キッセイ薬品工業:橘生化学研究所の設立と東京田辺製薬の専売契約
1946年〜長野の薬用植物で鎮痛剤を作った資本金19万8000円の研究所と、売上の1割を投じた新薬開発
1946年8月、医薬品の製造と販売を目的とする橘生化学研究所が、長野県松本市大字筑摩(現・埋橋1丁目)に資本金198千円で設立された。最初の製品は、長野県内に豊富にあった天然の薬用植物を原料とする鎮痛剤。研究所は創業の時点から新薬の開発と生産の両方を自社で担い、のちの新薬メーカーとしての設備整備もこの出自に沿って進めた。1947年5月には商号を橘生薬品工業株式会社に改めた。本社・工場・研究所を松本市芳野へ移し、商号をキッセイ薬品工業に変えるのは1964年10月のことである。戦後の物資不足のなかで、原料の薬用植物を県内で調達できたことが、地方で医薬品製造を始める足場になったとみられる。
- 有価証券報告書【沿革】
- [1]1946年8月 松本市大字筑摩(現埋橋1丁目)で資本金198千円の㈱橘生化学研究所を設立。1947年5月 橘生薬品工業に改称。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- [4]1946年8月 松本市大字筑摩(現埋橋1丁目)で資本金198千円の㈱橘生化学研究所を設立。1947年5月 橘生薬品工業に改称。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- [5]1946年8月 松本市大字筑摩(現埋橋1丁目)で資本金198千円の㈱橘生化学研究所を設立。1947年5月 橘生薬品工業に改称。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- 証券 41(2)(479) 1989年
- [2]長野県内に豊富にあった天然薬用植物で鎮痛剤を製造したのが始まり。創業時から開発・生産を行い、新薬メーカーとして設備を整備した
- [3]長野県内に豊富にあった天然薬用植物で鎮痛剤を製造したのが始まり。創業時から開発・生産を行い、新薬メーカーとして設備を整備した
神沢邦雄氏(のち社長)は、復員して間もない1948年に設立直後の橘生薬品工業へ入社した。当時の社内で多数を占めたのは、他社の新薬と同じ組成の類似品(ゾロ)から手がけようという声。類似品なら開発のリスクが小さく、会社の規模を短期間で拡大できるという理由だった。総務部長だった神沢邦雄氏は、『研究開発をしなければメーカーではない』という考えからこの意見に反対した。研究開発に力を入れない会社はいずれ淘汰されると見ていたことも、反対の理由だった。神沢邦雄氏は役員を説得して独自新薬の開発を優先させ、設立当初から売上高の約10%を研究開発投資に充当する方針が定まった。この方針は、新薬の研究開発を中心に据えたその後の事業展開の起点になった。
- 日経ビジネス 631号 1992年3月
- [6]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- [7]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- [8]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- [9]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- [10]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- [11]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- 証券 41(2)(479) 1989年
- [12]天然薬用植物の鎮痛剤を初めに、新薬の研究開発を中心とした事業展開を続けた
参考文献[1]-[12]
- 有価証券報告書【沿革】
- [1]1946年8月 松本市大字筑摩(現埋橋1丁目)で資本金198千円の㈱橘生化学研究所を設立。1947年5月 橘生薬品工業に改称。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- [4]1946年8月 松本市大字筑摩(現埋橋1丁目)で資本金198千円の㈱橘生化学研究所を設立。1947年5月 橘生薬品工業に改称。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- [5]1946年8月 松本市大字筑摩(現埋橋1丁目)で資本金198千円の㈱橘生化学研究所を設立。1947年5月 橘生薬品工業に改称。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- 証券 41(2)(479) 1989年
- [2]長野県内に豊富にあった天然薬用植物で鎮痛剤を製造したのが始まり。創業時から開発・生産を行い、新薬メーカーとして設備を整備した
- [3]長野県内に豊富にあった天然薬用植物で鎮痛剤を製造したのが始まり。創業時から開発・生産を行い、新薬メーカーとして設備を整備した
- [12]天然薬用植物の鎮痛剤を初めに、新薬の研究開発を中心とした事業展開を続けた
- 日経ビジネス 631号 1992年3月
- [6]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- [7]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- [8]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- [9]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- [10]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
- [11]1948年入社。社内はゾロ(類似品)メーカー志向が大勢。総務部長として反対し役員を説得、独自新薬開発を優先。設立当初から売上高の約10%を研究開発投資
1949年〜田辺製薬など6社の販売網に乗せた医療用医薬品と、東京田辺製薬1社への専売契約
