第1章 年〜年

神崎製紙:真島製紙所の創業とアート紙の生産開始

1894年〜神戸のマッチ廃材から始めた工場が、大阪製紙となり解散するまで

神崎製紙の工場は、洋紙業の先覚者である真島襄一郎氏が1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ開いた真島製紙所に始まる。真島襄一郎氏は1875年に大阪中之島で蓬莱社の製紙部門を任され、日本最初の洋式抄紙機で操業を開始した人物で、その後は富士製紙の入山瀬工場長を務めていた。神崎へ工場を建設する動機は、1893年末に神戸の友人から受けた『マッチ紙を安くしたいが、マッチの廃材からパルプを製造して、紙を抄くことはできないのか』という相談にある。当時の神戸はマッチ製造の本場で、毎日出る廃材を焼き捨てていた。マッチの廃材は普通のチップより蒸煮しやすく大規模な設備を必要としないため、真島襄一郎氏は富士製紙の職を辞して自分の工場を建設した。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [1]真島襄一郎は日本の洋紙業確立に尽くした先覚者の一人であった
    • [2]1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ真島製紙所が設立された
    • [3]真島襄一郎は蓬莱社の製紙経営を委ねられ大阪中之島に工場を建て1875年2月に操業を開始した
    • [4]真島襄一郎は富士製紙入山瀬(富士第一)工場の初代工場長を務めた
    • [5]1893年末に神戸の友人からマッチ廃材のパルプ化について相談を受けた
    • [6]当時の神戸はマッチ製造の本場で毎日出る廃材を無駄に焼き捨てていた
    • [7]マッチの廃材は普通のチップよりも蒸煮しやすく設備も大規模なものを必要としなかった

工場は日清戦争のさなかに建てられ、稼働まで1年半を要した。真島襄一郎氏は機械設備を国産機にする方針を立てて大阪の岡本鉄工所などに注文したが、直径4尺の大型ドライヤーをつくれるところがなく、大阪砲兵工廠に頼んだ。その工廠でも鋳直すたびに鬆ばかりできて使えるものができず、しかも日清戦争が始まると民間の仕事を断ってきた。そこで空地に放置されていた鋳物のなかから使えそうなものを拾い出し、空孔にセメントを埋めて4〜5本を間に合わせた。据え付けられた設備は72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基だった。1895年10月に資本金10万円の合資会社となり、土佐から竹簀編みの職人を雇って丸網抄紙機に竹簀を取り付け、簀目入りの模造紙を抄いた。この工場は後年、『わが国の機械漉和紙生産の先駆工場』と評された。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [8]日清戦争勃発直前の設立で機械類の調達が進まず工場稼働まで1年半を要した
    • [9]機械設備を国産機とする方針で大阪の岡本鉄工所などに注文製作させた
    • [10]直径4尺の大型ドライヤーを製造できる工場がなく大阪砲兵工廠に依頼した
    • [11]大阪砲兵工廠でも鋳直すたびに鬆ばかりできて使えるものができなかった
    • [12]放置されていた鋳物の空孔にセメントを埋めて大型ドライヤーを間に合わせた
    • [13]設備の主なものは72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基であった
    • [14]1895年10月に資本金10万円の合資会社となった
    • [15]社史は簀目入り模造紙を抄いた同工場をわが国の機械漉和紙生産の先駆工場と評した

