第1章 年〜年

日本ヒューム:日本ヒュームコンクリートの設立と東証上場

1925年〜シンガポールで知った濠州の特許と、浅野泰治郎氏が引き取った資本金100万円の会社

日本ヒュームコンクリートは1925年10月20日、資本金100万円で設立され、遠心力を応用した鉄筋コンクリート管の量産と販売を目的に掲げた。製法は1910年にオーストラリアのアデレードでE.J.ヒューム氏とW.R.ヒューム氏の兄弟が考案したものである。日本麻糸興業社長の藤沢静象氏はシンガポールでこの管を見て、赤司初太郎氏らに紹介した。安部政次郎氏が専務の内外商会はヒューム社と日本全土の分権契約を結び、1924年12月に製管機を輸入して横浜の平沼で試作に入った。試作品の評価を得て1925年7月に神奈川県橘樹郡鶴見町潮田の工場で操業を始め、新会社が内外商会の権利を継承した。契約は英貨5,000ポンドの許諾料に加え、販売額に応じて6%から3%の使用料を課す内容である。関東大震災後の京浜で、量産できる下水管の需要を見込んだと思われる。

  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [1]1925年10月、資本金100万円で日本ヒュームコンクリートを設立。遠心力応用の高圧コンクリート管の製造販売が目的
  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [2]ヒューム管は1910年(明治43年)にアデレードのE.J.ヒューム、W.R.ヒューム兄弟が発明
    • [3]日本麻糸興業社長の藤沢静象が商用のシンガポールでヒューム管を見て、赤司初太郎・安部政次郎・木村久太郎に紹介
    • [4]内外商会(専務 安部政次郎)が濠州ヒューム会社と日本全土の分権契約を結び、1924年12月に製管機を輸入して平沼で試作
    • [5]1925年4月鶴見町潮田で工場建築に着手、7月機械据付・開業、10月20日に新会社が内外商会の権義一切を継承(第1回営業報告書)
    • [6]1925年1月17日付の実施権契約。許諾料英貨5,000磅、販売額に応じて6分〜3分の実施権使用料

設立総会は木村久太郎氏を取締役会長に選び、41歳の浅野泰治郎氏や藤沢静象氏を取締役、安部政次郎氏を監査役に置いた。内外商会の規模では広い工場の建設資金を賄えず、木村久太郎氏が台湾財界の人脈と浅野セメントの浅野泰治郎氏を誘って出資者を揃えた。1926年5月に藤沢静象氏と安部政次郎氏が監査役を辞任し、重役全員がこれに続いた。新たに浅野泰治郎氏が社長、旭コンクリート工業専務の坂本陶一氏が専務に就任し、浅野セメント取締役の大川平三郎氏と金子喜代太氏が取締役に加わった。第1期の株式2万株のうち、浅野泰治郎氏ら浅野系は9,600株を持ち、内外商会の持株は1,900株だった。同年11月には大阪市に大阪支店と大阪工場を開設。特許の橋渡しを終えた創業者に代わり、資金を出した浅野系が経営の主導権を握ったとみられる。

  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [7]設立総会で木村久太郎を取締役会長、浅野泰治郎(41歳)・藤沢静象らを取締役、安部政次郎らを監査役に選任
    • [8]内外商会の規模では工場建設資金の見込みが立たず、木村久太郎の音頭で台湾財界の人物や浅野セメントの浅野泰治郎を誘った
    • [9]1926年5月、藤沢静象・安部政次郎の監査役辞任に続き重役全員が辞任
    • [10]新たに社長浅野泰治郎、専務坂本陶一(旭コンクリート工業専務)、取締役大川平三郎・金子喜代太(浅野セメント取締役)ら
    • [11]第1期(1925年10月〜1926年6月)、2万株のうち浅野系9,600株、内外商会1,900株
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [12]1926年11月、大阪市に大阪支店・大阪工場を設置
参考文献[1]-[12]
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [1]1925年10月、資本金100万円で日本ヒュームコンクリートを設立。遠心力応用の高圧コンクリート管の製造販売が目的
    • [12]1926年11月、大阪市に大阪支店・大阪工場を設置
  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [2]ヒューム管は1910年(明治43年)にアデレードのE.J.ヒューム、W.R.ヒューム兄弟が発明
    • [3]日本麻糸興業社長の藤沢静象が商用のシンガポールでヒューム管を見て、赤司初太郎・安部政次郎・木村久太郎に紹介
    • [4]内外商会(専務 安部政次郎)が濠州ヒューム会社と日本全土の分権契約を結び、1924年12月に製管機を輸入して平沼で試作
    • [5]1925年4月鶴見町潮田で工場建築に着手、7月機械据付・開業、10月20日に新会社が内外商会の権義一切を継承(第1回営業報告書)
    • [6]1925年1月17日付の実施権契約。許諾料英貨5,000磅、販売額に応じて6分〜3分の実施権使用料
    • [7]設立総会で木村久太郎を取締役会長、浅野泰治郎(41歳)・藤沢静象らを取締役、安部政次郎らを監査役に選任
    • [8]内外商会の規模では工場建設資金の見込みが立たず、木村久太郎の音頭で台湾財界の人物や浅野セメントの浅野泰治郎を誘った
    • [9]1926年5月、藤沢静象・安部政次郎の監査役辞任に続き重役全員が辞任
    • [10]新たに社長浅野泰治郎、専務坂本陶一(旭コンクリート工業専務)、取締役大川平三郎・金子喜代太(浅野セメント取締役)ら
    • [11]第1期(1925年10月〜1926年6月)、2万株のうち浅野系9,600株、内外商会1,900株

