チッソ:野口遵の曾木電気設立と水俣工場の石灰窒素製造
1906年〜資本金20万円の曾木電気と、余剰電力で始めた水俣のカーバイド工場
日本窒素肥料の出発点は、1906年1月に鹿児島県の曾木で資本金20万円をもって設立した曾木電気である。社長を務めた野口遵氏は電気を専攻した工学士で、設立の時点で34歳だった。日露戦争の翌年にあたるこの年は、鉄道国有化で支払われた多額の買収金が資本市場に流入し、新会社の設立が相次いだ。投資の関心は石炭と電力に集まり、電力では火力から水力への転換が全国で進んでいた。野口遵氏は曾木発電所を建設し、近くの金山へ電力を供給するとともに、周辺の町村へ電灯用の電気を送った。金山という大口の需要家が近くにあり、資金も調達しやすい時期だったことが、山村での発電事業を成り立たせたとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [1]資本金20万円の曾木電気が1906年1月に鹿児島県の山村で発足。曾木発電所から付近の金山と近隣町村へ供給。社長の野口遵は当時34歳
- [3]資本金20万円の曾木電気が1906年1月に鹿児島県の山村で発足。曾木発電所から付近の金山と近隣町村へ供給。社長の野口遵は当時34歳
- [7]資本金20万円の曾木電気が1906年1月に鹿児島県の山村で発足。曾木発電所から付近の金山と近隣町村へ供給。社長の野口遵は当時34歳
- 旭化成火薬30年史(1964)「第2章 野口遵社長の業績」
- [2]1906年1月、鹿児島県で資本金20万円の電気会社として創業
- センコー35年史(1981)「大日窒コンツェルンの夜明け」
- [4]野口遵は電気専攻の工学士。1906年は鉄道国有化の買収金が資本市場に流入し新会社設立が相次ぎ、電力は火力から水力へ移行期
- [5]野口遵は電気専攻の工学士。1906年は鉄道国有化の買収金が資本市場に流入し新会社設立が相次ぎ、電力は火力から水力へ移行期
- [6]野口遵は電気専攻の工学士。1906年は鉄道国有化の買収金が資本市場に流入し新会社設立が相次ぎ、電力は火力から水力へ移行期
曾木電気は送電と並行して、発電の余りでカーバイドを製造する計画を当初から持っていた。当時の水力発電所はダムを持たない自流式で、発電量を需要に合わせて調節できず、使われない電力が大量に生じた。野口遵氏は電力を売るだけの事業に満足せず、余剰電力によるカーバイドの製造を志した。1907年には日本カーバイド商会を設立し、熊本県水俣に工場を建設して大規模な生産を始めた。水俣の工場はカーバイドの製造に成功し、次の石灰窒素へ進む足場になった。日本カーバイド商会は、発電所を持つ曾木電気とは別の会社として熊本県に設けられた。貯めておけない電力を、運べて売れる化学品に換えることが、電力会社を化学工業へ向かわせた出発点だったと推察される。
- センコー35年史(1981)「大日窒コンツェルンの夜明け」
- [8]曾木電気の目的は金山・市町村への送電と余剰電力によるカーバイド製造。自流式で発電量を調節できず余剰電力が多量に生じた。1907年に日本カーバイド商会を設立し水俣で大規模生産。日本カーバイド商会は熊本県水俣に工場
- [9]曾木電気の目的は金山・市町村への送電と余剰電力によるカーバイド製造。自流式で発電量を調節できず余剰電力が多量に生じた。1907年に日本カーバイド商会を設立し水俣で大規模生産。日本カーバイド商会は熊本県水俣に工場
- [11]曾木電気の目的は金山・市町村への送電と余剰電力によるカーバイド製造。自流式で発電量を調節できず余剰電力が多量に生じた。1907年に日本カーバイド商会を設立し水俣で大規模生産。日本カーバイド商会は熊本県水俣に工場