1949年4月、橘生薬品工業は医療用医薬品の販売元として6社と契約を結び、同じ月に東京営業所を設置した。契約先は田辺製薬・武田薬品工業・鳥居薬品・東京田辺製薬・小林大薬房・荒川長太郎(合名)の6社である。大衆薬を売るには宣伝費がかかり、配置薬を売るには販売員を抱える必要があった。そこで橘生薬品工業は、他社メーカーが持つ既存の販売ルートに乗せられる医療用医薬品の製造と販売を始めた。販売は当初から複数の他社メーカーのルートに依存し、1952年10月には大阪営業所を設置した。自社の販売網を持たずに済んだことで、限られた資金と人員を新薬の開発と生産に充当できたと推察される。
- 有価証券報告書【沿革】
- [13]1949年4月 田辺製薬・武田薬品工業・鳥居薬品・東京田辺製薬・小林大薬房・荒川長太郎(合名)の6社と販売元契約、東京営業所設置。1952年10月 大阪営業所設置
- [14]1949年4月 田辺製薬・武田薬品工業・鳥居薬品・東京田辺製薬・小林大薬房・荒川長太郎(合名)の6社と販売元契約、東京営業所設置。1952年10月 大阪営業所設置
- [17]1949年4月 田辺製薬・武田薬品工業・鳥居薬品・東京田辺製薬・小林大薬房・荒川長太郎(合名)の6社と販売元契約、東京営業所設置。1952年10月 大阪営業所設置
- 証券 41(2)(479) 1989年
- [15]大衆薬は宣伝コスト、配置薬は販売人員が必要なため、他社の既存販売ルートを使える医療用医薬品を製造・販売。当初は複数の他社ルートに依存
- [16]大衆薬は宣伝コスト、配置薬は販売人員が必要なため、他社の既存販売ルートを使える医療用医薬品を製造・販売。当初は複数の他社ルートに依存
1959年6月、橘生薬品工業は販売元を東京田辺製薬1社に絞り、専売契約を結んだ。1949年に契約した販売元6社のうち、東京田辺製薬だけを残して他の5社との取引を整理した。複数の他社ルートに分かれていた販売を一元化し、販売面を強化することが狙いだった。同じ1959年には4月に福岡営業所、6月に名古屋営業所を設置し、東京・大阪と合わせて4営業所の体制とした。1964年10月には松本市芳野に本社・工場・研究所を新設し、商号もキッセイ薬品工業へ変更。東京田辺製薬との専売契約は1970年4月に解除され、以後は医薬品卸売業者との直接取引に移った。販売を1社に任せたことで販路が安定し、芳野での設備の刷新に経営資源を集中できたと思われる。
- 有価証券報告書【沿革】
- [18]1959年4月 福岡営業所、6月 東京田辺製薬1社と専売契約・名古屋営業所。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- [19]1959年4月 福岡営業所、6月 東京田辺製薬1社と専売契約・名古屋営業所。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- [21]1959年4月 福岡営業所、6月 東京田辺製薬1社と専売契約・名古屋営業所。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- [22]1959年4月 福岡営業所、6月 東京田辺製薬1社と専売契約・名古屋営業所。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- 証券 41(2)(479) 1989年
- [20]1959年6月 東京田辺製薬と専売契約、販売ルートの一元化で販売面を強化。1970年4月 専売契約を解除し卸との直接取引へ
- [23]1959年6月 東京田辺製薬と専売契約、販売ルートの一元化で販売面を強化。1970年4月 専売契約を解除し卸との直接取引へ
参考文献[13]-[23]
- 有価証券報告書【沿革】
- [13]1949年4月 田辺製薬・武田薬品工業・鳥居薬品・東京田辺製薬・小林大薬房・荒川長太郎(合名)の6社と販売元契約、東京営業所設置。1952年10月 大阪営業所設置
- [14]1949年4月 田辺製薬・武田薬品工業・鳥居薬品・東京田辺製薬・小林大薬房・荒川長太郎(合名)の6社と販売元契約、東京営業所設置。1952年10月 大阪営業所設置
- [17]1949年4月 田辺製薬・武田薬品工業・鳥居薬品・東京田辺製薬・小林大薬房・荒川長太郎(合名)の6社と販売元契約、東京営業所設置。1952年10月 大阪営業所設置
- [18]1959年4月 福岡営業所、6月 東京田辺製薬1社と専売契約・名古屋営業所。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- [19]1959年4月 福岡営業所、6月 東京田辺製薬1社と専売契約・名古屋営業所。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- [21]1959年4月 福岡営業所、6月 東京田辺製薬1社と専売契約・名古屋営業所。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- [22]1959年4月 福岡営業所、6月 東京田辺製薬1社と専売契約・名古屋営業所。1964年10月 芳野へ移転しキッセイ薬品工業に改称
- 証券 41(2)(479) 1989年
- [15]大衆薬は宣伝コスト、配置薬は販売人員が必要なため、他社の既存販売ルートを使える医療用医薬品を製造・販売。当初は複数の他社ルートに依存
- [16]大衆薬は宣伝コスト、配置薬は販売人員が必要なため、他社の既存販売ルートを使える医療用医薬品を製造・販売。当初は複数の他社ルートに依存
- [20]1959年6月 東京田辺製薬と専売契約、販売ルートの一元化で販売面を強化。1970年4月 専売契約を解除し卸との直接取引へ
- [23]1959年6月 東京田辺製薬と専売契約、販売ルートの一元化で販売面を強化。1970年4月 専売契約を解除し卸との直接取引へ
出典・参考
3件
- 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 631号 1992年3月
- 証券 41(2)(479) 1989年