事業を広げる資金は大阪の富豪である野田吉兵衛氏が出し、1898年6月に社名は大阪製紙となった。このとき64インチ丸網抄紙機2台を増設し、中国向けに模造紙を輸出した。日露戦争で紙類の需要が伸びて景気は良かったものの、戦後の1906年ごろになると中国向けの在庫が急に積み上がり、輸出は止まった。そこで販路を内地に移すことにした。アメリカのクローソン社製の88インチ長網抄紙機を1台加え、旧式の丸網抄紙機2台は解体したうえで杉浦製作所のワイヤー・パートを付け、75インチの長網抄紙機に作り替えた。丸網を改造して生まれたこの75インチ長網について、『わが国で製作された最初の国産長網ワイヤーパート』とされている。それでも不況は深刻で、1909年6月に資本金46万円を20万円へ減資しても経営不振を打開できず、1910年6月に大阪製紙は解散した。工場は債権者の野田吉兵衛氏が取得して野田製紙所と改称された。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [16]1898年6月に野田吉兵衛の出資を得て大阪製紙となった
    • [17]64インチ丸網抄紙機2台を増設し中国向け模造紙を輸出した
    • [18]日露戦争後の1906年ごろから中国向けの滞貨が激増し輸出が途絶えた
    • [19]米クローソン社製88インチ長網抄紙機1台を増設し旧式丸網抄紙機2台を75インチ長網抄紙機に模様替えした
    • [20]旧式丸網を改造した75インチ長網はわが国で製作された最初の国産長網ワイヤーパートとされた
    • [21]1909年6月に資本金46万円を20万円に減資した
    • [22]1910年6月に大阪製紙は解散し工場は債権者の野田吉兵衛が取得して野田製紙所と改称された
参考文献[1]-[22]
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [1]真島襄一郎は日本の洋紙業確立に尽くした先覚者の一人であった
    • [2]1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ真島製紙所が設立された
    • [3]真島襄一郎は蓬莱社の製紙経営を委ねられ大阪中之島に工場を建て1875年2月に操業を開始した
    • [4]真島襄一郎は富士製紙入山瀬(富士第一)工場の初代工場長を務めた
    • [5]1893年末に神戸の友人からマッチ廃材のパルプ化について相談を受けた
    • [6]当時の神戸はマッチ製造の本場で毎日出る廃材を無駄に焼き捨てていた
    • [7]マッチの廃材は普通のチップよりも蒸煮しやすく設備も大規模なものを必要としなかった
    • [8]日清戦争勃発直前の設立で機械類の調達が進まず工場稼働まで1年半を要した
    • [9]機械設備を国産機とする方針で大阪の岡本鉄工所などに注文製作させた
    • [10]直径4尺の大型ドライヤーを製造できる工場がなく大阪砲兵工廠に依頼した
    • [11]大阪砲兵工廠でも鋳直すたびに鬆ばかりできて使えるものができなかった
    • [12]放置されていた鋳物の空孔にセメントを埋めて大型ドライヤーを間に合わせた
    • [13]設備の主なものは72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基であった
    • [14]1895年10月に資本金10万円の合資会社となった
    • [15]社史は簀目入り模造紙を抄いた同工場をわが国の機械漉和紙生産の先駆工場と評した
    • [16]1898年6月に野田吉兵衛の出資を得て大阪製紙となった
    • [17]64インチ丸網抄紙機2台を増設し中国向け模造紙を輸出した
    • [18]日露戦争後の1906年ごろから中国向けの滞貨が激増し輸出が途絶えた
    • [19]米クローソン社製88インチ長網抄紙機1台を増設し旧式丸網抄紙機2台を75インチ長網抄紙機に模様替えした
    • [20]旧式丸網を改造した75インチ長網はわが国で製作された最初の国産長網ワイヤーパートとされた
    • [21]1909年6月に資本金46万円を20万円に減資した
    • [22]1910年6月に大阪製紙は解散し工場は債権者の野田吉兵衛が取得して野田製紙所と改称された

1915年〜富士製紙から王子製紙へ、唯一のアート紙工場となり焼けた

創業者の真島襄一郎氏は1913年12月、大阪の緒方病院で世を去った。その後の1915年11月、野田製紙所は当時国内で最も大きい製紙会社だった富士製紙の手に渡り、同社の神崎工場となった。真島氏は、自分の建てた工場が大手の傘下へ入る姿を見ずに終わったことになる。買い手の富士製紙は第一次世界大戦の好景気で業容を広げ、1919年6月に樺太工業社長の大川平三郎氏を社長として招いた。神崎工場に高級印刷紙のアート紙加工設備を新設する決定が下りたのは1922年4月で、この新設は『当時、日本加工製紙と密接な関係のあった大川平三郎氏の意向によるもの』とされる。同年6月に米国のジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し、8月に初めてアート紙を生産した。この一手が神崎工場の性格を決めた。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [23]真島襄一郎は1913年12月に大阪の緒方病院で死去した
    • [24]1915年11月に野田製紙所は富士製紙に買収され富士製紙神崎工場となった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」2「戦前のアート紙の生産」
    • [25]富士製紙は1919年6月に樺太工業社長の大川平三郎を社長に迎えた
    • [26]神崎工場へのアート紙設備新設は日本加工製紙と密接な関係にあった大川平三郎の意向によるものとされる
    • [27]1922年6月に米ジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し同年8月に初めてアート紙を生産した