- [14]曾木電気の目的は金山・市町村への送電と余剰電力によるカーバイド製造。自流式で発電量を調節できず余剰電力が多量に生じた。1907年に日本カーバイド商会を設立し水俣で大規模生産。日本カーバイド商会は熊本県水俣に工場
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [10]野口遵は送電だけに満足せず余剰電力でカーバイド製造を志し、日本カーバイド商会を創設して水俣に工場を建設。製造に成功し石灰窒素へ進んだ
- [12]野口遵は送電だけに満足せず余剰電力でカーバイド製造を志し、日本カーバイド商会を創設して水俣に工場を建設。製造に成功し石灰窒素へ進んだ
- [13]野口遵は送電だけに満足せず余剰電力でカーバイド製造を志し、日本カーバイド商会を創設して水俣に工場を建設。製造に成功し石灰窒素へ進んだ
参考文献[1]-[14]
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [1]資本金20万円の曾木電気が1906年1月に鹿児島県の山村で発足。曾木発電所から付近の金山と近隣町村へ供給。社長の野口遵は当時34歳
- [3]資本金20万円の曾木電気が1906年1月に鹿児島県の山村で発足。曾木発電所から付近の金山と近隣町村へ供給。社長の野口遵は当時34歳
- [7]資本金20万円の曾木電気が1906年1月に鹿児島県の山村で発足。曾木発電所から付近の金山と近隣町村へ供給。社長の野口遵は当時34歳
- [10]野口遵は送電だけに満足せず余剰電力でカーバイド製造を志し、日本カーバイド商会を創設して水俣に工場を建設。製造に成功し石灰窒素へ進んだ
- [12]野口遵は送電だけに満足せず余剰電力でカーバイド製造を志し、日本カーバイド商会を創設して水俣に工場を建設。製造に成功し石灰窒素へ進んだ
- [13]野口遵は送電だけに満足せず余剰電力でカーバイド製造を志し、日本カーバイド商会を創設して水俣に工場を建設。製造に成功し石灰窒素へ進んだ
- 旭化成火薬30年史(1964)「第2章 野口遵社長の業績」
- [2]1906年1月、鹿児島県で資本金20万円の電気会社として創業
- センコー35年史(1981)「大日窒コンツェルンの夜明け」
- [4]野口遵は電気専攻の工学士。1906年は鉄道国有化の買収金が資本市場に流入し新会社設立が相次ぎ、電力は火力から水力へ移行期
- [5]野口遵は電気専攻の工学士。1906年は鉄道国有化の買収金が資本市場に流入し新会社設立が相次ぎ、電力は火力から水力へ移行期
- [6]野口遵は電気専攻の工学士。1906年は鉄道国有化の買収金が資本市場に流入し新会社設立が相次ぎ、電力は火力から水力へ移行期
- [8]曾木電気の目的は金山・市町村への送電と余剰電力によるカーバイド製造。自流式で発電量を調節できず余剰電力が多量に生じた。1907年に日本カーバイド商会を設立し水俣で大規模生産。日本カーバイド商会は熊本県水俣に工場
- [9]曾木電気の目的は金山・市町村への送電と余剰電力によるカーバイド製造。自流式で発電量を調節できず余剰電力が多量に生じた。1907年に日本カーバイド商会を設立し水俣で大規模生産。日本カーバイド商会は熊本県水俣に工場
- [11]曾木電気の目的は金山・市町村への送電と余剰電力によるカーバイド製造。自流式で発電量を調節できず余剰電力が多量に生じた。1907年に日本カーバイド商会を設立し水俣で大規模生産。日本カーバイド商会は熊本県水俣に工場
- [14]曾木電気の目的は金山・市町村への送電と余剰電力によるカーバイド製造。自流式で発電量を調節できず余剰電力が多量に生じた。1907年に日本カーバイド商会を設立し水俣で大規模生産。日本カーバイド商会は熊本県水俣に工場
1908年〜フランク・カロー法の特許と、資本金100万円で生まれた日本窒素肥料
