第2章 年〜年

神崎製紙:SP工場によるアート紙一貫生産と「金藤」の誕生

1949年〜最終製品のアート紙から抄紙機へ遡った建設の順序

集排法で王子製紙が分割されれば、そこから生まれる各社と競合することになる。それを避け、加工紙という特殊な分野で伸びようと考えた加藤藤太郎社長の意向で、工場再開の第1目標は最終製品のアート紙に置かれた。高い付加価値を持つアート紙を一日でも早く世に出せば、できたばかりの会社でも資金を集めやすく、工場建設を進めるにも都合がよいという判断である。塗工機は1948年10月に1号、11月に2号が動き出した。もっとも、要るアート原紙は月90トンにとどまったのに手当ては容易でなく、特アート原紙は王子製紙小倉工場、並アート原紙は伏木工場に頼った。紙類はまだ統制品目で、割当て切符がなければ売ることも買うこともできなかった。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」2「アート紙の生産」
    • [1]工場再開の第1目標をアート紙に置いたのは王子製紙系各社との競合を避け加工紙の特殊分野で発展をはかる加藤社長の意向によった
    • [2]付加価値の高いアート紙を早くつくることは資金づくりを容易にし工場建設を軌道に乗せるうえで有利と判断された
    • [3]1948年10月の1号塗工機に1か月遅れて同年11月に2号塗工機が操業を開始した
    • [4]当時のアート原紙の必要量は月間90トンで特アート原紙は王子製紙小倉工場から並アート原紙は伏木工場から供給を受けた
    • [5]アート紙を含む紙類は統制品目で割当て切符がなければ買うことも売ることもできなかった

アート原紙の調達難は、塗工機を正常に動かせないところまで来ていた。1949年1月、加藤藤太郎社長は抄紙部門の建設に踏み切った。同年4月にはドッジ・ラインが実施され、復金融資の停止と各種補助金の減廃が企業を裸のまま国際競争にさらそうとしていた時期である。神崎製紙は王子製紙から引き継いだ2台の抄紙機を復旧する方法をとり、損傷の少ない2号抄紙機72インチ丸網から着手した。新しい部品はほとんど購入せず、風雨にさらされていた部品の山から使えるものを探し出して補修した。2号抄紙機は1949年9月20日、1号抄紙機85インチ長網は同年11月11日に運転を開始し、抄速毎分170尺・日産約5,000キロを得た。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」3「アート原紙の自給」
    • [6]抄紙機を建設しない限りアート紙生産を安定して継続できないところまで原紙の確保が難しくなっていた
    • [7]1949年1月に加藤社長はアート原紙を確保するため急ぎ抄紙部門を建設する決断をくだした
    • [8]1949年4月のドッジ・ライン実施で復金融資の停止と各種補助金の減廃が企業を国際競争にさらそうとしていた
    • [9]王子製紙から引き継いだ2台の抄紙機を復旧する方法をとり損傷の少ない2号抄紙機72インチ丸網から着手した
    • [10]2号抄紙機の復旧では新しい部品をほとんど購入しない方針で風雨にさらされていた部品から探し出した
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」4「パルプからアート紙まで」
    • [11]2号抄紙機は1949年9月20日に、1号抄紙機85インチ長網は同年11月11日に運転を開始し抄速毎分170尺・日産約5,000キロであった

