三浦保
経歴1945〜1996年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1945年主要役職の状況(推定含む目安)1996年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 三浦製作所(個人経営) | 1945 | 承継 | ||
| 三浦工業(旧株式会社三浦製作所) | 1959 | 代表取締役社長 | |||
| 1989 | 社長 退任 | ||||
| 1996 | 死去 |
創業ストーリー
創業ストーリー
三浦保氏は1928年に松山で生まれた。不況で家業の米屋が立ち行かなくなり、父は精米機と精麦機の製造に転じて、1927年12月に松山市で三浦製作所を創業していた。三浦保氏は学校を出て大手の機械メーカーに勤めたが、終戦を機に父の工場を継ぎ、妻を含む5人の所帯から再出発した。
- 日経ビジネス 1994年2月14日号(三浦保)
- [1]私は世界恐慌の前年の1928年、松山に生まれた。不況で家業の米屋はつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した。私は学校卒業後いったん大手機械メーカーに就職したが、終戦とともに父の会社を継いだ。妻を含めて5人でスタートした会社。転機は59年、自動制御の小型ボイラー開発に成功してから。それまでのボイラーは石炭燃料が主流で仕組みは産業革命以来ほとんど変わっていなかった。「やがて石油の時代になる」と考え石油用ボイラーを開発し、町のクリーニング屋などに売り込んだ。新製品は故障が多く、そのたびにユーザーのところへ出向かねばならなかった。35年前に私自身が全自動制御の小型ボイラーを開発した
- [2]私は世界恐慌の前年の1928年、松山に生まれた。不況で家業の米屋はつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した。私は学校卒業後いったん大手機械メーカーに就職したが、終戦とともに父の会社を継いだ。妻を含めて5人でスタートした会社。転機は59年、自動制御の小型ボイラー開発に成功してから。それまでのボイラーは石炭燃料が主流で仕組みは産業革命以来ほとんど変わっていなかった。「やがて石油の時代になる」と考え石油用ボイラーを開発し、町のクリーニング屋などに売り込んだ。新製品は故障が多く、そのたびにユーザーのところへ出向かねばならなかった。35年前に私自身が全自動制御の小型ボイラーを開発した
- [4]私は世界恐慌の前年の1928年、松山に生まれた。不況で家業の米屋はつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した。私は学校卒業後いったん大手機械メーカーに就職したが、終戦とともに父の会社を継いだ。妻を含めて5人でスタートした会社。転機は59年、自動制御の小型ボイラー開発に成功してから。それまでのボイラーは石炭燃料が主流で仕組みは産業革命以来ほとんど変わっていなかった。「やがて石油の時代になる」と考え石油用ボイラーを開発し、町のクリーニング屋などに売り込んだ。新製品は故障が多く、そのたびにユーザーのところへ出向かねばならなかった。35年前に私自身が全自動制御の小型ボイラーを開発した
- 三浦工業 有価証券報告書(2005年3月期)【沿革】
- [3]昭和2年12月 精麦・精米機の製造・販売のため愛媛県松山市において三浦製作所を創業。昭和34年5月 各種ボイラー・精麦・精米機の製造のため愛媛県松山市宮田町に株式会社三浦製作所(資本金2百万円、代表取締役社長 三浦保)を設立。昭和35年10月 小型貫流ボイラーの製造開始。昭和38年11月 東京営業所を開設。昭和41年1月 名古屋営業所、4月 大阪営業所を開設。昭和45年2月 三浦工業株式会社(資本金30百万円)を設立し営業部門を分離。昭和53年5月 三浦工業株式会社を吸収合併し商号を三浦工業株式会社に変更。昭和57年12月 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