1927年〜代理店制を廃して直販に改めた滝山米太郎氏と、普通名詞になったヒューム管の名

専務の坂本陶一氏の下で売上は増えず、資金繰りの苦しさと赤字の累積が続いた。坂本陶一氏は1927年8月に代理店契約を定め、旭コンクリート工業に愛知・岐阜・三重・滋賀・京都・奈良の1府5県を任せた。浅野スレートには東北や東京、大阪以西を割り当て、本社は宣伝と設計だけを受け持った。1928年7月に坂本陶一氏は専務を辞任し、監査役の滝山米太郎氏が後任の専務に就任した。滝山米太郎氏は浅野スレートの販売部長で、浅野セメントと共同出資した浅野スレート販売の社長でもあった。滝山米太郎氏は運用上の問題が多い代理店制度を廃止し、営業担当者が全国で直接契約を取る直販に改めた。創業後数年の販売不振は不況と製品の認知不足によるもので、宣伝の効果で1929年ごろから需要が増えた。代理店任せでは新製品の認知を高められないと判断したと推察される。

  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [13]坂本専務の下で売上げは伸びず、資金繰りの苦しさと赤字累積を免れなかった
    • [14]1927年8月に代理店契約を制定。旭コンクリート工業が1府5県、浅野スレートが東北6県・東京・大阪以西・北海道などを担当。本社は管理・設計・宣伝
    • [15]1927年8月に代理店契約を制定。旭コンクリート工業が1府5県、浅野スレートが東北6県・東京・大阪以西・北海道などを担当。本社は管理・設計・宣伝
    • [16]1928年7月に坂本陶一が専務を辞任、後任に監査役の滝山米太郎
    • [17]滝山米太郎は浅野スレートの販売部長で、浅野セメント49%・滝山51%出資の浅野スレート販売の社長
    • [18]滝山の経営方針は宣伝強化と代理店制度の廃止・直販化。代理店方式は運用上問題が多かった
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [19]創業後数年は不況と製品の認識不十分で販売低調、宣伝啓蒙により1929年ごろから需要増大

1928年12月、日本ヒュームコンクリートは商号を日本ヒューム管へ変更。滝山米太郎氏は浅野スレートから杉本久俊氏を招き、まずヒューム管の宣伝の不足を補うよう命じた。杉本久俊氏はコンクリート材料と誤解されやすかった「ヒュームコンクリート管」の呼び名を「ヒューム管」へ改め、標語の募集やステッカーで名を広めた。社名の変更は、この名称を一般に定着させる宣伝の一環である。1929年には東京市の下水道計画を担った工学博士の茂庭忠次郎氏を技術顧問に招き、茂庭忠次郎氏の影響が及ぶ地方都市の需要を掘り起こした。1929年上期は6万6千円余の利益で繰越赤字を解消し、創業4年目で初の年6分の配当に至った。社名変更に先立つ1928年9月には、本社を東京・京橋の三十間堀に移した。

