三菱製紙:神戸製紙所の設立と上級紙・アート紙の製造
1898年〜資本金50万円の合資会社神戸製紙所と、高砂移転で得た上級紙の首位
三菱製紙の起点は、1898年4月1日に岩崎久弥氏が資本金50万円で設立した合資会社神戸製紙所である。前身は、米国人のウォルシュ兄弟が1877年7月に神戸で興した国内唯一の外国人経営の製紙所だった。神戸市三宮の工場は、英国人が1872年に創設した洋紙原料の工場を兄弟が引き継ぎ、増設した。兄弟は当初、国内産の綿のボロを原料にパルプを造る計画を立て、のちに紙の製造へ計画を切り替えた。業績が安定した1897年、弟のジョン・G・ウォルシュ氏が急死し、兄弟による経営は続けられなくなった。工場を引き受けたのは、兄弟と親交があり出資者でもあった三菱合資会社社長の岩崎久弥氏だった。出資者として工場の内情を知っていたことが、外国人の事業を引き継ぐ判断を早めたとみられる。
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [1]1877年7月に米国人Walsh兄弟が神戸に外国人経営のKobe Paper Millを設立。当初は木綿ボロからのパルプ製造を計画し紙製造へ変更。1897年に弟John G. Walshが急死し事業続行不能。親交があり出資者でもあった岩崎久弥が経営を引き継ぎ、1898年4月1日に資本金50万円で合資会社神戸製紙所を設立
- [2]1877年7月に米国人Walsh兄弟が神戸に外国人経営のKobe Paper Millを設立。当初は木綿ボロからのパルプ製造を計画し紙製造へ変更。1897年に弟John G. Walshが急死し事業続行不能。親交があり出資者でもあった岩崎久弥が経営を引き継ぎ、1898年4月1日に資本金50万円で合資会社神戸製紙所を設立
- [4]1877年7月に米国人Walsh兄弟が神戸に外国人経営のKobe Paper Millを設立。当初は木綿ボロからのパルプ製造を計画し紙製造へ変更。1897年に弟John G. Walshが急死し事業続行不能。親交があり出資者でもあった岩崎久弥が経営を引き継ぎ、1898年4月1日に資本金50万円で合資会社神戸製紙所を設立
- [5]1877年7月に米国人Walsh兄弟が神戸に外国人経営のKobe Paper Millを設立。当初は木綿ボロからのパルプ製造を計画し紙製造へ変更。1897年に弟John G. Walshが急死し事業続行不能。親交があり出資者でもあった岩崎久弥が経営を引き継ぎ、1898年4月1日に資本金50万円で合資会社神戸製紙所を設立
- [6]1877年7月に米国人Walsh兄弟が神戸に外国人経営のKobe Paper Millを設立。当初は木綿ボロからのパルプ製造を計画し紙製造へ変更。1897年に弟John G. Walshが急死し事業続行不能。親交があり出資者でもあった岩崎久弥が経営を引き継ぎ、1898年4月1日に資本金50万円で合資会社神戸製紙所を設立
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱製紙」
- [3]1872年に英国人が神戸三宮に洋紙原料の工場を創設、1876年に米国人Walsh兄弟が譲り受けて増設し洋紙を抄造。1898年4月に岩崎久弥が買収し合資会社神戸製紙所(資本金50万円)を設立
- [7]1872年に英国人が神戸三宮に洋紙原料の工場を創設、1876年に米国人Walsh兄弟が譲り受けて増設し洋紙を抄造。1898年4月に岩崎久弥が買収し合資会社神戸製紙所(資本金50万円)を設立
合資会社神戸製紙所は1901年7月5日、工場を兵庫県高砂町へ移した。神戸での操業自体は順調で、障害は工場用水の問題と地代の値上がりにあった。三宮の工場では用水の不足が早くから表面化し、1899年には高砂町への移転を計画した。移転先の工場は、現在の高砂工場にあたる。当時の製紙所は抄紙機5台を備え、国内の製紙会社11社のうち製造高と売上高でともに3位につけていた。上級紙に限れば首位で、同じころには薄葉紙の製造にも着手。全国の製紙会社は1905年に12社・16工場、生産高は1億3400万ポンドへ拡大した。用水の豊かな立地へ移ったことが、品質を問われる上級紙で首位を保つ前提になったと推察される。
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [8]工場用水の問題と地代値上がりで神戸での経営続行が困難となり、1901年7月5日に兵庫県高砂町へ移転(現・高砂工場)。当時抄紙機5台、製紙会社11社中で製造・売上げとも3位、上級紙は1位。そのころ薄葉紙の製造を開始
- [9]工場用水の問題と地代値上がりで神戸での経営続行が困難となり、1901年7月5日に兵庫県高砂町へ移転(現・高砂工場)。当時抄紙機5台、製紙会社11社中で製造・売上げとも3位、上級紙は1位。そのころ薄葉紙の製造を開始
- [11]工場用水の問題と地代値上がりで神戸での経営続行が困難となり、1901年7月5日に兵庫県高砂町へ移転(現・高砂工場)。当時抄紙機5台、製紙会社11社中で製造・売上げとも3位、上級紙は1位。そのころ薄葉紙の製造を開始
- [12]工場用水の問題と地代値上がりで神戸での経営続行が困難となり、1901年7月5日に兵庫県高砂町へ移転(現・高砂工場)。当時抄紙機5台、製紙会社11社中で製造・売上げとも3位、上級紙は1位。そのころ薄葉紙の製造を開始