当時のボイラーは石炭焚きが主流で、仕組みは産業革命のころから大きな改良がないままだった。三浦保氏はやがて燃料が石油へ移るとみて石油用ボイラーの開発に取り組み、1959年に全自動制御の小型ボイラーを完成させた。同年5月、各種ボイラーと精麦・精米機の製造を目的に、資本金200万円の株式会社三浦製作所を松山市宮田町に設立し、代表取締役社長に就任した。会社は三浦保氏を創業者とし、初代社長に数えている。
- 日経ビジネス 1994年2月14日号(三浦保)
- [5]私は世界恐慌の前年の1928年、松山に生まれた。不況で家業の米屋はつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した。私は学校卒業後いったん大手機械メーカーに就職したが、終戦とともに父の会社を継いだ。妻を含めて5人でスタートした会社。転機は59年、自動制御の小型ボイラー開発に成功してから。それまでのボイラーは石炭燃料が主流で仕組みは産業革命以来ほとんど変わっていなかった。「やがて石油の時代になる」と考え石油用ボイラーを開発し、町のクリーニング屋などに売り込んだ。新製品は故障が多く、そのたびにユーザーのところへ出向かねばならなかった。35年前に私自身が全自動制御の小型ボイラーを開発した
- [6]私は世界恐慌の前年の1928年、松山に生まれた。不況で家業の米屋はつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した。私は学校卒業後いったん大手機械メーカーに就職したが、終戦とともに父の会社を継いだ。妻を含めて5人でスタートした会社。転機は59年、自動制御の小型ボイラー開発に成功してから。それまでのボイラーは石炭燃料が主流で仕組みは産業革命以来ほとんど変わっていなかった。「やがて石油の時代になる」と考え石油用ボイラーを開発し、町のクリーニング屋などに売り込んだ。新製品は故障が多く、そのたびにユーザーのところへ出向かねばならなかった。35年前に私自身が全自動制御の小型ボイラーを開発した
- 三浦工業 有価証券報告書(2005年3月期)【沿革】
- [7]昭和2年12月 精麦・精米機の製造・販売のため愛媛県松山市において三浦製作所を創業。昭和34年5月 各種ボイラー・精麦・精米機の製造のため愛媛県松山市宮田町に株式会社三浦製作所(資本金2百万円、代表取締役社長 三浦保)を設立。昭和35年10月 小型貫流ボイラーの製造開始。昭和38年11月 東京営業所を開設。昭和41年1月 名古屋営業所、4月 大阪営業所を開設。昭和45年2月 三浦工業株式会社(資本金30百万円)を設立し営業部門を分離。昭和53年5月 三浦工業株式会社を吸収合併し商号を三浦工業株式会社に変更。昭和57年12月 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
- 三浦工業 統合報告書 2025(成長ストーリー)・統合報告書 2023(英語版)
- [8]1959 創業者・三浦保が株式会社三浦製作所を設立。歴代社長 初代 三浦保(1959〜1989年)、二代 白石省三(1989〜2004年)。Our founder MIURA Tamotsu (1928-1996) dedicated his career to developing and refining once-through boilers and established MIURA in 1959
1960年10月に小型貫流ボイラーの製造を始めた。照準を合わせたのは、ボイラー技師の免許なしで運転できる小型の領域である。主な買い手は従業員100人程度までの食品加工、繊維、クリーニングの事業所で、免許も検査も要らない点が販売上の差別化要因になった。まず町のクリーニング店などに売り歩いたが、新しい方式の製品は故障が多く、そのたびに客先へ出向く必要があった。最初の営業所を九州・北海道・東京といった遠隔地から置いたのも、拡販より修理への対応が目的だった。1963年に東京、1966年に名古屋と大阪に営業所を開設し、1970年2月には営業部門を三浦工業株式会社として切り出した。
- 三浦工業 有価証券報告書(2005年3月期)【沿革】
