第1章 年〜年

横河ブリッジホールディングス:横河民輔氏の橋梁・鉄骨専業メーカー創業と株式会社化

1907年〜日本橋の横河工務所と、輸入頼みの鉄骨を大阪境川町で起こした専業工場

工学博士の横河民輔氏は1903年4月に東京市日本橋楓河岸で横河工務所を開設し、建築の設計と工事監督を本業とした。横河民輔氏が設計監督した建物には1911年の帝国劇場や1912年の三井2号館があり、後者は日本で最初の貸ビルとされる。ところが明治末期の日本では、鉄骨の材料も、それを切って組み上げる加工も、大半がイギリスやアメリカからの輸入に依存する状態だった。横河民輔氏は国内で鉄骨構造物の加工が将来必要になるとみて、自ら製作工場を経営する構想を以前から温めていた。構想は1907年2月、日本で最初の橋梁・鉄骨専業メーカーの創業として実を結んだ。輸入に依存する限り国内の建築の工期と費用が海外の事情に左右されるため、製作の自前化を設計監督の延長に置いたのだろう。

  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [1]横河民輔が1903年4月に日本橋楓河岸で横河工務所(建築設計監督)を開設。明治末期は鉄骨の資材と加工をほぼ英米の輸入に依存し、横河は製作工場の経営を構想していた
    • [2]横河の設計監督に帝国劇場(1911年)、三井2号館(1912年・日本最初の貸ビル)など
    • [3]横河民輔が1903年4月に日本橋楓河岸で横河工務所(建築設計監督)を開設。明治末期は鉄骨の資材と加工をほぼ英米の輸入に依存し、横河は製作工場の経営を構想していた
    • [4]横河民輔が1903年4月に日本橋楓河岸で横河工務所(建築設計監督)を開設。明治末期は鉄骨の資材と加工をほぼ英米の輸入に依存し、横河は製作工場の経営を構想していた
  • 沿革年表(有価証券報告書)
    • [5]1907年2月、横河民輔が日本最初の橋梁・鉄骨専業メーカーとして創業

横河民輔氏は、大阪市東区京橋2丁目の通称八軒家に設けた横河工務所の大阪出張所を足場に、製作工場の構想を具体化した。大阪市西区境川町86番地の土地を賃借して工場を建て、横河工務所は設計監督に加えて鉄骨家屋と橋梁の製作・組立の請負を兼ねた。1907年2月10日、横河民輔氏はこの製作と組立の部門を横河工務所から切り離し、横河民輔氏個人が経営する横河橋梁製作所とした。横河橋梁製作所は、日本で最初の橋梁・鉄骨専業メーカーとして歩み始めた。1914年には東京の深川千田町に大阪工場と対をなす東京工場を開設し、月産は400トン程度。設計事務所から製作部門を切り分けたのは、鉄骨の受注と加工を独立した採算で管理するためだったと推察される。