1949年11月の時点で、神崎製紙のアート紙はすでに全国生産量の50%に達していた。特殊紙の統制は同じ年の8月に、公定価格は9月に撤廃済みだった。焼け跡の片づけはほぼ済み、焼け残りの機械部品も使えるものは使い切っていたので、次の抄紙機は創業後はじめて機械を買い入れて組むことになった。中越パルプが手放した新品のドライヤーを使い、伝導部の幅74インチは68インチ塗工機向けの原紙を抄くのにちょうどよかった。サクション・クーチとサクション・プレスもこの機械で初めて取り付けられ、質の良いアート原紙づくりに効いた。72インチ長網式の3号抄紙機は1950年3月25日に運転を始め、この3号機によって神崎製紙は1950年3月からアート原紙を自前で賄えるようになった。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」4「パルプからアート紙まで」
    • [12]1949年11月にアート紙の全国生産総量の50%を占めるにいたった
    • [13]1949年8月にアート紙を含む特殊紙の統制が撤廃され同年9月には公定価格が廃止された
    • [14]3号抄紙機は焼け残り部品を使い尽くしたあとの創業以来初めての購入機械による抄紙機建設であった
    • [15]中越パルプが手離した新品ドライヤーは伝導部の幅が74インチで68インチ塗工機用原紙の抄造に好適であった
    • [16]3号抄紙機では初めてサクション・クーチとサクション・プレスが据え付けられ良質のアート原紙を抄造するのに大いに役立った
    • [17]1950年3月25日に3号抄紙機の運転が開始された
  • 証券 1951年(9)(23) 新規上場会社紹介
    • [18]1950年3月にはアート原紙の自家製造が可能となり72インチ長網式の3号抄紙機で必要とするアート原紙を自給できるようになった
参考文献[1]-[18]
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」2「アート紙の生産」
    • [1]工場再開の第1目標をアート紙に置いたのは王子製紙系各社との競合を避け加工紙の特殊分野で発展をはかる加藤社長の意向によった
    • [2]付加価値の高いアート紙を早くつくることは資金づくりを容易にし工場建設を軌道に乗せるうえで有利と判断された
    • [3]1948年10月の1号塗工機に1か月遅れて同年11月に2号塗工機が操業を開始した
    • [4]当時のアート原紙の必要量は月間90トンで特アート原紙は王子製紙小倉工場から並アート原紙は伏木工場から供給を受けた
    • [5]アート紙を含む紙類は統制品目で割当て切符がなければ買うことも売ることもできなかった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」3「アート原紙の自給」
    • [6]抄紙機を建設しない限りアート紙生産を安定して継続できないところまで原紙の確保が難しくなっていた
    • [7]1949年1月に加藤社長はアート原紙を確保するため急ぎ抄紙部門を建設する決断をくだした
    • [8]1949年4月のドッジ・ライン実施で復金融資の停止と各種補助金の減廃が企業を国際競争にさらそうとしていた
    • [9]王子製紙から引き継いだ2台の抄紙機を復旧する方法をとり損傷の少ない2号抄紙機72インチ丸網から着手した
    • [10]2号抄紙機の復旧では新しい部品をほとんど購入しない方針で風雨にさらされていた部品から探し出した
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」4「パルプからアート紙まで」
    • [11]2号抄紙機は1949年9月20日に、1号抄紙機85インチ長網は同年11月11日に運転を開始し抄速毎分170尺・日産約5,000キロであった
    • [12]1949年11月にアート紙の全国生産総量の50%を占めるにいたった
    • [13]1949年8月にアート紙を含む特殊紙の統制が撤廃され同年9月には公定価格が廃止された
    • [14]3号抄紙機は焼け残り部品を使い尽くしたあとの創業以来初めての購入機械による抄紙機建設であった
    • [15]中越パルプが手離した新品ドライヤーは伝導部の幅が74インチで68インチ塗工機用原紙の抄造に好適であった
    • [16]3号抄紙機では初めてサクション・クーチとサクション・プレスが据え付けられ良質のアート原紙を抄造するのに大いに役立った
    • [17]1950年3月25日に3号抄紙機の運転が開始された
  • 証券 1951年(9)(23) 新規上場会社紹介
    • [18]1950年3月にはアート原紙の自家製造が可能となり72インチ長網式の3号抄紙機で必要とするアート原紙を自給できるようになった