  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [20]1928年12月、商号を日本ヒューム管に変更
    • [26]1928年9月、本社を東京京橋の三十間堀に移転
  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [21]滝山は浅野スレートから杉本久俊を呼び、ヒューム管の宣伝が足らないので宣伝に努めよと命じた
    • [22]杉本は誤解されがちな「ヒュームコンクリート管」の呼称を「ヒューム管」に改め、標語募集やステッカーで名称を一般化。このため1928年12月に社名を変更
    • [23]杉本は誤解されがちな「ヒュームコンクリート管」の呼称を「ヒューム管」に改め、標語募集やステッカーで名称を一般化。このため1928年12月に社名を変更
    • [24]1929年に工学博士茂庭忠次郎(東京市下水道計画の基本設計主任などを歴任)を技術顧問に招へい。地方都市の需要喚起に効いた
    • [25]1929年上期に6万6千円余の利益、繰越赤字4万3千円弱を解消、創業以来4年目・7期目に年6分配当

1930年ごろから、特許の隙を突いて遠心力管を製造する他社が茨城や静岡、尼崎に現れた。日本ヒューム管は1932年に大連の満州モルタル工業所に特許侵害を認めさせ、機械の撤去と新聞での謝罪広告を約束させた。同年11月に出願した「ヒューム」「ヒューム管」の商標は普通名詞とみなされ、1933年12月に大審院への控訴も棄却となった。1934年7月には中川延四郎氏と大同コンクリートを特許侵害で提訴し、1936年10月の特許満了まで使用料を払わせた。関西では大阪支店長の奥野晋氏が大阪市港湾部への納入を足がかりに下水道へ進出した。1933年12月には大阪工場を兵庫県武庫郡へ移し、尼崎工場と改めた。有価証券報告書の沿革は、尼崎工場の設置を1934年6月と記す。名称の独占を失い、需要の厚い関西で生産拠点を固めたと考えられる。

  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [27]1930年ごろから特許の間隙を縫って他社がヒューム管類似品を市場に出す(土浦の中川社、沼津の大同社、尼ケ崎のオニパイプ社など)
    • [28]1932年、大連の満州モルタル工業所に特許侵害を認めさせ、機械不使用と新聞への陳謝広告を約束させた
    • [29]1932年11月の「ヒューム管」「ヒューム」商標出願は普通名詞化を理由に却下、1933年12月に大審院への控訴も棄却
    • [30]1934年7月、ロンドン・ヒューム社の代理人として中川延四郎・大同コンクリートを特許侵害で提訴。1936年10月の特許切れまで特許使用料を払わせて販売を認めた
    • [31]大阪支店長奥野晋が大阪市港湾部への納入から下水道へ進出、市周辺の土地区画整理組合の排水管をほとんど獲得
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [32]1933年12月、大阪工場を兵庫県武庫郡(尼崎市中浜町)に移転し尼崎工場と改称
  • 日本ヒューム 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1934年6月、尼崎工場設置
参考文献[13]-[33]
  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [13]坂本専務の下で売上げは伸びず、資金繰りの苦しさと赤字累積を免れなかった
    • [14]1927年8月に代理店契約を制定。旭コンクリート工業が1府5県、浅野スレートが東北6県・東京・大阪以西・北海道などを担当。本社は管理・設計・宣伝
    • [15]1927年8月に代理店契約を制定。旭コンクリート工業が1府5県、浅野スレートが東北6県・東京・大阪以西・北海道などを担当。本社は管理・設計・宣伝
    • [16]1928年7月に坂本陶一が専務を辞任、後任に監査役の滝山米太郎
    • [17]滝山米太郎は浅野スレートの販売部長で、浅野セメント49%・滝山51%出資の浅野スレート販売の社長
    • [18]滝山の経営方針は宣伝強化と代理店制度の廃止・直販化。代理店方式は運用上問題が多かった
    • [21]滝山は浅野スレートから杉本久俊を呼び、ヒューム管の宣伝が足らないので宣伝に努めよと命じた
    • [22]杉本は誤解されがちな「ヒュームコンクリート管」の呼称を「ヒューム管」に改め、標語募集やステッカーで名称を一般化。このため1928年12月に社名を変更
    • [23]杉本は誤解されがちな「ヒュームコンクリート管」の呼称を「ヒューム管」に改め、標語募集やステッカーで名称を一般化。このため1928年12月に社名を変更
    • [24]1929年に工学博士茂庭忠次郎(東京市下水道計画の基本設計主任などを歴任)を技術顧問に招へい。地方都市の需要喚起に効いた
    • [25]1929年上期に6万6千円余の利益、繰越赤字4万3千円弱を解消、創業以来4年目・7期目に年6分配当
    • [27]1930年ごろから特許の間隙を縫って他社がヒューム管類似品を市場に出す(土浦の中川社、沼津の大同社、尼ケ崎のオニパイプ社など)
    • [28]1932年、大連の満州モルタル工業所に特許侵害を認めさせ、機械不使用と新聞への陳謝広告を約束させた
    • [29]1932年11月の「ヒューム管」「ヒューム」商標出願は普通名詞化を理由に却下、1933年12月に大審院への控訴も棄却
    • [30]1934年7月、ロンドン・ヒューム社の代理人として中川延四郎・大同コンクリートを特許侵害で提訴。1936年10月の特許切れまで特許使用料を払わせて販売を認めた
    • [31]大阪支店長奥野晋が大阪市港湾部への納入から下水道へ進出、市周辺の土地区画整理組合の排水管をほとんど獲得
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [19]創業後数年は不況と製品の認識不十分で販売低調、宣伝啓蒙により1929年ごろから需要増大
    • [20]1928年12月、商号を日本ヒューム管に変更
    • [26]1928年9月、本社を東京京橋の三十間堀に移転
    • [32]1933年12月、大阪工場を兵庫県武庫郡(尼崎市中浜町)に移転し尼崎工場と改称
  • 日本ヒューム 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1934年6月、尼崎工場設置