  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [6]大阪八軒家に横河工務所の拠点を置き、境川町86番地の借地に工場を設けて鉄骨家屋・橋梁の製作組立を請け負い、1907年2月10日に製作組立部門を分離して個人経営の横河橋梁製作所とした
    • [7]大阪八軒家に横河工務所の拠点を置き、境川町86番地の借地に工場を設けて鉄骨家屋・橋梁の製作組立を請け負い、1907年2月10日に製作組立部門を分離して個人経営の横河橋梁製作所とした
    • [8]大阪八軒家に横河工務所の拠点を置き、境川町86番地の借地に工場を設けて鉄骨家屋・橋梁の製作組立を請け負い、1907年2月10日に製作組立部門を分離して個人経営の横河橋梁製作所とした
    • [10]深川(千田町)の東京工場は1914年に大阪工場に対する東京工場として開設、月産400トン程度
  • 沿革年表(有価証券報告書)
    • [9]1907年2月の創業は日本最初の橋梁・鉄骨専業メーカー
参考文献[1]-[10]
  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [1]横河民輔が1903年4月に日本橋楓河岸で横河工務所(建築設計監督)を開設。明治末期は鉄骨の資材と加工をほぼ英米の輸入に依存し、横河は製作工場の経営を構想していた
    • [2]横河の設計監督に帝国劇場(1911年)、三井2号館(1912年・日本最初の貸ビル)など
    • [3]横河民輔が1903年4月に日本橋楓河岸で横河工務所(建築設計監督)を開設。明治末期は鉄骨の資材と加工をほぼ英米の輸入に依存し、横河は製作工場の経営を構想していた
    • [4]横河民輔が1903年4月に日本橋楓河岸で横河工務所(建築設計監督)を開設。明治末期は鉄骨の資材と加工をほぼ英米の輸入に依存し、横河は製作工場の経営を構想していた
    • [6]大阪八軒家に横河工務所の拠点を置き、境川町86番地の借地に工場を設けて鉄骨家屋・橋梁の製作組立を請け負い、1907年2月10日に製作組立部門を分離して個人経営の横河橋梁製作所とした
    • [7]大阪八軒家に横河工務所の拠点を置き、境川町86番地の借地に工場を設けて鉄骨家屋・橋梁の製作組立を請け負い、1907年2月10日に製作組立部門を分離して個人経営の横河橋梁製作所とした
    • [8]大阪八軒家に横河工務所の拠点を置き、境川町86番地の借地に工場を設けて鉄骨家屋・橋梁の製作組立を請け負い、1907年2月10日に製作組立部門を分離して個人経営の横河橋梁製作所とした
    • [10]深川(千田町)の東京工場は1914年に大阪工場に対する東京工場として開設、月産400トン程度
  • 沿革年表(有価証券報告書)
    • [5]1907年2月、横河民輔が日本最初の橋梁・鉄骨専業メーカーとして創業
    • [9]1907年2月の創業は日本最初の橋梁・鉄骨専業メーカー

1918年〜資本金100万円の株式会社横河橋梁製作所と、月産1,000トンの東西2工場

1918年4月25日、所主の横河民輔氏や支配人の瀬戸文吾氏らが発起人となり、交詢社で株式会社横河橋梁製作所の創立総会を開催した。定款は資本金を100万円、株式を2万株・1株50円と定め、創立時の払込資本金は60万円。個人経営の11年間に事業規模が年々拡大し、さらなる発展には株式会社の組織が適するとの判断に至った。横河民輔氏は時事新報に掲げた挨拶文で、新会社を設立する理由を『尚一層事業拡張之為』と説明し、従来の業務と権利義務の一切を新会社へ譲渡した。株式会社への組織変更は1918年5月で、資本金は100万円である。創業者個人の信用から株主の資本へ移ることで、設備を拡張する資金の調達先が広がったとみられる。

  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [11]1918年4月25日交詢社で創立総会。定款で資本金100万円・2万株・1株50円、払込60万円。専務瀬戸文吾、相談役横河民輔。所主の挨拶文で事業拡張のため新会社に業務・権利義務一切を譲渡
    • [12]1918年4月25日交詢社で創立総会。定款で資本金100万円・2万株・1株50円、払込60万円。専務瀬戸文吾、相談役横河民輔。所主の挨拶文で事業拡張のため新会社に業務・権利義務一切を譲渡
    • [13]1918年4月25日交詢社で創立総会。定款で資本金100万円・2万株・1株50円、払込60万円。専務瀬戸文吾、相談役横河民輔。所主の挨拶文で事業拡張のため新会社に業務・権利義務一切を譲渡
    • [14]1918年4月25日交詢社で創立総会。定款で資本金100万円・2万株・1株50円、払込60万円。専務瀬戸文吾、相談役横河民輔。所主の挨拶文で事業拡張のため新会社に業務・権利義務一切を譲渡
  • 沿革年表(有価証券報告書)
    • [15]1918年5月、資本金100万円で株式会社に組織変更