カーバイドの次に野口遵氏が狙ったのは、空気中の窒素を固定して肥料にする石灰窒素だった。ドイツのフランクとカローの両氏がこの製法を発明し、日本窒素肥料の前身は1908年にその特許権を買収した。この年が野口遵氏にとって最初の渡欧で、当時の財閥系企業よりも早く導入の契約をまとめた。特許の実施権を得たことで、水俣に石灰窒素の新工場を建てる計画が動き出した。当時のカーバイドの用途は灯火用が中心で、需要が大きく増えたのは石灰窒素の製法が発明されてからだった。カーバイドを原料とする石灰窒素なら、余剰電力を農業国の大きな肥料需要へ結び付けられると野口遵氏は見込んだのだろう。
- 旭化成火薬30年史(1964)「第2章 野口遵社長の業績」
- [15]ドイツのフランクとカローが空中窒素を固定する石灰窒素製造法を発明し、1908年にその特許権を買収
- [16]ドイツのフランクとカローが空中窒素を固定する石灰窒素製造法を発明し、1908年にその特許権を買収
- センコー35年史(1981)「大日窒コンツェルンの夜明け」
- [17]野口遵は1908年の最初の渡欧で、財閥系企業に先がけてフランク・カローの石灰窒素製造法の導入契約を結んだ
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [18]フランク・カローの特許実施権の買収に成功し、水俣に石灰窒素の新工場を建設
- 私の履歴書 経済人10(1980)野村與曾市
- [19]明治末から大正初めのカーバイドは灯火用・漁獲用がほとんどで、需要が増えたのは石灰窒素の製法が発明されてから
石灰窒素の新工場に見合う規模を得るため、曾木電気は1908年8月に日本カーバイド商会を合併した。資本金は40万円から100万円へ増やし、社名を日本窒素肥料に改めた。本社は大阪市に置き、石灰窒素の製造は熊本県水俣村(現水俣市)で行うことにした。合併後の日本窒素肥料は、水俣で石灰窒素を原料とする硫安の製造にも取り組んだ。水俣の石灰窒素工場は1909年に完成し、日本で最初の空中窒素固定工業となった。水力発電の電気からカーバイドを経て石灰窒素に至る流れで、会社は電力事業から化学肥料事業へ移った。発電と化学の2社を1つの資本にまとめたことで、電力の原価を肥料の原価に直接組み込む体制ができたと推定される。
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [20]1908年8月、事業規模の拡大に応ずるため日本カーバイド商会を合併し資本金を40万円から100万円に増額、社名を日本窒素肥料に変更。工場は1909年完成し国内最初の空中窒素固定工業
- [21]1908年8月、事業規模の拡大に応ずるため日本カーバイド商会を合併し資本金を40万円から100万円に増額、社名を日本窒素肥料に変更。工場は1909年完成し国内最初の空中窒素固定工業
- [24]1908年8月、事業規模の拡大に応ずるため日本カーバイド商会を合併し資本金を40万円から100万円に増額、社名を日本窒素肥料に変更。工場は1909年完成し国内最初の空中窒素固定工業
- 旭化成火薬30年史(1964)「第2章 野口遵社長の業績」
- [22]1908年8月に日本窒素肥料と改称し資本金を100万円に増額、本社を大阪市に置いた。熊本県水俣村で石灰窒素を製造。石灰窒素を原料として硫酸アンモニアを製造
- [23]1908年8月に日本窒素肥料と改称し資本金を100万円に増額、本社を大阪市に置いた。熊本県水俣村で石灰窒素を製造。石灰窒素を原料として硫酸アンモニアを製造
- 企業の歴史 明治百年(1968)「チッソ」
- [25]1908年に曾木電気の電気を利用して水俣でカーバイドから石灰窒素を製造し、化学肥料事業に進出、社名を日本窒素肥料と改めた