1937年〜満州へ出た奉天工場と、日興証券が58,550株を引き受けた東証上場

日本ヒューム管の役員会は1937年1月19日、朝鮮と満州への進出を決め、奉天などに固定工場を建てる方針を採った。稟議書は各地に競合が相次ぐなか小さな分工場を各地に置く必要を説き、『同業者ニ一歩先ヅル要アリ』と記した。満州では鞍山の昭和製鋼所から約25万円を受注しただけで、ハルビンの下水管は現地に工場を持つ原組に渡った。日本ヒューム管は1937年5月に奉天出張所を、同年9月に奉天工場を開設し、1938年には京城工場を完成させた。国内でも1937年2月に八幡工場を設け、1939年7月に資本金を150万円に増資した。日中戦争の拡大で軍需関連の工業用水の需要が増え、陸軍の軍需品本部から小口径管187万円余の注文も受けた。受注後に工場を建てる方針では、地元に工場を持つ競合に競争劣位に置かれると見たのだろう。

  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [34]1937年1月19日の本社役員会が朝鮮・満州進出の方針を採択、奉天ほか固定工場の建設を決定。稟議書は競業者頻出を理由に半永久的小分工場の建設を求めた
    • [35]1937年1月19日の本社役員会が朝鮮・満州進出の方針を採択、奉天ほか固定工場の建設を決定。稟議書は競業者頻出を理由に半永久的小分工場の建設を求めた
    • [36]満州では鞍山昭和製鋼所の水道管を約25万円受注したのみ、哈爾賓市下水管(管代金50万円)は地元に工場を建てた原組に奪われた
    • [37]奉天出張所は1937年5月、奉天工場は同年9月に開設、京城工場は1938年に完成
    • [39]軍需関係の工業用水需要が活発化。陸軍軍需品本部から小口径管187万円余の注文
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [38]1937年2月八幡工場、同年京城・奉天工場を開設。1939年7月に150万円へ増資

敗戦時、浅野一族は日本ヒューム管の株式の95%を持っていた。浅野総一郎氏は1945年12月に浅野良三氏と浅野八郎氏を取締役と監査役から退任させ、社長の事務を松岡敬氏に委ねた。1人1業種に専念すれば財閥解体の趣旨に合うとの見方による。経済民主化の要求はそれより厳しく、浅野総一郎氏は1946年4月30日に社長を辞任した。1947年1月に公職追放令が出たとき、日本ヒューム管に該当する役員はいなかった。1946年8月には特別経理会社の指定を受け、在外財産の損失処理が経営の課題となった。在外財産の簿価は1946年8月10日時点で276万7,722円余と、資産の26.2%を占める。浅野一族は追放令に先んじて役員を辞任し、会社が処分の対象となる事態を避けたとみられる。

  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [40]終戦時、浅野一族の持株は計5万6,870株で95%
    • [41]浅野総一郎は1945年12月に浅野良三・浅野八郎を取締役・監査役から退任させ、社長事務を松岡敬に委ねた
    • [42]1人1業種に専念すれば財閥解体の趣旨に合致すると期待したが、浅野総一郎は1946年4月30日に社長を辞任
    • [43]1人1業種に専念すれば財閥解体の趣旨に合致すると期待したが、浅野総一郎は1946年4月30日に社長を辞任
    • [44]1947年1月4日の公職追放令に該当する役員はいなかった
    • [46]在外財産の簿価276万7,722円余(1946年8月10日現在)、資産の26.2%
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [45]1946年8月、特別経理会社に指定