- [9]昭和2年12月 精麦・精米機の製造・販売のため愛媛県松山市において三浦製作所を創業。昭和34年5月 各種ボイラー・精麦・精米機の製造のため愛媛県松山市宮田町に株式会社三浦製作所(資本金2百万円、代表取締役社長 三浦保)を設立。昭和35年10月 小型貫流ボイラーの製造開始。昭和38年11月 東京営業所を開設。昭和41年1月 名古屋営業所、4月 大阪営業所を開設。昭和45年2月 三浦工業株式会社(資本金30百万円)を設立し営業部門を分離。昭和53年5月 三浦工業株式会社を吸収合併し商号を三浦工業株式会社に変更。昭和57年12月 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
- [14]昭和2年12月 精麦・精米機の製造・販売のため愛媛県松山市において三浦製作所を創業。昭和34年5月 各種ボイラー・精麦・精米機の製造のため愛媛県松山市宮田町に株式会社三浦製作所(資本金2百万円、代表取締役社長 三浦保)を設立。昭和35年10月 小型貫流ボイラーの製造開始。昭和38年11月 東京営業所を開設。昭和41年1月 名古屋営業所、4月 大阪営業所を開設。昭和45年2月 三浦工業株式会社(資本金30百万円)を設立し営業部門を分離。昭和53年5月 三浦工業株式会社を吸収合併し商号を三浦工業株式会社に変更。昭和57年12月 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
- 日経ビジネス 1981年11月16日号(山形健介)
- [10]小型ボイラーに的を絞ったのはボイラー技師免許が不要な分野だったから。需要分野は1事業所当たり従業員100人程度までの食品加工業者、繊維業者、クリーニング業者などで、免許や検査が不要というメリットは大きなセールスの武器になった。昭和40年代の前半までメンテナンス部門は苦労の連続で、「アフタサービスには金はもらえない」というのがボイラー業界の常識だった。昭和47年、EH型を本格的に売り込むため三浦社長はユーザーからメンテナンス経費をとる方針を打ち出し、営業サイド中心に社内から反対された。販売時にユーザーと3年契約を結び、取り扱い方法の指導、定期修理、部品の取り換え、契約終了時のオーバーホールを1セットとして30万円前後の契約費をとる方式。48年にメンテナンス本部を設置。オイル・ショックで省エネ・省力化への意識が高まり貫流ボイラーの効率性が評価された
- [11]小型ボイラーに的を絞ったのはボイラー技師免許が不要な分野だったから。需要分野は1事業所当たり従業員100人程度までの食品加工業者、繊維業者、クリーニング業者などで、免許や検査が不要というメリットは大きなセールスの武器になった。昭和40年代の前半までメンテナンス部門は苦労の連続で、「アフタサービスには金はもらえない」というのがボイラー業界の常識だった。昭和47年、EH型を本格的に売り込むため三浦社長はユーザーからメンテナンス経費をとる方針を打ち出し、営業サイド中心に社内から反対された。販売時にユーザーと3年契約を結び、取り扱い方法の指導、定期修理、部品の取り換え、契約終了時のオーバーホールを1セットとして30万円前後の契約費をとる方式。48年にメンテナンス本部を設置。オイル・ショックで省エネ・省力化への意識が高まり貫流ボイラーの効率性が評価された
- 日経ビジネス 1994年2月14日号(三浦保)
- [12]私は世界恐慌の前年の1928年、松山に生まれた。不況で家業の米屋はつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した。私は学校卒業後いったん大手機械メーカーに就職したが、終戦とともに父の会社を継いだ。妻を含めて5人でスタートした会社。転機は59年、自動制御の小型ボイラー開発に成功してから。それまでのボイラーは石炭燃料が主流で仕組みは産業革命以来ほとんど変わっていなかった。「やがて石油の時代になる」と考え石油用ボイラーを開発し、町のクリーニング屋などに売り込んだ。新製品は故障が多く、そのたびにユーザーのところへ出向かねばならなかった。35年前に私自身が全自動制御の小型ボイラーを開発した
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻2号(三浦保)
- [13]当社の営業所は最初、九州、北海道、東京など遠隔地から設置されたが、これは拡販のためではなくメンテナンスへの対処が目的であった。エレベーターの東洋オーチス社がメンテナンスを有料にして利益をあげているという話を聞き、「これだ」と思った。メンテナンスを積極的に商品化することに切り換えた(三浦保社長、日本証券アナリスト協会 昭和58年1月11日講演要旨)