1918年5月に資本金100万円の株式会社へ改組した横河橋梁製作所は、1920年と1921年の2年間に会社として初の好成績を収めた。1919年から1920年にかけての好況と物価高で、受注量が会社創立以来の最高に達したためである。加えて、高値の時期に取った受注の製作が、物価の下落した時期に重なった。1920年の物価急落の際も、入荷の遅れで手持ちの鋼材が無かったため、値下がりによる損失を免れた。この好成績は経済事情の変動による偶然の一時的な現象で、長続きする性質のものではなかった。新東京工場の建設はこの一時的な利益の時期に始まり、その後の不況の中で続けることになったと考えられる。

  • 沿革年表(有価証券報告書)
    • [16]1918年5月、資本金100万円で株式会社に組織変更
  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [17]1920・1921年の2年間は会社として初の良好な成績。1919〜20年の好況・物価高で受注量が創立以来最高、物価低落期に作業工程に乗った。手持鋼材が無く値下りの損失を免れた。社史は一時的事象と総括
    • [18]1920・1921年の2年間は会社として初の良好な成績。1919〜20年の好況・物価高で受注量が創立以来最高、物価低落期に作業工程に乗った。手持鋼材が無く値下りの損失を免れた。社史は一時的事象と総括
    • [19]1920・1921年の2年間は会社として初の良好な成績。1919〜20年の好況・物価高で受注量が創立以来最高、物価低落期に作業工程に乗った。手持鋼材が無く値下りの損失を免れた。社史は一時的事象と総括
    • [20]1920・1921年の2年間は会社として初の良好な成績。1919〜20年の好況・物価高で受注量が創立以来最高、物価低落期に作業工程に乗った。手持鋼材が無く値下りの損失を免れた。社史は一時的事象と総括
    • [21]1920・1921年の2年間は会社として初の良好な成績。1919〜20年の好況・物価高で受注量が創立以来最高、物価低落期に作業工程に乗った。手持鋼材が無く値下りの損失を免れた。社史は一時的事象と総括

深川千田町の東京工場は輸送の立地が悪く敷地も狭いため、設備の拡充に向かなかった。株式会社へ改めた翌年の1919年6月、横河橋梁製作所は品川駅に接続し河岸にも面する芝浦第2期5号埋立地を取得し、新工場の建設を決めた。1921年に専用側線を敷いて8月に着工し、建屋が半ばの1922年1月に新東京工場として製作を始め、4月11日に本社を日本橋区から構内へ移した。新東京工場の標準生産能力は大阪工場と同じ月産1,000トンで、東京と大阪に同じ規模の工場が並んだ。千田町の旧工場は名を深川工場に改めて小型製品を担う補助工場とし、関東大震災で焼失したのを機に閉じた。東西2工場の完成で生産高が増え、生産費が下がり、これがのちの不況を耐える支えになった。