日本窒素肥料の設立には、野口遵氏と東京帝大の同期だった藤山常一氏も加わっていた。藤山常一氏は電気工学を学んだ技術者で、1902年7月に仙台の三居沢で独自の電気炉を完成させ、国内のカーバイド工業を始めた人物である。石灰窒素でも、1908年にフランク・カロー式を国内で初めて導入する役割を担った。1956年に来日した発明者の子息アルバート・フランク博士は、藤山常一氏の連続式の炉を石灰窒素工業の歴史に残る業績と評した。藤山常一氏はまもなく日本窒素肥料を去り、1912年には北海カーバイドを創設。その3年前の1909年に、日本窒素肥料は水俣で空中窒素固定工業を発足させていた。石灰窒素の技術を持つ創業者の1人が独立したことで、石灰窒素は日本窒素肥料だけの事業ではなくなったと推測される。
- 私の履歴書 経済人10(1980)野村與曾市
- [26]藤山常一は東京帝大工科で電気工学を学び、1902年7月に仙台三居沢で電気炉を完成させカーバイド工業を始めた。1908年に国内で初めてフランク・カロー式を導入。大学同期の野口遵と日本窒素肥料を興したが、まもなく去り1912年に北海カーバイドを創設。1956年来日のアルバート・フランク博士が藤山の連続式石灰窒素炉を称えた
- [27]藤山常一は東京帝大工科で電気工学を学び、1902年7月に仙台三居沢で電気炉を完成させカーバイド工業を始めた。1908年に国内で初めてフランク・カロー式を導入。大学同期の野口遵と日本窒素肥料を興したが、まもなく去り1912年に北海カーバイドを創設。1956年来日のアルバート・フランク博士が藤山の連続式石灰窒素炉を称えた
- [28]藤山常一は東京帝大工科で電気工学を学び、1902年7月に仙台三居沢で電気炉を完成させカーバイド工業を始めた。1908年に国内で初めてフランク・カロー式を導入。大学同期の野口遵と日本窒素肥料を興したが、まもなく去り1912年に北海カーバイドを創設。1956年来日のアルバート・フランク博士が藤山の連続式石灰窒素炉を称えた
- [29]藤山常一は東京帝大工科で電気工学を学び、1902年7月に仙台三居沢で電気炉を完成させカーバイド工業を始めた。1908年に国内で初めてフランク・カロー式を導入。大学同期の野口遵と日本窒素肥料を興したが、まもなく去り1912年に北海カーバイドを創設。1956年来日のアルバート・フランク博士が藤山の連続式石灰窒素炉を称えた
- [30]藤山常一は東京帝大工科で電気工学を学び、1902年7月に仙台三居沢で電気炉を完成させカーバイド工業を始めた。1908年に国内で初めてフランク・カロー式を導入。大学同期の野口遵と日本窒素肥料を興したが、まもなく去り1912年に北海カーバイドを創設。1956年来日のアルバート・フランク博士が藤山の連続式石灰窒素炉を称えた
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [31]水俣の石灰窒素工場は1909年に完成し、国内最初の空中窒素固定工業が発足
参考文献[15]-[31]
- 旭化成火薬30年史(1964)「第2章 野口遵社長の業績」
- [15]ドイツのフランクとカローが空中窒素を固定する石灰窒素製造法を発明し、1908年にその特許権を買収
- [16]ドイツのフランクとカローが空中窒素を固定する石灰窒素製造法を発明し、1908年にその特許権を買収
- [22]1908年8月に日本窒素肥料と改称し資本金を100万円に増額、本社を大阪市に置いた。熊本県水俣村で石灰窒素を製造。石灰窒素を原料として硫酸アンモニアを製造
- [23]1908年8月に日本窒素肥料と改称し資本金を100万円に増額、本社を大阪市に置いた。熊本県水俣村で石灰窒素を製造。石灰窒素を原料として硫酸アンモニアを製造
- センコー35年史(1981)「大日窒コンツェルンの夜明け」