- [13]工場用水の問題と地代値上がりで神戸での経営続行が困難となり、1901年7月5日に兵庫県高砂町へ移転(現・高砂工場)。当時抄紙機5台、製紙会社11社中で製造・売上げとも3位、上級紙は1位。そのころ薄葉紙の製造を開始
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱製紙」
- [10]三宮では工場用水が欠乏したため1899年に高砂町への移転を計画し、1901年6月に工場が完成
- 会社銀行八十年史(1955)「紙・パルプ」
- [14]日清戦争後の製紙界は勃興期に入り、1905年に全国の会社数12、16工場の生産高1億3400万ポンド
1904年6月1日、合資会社神戸製紙所は社名を合資会社三菱製紙所に改めた。改称の時点で、製紙所は高砂の工場で上級紙の首位を占め、薄葉紙へも製品の幅を広げていた。創立者の岩崎久弥氏は1865年に土佐で生まれ、三菱を興した岩崎弥太郎氏の長男にあたる。米国のペンシルベニア大学を1891年に卒業し、三菱合資会社が設立された1893年12月に社長に就任した。岩崎久弥氏は1916年7月まで23年間、三菱合資会社の社長を務めた。三菱の社章は、岩崎家の家紋の三階菱を図案化したものとも、土佐藩山内家の三柏を図案化したものとも伝わる。神戸の地名を外して三菱を冠した改称は、ウォルシュ兄弟の工場が岩崎家の事業に移ったことを社外に示す意味を持ったのだろう。
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [15]1904年6月1日に社名を合資会社三菱製紙所と改称。岩崎久弥は1865年土佐生まれ、岩崎弥太郎の長子、1891年ペンシルベニア大学卒、1893年12月三菱合資会社設立とともに社長、在職23年で1916年7月辞任
- [17]1904年6月1日に社名を合資会社三菱製紙所と改称。岩崎久弥は1865年土佐生まれ、岩崎弥太郎の長子、1891年ペンシルベニア大学卒、1893年12月三菱合資会社設立とともに社長、在職23年で1916年7月辞任
- [18]1904年6月1日に社名を合資会社三菱製紙所と改称。岩崎久弥は1865年土佐生まれ、岩崎弥太郎の長子、1891年ペンシルベニア大学卒、1893年12月三菱合資会社設立とともに社長、在職23年で1916年7月辞任
- [19]1904年6月1日に社名を合資会社三菱製紙所と改称。岩崎久弥は1865年土佐生まれ、岩崎弥太郎の長子、1891年ペンシルベニア大学卒、1893年12月三菱合資会社設立とともに社長、在職23年で1916年7月辞任
- [20]1904年6月1日に社名を合資会社三菱製紙所と改称。岩崎久弥は1865年土佐生まれ、岩崎弥太郎の長子、1891年ペンシルベニア大学卒、1893年12月三菱合資会社設立とともに社長、在職23年で1916年7月辞任
- 企業の歴史 明治百年(1968)「三菱製紙」
- [16]1904年6月に合資会社三菱製紙所と改称。三菱の社章は岩崎家の三階菱、または土佐藩山内家の三柏を図案化したとの説がある
- [21]1904年6月に合資会社三菱製紙所と改称。三菱の社章は岩崎家の三階菱、または土佐藩山内家の三柏を図案化したとの説がある
参考文献[1]-[21]
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [1]1877年7月に米国人Walsh兄弟が神戸に外国人経営のKobe Paper Millを設立。当初は木綿ボロからのパルプ製造を計画し紙製造へ変更。1897年に弟John G. Walshが急死し事業続行不能。親交があり出資者でもあった岩崎久弥が経営を引き継ぎ、1898年4月1日に資本金50万円で合資会社神戸製紙所を設立
- [2]1877年7月に米国人Walsh兄弟が神戸に外国人経営のKobe Paper Millを設立。当初は木綿ボロからのパルプ製造を計画し紙製造へ変更。1897年に弟John G. Walshが急死し事業続行不能。親交があり出資者でもあった岩崎久弥が経営を引き継ぎ、1898年4月1日に資本金50万円で合資会社神戸製紙所を設立
- [4]1877年7月に米国人Walsh兄弟が神戸に外国人経営のKobe Paper Millを設立。当初は木綿ボロからのパルプ製造を計画し紙製造へ変更。1897年に弟John G. Walshが急死し事業続行不能。親交があり出資者でもあった岩崎久弥が経営を引き継ぎ、1898年4月1日に資本金50万円で合資会社神戸製紙所を設立
- [5]1877年7月に米国人Walsh兄弟が神戸に外国人経営のKobe Paper Millを設立。当初は木綿ボロからのパルプ製造を計画し紙製造へ変更。1897年に弟John G. Walshが急死し事業続行不能。親交があり出資者でもあった岩崎久弥が経営を引き継ぎ、1898年4月1日に資本金50万円で合資会社神戸製紙所を設立
- [6]1877年7月に米国人Walsh兄弟が神戸に外国人経営のKobe Paper Millを設立。当初は木綿ボロからのパルプ製造を計画し紙製造へ変更。1897年に弟John G. Walshが急死し事業続行不能。親交があり出資者でもあった岩崎久弥が経営を引き継ぎ、1898年4月1日に資本金50万円で合資会社神戸製紙所を設立
- [8]工場用水の問題と地代値上がりで神戸での経営続行が困難となり、1901年7月5日に兵庫県高砂町へ移転(現・高砂工場)。当時抄紙機5台、製紙会社11社中で製造・売上げとも3位、上級紙は1位。そのころ薄葉紙の製造を開始