  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [22]旧東京工場は立地・敷地が不適。1919年6月芝浦第2期5号埋立地を取得、1921年側線敷設・8月着工、1922年1月新東京工場(現芝浦工場)で製作開始、1922年4月11日本社を同工場内へ移転
    • [23]旧東京工場は立地・敷地が不適。1919年6月芝浦第2期5号埋立地を取得、1921年側線敷設・8月着工、1922年1月新東京工場(現芝浦工場)で製作開始、1922年4月11日本社を同工場内へ移転
    • [25]旧東京工場は立地・敷地が不適。1919年6月芝浦第2期5号埋立地を取得、1921年側線敷設・8月着工、1922年1月新東京工場(現芝浦工場)で製作開始、1922年4月11日本社を同工場内へ移転
    • [26]東西2工場(標準月産能力各1,000トン)で生産高増加・生産費低減。旧東京工場(千田町)は深川工場として補助的性格となり震災焼失を機に廃止
    • [27]東西2工場(標準月産能力各1,000トン)で生産高増加・生産費低減。旧東京工場(千田町)は深川工場として補助的性格となり震災焼失を機に廃止
    • [28]東西2工場(標準月産能力各1,000トン)で生産高増加・生産費低減。旧東京工場(千田町)は深川工場として補助的性格となり震災焼失を機に廃止
  • 沿革年表(有価証券報告書)
    • [24]1918年5月、資本金100万円で株式会社に組織変更
参考文献[11]-[28]
  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [11]1918年4月25日交詢社で創立総会。定款で資本金100万円・2万株・1株50円、払込60万円。専務瀬戸文吾、相談役横河民輔。所主の挨拶文で事業拡張のため新会社に業務・権利義務一切を譲渡
    • [12]1918年4月25日交詢社で創立総会。定款で資本金100万円・2万株・1株50円、払込60万円。専務瀬戸文吾、相談役横河民輔。所主の挨拶文で事業拡張のため新会社に業務・権利義務一切を譲渡
    • [13]1918年4月25日交詢社で創立総会。定款で資本金100万円・2万株・1株50円、払込60万円。専務瀬戸文吾、相談役横河民輔。所主の挨拶文で事業拡張のため新会社に業務・権利義務一切を譲渡
    • [14]1918年4月25日交詢社で創立総会。定款で資本金100万円・2万株・1株50円、払込60万円。専務瀬戸文吾、相談役横河民輔。所主の挨拶文で事業拡張のため新会社に業務・権利義務一切を譲渡
    • [17]1920・1921年の2年間は会社として初の良好な成績。1919〜20年の好況・物価高で受注量が創立以来最高、物価低落期に作業工程に乗った。手持鋼材が無く値下りの損失を免れた。社史は一時的事象と総括
    • [18]1920・1921年の2年間は会社として初の良好な成績。1919〜20年の好況・物価高で受注量が創立以来最高、物価低落期に作業工程に乗った。手持鋼材が無く値下りの損失を免れた。社史は一時的事象と総括
    • [19]1920・1921年の2年間は会社として初の良好な成績。1919〜20年の好況・物価高で受注量が創立以来最高、物価低落期に作業工程に乗った。手持鋼材が無く値下りの損失を免れた。社史は一時的事象と総括
    • [20]1920・1921年の2年間は会社として初の良好な成績。1919〜20年の好況・物価高で受注量が創立以来最高、物価低落期に作業工程に乗った。手持鋼材が無く値下りの損失を免れた。社史は一時的事象と総括
    • [21]1920・1921年の2年間は会社として初の良好な成績。1919〜20年の好況・物価高で受注量が創立以来最高、物価低落期に作業工程に乗った。手持鋼材が無く値下りの損失を免れた。社史は一時的事象と総括
    • [22]旧東京工場は立地・敷地が不適。1919年6月芝浦第2期5号埋立地を取得、1921年側線敷設・8月着工、1922年1月新東京工場(現芝浦工場)で製作開始、1922年4月11日本社を同工場内へ移転
    • [23]旧東京工場は立地・敷地が不適。1919年6月芝浦第2期5号埋立地を取得、1921年側線敷設・8月着工、1922年1月新東京工場(現芝浦工場)で製作開始、1922年4月11日本社を同工場内へ移転
    • [25]旧東京工場は立地・敷地が不適。1919年6月芝浦第2期5号埋立地を取得、1921年側線敷設・8月着工、1922年1月新東京工場(現芝浦工場)で製作開始、1922年4月11日本社を同工場内へ移転
    • [26]東西2工場(標準月産能力各1,000トン)で生産高増加・生産費低減。旧東京工場(千田町)は深川工場として補助的性格となり震災焼失を機に廃止
    • [27]東西2工場(標準月産能力各1,000トン)で生産高増加・生産費低減。旧東京工場(千田町)は深川工場として補助的性格となり震災焼失を機に廃止
    • [28]東西2工場(標準月産能力各1,000トン)で生産高増加・生産費低減。旧東京工場(千田町)は深川工場として補助的性格となり震災焼失を機に廃止
  • 沿革年表(有価証券報告書)
    • [15]1918年5月、資本金100万円で株式会社に組織変更
    • [16]1918年5月、資本金100万円で株式会社に組織変更
    • [24]1918年5月、資本金100万円で株式会社に組織変更

