮市に佐藤竹工機械製作所を設立
1962年〜世界初のハンドラベラーの発明と、上尾・北上の2工場で広げたラベルの生産
サトー機工は1962年10月、携帯式の値札印字貼付器であるハンドラベラーを世界で初めて開発し、製造と販売を始めた。それまでの店頭の値札は、ゴム印で数字を押したラベルを水で湿らせて1枚ずつ貼る、多くの人手を要する作業。佐藤陽氏は海外視察で値付けの分野へ参入する手がかりを得て、労働力不足から省力化の需要が高まると見通した。発売当初は注文がほとんどなく、佐藤陽氏が自ら販売に歩いて性能を認めさせた。昭和30年代半ばからは全国でスーパーマーケットの出店が相次ぎ、商品1点ごとの値付けにハンドラベラーは欠かせない道具になった。価格は当時の大卒初任給の約2倍だったものの生産が追いつかず、この収益で財務が改善して無借金経営の基盤ができた。
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- [11]1962年10月に世界初のハンドラベラー(携帯式値札印字貼付器)を発明し製造・販売。それ以前はゴム印で印字したラベルを水をつけて貼っていた
- [12]1962年10月に世界初のハンドラベラー(携帯式値札印字貼付器)を発明し製造・販売。それ以前はゴム印で印字したラベルを水をつけて貼っていた
- 新日本経済 33(2) 1969年2月 佐沢康満
- [13]佐藤陽は海外旅行でマーキング分野に入る手がかりを得た。当初は需要がほとんどなく自らセールスに歩いた。値段表は人海戦術で非能率。労働力不足による省力化の時代を見通した
- [14]佐藤陽は海外旅行でマーキング分野に入る手がかりを得た。当初は需要がほとんどなく自らセールスに歩いた。値段表は人海戦術で非能率。労働力不足による省力化の時代を見通した
- 証券 46(10)(547) 1994年(新規上場会社紹介)
- [15]昭和30年代半ばからスーパーマーケットが全国に開店し値札需要の増加が見込まれ、ハンドラベラーの製造・販売を開始
- 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 藤田東久夫(企業分析部会講演要旨)
- [16]単品値付けに不可欠で、価格は大卒初任給の2倍ほどでも生産が追いつかず大ヒット。財務が改善し以来無借金経営
サトー機工は1968年10月、ハンドラベラーに装填するラベルの製造と販売を始めた。それまでラベルは外部のメーカーにつくらせて仕入れており、故障の苦情が出ると原因が機械かラベルかを切り分けられなかった。機械と消耗品を自社で同時に生産しなければ品質を保証できないと判断し、内製に移した。生産拠点として1968年7月に埼玉県の上尾工場を置き、同年12月には北上市の誘致を受けて岩手県の北上工業団地に工場を設けた。北上では5万3千坪の用地を取得して12月に本格稼働させ、用地全体を造成して大工場とする計画を掲げた。社長の佐藤陽氏は企業規模の拡大を当面の目標とし、新製品に見合う量産体制の整備を課題に挙げた。ラベルの内製は、機械の販売後も注文が続く消耗品の収益を自社に取り込む判断でもあったと思われる。
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- [17]ラベルは当初外部メーカーから仕入れたが、機械とラベルのどちらが悪いか分からない苦情が生じ、品質保証のため1968年10月に自社で製造・販売を開始
- [18]ラベルは当初外部メーカーから仕入れたが、機械とラベルのどちらが悪いか分からない苦情が生じ、品質保証のため1968年10月に自社で製造・販売を開始
- [19]ラベルは当初外部メーカーから仕入れたが、機械とラベルのどちらが悪いか分からない苦情が生じ、品質保証のため1968年10月に自社で製造・販売を開始
- 証券 46(10)(547) 1994年(新規上場会社紹介)
- [20]1968年7月に上尾工場(埼玉県)、同年12月に北上市の誘致を受け北上工業団地に工場を設置
- 新日本経済 33(4) 1969年4月
- [21]北上市に5万3千坪の土地を取得し前年12月に本格稼働、全域を造成して一大工場を目論む。当面の目的は企業規模の拡大、量産体制の整備が課題
- [22]北上市に5万3千坪の土地を取得し前年12月に本格稼働、全域を造成して一大工場を目論む。当面の目的は企業規模の拡大、量産体制の整備が課題