1929年5月、王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を締結し、王子製紙と樺太工業はクラフト紙やコーテッド紙を抄かないと取り決めた。これで富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認められた。1933年5月には3社が合併し、王子製紙を存続会社として資本金1億4,998万円、所属工場34、全国紙パルプ生産高の90%以上を占める会社が生まれた。合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140、樺太工業245である。神崎工場は王子製紙神崎工場となった。この合併に際して富士製紙と樺太工業の経理内容を調べ上げ、合併比率決定の基礎をつくったのが、藤原銀次郎氏の特命を受けた加藤藤太郎氏だった。加藤藤太郎氏は15年後に神崎製紙の初代社長となる。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
    • [28]1929年5月に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を結んだ
    • [29]協定により富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認知された
    • [30]1933年5月の3社合併で資本金1億4,998万円・所属工場34・全国紙パルプ生産高の90%以上を占める会社が生まれた
    • [31]合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140・樺太工業245であった
    • [32]1933年5月の3社合併により神崎工場は王子製紙神崎工場となった
    • [33]加藤藤太郎は藤原銀次郎の特命で富士製紙と樺太工業の経理内容を調査し合併比率決定の基礎をつくった
    • [34]加藤藤太郎は1948年に神崎製紙の初代社長となった

王子製紙神崎工場のアート紙は伸びた。1937年の神崎工場は全生産高こそ1933年比で2割弱の伸びにとどまったが、アート紙だけは2倍半に伸びて戦前の最高記録をつくり、アート紙全国総生産量の46.3%を占めた。日本加工製紙十条工場の38.2%、三菱製紙の高砂・中川両工場の15%を上回る水準である。ところが戦時体制に入るとアート紙は不要不急品として生産を中止させられ、1945年6月の空襲で神崎工場は大半が焼失した。焼け残ったのは塗工部門とボイラー室、用水設備だけだった。工場の敷地には背丈ほどの雑草が生い茂り、構内を巡視していた社員が2匹のキツネを見つけたと社史は書いている。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
    • [35]王子製紙神崎工場のアート紙生産は1933年から1937年にかけて2倍半に伸びた
    • [36]1937年の神崎工場は全生産高が1933年比で2割弱の伸びにとどまる一方アート紙だけは2倍半に伸びた
    • [37]1937年の神崎工場はアート紙全国総生産量の46.3%を占めた
    • [38]同年の日本加工製紙十条工場は38.2%・三菱製紙の高砂と中川両工場は15%であった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
    • [39]1945年6月の戦災で神崎工場は工場の大半を焼失し塗工部門とボイラー室・用水設備だけが類焼を免れた
    • [40]復旧が止まった工場では背丈ほどの雑草が繁茂し構内巡視中の社員が2匹のキツネを見つけた
参考文献[23]-[40]
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [23]真島襄一郎は1913年12月に大阪の緒方病院で死去した
    • [24]1915年11月に野田製紙所は富士製紙に買収され富士製紙神崎工場となった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」2「戦前のアート紙の生産」
    • [25]富士製紙は1919年6月に樺太工業社長の大川平三郎を社長に迎えた
    • [26]神崎工場へのアート紙設備新設は日本加工製紙と密接な関係にあった大川平三郎の意向によるものとされる
    • [27]1922年6月に米ジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し同年8月に初めてアート紙を生産した
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
    • [28]1929年5月に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を結んだ
    • [29]協定により富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認知された
    • [30]1933年5月の3社合併で資本金1億4,998万円・所属工場34・全国紙パルプ生産高の90%以上を占める会社が生まれた
    • [31]合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140・樺太工業245であった
    • [32]1933年5月の3社合併により神崎工場は王子製紙神崎工場となった
    • [33]加藤藤太郎は藤原銀次郎の特命で富士製紙と樺太工業の経理内容を調査し合併比率決定の基礎をつくった
    • [34]加藤藤太郎は1948年に神崎製紙の初代社長となった
    • [35]王子製紙神崎工場のアート紙生産は1933年から1937年にかけて2倍半に伸びた
    • [36]1937年の神崎工場は全生産高が1933年比で2割弱の伸びにとどまる一方アート紙だけは2倍半に伸びた
    • [37]1937年の神崎工場はアート紙全国総生産量の46.3%を占めた
    • [38]同年の日本加工製紙十条工場は38.2%・三菱製紙の高砂と中川両工場は15%であった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
    • [39]1945年6月の戦災で神崎工場は工場の大半を焼失し塗工部門とボイラー室・用水設備だけが類焼を免れた
    • [40]復旧が止まった工場では背丈ほどの雑草が繁茂し構内巡視中の社員が2匹のキツネを見つけた