1950年〜東洋紡績から取得した敷地に建てたSP工場と、資本金1億円での上場

専業のパルプ会社は国策パルプ・東北パルプ・山陽パルプ・日本パルプ・興国人絹パルプの5社しかなく、設備能力は抄紙機の能力を大きく下回っていた。当時パルプは統制品目のままで、資材の割当てを受けなければ手に入らなかった。そのうえ専業各社も資材の供給が戻るにつれ製紙部門へ乗り出し、一貫体制づくりに向かっていたので、統制がなくなったとしても神崎製紙が必要とするパルプを回してもらえる余裕はないと考えてよかった。神崎製紙はGP設備を1949年12月に350馬力、1950年1月に900馬力分動かして品不足を和らげた。それでも1950年3月に3号抄紙機が回り始めると、パルプの不足は極限に達した。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」4「パルプからアート紙まで」
    • [19]パルプ専業会社は国策パルプ・東北パルプ・山陽パルプ・日本パルプ・興国人絹パルプの5社で設備能力は抄紙機の能力に比べ著しく劣勢だった
    • [20]パルプは統制品目で資材割当て以外には購入できなかった
    • [21]パルプ専業各社は資材供給の回復につれてパルプ部門から製紙部門へ進出し一貫体制を確立する方向に動き出した
    • [22]パルプの統制解除があってもパルプ専業各社に神崎製紙の求めるパルプを供給する余力はないとみられた
    • [23]1949年12月に発注した350馬力のGP設備に続き1950年1月には900馬力のGP設備を完成稼働させた
    • [24]1950年3月に3号抄紙機が稼働をはじめるにおよんでパルプ不足は頂点に達した

パルプ部門は貯木場など広い土地を必要とするが、王子製紙から譲られた約7万平方メートルの敷地では建てられず、分割案で神崎工場の単独独立が無理とされたのも主にこの点が理由だった。1950年にGHQがSP設備の新設を認めると、各社はいっせいに新増設に乗り出したが、神崎製紙にとっての壁は土地だった。第一銀行大阪支店長の早川文造氏と通商産業省紙業課長の佐橋滋氏が間に入り、隣の東洋紡績神崎工場から8万9,100平方メートルを買い取ることができた。SP設備は月産1,000トンの能力を持つ木釜2基から成り、1950年5月に建設が始まって、1951年1月26日に第1回の蒸解を迎えた。同年4月にSP工場は全面完成し、原木からパルプを作り、紙を抄き、アート紙まで加工する一貫工場となった。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」4「パルプからアート紙まで」
    • [25]王子製紙から譲渡された敷地は約7万平方メートルでパルプ部門の建設は不可能であり分割案で単独独立が不可能とされた理由も大半は敷地面積によった
    • [26]1950年にGHQがSP設備の新設を許可し各社はいっせいにSP設備の新増設に動きはじめた
    • [27]第一銀行常務取締役大阪支店長の早川文造と通産省紙業課長の佐橋滋のあっせんで東洋紡績から8万9,100平方メートルの第1次買入れが実現した
    • [28]1950年5月に月産1,000トンの能力をもつ木釜2基からなるSP設備の建設に着工した
    • [29]1951年1月26日に第1回の蒸解が行なわれた
  • 証券 1951年(9)(23) 新規上場会社紹介
    • [30]1951年4月にSP工場が全面的に完成し原木からパルプ・紙・アート紙までの一貫生産体制が確立した