サトー機工は1969年4月、本社を東京・銀座東の丹羽ビルから日本橋茅場町の新社屋サトービルへ移した。旧本社は建物が古く、販売の増加と工場の拡大で事務量が膨らみ、手狭になった。鉄筋7階建てのサトービルは旧事務所の約3倍の広さで、輸出を含む営業部門と本社の主な機能をここに集約した。サトー機工が将来の姿として掲げたのは、ソニーや東芝、トヨタ自動車のような大企業である。1971年11月には、百貨店で糸付きの値札に手やゴム印で値段を記す作業を置き換えるため、ロール状で連続印字できるタグの製造と販売を始めた。この連続タグは、のちのバーコードラベルにつながる製品にあたる。同年12月には、本社を東京都渋谷区渋谷へ再び移した。
- 新日本経済 33(4) 1969年4月
- [23]本社を銀座東8丁目の丹羽ビル(建屋が古く事務量増で狭隘)から日本橋茅場町2丁目の新社屋サトービル(鉄筋7階・旧事務所の約3倍)へ移し、営業(輸出含む)と本社主要機能を統合。4月1日から新社屋で営業開始と記す。将来像はソニー、東芝、日産、トヨタのような大企業
- [24]本社を銀座東8丁目の丹羽ビル(建屋が古く事務量増で狭隘)から日本橋茅場町2丁目の新社屋サトービル(鉄筋7階・旧事務所の約3倍)へ移し、営業(輸出含む)と本社主要機能を統合。4月1日から新社屋で営業開始と記す。将来像はソニー、東芝、日産、トヨタのような大企業
- [25]本社を銀座東8丁目の丹羽ビル(建屋が古く事務量増で狭隘)から日本橋茅場町2丁目の新社屋サトービル(鉄筋7階・旧事務所の約3倍)へ移し、営業(輸出含む)と本社主要機能を統合。4月1日から新社屋で営業開始と記す。将来像はソニー、東芝、日産、トヨタのような大企業
- [26]本社を銀座東8丁目の丹羽ビル(建屋が古く事務量増で狭隘)から日本橋茅場町2丁目の新社屋サトービル(鉄筋7階・旧事務所の約3倍)へ移し、営業(輸出含む)と本社主要機能を統合。4月1日から新社屋で営業開始と記す。将来像はソニー、東芝、日産、トヨタのような大企業
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- [27]1971年11月に連続タグの製造・販売を開始。百貨店の糸付き値札へのゴム印・手書きをロール状の連続印字に置き換え、今日のバーコードラベルのきっかけとなった
- [28]1971年11月に連続タグの製造・販売を開始。百貨店の糸付き値札へのゴム印・手書きをロール状の連続印字に置き換え、今日のバーコードラベルのきっかけとなった
- サトーホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [29]1971年12月に本社を東京都渋谷区渋谷に移転
参考文献[11]-[29]
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- [11]1962年10月に世界初のハンドラベラー(携帯式値札印字貼付器)を発明し製造・販売。それ以前はゴム印で印字したラベルを水をつけて貼っていた
- [12]1962年10月に世界初のハンドラベラー(携帯式値札印字貼付器)を発明し製造・販売。それ以前はゴム印で印字したラベルを水をつけて貼っていた
- [17]ラベルは当初外部メーカーから仕入れたが、機械とラベルのどちらが悪いか分からない苦情が生じ、品質保証のため1968年10月に自社で製造・販売を開始
- [18]ラベルは当初外部メーカーから仕入れたが、機械とラベルのどちらが悪いか分からない苦情が生じ、品質保証のため1968年10月に自社で製造・販売を開始
- [19]ラベルは当初外部メーカーから仕入れたが、機械とラベルのどちらが悪いか分からない苦情が生じ、品質保証のため1968年10月に自社で製造・販売を開始
- [27]1971年11月に連続タグの製造・販売を開始。百貨店の糸付き値札へのゴム印・手書きをロール状の連続印字に置き換え、今日のバーコードラベルのきっかけとなった
- [28]1971年11月に連続タグの製造・販売を開始。百貨店の糸付き値札へのゴム印・手書きをロール状の連続印字に置き換え、今日のバーコードラベルのきっかけとなった
- 新日本経済 33(2) 1969年2月 佐沢康満
- [13]佐藤陽は海外旅行でマーキング分野に入る手がかりを得た。当初は需要がほとんどなく自らセールスに歩いた。値段表は人海戦術で非能率。労働力不足による省力化の時代を見通した