1945年〜王子製紙の分割折衝で切り離された工場と、追放者が引き受けた再建

敗戦後の王子製紙は、自らの分割解体に直面した。1946年1月に制限会社、同年12月に持株会社へ指定され、1948年2月には過度経済力集中排除法の指定会社となった。GHQ経済科学局の反トラスト・カルテル課長に1947年7月着任したウェルシュ氏は、王子製紙へ口頭で9分割を指示した。王子製紙が同年9月に提出した7分割案のなかで、神崎工場は清算工場とし、その土地を都島・淀川・熊野の各工場からなる大阪地区の新会社へ所属させるという扱いが打診された。折衝の末、神崎工場が王子製紙との関係を断ち切って完全に独立するのであれば分離独立を認める、とのGHQ回答を得た。焼け残った塗工部門を持つ工場は、王子製紙のもとでは復旧の見込みが立たず、廃工場となる運命にあった。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
    • [41]王子製紙は1946年1月に制限会社、同年12月に持株会社、1948年2月に集排法の指定会社となった
    • [42]1947年7月にGHQ経済科学局の反トラスト・カルテル課長へ着任したウェルシュは王子製紙に口頭で9分割を指示した
    • [43]王子製紙が1947年9月に提出した7分割案では神崎工場を清算工場とし土地を都島・淀川・熊野からなる大阪地区の新会社へ所属させるとされた
    • [44]神崎工場が王子製紙との関係を断ち完全に独立するのであれば分離独立を認めるとのGHQ回答を得た
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 08紙・パルプ「神崎製紙」
    • [45]王子製紙は財閥指定会社となり復旧の見込みが立たず神崎工場も廃工場となる運命にあった

加藤藤太郎氏は王子製紙で経理を受け持つ副社長だった人物である。公職追放にかかって同社を離れたため退職慰労金は出ず、東京の自宅も戦災で家財を失っていた。1948年の年明けまもなく、やはり追放で身を引いていた藤原銀次郎氏が加藤氏を自宅に招き、神崎工場の復旧を任されてみてはどうかと持ちかけた。加藤氏は第二の人生をこの工場に託すと腹を決め、大日本印刷および大日本図書社長の佐久間長吉郎氏の助けを借りて、1948年5月に第1回の設立発起人会を開いた。発起人総代には大橋達雄氏が就き、追放該当者の加藤氏自身は発起人に加わらなかった。同年9月18日の創立総会で加藤氏が代表取締役社長に選ばれ、9月20日には資本金1,000万円の神崎製紙の設立登記が済んだ。

  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 08紙・パルプ「神崎製紙」
    • [46]加藤藤太郎は元王子製紙の副社長で経理担当重役として計数の明るさに定評があった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
    • [47]加藤藤太郎は追放該当者であったため退職慰労金もなく東京柏木の自宅は戦災で家財を焼失していた
    • [48]1948年年明けに追放で隠棲していた藤原銀次郎が加藤藤太郎を自宅へ呼び神崎工場の復旧を引き受けるようすすめた
    • [49]加藤藤太郎は第二の人生を神崎工場にかける決意を固めた
    • [50]大日本印刷および大日本図書社長の佐久間長吉郎の協力を得て1948年5月に第1回設立発起人会が開かれた
    • [51]加藤藤太郎は追放該当者のため発起人に名を連ねず発起人総代には大橋達雄が選ばれた
    • [52]1948年9月18日の創立総会で加藤藤太郎が代表取締役社長に選任され9月20日に資本金1,000万円で設立登記が完了した