- [9]工場用水の問題と地代値上がりで神戸での経営続行が困難となり、1901年7月5日に兵庫県高砂町へ移転(現・高砂工場)。当時抄紙機5台、製紙会社11社中で製造・売上げとも3位、上級紙は1位。そのころ薄葉紙の製造を開始
- [11]工場用水の問題と地代値上がりで神戸での経営続行が困難となり、1901年7月5日に兵庫県高砂町へ移転(現・高砂工場)。当時抄紙機5台、製紙会社11社中で製造・売上げとも3位、上級紙は1位。そのころ薄葉紙の製造を開始
- [12]工場用水の問題と地代値上がりで神戸での経営続行が困難となり、1901年7月5日に兵庫県高砂町へ移転(現・高砂工場)。当時抄紙機5台、製紙会社11社中で製造・売上げとも3位、上級紙は1位。そのころ薄葉紙の製造を開始
- [13]工場用水の問題と地代値上がりで神戸での経営続行が困難となり、1901年7月5日に兵庫県高砂町へ移転(現・高砂工場)。当時抄紙機5台、製紙会社11社中で製造・売上げとも3位、上級紙は1位。そのころ薄葉紙の製造を開始
- [15]1904年6月1日に社名を合資会社三菱製紙所と改称。岩崎久弥は1865年土佐生まれ、岩崎弥太郎の長子、1891年ペンシルベニア大学卒、1893年12月三菱合資会社設立とともに社長、在職23年で1916年7月辞任
- [17]1904年6月1日に社名を合資会社三菱製紙所と改称。岩崎久弥は1865年土佐生まれ、岩崎弥太郎の長子、1891年ペンシルベニア大学卒、1893年12月三菱合資会社設立とともに社長、在職23年で1916年7月辞任
- [18]1904年6月1日に社名を合資会社三菱製紙所と改称。岩崎久弥は1865年土佐生まれ、岩崎弥太郎の長子、1891年ペンシルベニア大学卒、1893年12月三菱合資会社設立とともに社長、在職23年で1916年7月辞任
- [19]1904年6月1日に社名を合資会社三菱製紙所と改称。岩崎久弥は1865年土佐生まれ、岩崎弥太郎の長子、1891年ペンシルベニア大学卒、1893年12月三菱合資会社設立とともに社長、在職23年で1916年7月辞任
- [20]1904年6月1日に社名を合資会社三菱製紙所と改称。岩崎久弥は1865年土佐生まれ、岩崎弥太郎の長子、1891年ペンシルベニア大学卒、1893年12月三菱合資会社設立とともに社長、在職23年で1916年7月辞任
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱製紙」
- [3]1872年に英国人が神戸三宮に洋紙原料の工場を創設、1876年に米国人Walsh兄弟が譲り受けて増設し洋紙を抄造。1898年4月に岩崎久弥が買収し合資会社神戸製紙所(資本金50万円)を設立
- [7]1872年に英国人が神戸三宮に洋紙原料の工場を創設、1876年に米国人Walsh兄弟が譲り受けて増設し洋紙を抄造。1898年4月に岩崎久弥が買収し合資会社神戸製紙所(資本金50万円)を設立
- [10]三宮では工場用水が欠乏したため1899年に高砂町への移転を計画し、1901年6月に工場が完成
- 会社銀行八十年史(1955)「紙・パルプ」
- [14]日清戦争後の製紙界は勃興期に入り、1905年に全国の会社数12、16工場の生産高1億3400万ポンド
- 企業の歴史 明治百年(1968)「三菱製紙」
- [16]1904年6月に合資会社三菱製紙所と改称。三菱の社章は岩崎家の三階菱、または土佐藩山内家の三柏を図案化したとの説がある
- [21]1904年6月に合資会社三菱製紙所と改称。三菱の社章は岩崎家の三階菱、または土佐藩山内家の三柏を図案化したとの説がある
1908年〜1万5000町歩の竹林を得た台湾三菱製紙所と、台風で傾いた竹パルプ
1908年、三菱製紙所は台湾中部で1万5000町歩の竹林について払下げを得た。創立期の原料はボロと藁が大半で、木材パルプの比率が少しずつ上がりつつあった。国内では王子製紙と富士製紙が北海道の森林資源に目を付け、1904年ごろから新工場を相次いで建てた。一方で世界では木材の蓄積量が将来尽きるとの不安が強まり、木材以外の植物繊維を探る研究が進んだ。三菱製紙所は代わりの繊維として竹を選び、竹パルプの製造を決めた。立地に台湾を選んだのは、天然資源が豊富で、台湾総督府も内地の事業家による開発を強く望んでいたためである。中央部の竹林は栽培と管理を適正にすれば尽きないと見込み、竹林の中央に大型のパルプ工場を置く計画とした。
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [22]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [23]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [25]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [26]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [27]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [28]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- 会社銀行八十年史(1955)「紙・パルプ」