- [14]佐藤陽は海外旅行でマーキング分野に入る手がかりを得た。当初は需要がほとんどなく自らセールスに歩いた。値段表は人海戦術で非能率。労働力不足による省力化の時代を見通した
- 証券 46(10)(547) 1994年(新規上場会社紹介)
- [15]昭和30年代半ばからスーパーマーケットが全国に開店し値札需要の増加が見込まれ、ハンドラベラーの製造・販売を開始
- [20]1968年7月に上尾工場(埼玉県)、同年12月に北上市の誘致を受け北上工業団地に工場を設置
- 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 藤田東久夫(企業分析部会講演要旨)
- [16]単品値付けに不可欠で、価格は大卒初任給の2倍ほどでも生産が追いつかず大ヒット。財務が改善し以来無借金経営
- 新日本経済 33(4) 1969年4月
- [21]北上市に5万3千坪の土地を取得し前年12月に本格稼働、全域を造成して一大工場を目論む。当面の目的は企業規模の拡大、量産体制の整備が課題
- [22]北上市に5万3千坪の土地を取得し前年12月に本格稼働、全域を造成して一大工場を目論む。当面の目的は企業規模の拡大、量産体制の整備が課題
- [23]本社を銀座東8丁目の丹羽ビル(建屋が古く事務量増で狭隘)から日本橋茅場町2丁目の新社屋サトービル(鉄筋7階・旧事務所の約3倍)へ移し、営業(輸出含む)と本社主要機能を統合。4月1日から新社屋で営業開始と記す。将来像はソニー、東芝、日産、トヨタのような大企業
- [24]本社を銀座東8丁目の丹羽ビル(建屋が古く事務量増で狭隘)から日本橋茅場町2丁目の新社屋サトービル(鉄筋7階・旧事務所の約3倍)へ移し、営業(輸出含む)と本社主要機能を統合。4月1日から新社屋で営業開始と記す。将来像はソニー、東芝、日産、トヨタのような大企業
- [25]本社を銀座東8丁目の丹羽ビル(建屋が古く事務量増で狭隘)から日本橋茅場町2丁目の新社屋サトービル(鉄筋7階・旧事務所の約3倍)へ移し、営業(輸出含む)と本社主要機能を統合。4月1日から新社屋で営業開始と記す。将来像はソニー、東芝、日産、トヨタのような大企業
- [26]本社を銀座東8丁目の丹羽ビル(建屋が古く事務量増で狭隘)から日本橋茅場町2丁目の新社屋サトービル(鉄筋7階・旧事務所の約3倍)へ移し、営業(輸出含む)と本社主要機能を統合。4月1日から新社屋で営業開始と記す。将来像はソニー、東芝、日産、トヨタのような大企業
- サトーホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [29]1971年12月に本社を東京都渋谷区渋谷に移転
1973年〜ストライキの収拾で分けた製造・販売子会社と、POSと熱転写プリンタへの参入
サトー機工は1973年9月、サトーマーキング直販を皮切りに販売部門を切り離し、全国に販売子会社を設立した。同年11月にはサトーラベルを皮切りに製造部門も分離し、各地に製造子会社を置いた。分社の理由は労使関係にあり、1973年頃に労働運動が活発化して社内でもストライキが繰り返された。分社はこの事態の収拾を目的とした措置である。この製造と販売の子会社網は、次章で扱う吸収合併で本体に戻るまで続いた。
- サトーホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [30]1973年9月にサトーマーキング直販を始めとして販売部門を分離し全国に販売子会社を設立、同年11月にサトーラベルを始めとして製造子会社を設立。のちに国内の製造子会社・販売子会社を吸収合併
- [31]1973年9月にサトーマーキング直販を始めとして販売部門を分離し全国に販売子会社を設立、同年11月にサトーラベルを始めとして製造子会社を設立。のちに国内の製造子会社・販売子会社を吸収合併
- [34]1973年9月にサトーマーキング直販を始めとして販売部門を分離し全国に販売子会社を設立、同年11月にサトーラベルを始めとして製造子会社を設立。のちに国内の製造子会社・販売子会社を吸収合併
- 証券 46(10)(547) 1994年(新規上場会社紹介)
- [32]昭和48年頃に労働運動が活発化しストライキが繰り返され、事態の収拾を目的に製造子会社・販売子会社に分社
- [33]昭和48年頃に労働運動が活発化しストライキが繰り返され、事態の収拾を目的に製造子会社・販売子会社に分社