資本金は3年続けて積み増された。1948年の設立時の1,000万円が、1950年10月に2,000万円の増資で3,000万円、1951年5月に7,000万円の増資で1億円となった。1951年7月、神崎製紙は東京証券取引所へ株式を上場した。1951年3月の生産実績は、アート紙が全国3,177千封度に対し1,471千封度で46.3%を占め、印刷紙は1.5%、板紙は5.0%にとどまった。従業員は同年3月末で539名、製品は大同洋紙店28.3%、富士洋紙店20.0%を筆頭とする7社の洋紙店を通じて売られた。原木の集荷はいっさいを小林林業所に委任し、SP設備の稼働で赤松の消費量は月間700立方メートルから6,000立方メートルへ一挙に8.5倍に増えた。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「統制から競争の時代へ」1「銘柄品「金藤」の誕生」
    • [31]1950年10月に2,000万円を増資して資本金3,000万円、1951年5月に7,000万円を増資して1億円となった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)年表
    • [32]1951年7月に東京証券取引所へ株式を上場した
  • 証券 1951年(9)(23) 新規上場会社紹介
    • [33]1951年3月の生産実績はアート紙が全国3,177千封度に対し当社1,471千封度で46.3%、印刷紙1.5%、板紙5.0%であった
    • [34]1951年3月31日現在の従業員は男425名・女114名の合計539名であった
    • [35]販売先は大同洋紙店28.3%・富士洋紙店20.0%・中井洋紙店14.4%など7社であった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」4「パルプからアート紙まで」
    • [36]原木手当てのいっさいは小林準一郎の経営する小林林業所に委任された
    • [37]1951年2月のSP設備稼働により赤松の消費量は月間700立方メートルから6,000立方メートルへ8.5倍に増えた
参考文献[19]-[37]
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」4「パルプからアート紙まで」
    • [19]パルプ専業会社は国策パルプ・東北パルプ・山陽パルプ・日本パルプ・興国人絹パルプの5社で設備能力は抄紙機の能力に比べ著しく劣勢だった
    • [20]パルプは統制品目で資材割当て以外には購入できなかった
    • [21]パルプ専業各社は資材供給の回復につれてパルプ部門から製紙部門へ進出し一貫体制を確立する方向に動き出した
    • [22]パルプの統制解除があってもパルプ専業各社に神崎製紙の求めるパルプを供給する余力はないとみられた
    • [23]1949年12月に発注した350馬力のGP設備に続き1950年1月には900馬力のGP設備を完成稼働させた
    • [24]1950年3月に3号抄紙機が稼働をはじめるにおよんでパルプ不足は頂点に達した
    • [25]王子製紙から譲渡された敷地は約7万平方メートルでパルプ部門の建設は不可能であり分割案で単独独立が不可能とされた理由も大半は敷地面積によった
    • [26]1950年にGHQがSP設備の新設を許可し各社はいっせいにSP設備の新増設に動きはじめた
    • [27]第一銀行常務取締役大阪支店長の早川文造と通産省紙業課長の佐橋滋のあっせんで東洋紡績から8万9,100平方メートルの第1次買入れが実現した
    • [28]1950年5月に月産1,000トンの能力をもつ木釜2基からなるSP設備の建設に着工した
    • [29]1951年1月26日に第1回の蒸解が行なわれた
    • [36]原木手当てのいっさいは小林準一郎の経営する小林林業所に委任された
    • [37]1951年2月のSP設備稼働により赤松の消費量は月間700立方メートルから6,000立方メートルへ8.5倍に増えた
  • 証券 1951年(9)(23) 新規上場会社紹介
    • [30]1951年4月にSP工場が全面的に完成し原木からパルプ・紙・アート紙までの一貫生産体制が確立した
    • [33]1951年3月の生産実績はアート紙が全国3,177千封度に対し当社1,471千封度で46.3%、印刷紙1.5%、板紙5.0%であった
    • [34]1951年3月31日現在の従業員は男425名・女114名の合計539名であった
    • [35]販売先は大同洋紙店28.3%・富士洋紙店20.0%・中井洋紙店14.4%など7社であった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「統制から競争の時代へ」1「銘柄品「金藤」の誕生」
    • [31]1950年10月に2,000万円を増資して資本金3,000万円、1951年5月に7,000万円を増資して1億円となった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)年表
    • [32]1951年7月に東京証券取引所へ株式を上場した

1952年〜質の競争に向けた「金藤」の銘柄化と、広葉樹パルプへの転換

統制紙か非統制紙かで分かれていた銘柄を各社は統一し、戦前の登録商標をよみがえらせたり新しい銘柄を立てたりして、自社の特徴を製品に出す商いを始めた。背景には、紙の統制がすべて外れたことで、量より質を競う度合いが強まったことがある。神崎製紙は新銘柄の名を全従業員から募った。こうして両面特アートを「金藤」、両面並アートを「銀藤」、上質紙を「金桐」、中質紙を「銀桐」とする商標の体系ができ、1952年9月から新商標で売り出した。同年7月に4号塗工機、8月に5号塗工機と12段スーパー・キャレンダーが稼働してアート紙の生産能力は月産1,000トンに達し、前年度と比べて80%の供給増となった。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「統制から競争の時代へ」1「銘柄品「金藤」の誕生」
    • [38]各社は統制紙と非統制紙の銘柄区別を統一し戦前の登録商標を復活させたり新銘柄を設けたりした
    • [39]紙の統制が全部撤廃され量よりも質の競争が激しくなった
    • [40]全従業員から商品名を募り両面特アートを金藤・両面並アートを銀藤・上質紙を金桐・中質紙を銀桐とし1952年9月から新商標で販売を開始した
    • [41]1952年7月に4号塗工機、8月に5号塗工機と12段スーパー・キャレンダーを新設稼働させアート紙の生産能力は月産1,000トンに達し前年度比80%の供給増となった