- [17]野口遵は1908年の最初の渡欧で、財閥系企業に先がけてフランク・カローの石灰窒素製造法の導入契約を結んだ
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [18]フランク・カローの特許実施権の買収に成功し、水俣に石灰窒素の新工場を建設
- [20]1908年8月、事業規模の拡大に応ずるため日本カーバイド商会を合併し資本金を40万円から100万円に増額、社名を日本窒素肥料に変更。工場は1909年完成し国内最初の空中窒素固定工業
- [21]1908年8月、事業規模の拡大に応ずるため日本カーバイド商会を合併し資本金を40万円から100万円に増額、社名を日本窒素肥料に変更。工場は1909年完成し国内最初の空中窒素固定工業
- [24]1908年8月、事業規模の拡大に応ずるため日本カーバイド商会を合併し資本金を40万円から100万円に増額、社名を日本窒素肥料に変更。工場は1909年完成し国内最初の空中窒素固定工業
- [31]水俣の石灰窒素工場は1909年に完成し、国内最初の空中窒素固定工業が発足
- 私の履歴書 経済人10(1980)野村與曾市
- [19]明治末から大正初めのカーバイドは灯火用・漁獲用がほとんどで、需要が増えたのは石灰窒素の製法が発明されてから
- [26]藤山常一は東京帝大工科で電気工学を学び、1902年7月に仙台三居沢で電気炉を完成させカーバイド工業を始めた。1908年に国内で初めてフランク・カロー式を導入。大学同期の野口遵と日本窒素肥料を興したが、まもなく去り1912年に北海カーバイドを創設。1956年来日のアルバート・フランク博士が藤山の連続式石灰窒素炉を称えた
- [27]藤山常一は東京帝大工科で電気工学を学び、1902年7月に仙台三居沢で電気炉を完成させカーバイド工業を始めた。1908年に国内で初めてフランク・カロー式を導入。大学同期の野口遵と日本窒素肥料を興したが、まもなく去り1912年に北海カーバイドを創設。1956年来日のアルバート・フランク博士が藤山の連続式石灰窒素炉を称えた
- [28]藤山常一は東京帝大工科で電気工学を学び、1902年7月に仙台三居沢で電気炉を完成させカーバイド工業を始めた。1908年に国内で初めてフランク・カロー式を導入。大学同期の野口遵と日本窒素肥料を興したが、まもなく去り1912年に北海カーバイドを創設。1956年来日のアルバート・フランク博士が藤山の連続式石灰窒素炉を称えた
- [29]藤山常一は東京帝大工科で電気工学を学び、1902年7月に仙台三居沢で電気炉を完成させカーバイド工業を始めた。1908年に国内で初めてフランク・カロー式を導入。大学同期の野口遵と日本窒素肥料を興したが、まもなく去り1912年に北海カーバイドを創設。1956年来日のアルバート・フランク博士が藤山の連続式石灰窒素炉を称えた
- [30]藤山常一は東京帝大工科で電気工学を学び、1902年7月に仙台三居沢で電気炉を完成させカーバイド工業を始めた。1908年に国内で初めてフランク・カロー式を導入。大学同期の野口遵と日本窒素肥料を興したが、まもなく去り1912年に北海カーバイドを創設。1956年来日のアルバート・フランク博士が藤山の連続式石灰窒素炉を称えた
- 企業の歴史 明治百年(1968)「チッソ」
- [25]1908年に曾木電気の電気を利用して水俣でカーバイドから石灰窒素を製造し、化学肥料事業に進出、社名を日本窒素肥料と改めた
1914年〜鏡工場の変成硫安と、延岡で動かした世界最初のカザレー式アンモニア