サトー機工は1974年5月、POS用のハンドラベラーを世界で初めて開発し、製造と販売を始めた。同年9月には商号を株式会社サトーに改め、1975年2月にはPOS用の卓上プリンタの製造と販売に入った。サトーの電子プリンタとハンドラベラーは、のちに小売店や専門店のPOS化に合わせて売上を拡大した。取引はまず機器を納め、その後にラベルやタグなどのサプライ製品の受注が続く構造である。1994年の講演で、サトーは世界の小売業向けの値付けとPOSのバーコードマーキングで首位の実績を持つと説明した。1974年の商号変更は、主力事業を包装から値付けと表示へ移したことを社名で示したと考えられる。
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- [35]1974年5月にPOS用ハンドラベラーを世界で初めて開発。世界各国の小売業でプライスマーキングとPOSのバーコードマーキングで世界一の実績と説明
- [39]1974年5月にPOS用ハンドラベラーを世界で初めて開発。世界各国の小売業でプライスマーキングとPOSのバーコードマーキングで世界一の実績と説明
- 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 藤田東久夫(企業分析部会講演要旨)
- [36]1974年5月にPOS用ハンドラベラー、同年9月に商号を株式会社サトーに変更、1975年2月にPOS用卓上プリンタの製造販売を開始
- 証券 46(10)(547) 1994年(新規上場会社紹介)
- [37]電子プリンタ・ハンドラベラーは小売店・専門店等のPOS化に合わせ販売高を伸ばし、取引は機器販売の後にサプライ製品へ続く
- [38]電子プリンタ・ハンドラベラーは小売店・専門店等のPOS化に合わせ販売高を伸ばし、取引は機器販売の後にサプライ製品へ続く
サトーは1981年2月、熱転写方式でバーコードを印字する電子プリンタを世界に先駆けて開発し、製造と販売を始めた。1983年8月には、プリンタに使うカーボンリボンの製造と販売にも参入した。リボンを内製した理由は、自社で作らなければ印字の品質を保証できないという判断。この2つの製品で、サトーは電子プリンタの分野に本格的に参入した。1990年3月期の売上構成は電子プリンタが27.5%、ラベル・タグ・カーボンリボンなどの消耗品が43.7%を占めた。消耗品は毎月または隔週に受注が続き、機器と消耗品の両方を扱うことで不具合の責任を一括して負える体制になった。ラベルとリボンの内製で固まった機器と消耗品の一体供給は、次章の子会社統合と海外生産の土台になったと推測される。
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- [40]1981年2月にバーコード用熱転写方式の電子プリンタを世界に先駆けて開発・製造販売。カーボンリボンは自社で作らないと印字を保証できないとして1983年8月から製造販売
- [41]1981年2月にバーコード用熱転写方式の電子プリンタを世界に先駆けて開発・製造販売。カーボンリボンは自社で作らないと印字を保証できないとして1983年8月から製造販売
- [42]1981年2月にバーコード用熱転写方式の電子プリンタを世界に先駆けて開発・製造販売。カーボンリボンは自社で作らないと印字を保証できないとして1983年8月から製造販売
- 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 藤田東久夫(企業分析部会講演要旨)
- [43]1981年2月の熱転写方式電子プリンタ開発と1983年8月のカーボンリボン製造販売で電子プリンタ分野に参入。1990年3月期の構成比は電子プリンタ27.5%、ラベル・タグ等消耗品43.7%。消耗品は毎月・隔週に継続受注、機器と両方でトータルに責任を負える
- [44]1981年2月の熱転写方式電子プリンタ開発と1983年8月のカーボンリボン製造販売で電子プリンタ分野に参入。1990年3月期の構成比は電子プリンタ27.5%、ラベル・タグ等消耗品43.7%。消耗品は毎月・隔週に継続受注、機器と両方でトータルに責任を負える
- [45]1981年2月の熱転写方式電子プリンタ開発と1983年8月のカーボンリボン製造販売で電子プリンタ分野に参入。1990年3月期の構成比は電子プリンタ27.5%、ラベル・タグ等消耗品43.7%。消耗品は毎月・隔週に継続受注、機器と両方でトータルに責任を負える