技術は外から取りに行った。神崎製紙は1952年から1956年にかけて前後3回の技術調査団を米国とヨーロッパへ派遣している。1952年6月、資本金は2億5,000万円に増えていた。同じ1952年11月に組まれた第1次技術調査団は、加工課長の菅野谷浅吉氏ら3名だった。調査団はチャンピオン・インターナショナル社で2か月実習したのち、チャンピオン・ペーパー社、ブラック・クローソン社、ウエアハウザー社などを訪ねた。米国ではエアーナイフ塗工機やリバースロールコーターの導入が進み、品質管理を徹底した工場が高品質のアート紙を大量に作っていた。その報告を受けて、6号抄紙機に国内初のサイズプレスが据えられた。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「統制から競争の時代へ」1「銘柄品「金藤」の誕生」
    • [42]神崎製紙は1952年から1956年にかけて前後3回の技術調査団を米国およびヨーロッパへ派遣した
    • [44]1952年11月の第1次技術調査団は加工課長菅野谷浅吉ら3名でチャンピオン・インターナショナル社で2か月実習したのちチャンピオン・ペーパー社やブラック・クローソン社、ウエアハウザー社を回った
    • [45]当時の米国ではエアーナイフ塗工機やリバースロールコーターが導入され行きとどいた品質管理で高品質のアート紙が大量生産されていた
    • [46]第1次技術調査団の報告に基づき6号抄紙機にわが国で最初のサイズプレスが装置された
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 08紙・パルプ「神崎製紙」
    • [43]資本金は1952年6月に2億5,000万円へ増加した