石灰窒素は使用上の不便が多く、肥料として普及させにくかった。そこで日本窒素肥料は硫酸設備を新設し、石灰窒素から硫安までを自社で一貫して生産する方針をとった。その工場として鏡工場を新設し、電源には白川発電所を建設した。両者は1914年に完成し、日本窒素肥料は同年に変成硫安の製造に成功を収めた。鏡工場での成功をもとにした、水俣での新工場の着工。石灰窒素から硫安をつくる工程は、1908年の特許買収の段階から水俣でも手がけていた。野口遵氏は製品の改良にも自ら取り組み、この時期に経営を安定させた。農家が使い慣れた硫安の形にすることで、石灰窒素の販路の狭さを補おうとしたと思われる。
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [32]石灰窒素は使用上不便が多いため硫酸設備を設け硫安への変成まで一貫して営むこととし、鏡工場と電源の白川発電所を建設、1914年に完成。成功を基に水俣に新工場を建設
- [33]石灰窒素は使用上不便が多いため硫酸設備を設け硫安への変成まで一貫して営むこととし、鏡工場と電源の白川発電所を建設、1914年に完成。成功を基に水俣に新工場を建設
- [34]石灰窒素は使用上不便が多いため硫酸設備を設け硫安への変成まで一貫して営むこととし、鏡工場と電源の白川発電所を建設、1914年に完成。成功を基に水俣に新工場を建設
- [35]石灰窒素は使用上不便が多いため硫酸設備を設け硫安への変成まで一貫して営むこととし、鏡工場と電源の白川発電所を建設、1914年に完成。成功を基に水俣に新工場を建設
- [37]石灰窒素は使用上不便が多いため硫酸設備を設け硫安への変成まで一貫して営むこととし、鏡工場と電源の白川発電所を建設、1914年に完成。成功を基に水俣に新工場を建設
- センコー35年史(1981)「大日窒コンツェルンの夜明け」
- [36]日本窒素肥料は1914年に変成硫安の製造に成功。野口遵は自ら製品の改良に当たり経営を軌道に乗せた
- [39]日本窒素肥料は1914年に変成硫安の製造に成功。野口遵は自ら製品の改良に当たり経営を軌道に乗せた
- 旭化成火薬30年史(1964)「第2章 野口遵社長の業績」
- [38]1908年に特許権を買収し、水俣村で石灰窒素を製造、さらに石灰窒素を原料として硫酸アンモニアを製造
1914年に第一次世界大戦が始まると、欧米からの硫安の輸入が止まり、肥料の価格は高騰した。増産するほど値が上がる状況のなかで、日本窒素肥料は拡張を重ね、製品を運ぶ輸送の需要も大きく膨らんだ。水俣工場を大幅に広げ、年産5万tの硫安工場の建設に取りかかった。資本金は1916年9月に1,000万円へ増資。電源も1915年以降、内大臣川・川内川・緑川・栗野の各発電所を相次いで建設した。硫安の需要は年ごとに拡大し、資本金は1920年に2,200万円へ達し、経営の基盤が固まった。輸入途絶が国内の硫安に開いた市場の利益が、次の大型投資の原資になった可能性が高い。
- センコー35年史(1981)「大日窒コンツェルンの夜明け」
- [40]第一次世界大戦で欧米からの硫安輸入が止まり肥料価格が高騰。日本窒素は拡張を重ね、増産するほど値が上がった。輸送需要も活発
- [41]第一次世界大戦で欧米からの硫安輸入が止まり肥料価格が高騰。日本窒素は拡張を重ね、増産するほど値が上がった。輸送需要も活発
- 旭化成火薬30年史(1964)「第2章 野口遵社長の業績」
- [42]欧州大戦で肥料が大暴騰し、水俣工場を大拡張して年産5万tの硫安工場の建設に着手。1916年9月に資本金1,000万円
- [43]欧州大戦で肥料が大暴騰し、水俣工場を大拡張して年産5万tの硫安工場の建設に着手。1916年9月に資本金1,000万円
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [44]1915年以降、内大臣川・川内川・緑川・栗野の各発電所を建設。硫安需要の増大と欧州大戦の好況で1920年に資本金2,200万円。社礎が確立