ただし保守部門は1960年代後半まで人件費の重荷で、アフターサービスで代金は取れないというのが業界の通念だった。転機は、エレベーターの東洋オーチスが保守の有料化で利益を上げていると聞いたことにある。1972年、主力となるEH型の発売に合わせて保守料を受け取る方針を打ち出し、営業部門を中心とする社内の反対を押し切った。販売時に3年の契約を結び、運転指導・定期修理・部品交換・満了時のオーバーホールを一括して30万円前後で請け負う方式である。翌1973年にメンテナンス本部を設け、続く石油危機で省エネルギーへの関心が高まると、小型貫流ボイラーの評価も上がった。
- 日経ビジネス 1981年11月16日号(山形健介)
- [15]小型ボイラーに的を絞ったのはボイラー技師免許が不要な分野だったから。需要分野は1事業所当たり従業員100人程度までの食品加工業者、繊維業者、クリーニング業者などで、免許や検査が不要というメリットは大きなセールスの武器になった。昭和40年代の前半までメンテナンス部門は苦労の連続で、「アフタサービスには金はもらえない」というのがボイラー業界の常識だった。昭和47年、EH型を本格的に売り込むため三浦社長はユーザーからメンテナンス経費をとる方針を打ち出し、営業サイド中心に社内から反対された。販売時にユーザーと3年契約を結び、取り扱い方法の指導、定期修理、部品の取り換え、契約終了時のオーバーホールを1セットとして30万円前後の契約費をとる方式。48年にメンテナンス本部を設置。オイル・ショックで省エネ・省力化への意識が高まり貫流ボイラーの効率性が評価された
- [17]小型ボイラーに的を絞ったのはボイラー技師免許が不要な分野だったから。需要分野は1事業所当たり従業員100人程度までの食品加工業者、繊維業者、クリーニング業者などで、免許や検査が不要というメリットは大きなセールスの武器になった。昭和40年代の前半までメンテナンス部門は苦労の連続で、「アフタサービスには金はもらえない」というのがボイラー業界の常識だった。昭和47年、EH型を本格的に売り込むため三浦社長はユーザーからメンテナンス経費をとる方針を打ち出し、営業サイド中心に社内から反対された。販売時にユーザーと3年契約を結び、取り扱い方法の指導、定期修理、部品の取り換え、契約終了時のオーバーホールを1セットとして30万円前後の契約費をとる方式。48年にメンテナンス本部を設置。オイル・ショックで省エネ・省力化への意識が高まり貫流ボイラーの効率性が評価された
- [18]小型ボイラーに的を絞ったのはボイラー技師免許が不要な分野だったから。需要分野は1事業所当たり従業員100人程度までの食品加工業者、繊維業者、クリーニング業者などで、免許や検査が不要というメリットは大きなセールスの武器になった。昭和40年代の前半までメンテナンス部門は苦労の連続で、「アフタサービスには金はもらえない」というのがボイラー業界の常識だった。昭和47年、EH型を本格的に売り込むため三浦社長はユーザーからメンテナンス経費をとる方針を打ち出し、営業サイド中心に社内から反対された。販売時にユーザーと3年契約を結び、取り扱い方法の指導、定期修理、部品の取り換え、契約終了時のオーバーホールを1セットとして30万円前後の契約費をとる方式。48年にメンテナンス本部を設置。オイル・ショックで省エネ・省力化への意識が高まり貫流ボイラーの効率性が評価された
- [19]小型ボイラーに的を絞ったのはボイラー技師免許が不要な分野だったから。需要分野は1事業所当たり従業員100人程度までの食品加工業者、繊維業者、クリーニング業者などで、免許や検査が不要というメリットは大きなセールスの武器になった。昭和40年代の前半までメンテナンス部門は苦労の連続で、「アフタサービスには金はもらえない」というのがボイラー業界の常識だった。昭和47年、EH型を本格的に売り込むため三浦社長はユーザーからメンテナンス経費をとる方針を打ち出し、営業サイド中心に社内から反対された。販売時にユーザーと3年契約を結び、取り扱い方法の指導、定期修理、部品の取り換え、契約終了時のオーバーホールを1セットとして30万円前後の契約費をとる方式。48年にメンテナンス本部を設置。オイル・ショックで省エネ・省力化への意識が高まり貫流ボイラーの効率性が評価された