1923年〜関東大震災の復興橋梁と、兵庫県二見・満洲へ広げた工場の構想

1920年3月の株式市場の暴落を機に反動恐慌が始まり、不況は1923年の関東大震災を経て1927年の金融恐慌まで続いた。横河橋梁製作所の業績は1922年から下降し、震災後は利益が辛うじて赤字を免れる水準まで減り、この状態は1925年上期まで変わらなかった。1925年半ばから復興局の震災復興事業が本格化し、一般の建設事業も復活して、業績はようやく上向いた。横河橋梁製作所は復興局に数十橋を納入し、1925年製作の神田橋や1926年製作の菖蒲橋を手がけた。1927年の金融恐慌で直接の打撃は受けず、鉄道省・復興局・東京市の橋梁と民間の鉄骨で、業況は1929年初めまで良好だった。震災の前年に稼働した新東京工場の能力が、東京に集中した復興橋梁の需要を受け止める前提になったとみてよい。

  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [29]1920年3月の株式暴落で反動恐慌、影響は1923年の関東大震災を経て1927年の金融恐慌まで続く
    • [30]業績は1922年以来下降、震災で辛うじて赤字を免れる程度、1925年上期まで続く。同年半ばから復興局の復興事業本格化で上向き。復興局に数十橋を納入(神田橋1925年・菖蒲橋1926年製作など)
    • [31]業績は1922年以来下降、震災で辛うじて赤字を免れる程度、1925年上期まで続く。同年半ばから復興局の復興事業本格化で上向き。復興局に数十橋を納入(神田橋1925年・菖蒲橋1926年製作など)
    • [32]業績は1922年以来下降、震災で辛うじて赤字を免れる程度、1925年上期まで続く。同年半ばから復興局の復興事業本格化で上向き。復興局に数十橋を納入(神田橋1925年・菖蒲橋1926年製作など)
    • [33]金融恐慌の影響を直接受けず、鉄道省・復興局・東京市の橋梁と民間鉄骨で大正末から1929年初めまで好成績

横河民輔氏は相談役として東京・大阪両工場の立地を将来の発展に不適とみて、橋梁・鉄骨と鉄道車両の総合工場を港とともに二見に置く計画を立てた。1934年9月21日の室戸台風では大阪工場が高潮で1.5メートル浸水し、2週間余り生産を止めた。計画は1934年半ばに動き出し、1935年12月に横河民輔氏の出身地である兵庫県加古郡二見町で敷地の買収方針を決めた。1937年1月に専用側線の認可を受け、2月に約23,600坪の買収を終え、まず橋梁・鉄骨で年産15,000トンの工場を計画した。同年7月の日華事変の勃発で側線の資材の調達が難しくなり、建設は延引を重ねた。大阪工場の被災が、既存の立地に替わる拠点を急ぐ理由を補強したと思われる。