参考文献[30]-[45]
- サトーホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [30]1973年9月にサトーマーキング直販を始めとして販売部門を分離し全国に販売子会社を設立、同年11月にサトーラベルを始めとして製造子会社を設立。のちに国内の製造子会社・販売子会社を吸収合併
- [31]1973年9月にサトーマーキング直販を始めとして販売部門を分離し全国に販売子会社を設立、同年11月にサトーラベルを始めとして製造子会社を設立。のちに国内の製造子会社・販売子会社を吸収合併
- [34]1973年9月にサトーマーキング直販を始めとして販売部門を分離し全国に販売子会社を設立、同年11月にサトーラベルを始めとして製造子会社を設立。のちに国内の製造子会社・販売子会社を吸収合併
- 証券 46(10)(547) 1994年(新規上場会社紹介)
- [32]昭和48年頃に労働運動が活発化しストライキが繰り返され、事態の収拾を目的に製造子会社・販売子会社に分社
- [33]昭和48年頃に労働運動が活発化しストライキが繰り返され、事態の収拾を目的に製造子会社・販売子会社に分社
- [37]電子プリンタ・ハンドラベラーは小売店・専門店等のPOS化に合わせ販売高を伸ばし、取引は機器販売の後にサプライ製品へ続く
- [38]電子プリンタ・ハンドラベラーは小売店・専門店等のPOS化に合わせ販売高を伸ばし、取引は機器販売の後にサプライ製品へ続く
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- [35]1974年5月にPOS用ハンドラベラーを世界で初めて開発。世界各国の小売業でプライスマーキングとPOSのバーコードマーキングで世界一の実績と説明
- [39]1974年5月にPOS用ハンドラベラーを世界で初めて開発。世界各国の小売業でプライスマーキングとPOSのバーコードマーキングで世界一の実績と説明
- [40]1981年2月にバーコード用熱転写方式の電子プリンタを世界に先駆けて開発・製造販売。カーボンリボンは自社で作らないと印字を保証できないとして1983年8月から製造販売
- [41]1981年2月にバーコード用熱転写方式の電子プリンタを世界に先駆けて開発・製造販売。カーボンリボンは自社で作らないと印字を保証できないとして1983年8月から製造販売
- [42]1981年2月にバーコード用熱転写方式の電子プリンタを世界に先駆けて開発・製造販売。カーボンリボンは自社で作らないと印字を保証できないとして1983年8月から製造販売
- 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 藤田東久夫(企業分析部会講演要旨)
- [36]1974年5月にPOS用ハンドラベラー、同年9月に商号を株式会社サトーに変更、1975年2月にPOS用卓上プリンタの製造販売を開始
- [43]1981年2月の熱転写方式電子プリンタ開発と1983年8月のカーボンリボン製造販売で電子プリンタ分野に参入。1990年3月期の構成比は電子プリンタ27.5%、ラベル・タグ等消耗品43.7%。消耗品は毎月・隔週に継続受注、機器と両方でトータルに責任を負える
- [44]1981年2月の熱転写方式電子プリンタ開発と1983年8月のカーボンリボン製造販売で電子プリンタ分野に参入。1990年3月期の構成比は電子プリンタ27.5%、ラベル・タグ等消耗品43.7%。消耗品は毎月・隔週に継続受注、機器と両方でトータルに責任を負える
- [45]1981年2月の熱転写方式電子プリンタ開発と1983年8月のカーボンリボン製造販売で電子プリンタ分野に参入。1990年3月期の構成比は電子プリンタ27.5%、ラベル・タグ等消耗品43.7%。消耗品は毎月・隔週に継続受注、機器と両方でトータルに責任を負える
出典・参考
6件
- サトーホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 28(12) 1990年 藤田東久夫(企業分析部会講演要旨)
- 証券アナリストジャーナル 1994年8月 藤田東久夫
- 新日本経済 33(2) 1969年2月 佐沢康満
- 新日本経済 33(4) 1969年4月
- 証券 46(10)(547) 1994年(新規上場会社紹介)