新会社の台所は火の車だった。王子製紙からの譲渡価格は帳簿価格の31万円とする承諾を得ていたが、GHQは時価によることを命じ、日本興業銀行の公式鑑定で神崎工場の評価額は帳簿価格の100倍にあたる3,000万円となった。GHQはさらに譲渡価格の3分の1を現金で支払うよう命じ、払い込まれた資本金1,000万円はそのまま譲渡代価に消えて手許には一文も残らなかった。加藤藤太郎社長は第一銀行の荻野頭取を訪ねて2,000万円の貸出しと500万円の追加貸出しを得、1949年3月末までに土地・建物・機械装置など合計3,100万円の投資を行なった。設立から1か月後の1948年10月20日、1号塗工機から神崎製紙最初のアート紙が巻き取られた。資金を持たない会社が最初に立てたのは、最も付加価値の高い工程だった。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
    • [53]王子製紙からの譲渡価格は帳簿価格の31万円とすることで王子製紙社長の承諾を得ていた
    • [54]GHQは時価による譲渡を命じ日本興業銀行の公式鑑定で神崎工場の評価額は3,000万円となった
    • [55]GHQは譲渡価格の3分の1を現金で支払うことを命じた
    • [56]払込資本金1,000万円はそのまま王子製紙への支払代金となり神崎製紙の手許には残らなかった
    • [57]第一銀行の荻野頭取は2,000万円の貸出しを快諾しさらに500万円の追加貸出しにも応じた
    • [58]1949年3月末までに土地200万円・建物700万円・機械装置700万円など合計3,100万円の投資を行なった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」2「アート紙の生産」
    • [59]1948年10月20日に1号塗工機から神崎製紙初めてのアート紙が巻き取られた
参考文献[41]-[59]
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
    • [41]王子製紙は1946年1月に制限会社、同年12月に持株会社、1948年2月に集排法の指定会社となった
    • [42]1947年7月にGHQ経済科学局の反トラスト・カルテル課長へ着任したウェルシュは王子製紙に口頭で9分割を指示した
    • [43]王子製紙が1947年9月に提出した7分割案では神崎工場を清算工場とし土地を都島・淀川・熊野からなる大阪地区の新会社へ所属させるとされた
    • [44]神崎工場が王子製紙との関係を断ち完全に独立するのであれば分離独立を認めるとのGHQ回答を得た
    • [47]加藤藤太郎は追放該当者であったため退職慰労金もなく東京柏木の自宅は戦災で家財を焼失していた
    • [48]1948年年明けに追放で隠棲していた藤原銀次郎が加藤藤太郎を自宅へ呼び神崎工場の復旧を引き受けるようすすめた
    • [49]加藤藤太郎は第二の人生を神崎工場にかける決意を固めた
    • [50]大日本印刷および大日本図書社長の佐久間長吉郎の協力を得て1948年5月に第1回設立発起人会が開かれた
    • [51]加藤藤太郎は追放該当者のため発起人に名を連ねず発起人総代には大橋達雄が選ばれた
    • [52]1948年9月18日の創立総会で加藤藤太郎が代表取締役社長に選任され9月20日に資本金1,000万円で設立登記が完了した
    • [53]王子製紙からの譲渡価格は帳簿価格の31万円とすることで王子製紙社長の承諾を得ていた
    • [54]GHQは時価による譲渡を命じ日本興業銀行の公式鑑定で神崎工場の評価額は3,000万円となった
    • [55]GHQは譲渡価格の3分の1を現金で支払うことを命じた
    • [56]払込資本金1,000万円はそのまま王子製紙への支払代金となり神崎製紙の手許には残らなかった
    • [57]第一銀行の荻野頭取は2,000万円の貸出しを快諾しさらに500万円の追加貸出しにも応じた
    • [58]1949年3月末までに土地200万円・建物700万円・機械装置700万円など合計3,100万円の投資を行なった
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 08紙・パルプ「神崎製紙」
    • [45]王子製紙は財閥指定会社となり復旧の見込みが立たず神崎工場も廃工場となる運命にあった
    • [46]加藤藤太郎は元王子製紙の副社長で経理担当重役として計数の明るさに定評があった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」2「アート紙の生産」
    • [59]1948年10月20日に1号塗工機から神崎製紙初めてのアート紙が巻き取られた

筆者考察

尼崎の工場を強くしたのは持ち主ではなく、一つの製品だった。真島襄一郎が1894年にマッチの廃材を煮るために建てた工場は、大阪製紙として中国向けに模造紙を輸出し、滞貨で解散し、野田製紙所を経て富士製紙に買われ、1933年には王子製紙の一工場になる。54年のあいだに経営主体は5回替わり、そのつど資本も商号も入れ替わったが、工場の性格を決めたのは1922年に入れたブラッシュ式塗工機2台だった。1929年の抄造制限協定で3社唯一のアート紙工場と認められ、1937年にはアート紙の全国生産の46.3%を1工場で占める。設備の移動が自由な時代に、動かせない一点を持ったことが効いた。

ただし一点への集中は、それが要らなくなった瞬間に工場ごと不要にする。戦時体制のもとでアート紙は不要不急品として生産を止められ、1945年6月の空襲で神崎工場は大半を焼いた。残ったのは塗工部門とボイラー室、用水設備だけで、構内には雑草が茂りキツネが出た。ところがこの焼け残りが、3年後に工場を会社に変える。王子製紙の分割折衝で神崎工場は清算工場と扱われたが、塗工設備が現に残っていたからこそ、完全独立を条件に分離が認められ、追放中の加藤藤太郎が引き受ける対象になりえた。強みと弱みは同じ設備の表と裏だった。

神崎の工場を持った会社と、その年数 1894年の真島製紙所から1948年の分離独立まで(年)

4 真島製紙所 12 大阪製紙 5 野田製紙所 18 富士製紙神崎工場 15 王子製紙神崎工場

出典・参考

6件
出典・参考
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」2「戦前のアート紙の生産」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」2「アート紙の生産」
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 08紙・パルプ「神崎製紙」

免責事項およびポリシー