  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [34]横河民輔は東京・大阪両工場とも立地不適として橋梁・鉄骨・車輛の綜合工場と築港(二見港)を構想し、兵庫県二見工場建設計画として1934年に具体化の一歩
    • [35]1934年9月21日室戸台風で大阪工場浸水1.5m・2週間余生産停止。二見計画は1934年半ば具体化、1935年12月二見町(横河の出身地)土山駅東方に敷地買収方針、1937年1月側線認可・2月約23,600坪買収、年産15,000トン計画、日華事変で資材調達難となり延引
    • [36]1934年9月21日室戸台風で大阪工場浸水1.5m・2週間余生産停止。二見計画は1934年半ば具体化、1935年12月二見町(横河の出身地)土山駅東方に敷地買収方針、1937年1月側線認可・2月約23,600坪買収、年産15,000トン計画、日華事変で資材調達難となり延引
    • [37]1934年9月21日室戸台風で大阪工場浸水1.5m・2週間余生産停止。二見計画は1934年半ば具体化、1935年12月二見町(横河の出身地)土山駅東方に敷地買収方針、1937年1月側線認可・2月約23,600坪買収、年産15,000トン計画、日華事変で資材調達難となり延引
    • [38]1934年9月21日室戸台風で大阪工場浸水1.5m・2週間余生産停止。二見計画は1934年半ば具体化、1935年12月二見町(横河の出身地)土山駅東方に敷地買収方針、1937年1月側線認可・2月約23,600坪買収、年産15,000トン計画、日華事変で資材調達難となり延引

1931年の満洲事変で満洲の鉄道橋梁が破壊され、修理と補強の必要が生じた。横河橋梁製作所は南満洲鉄道の要請も受け、1935年1月に奉天八幡町へ奉天出張所を開設し、橋梁補修の人員を派遣。最初の工事は1935年の奉山線の巨流河・大凌河両鉄道橋の溶接補強で、1936年3月には皇姑屯工場を奉天に設けた。満洲国の法の下で事業を続けるには独立の会社が必要となり、1937年10月11日、奉天に資本金25万円で満洲橋梁株式会社を設立した。代表取締役には横河時介氏が就任し、新会社は1939年8月15日に社名を満洲横河橋梁株式会社へ改めた。内地で培った溶接補強の技術が、満鉄からの補修受注を現地法人の設立へ広げる足がかりになったと推測できる。