パルプの原料は針葉樹から広葉樹へ移した。赤松など針葉樹は、宝庫とされた樺太を失ったことと紙パルプ各社の急速な生産拡大で手当てが難しくなり、西日本の発駅渡しで1立方メートルあたり1950年ごろの1,450円が1953年には3,900円へ高騰していた。広葉樹はわずかに薪炭用に使われる程度の未利用資源で、繊維長が短く紙力を落とす難点はあったが、価格が安いうえ確保が容易だった。1954年夏、神崎製紙は歩留りの高いSCP法による設備の新設を決め、1955年に米国パンディア社の連続蒸解方式で月産900トンのSCP設備を完成させた。並行して1954年11月にわが国初の面長2メートルのドラムドライヤーを持つキャスト塗工機設備が完成し、翌年春からグラビヤ印刷用紙「ミラーコート」の生産が始まった。1955年3月期の売上高は19億9,600万円。原料と製品の両端を同時に動かしたことが、次の工場用地を探させた。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「統制から競争の時代へ」1「銘柄品「金藤」の誕生」
    • [47]針葉樹は樺太喪失と各社の生産拡大で手当てが困難になり赤松材価格は西日本の発駅渡しで1950年ごろの1立方メートル1,450円が1953年には3,900円へ高騰した
    • [48]広葉樹は薪炭用に使われる程度の未利用資源で繊維長が短く紙力を低下させる難点があったが価格が安く確保が容易であった
    • [49]1954年夏に神崎製紙は広葉樹を原料とするSCP法によるパルプ設備の新設を決定した
    • [51]1954年11月にわが国初の面長2メートルのドラムドライヤーをもつキャスト塗工機設備が完成し翌1955年春からグラビヤ印刷用紙ミラーコートの生産を開始した
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 08紙・パルプ「神崎製紙」
    • [50]1955年に米国パンディア社の連続蒸解方式を採用した月産900トンの広葉樹セミケミカルパルプ設備を完成させた
    • [52]1955年3月期の売上高は19億9,600万円であった
参考文献[38]-[52]
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「統制から競争の時代へ」1「銘柄品「金藤」の誕生」
    • [38]各社は統制紙と非統制紙の銘柄区別を統一し戦前の登録商標を復活させたり新銘柄を設けたりした
    • [39]紙の統制が全部撤廃され量よりも質の競争が激しくなった
    • [40]全従業員から商品名を募り両面特アートを金藤・両面並アートを銀藤・上質紙を金桐・中質紙を銀桐とし1952年9月から新商標で販売を開始した
    • [41]1952年7月に4号塗工機、8月に5号塗工機と12段スーパー・キャレンダーを新設稼働させアート紙の生産能力は月産1,000トンに達し前年度比80%の供給増となった
    • [42]神崎製紙は1952年から1956年にかけて前後3回の技術調査団を米国およびヨーロッパへ派遣した
    • [44]1952年11月の第1次技術調査団は加工課長菅野谷浅吉ら3名でチャンピオン・インターナショナル社で2か月実習したのちチャンピオン・ペーパー社やブラック・クローソン社、ウエアハウザー社を回った
    • [45]当時の米国ではエアーナイフ塗工機やリバースロールコーターが導入され行きとどいた品質管理で高品質のアート紙が大量生産されていた
    • [46]第1次技術調査団の報告に基づき6号抄紙機にわが国で最初のサイズプレスが装置された
    • [47]針葉樹は樺太喪失と各社の生産拡大で手当てが困難になり赤松材価格は西日本の発駅渡しで1950年ごろの1立方メートル1,450円が1953年には3,900円へ高騰した
    • [48]広葉樹は薪炭用に使われる程度の未利用資源で繊維長が短く紙力を低下させる難点があったが価格が安く確保が容易であった
    • [49]1954年夏に神崎製紙は広葉樹を原料とするSCP法によるパルプ設備の新設を決定した
    • [51]1954年11月にわが国初の面長2メートルのドラムドライヤーをもつキャスト塗工機設備が完成し翌1955年春からグラビヤ印刷用紙ミラーコートの生産を開始した
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 08紙・パルプ「神崎製紙」
    • [43]資本金は1952年6月に2億5,000万円へ増加した
    • [50]1955年に米国パンディア社の連続蒸解方式を採用した月産900トンの広葉樹セミケミカルパルプ設備を完成させた
    • [52]1955年3月期の売上高は19億9,600万円であった

筆者考察

神崎製紙は、工程を逆から建てた会社である。原料から順に揃えるのではなく、最終製品のアート紙から始めて原紙へ、原紙からパルプへと遡った。理由は資金にある。払い込んだ資本金1,000万円は王子製紙への譲渡代価にそのまま消え、設備投資はすべて借入で賄うほかなかったから、最も付加価値の高い工程を先に立てて稼ぎ、その金で次の工程を建てる順序しか取れなかった。1948年10月に塗工機、1949年9月と11月に抄紙機、1951年4月にSP工場。3年足らずで原木からアート紙までが一本につながり、資本金は1,000万円から1億円へ10倍になった。

一貫生産は、他社の都合で自分の機械が止まらないようにするための投資だった。アート原紙を王子製紙の小倉・伏木両工場に頼み、パルプを専業5社に頼む状態では、月90トンの原紙すら思うように集まらない。しかもパルプ専業各社は製紙部門へ進出しつつあり、統制が解けても神崎製紙に回す余力は残らないと読んだ。ただし自給は別の従属を連れてくる。SP設備が動くと赤松の消費は月700立方メートルから6,000立方メートルへ8.5倍に跳ね、原木価格の高騰が直撃した。1954年に広葉樹のSCPへ移ったのは、自給が生んだ新しい制約への答えである。

神崎製紙の資本金 1950年10月から1952年6月まで(万円)

3,000 50年10月 10,000 51年5月 25,000 52年6月

出典・参考

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出典・参考
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」2「アート紙の生産」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」3「アート原紙の自給」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」4「パルプからアート紙まで」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「統制から競争の時代へ」1「銘柄品「金藤」の誕生」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)年表
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 08紙・パルプ「神崎製紙」
  • 証券 1951年(9)(23) 新規上場会社紹介

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