- [45]1915年以降、内大臣川・川内川・緑川・栗野の各発電所を建設。硫安需要の増大と欧州大戦の好況で1920年に資本金2,200万円。社礎が確立
1921年1月、欧州を回っていた野口遵氏はイタリアの化学者ルイギ・カザレー氏と知り合い、カザレー式アンモニア合成法の特許権を得た。この方法は窒素と水素からアンモニアを直接合成するもので、石灰窒素を経ずに済んだ。水素は自家用水力発電所の電力で水を電解して得て、窒素は空気から分離する。1921年12月には、宮崎県恒富村(現延岡市)で世界最初のカザレー式アンモニア合成工場に着工した。工場は1923年に完成し、同年10月5日に来日中のルイギ・カザレー氏の手で試運転が成功を収めた。日本窒素肥料は従来の操業方法を改め、新法の設備を水俣工場にも設けて、鏡工場を売却した。電力で水素をつくる合成法への転換が、より大きな電源を求める次の展開の前提になったと考えられる。
- 旭化成火薬30年史(1964)「第2章 野口遵社長の業績」
- [46]1921年1月、欧州漫遊中の野口遵がイタリアの化学者ルイギ・カザレーと知り合いカザレー式アンモニア合成法の特許権を取得。窒素と水素から直接合成する方法。1921年12月に宮崎県恒富村で世界最初の同式工場に着工、1923年完成、10月5日にカザレーの手で試運転成功
- [47]1921年1月、欧州漫遊中の野口遵がイタリアの化学者ルイギ・カザレーと知り合いカザレー式アンモニア合成法の特許権を取得。窒素と水素から直接合成する方法。1921年12月に宮崎県恒富村で世界最初の同式工場に着工、1923年完成、10月5日にカザレーの手で試運転成功
- [49]1921年1月、欧州漫遊中の野口遵がイタリアの化学者ルイギ・カザレーと知り合いカザレー式アンモニア合成法の特許権を取得。窒素と水素から直接合成する方法。1921年12月に宮崎県恒富村で世界最初の同式工場に着工、1923年完成、10月5日にカザレーの手で試運転成功
- [50]1921年1月、欧州漫遊中の野口遵がイタリアの化学者ルイギ・カザレーと知り合いカザレー式アンモニア合成法の特許権を取得。窒素と水素から直接合成する方法。1921年12月に宮崎県恒富村で世界最初の同式工場に着工、1923年完成、10月5日にカザレーの手で試運転成功
- 企業の歴史 明治百年(1968)「旭化成工業」
- [48]延岡工場は自家用水力発電所の電力で水を電解した水素と空気中から分離した窒素を直接合成する、カザレー法の最初の工業化
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [51]1921年にカザレー式アンモニア合成法を採用し延岡工場で世界最初の工業化に成功。従来の操業方法を改め新法の設備を水俣工場に新設し、鏡工場は売却
参考文献[32]-[51]
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- [32]石灰窒素は使用上不便が多いため硫酸設備を設け硫安への変成まで一貫して営むこととし、鏡工場と電源の白川発電所を建設、1914年に完成。成功を基に水俣に新工場を建設
- [33]石灰窒素は使用上不便が多いため硫酸設備を設け硫安への変成まで一貫して営むこととし、鏡工場と電源の白川発電所を建設、1914年に完成。成功を基に水俣に新工場を建設
- [34]石灰窒素は使用上不便が多いため硫酸設備を設け硫安への変成まで一貫して営むこととし、鏡工場と電源の白川発電所を建設、1914年に完成。成功を基に水俣に新工場を建設
- [35]石灰窒素は使用上不便が多いため硫酸設備を設け硫安への変成まで一貫して営むこととし、鏡工場と電源の白川発電所を建設、1914年に完成。成功を基に水俣に新工場を建設