  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [39]満洲事変で鉄道橋梁が破壊、満鉄の要請で1935年1月奉天出張所開設、奉山線巨流河・大凌河の溶接補強、1936年3月皇姑屯工場、満洲国法による独立会社が必要となり1937年10月満洲橋梁株式会社を奉天に設立
    • [40]満洲事変で鉄道橋梁が破壊、満鉄の要請で1935年1月奉天出張所開設、奉山線巨流河・大凌河の溶接補強、1936年3月皇姑屯工場、満洲国法による独立会社が必要となり1937年10月満洲橋梁株式会社を奉天に設立
    • [41]満洲事変で鉄道橋梁が破壊、満鉄の要請で1935年1月奉天出張所開設、奉山線巨流河・大凌河の溶接補強、1936年3月皇姑屯工場、満洲国法による独立会社が必要となり1937年10月満洲橋梁株式会社を奉天に設立
    • [42]満洲事変で鉄道橋梁が破壊、満鉄の要請で1935年1月奉天出張所開設、奉山線巨流河・大凌河の溶接補強、1936年3月皇姑屯工場、満洲国法による独立会社が必要となり1937年10月満洲橋梁株式会社を奉天に設立
    • [43]満洲橋梁株式会社は1937年10月11日設立・資本金25万円、1939年8月15日満洲横河橋梁株式会社に改称、代表取締役横河時介、1938年6月皇姑屯工場を閉鎖し吸収
    • [44]満洲橋梁株式会社は1937年10月11日設立・資本金25万円、1939年8月15日満洲横河橋梁株式会社に改称、代表取締役横河時介、1938年6月皇姑屯工場を閉鎖し吸収
参考文献[29]-[44]
  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年
    • [29]1920年3月の株式暴落で反動恐慌、影響は1923年の関東大震災を経て1927年の金融恐慌まで続く
    • [30]業績は1922年以来下降、震災で辛うじて赤字を免れる程度、1925年上期まで続く。同年半ばから復興局の復興事業本格化で上向き。復興局に数十橋を納入(神田橋1925年・菖蒲橋1926年製作など)
    • [31]業績は1922年以来下降、震災で辛うじて赤字を免れる程度、1925年上期まで続く。同年半ばから復興局の復興事業本格化で上向き。復興局に数十橋を納入(神田橋1925年・菖蒲橋1926年製作など)
    • [32]業績は1922年以来下降、震災で辛うじて赤字を免れる程度、1925年上期まで続く。同年半ばから復興局の復興事業本格化で上向き。復興局に数十橋を納入(神田橋1925年・菖蒲橋1926年製作など)
    • [33]金融恐慌の影響を直接受けず、鉄道省・復興局・東京市の橋梁と民間鉄骨で大正末から1929年初めまで好成績
    • [34]横河民輔は東京・大阪両工場とも立地不適として橋梁・鉄骨・車輛の綜合工場と築港(二見港)を構想し、兵庫県二見工場建設計画として1934年に具体化の一歩
    • [35]1934年9月21日室戸台風で大阪工場浸水1.5m・2週間余生産停止。二見計画は1934年半ば具体化、1935年12月二見町(横河の出身地)土山駅東方に敷地買収方針、1937年1月側線認可・2月約23,600坪買収、年産15,000トン計画、日華事変で資材調達難となり延引
    • [36]1934年9月21日室戸台風で大阪工場浸水1.5m・2週間余生産停止。二見計画は1934年半ば具体化、1935年12月二見町(横河の出身地)土山駅東方に敷地買収方針、1937年1月側線認可・2月約23,600坪買収、年産15,000トン計画、日華事変で資材調達難となり延引
    • [37]1934年9月21日室戸台風で大阪工場浸水1.5m・2週間余生産停止。二見計画は1934年半ば具体化、1935年12月二見町(横河の出身地)土山駅東方に敷地買収方針、1937年1月側線認可・2月約23,600坪買収、年産15,000トン計画、日華事変で資材調達難となり延引
    • [38]1934年9月21日室戸台風で大阪工場浸水1.5m・2週間余生産停止。二見計画は1934年半ば具体化、1935年12月二見町(横河の出身地)土山駅東方に敷地買収方針、1937年1月側線認可・2月約23,600坪買収、年産15,000トン計画、日華事変で資材調達難となり延引
    • [39]満洲事変で鉄道橋梁が破壊、満鉄の要請で1935年1月奉天出張所開設、奉山線巨流河・大凌河の溶接補強、1936年3月皇姑屯工場、満洲国法による独立会社が必要となり1937年10月満洲橋梁株式会社を奉天に設立
    • [40]満洲事変で鉄道橋梁が破壊、満鉄の要請で1935年1月奉天出張所開設、奉山線巨流河・大凌河の溶接補強、1936年3月皇姑屯工場、満洲国法による独立会社が必要となり1937年10月満洲橋梁株式会社を奉天に設立
    • [41]満洲事変で鉄道橋梁が破壊、満鉄の要請で1935年1月奉天出張所開設、奉山線巨流河・大凌河の溶接補強、1936年3月皇姑屯工場、満洲国法による独立会社が必要となり1937年10月満洲橋梁株式会社を奉天に設立
    • [42]満洲事変で鉄道橋梁が破壊、満鉄の要請で1935年1月奉天出張所開設、奉山線巨流河・大凌河の溶接補強、1936年3月皇姑屯工場、満洲国法による独立会社が必要となり1937年10月満洲橋梁株式会社を奉天に設立
    • [43]満洲橋梁株式会社は1937年10月11日設立・資本金25万円、1939年8月15日満洲横河橋梁株式会社に改称、代表取締役横河時介、1938年6月皇姑屯工場を閉鎖し吸収
    • [44]満洲橋梁株式会社は1937年10月11日設立・資本金25万円、1939年8月15日満洲横河橋梁株式会社に改称、代表取締役横河時介、1938年6月皇姑屯工場を閉鎖し吸収

出典・参考

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出典・参考
  • 沿革年表(有価証券報告書)
  • 横河橋梁製作所『横河橋梁五十年史』1960年

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