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻2号(三浦保)
- [16]当社の営業所は最初、九州、北海道、東京など遠隔地から設置されたが、これは拡販のためではなくメンテナンスへの対処が目的であった。エレベーターの東洋オーチス社がメンテナンスを有料にして利益をあげているという話を聞き、「これだ」と思った。メンテナンスを積極的に商品化することに切り換えた(三浦保社長、日本証券アナリスト協会 昭和58年1月11日講演要旨)
その後、1978年5月に三浦工業を吸収合併して商号を改め、1982年12月に大阪証券取引所市場第二部へ上場した。技術は心配りの行き届いたサービスと組み合わせて初めて本物になるという考えを、三浦保氏は「テクノサービス」の語にまとめ、この言葉は今も社員に受け継がれている。1989年に社長を退き、1996年に死去した。
- 三浦工業 有価証券報告書(2005年3月期)【沿革】
- [20]昭和2年12月 精麦・精米機の製造・販売のため愛媛県松山市において三浦製作所を創業。昭和34年5月 各種ボイラー・精麦・精米機の製造のため愛媛県松山市宮田町に株式会社三浦製作所(資本金2百万円、代表取締役社長 三浦保)を設立。昭和35年10月 小型貫流ボイラーの製造開始。昭和38年11月 東京営業所を開設。昭和41年1月 名古屋営業所、4月 大阪営業所を開設。昭和45年2月 三浦工業株式会社(資本金30百万円)を設立し営業部門を分離。昭和53年5月 三浦工業株式会社を吸収合併し商号を三浦工業株式会社に変更。昭和57年12月 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
- 三浦工業 統合報告書 2024「ミウラらしさ」
- [21]創業者 三浦保が掲げた「テクノサービス」は、時代を超えて今もミウラを象徴し続けている。「テクノロジー(技術)は、サービス(心配り)にのせてはじめて本物になる」お客様の役に立ちたいとの思いから生まれた言葉
- 三浦工業 統合報告書 2025(成長ストーリー)・統合報告書 2023(英語版)
- [22]1959 創業者・三浦保が株式会社三浦製作所を設立。歴代社長 初代 三浦保(1959〜1989年)、二代 白石省三(1989〜2004年)。Our founder MIURA Tamotsu (1928-1996) dedicated his career to developing and refining once-through boilers and established MIURA in 1959
業績貢献
三浦保氏:在任中の業績貢献
| 決算期 | 在任 | 売上高 | 前期比 | 営業利益率 | ROE | 主な施策 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1979年4月期 | 73億円 | — | — | — | 三浦工業を吸収合併し商号を三浦工業に変更メディカル機器の製造を開始 | |
| 1980年4月期 | 83億円 | +13.7% | — | — | ||
| 1981年4月期 | 100億円 | +20.5% | — | — | ||
| 1982年4月期 | 119億円 | +19.0% | — | — | 額面変更のためミウラ産業と合併し三浦工業に商号変更川内工場(愛媛県東温市)を新設 | |
| 1983年4月期 | 135億円 | +13.4% | — | — | ミウラ工業(韓国ソウル)に出資大阪証券取引所市場第二部に株式を上場 / サンケミを設立 | |
| 1984年4月期 | 149億円 | +10.4% | — | — |
参考文献4件
参考文献
- 三浦工業 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1994年2月14日号「有訓無訓 先見性と早耳は違う」(三浦保)
- 三浦工業 統合報告書 2025(成長ストーリー)
- 三浦工業 統合報告書 2023(英語版)
事実根拠:出所(三浦工業)