- [37]石灰窒素は使用上不便が多いため硫酸設備を設け硫安への変成まで一貫して営むこととし、鏡工場と電源の白川発電所を建設、1914年に完成。成功を基に水俣に新工場を建設
- [44]1915年以降、内大臣川・川内川・緑川・栗野の各発電所を建設。硫安需要の増大と欧州大戦の好況で1920年に資本金2,200万円。社礎が確立
- [45]1915年以降、内大臣川・川内川・緑川・栗野の各発電所を建設。硫安需要の増大と欧州大戦の好況で1920年に資本金2,200万円。社礎が確立
- [51]1921年にカザレー式アンモニア合成法を採用し延岡工場で世界最初の工業化に成功。従来の操業方法を改め新法の設備を水俣工場に新設し、鏡工場は売却
- センコー35年史(1981)「大日窒コンツェルンの夜明け」
- [36]日本窒素肥料は1914年に変成硫安の製造に成功。野口遵は自ら製品の改良に当たり経営を軌道に乗せた
- [39]日本窒素肥料は1914年に変成硫安の製造に成功。野口遵は自ら製品の改良に当たり経営を軌道に乗せた
- [40]第一次世界大戦で欧米からの硫安輸入が止まり肥料価格が高騰。日本窒素は拡張を重ね、増産するほど値が上がった。輸送需要も活発
- [41]第一次世界大戦で欧米からの硫安輸入が止まり肥料価格が高騰。日本窒素は拡張を重ね、増産するほど値が上がった。輸送需要も活発
- 旭化成火薬30年史(1964)「第2章 野口遵社長の業績」
- [38]1908年に特許権を買収し、水俣村で石灰窒素を製造、さらに石灰窒素を原料として硫酸アンモニアを製造
- [42]欧州大戦で肥料が大暴騰し、水俣工場を大拡張して年産5万tの硫安工場の建設に着手。1916年9月に資本金1,000万円
- [43]欧州大戦で肥料が大暴騰し、水俣工場を大拡張して年産5万tの硫安工場の建設に着手。1916年9月に資本金1,000万円
- [46]1921年1月、欧州漫遊中の野口遵がイタリアの化学者ルイギ・カザレーと知り合いカザレー式アンモニア合成法の特許権を取得。窒素と水素から直接合成する方法。1921年12月に宮崎県恒富村で世界最初の同式工場に着工、1923年完成、10月5日にカザレーの手で試運転成功
- [47]1921年1月、欧州漫遊中の野口遵がイタリアの化学者ルイギ・カザレーと知り合いカザレー式アンモニア合成法の特許権を取得。窒素と水素から直接合成する方法。1921年12月に宮崎県恒富村で世界最初の同式工場に着工、1923年完成、10月5日にカザレーの手で試運転成功
- [49]1921年1月、欧州漫遊中の野口遵がイタリアの化学者ルイギ・カザレーと知り合いカザレー式アンモニア合成法の特許権を取得。窒素と水素から直接合成する方法。1921年12月に宮崎県恒富村で世界最初の同式工場に着工、1923年完成、10月5日にカザレーの手で試運転成功
- [50]1921年1月、欧州漫遊中の野口遵がイタリアの化学者ルイギ・カザレーと知り合いカザレー式アンモニア合成法の特許権を取得。窒素と水素から直接合成する方法。1921年12月に宮崎県恒富村で世界最初の同式工場に着工、1923年完成、10月5日にカザレーの手で試運転成功
- 企業の歴史 明治百年(1968)「旭化成工業」
- [48]延岡工場は自家用水力発電所の電力で水を電解した水素と空気中から分離した窒素を直接合成する、カザレー法の最初の工業化
出典・参考
6件
- 旭化成火薬30年史(1964)「第2章 野口遵社長の業績」
- センコー35年史(1981)「大日窒コンツェルンの夜明け」
- 会社銀行八十年史(1955)「肥料」新日本窒素肥料の項
- 企業の歴史 明治百年(1968)「チッソ」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「旭化成工業」
- 私の履歴書 経済人10(1980)野村與曾市