浅野一族の株の処分をめぐり、浅野セメントに株を取得させて吸収合併される案と、社員が株を持って独立する案とで社内が分かれた。社長の松岡敬氏が社員一人ひとりに意見を求めると、合併にはほぼ全員が反対し、GHQも独立案に賛成した。1948年3月までに浅野一族の株は社員が退職金を充てて分割取得し、株主は273名に増えた。1948年4月に再建整備計画の認可を受け、同年7月に資本金を1,000万円に増資した。株式が上場されていなかったため増資の引受けは進まず、日興証券が41,990株を重ねて取得し、合わせて58,550株を持つ大株主となった。1949年5月、日本ヒューム管は東京証券取引所に上場。上場で株主の裾野を市場に広げたことが、1950年代の工場増設に向けた増資の前提になったとうかがえる。

  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [47]浅野所有株の処分をめぐり、浅野セメントへの吸収合併案と社員保有による独立案で全社的な議論
    • [48]松岡敬が全社員から意見を個別に徴し、合併には全員反対と見てよい結果。GHQは独立案に賛成
    • [49]1948年3月、浅野一族の株を社員が退職金を引当てに分割取得し、株主は273名に増加
    • [51]株式が非上場で増資は捗らず、日興証券が70円で41,990株を買い取り、合計58,550株の大株主となった
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [50]企業再建整備計画の認可を得て1948年7月に1,000万円に増資
  • 日本ヒューム 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1949年5月、東京証券取引所に上場
参考文献[34]-[52]
  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
    • [34]1937年1月19日の本社役員会が朝鮮・満州進出の方針を採択、奉天ほか固定工場の建設を決定。稟議書は競業者頻出を理由に半永久的小分工場の建設を求めた
    • [35]1937年1月19日の本社役員会が朝鮮・満州進出の方針を採択、奉天ほか固定工場の建設を決定。稟議書は競業者頻出を理由に半永久的小分工場の建設を求めた
    • [36]満州では鞍山昭和製鋼所の水道管を約25万円受注したのみ、哈爾賓市下水管(管代金50万円)は地元に工場を建てた原組に奪われた
    • [37]奉天出張所は1937年5月、奉天工場は同年9月に開設、京城工場は1938年に完成
    • [39]軍需関係の工業用水需要が活発化。陸軍軍需品本部から小口径管187万円余の注文
    • [40]終戦時、浅野一族の持株は計5万6,870株で95%
    • [41]浅野総一郎は1945年12月に浅野良三・浅野八郎を取締役・監査役から退任させ、社長事務を松岡敬に委ねた
    • [42]1人1業種に専念すれば財閥解体の趣旨に合致すると期待したが、浅野総一郎は1946年4月30日に社長を辞任
    • [43]1人1業種に専念すれば財閥解体の趣旨に合致すると期待したが、浅野総一郎は1946年4月30日に社長を辞任
    • [44]1947年1月4日の公職追放令に該当する役員はいなかった
    • [46]在外財産の簿価276万7,722円余(1946年8月10日現在)、資産の26.2%
    • [47]浅野所有株の処分をめぐり、浅野セメントへの吸収合併案と社員保有による独立案で全社的な議論
    • [48]松岡敬が全社員から意見を個別に徴し、合併には全員反対と見てよい結果。GHQは独立案に賛成
    • [49]1948年3月、浅野一族の株を社員が退職金を引当てに分割取得し、株主は273名に増加
    • [51]株式が非上場で増資は捗らず、日興証券が70円で41,990株を買い取り、合計58,550株の大株主となった
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」
    • [38]1937年2月八幡工場、同年京城・奉天工場を開設。1939年7月に150万円へ増資
    • [45]1946年8月、特別経理会社に指定
    • [50]企業再建整備計画の認可を得て1948年7月に1,000万円に増資
  • 日本ヒューム 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1949年5月、東京証券取引所に上場

出典・参考

3件
出典・参考
  • 日本ヒューム 有価証券報告書【沿革】
  • 日本ヒューム管株式会社五十年史(1975)
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本ヒューム管」

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