- [24]1904-05年から大正初年にかけ、王子製紙と富士製紙が北海道の森林資源に着目し、富士は江別・金山、王子は苫小牧に新工場を建設
台湾三菱製紙所は1911年初めに操業を始め、世界で初めて竹パルプの工業化を果たした。同年8月31日、台湾でも例のない強さの台風が工場を襲い、再起が危ぶまれるほどの損害が出た。3か月半をかけて復旧したものの、その後の業績は悪化を続けた。竹材が計画どおりに集まらず、原料費・人件費・運賃も見込みを上回って原価が大きく膨らんだ。竹パルプの紙は紙業界になじみが薄く、需要も広がらなかった。その後も台風は毎年工場を襲い、三菱製紙所は1916年に台湾の工場を閉鎖した。竹パルプを消化する手立てとして高砂工場で和紙を試作し、1913年に5号機を据えて和紙の本格生産に移っていた。台湾の事業は撤退に終わったものの、その原料の使い道として始めた和紙が高砂工場の新しい製品になったと思われる。
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [29]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [30]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [31]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [32]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [33]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [34]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [35]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱製紙」
- [36]1913年に洋紙のほかに和紙の生産を開始
参考文献[22]-[36]
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [22]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [23]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [25]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [26]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [27]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [28]創立当時の原料はボロと藁が大部分で木材パルプが増加中。世界的に木材蓄積量への不安が強まり代替繊維の研究が盛ん。竹パルプ製造を決意し台湾で実現。台湾総督府は内地事業家による開発を熱望。1908年に1万5000町歩の竹林の払下げ
- [29]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [30]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [31]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [32]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [33]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [34]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- [35]1911年初めに台湾三菱製紙所として操業し、竹パルプの工業化に世界で初めて成功。同年8月31日の台風で甚大な損害、3か月半で復興も業績は悪化。竹材の入手難、原料費・人件費・運賃の増加で原価高、製品の需要も乏しく1916年に工場閉鎖。竹パルプの消化策として高砂工場で和紙を試作し1913年に5号機を設置して本格製造
- 会社銀行八十年史(1955)「紙・パルプ」
- [24]1904-05年から大正初年にかけ、王子製紙と富士製紙が北海道の森林資源に着目し、富士は江別・金山、王子は苫小牧に新工場を建設
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱製紙」
- [36]1913年に洋紙のほかに和紙の生産を開始
1917年〜葛飾に建てた中川工場と、株式会社三菱製紙で始めたアート紙
1917年、三菱製紙所は中川工場を東京の葛飾新宿に新設した。日露戦争の後、紙の需要は毎年10%ほど増え、三菱製紙所も需要に追われがちだった。そこで1913年ごろに新工場の建設を決め、紙の大消費地である東京の近辺に絞って敷地を調べた。選んだ敷地で1915年10月に建設へ着手。建設中に第1次世界大戦が起き、紙の輸入が途絶えた。1917年に操業を始めると、中川工場の製品は造るそばから売り切れた。大戦後も需要は増え続け、1924年に抄紙機1台を足して計4台とし、生産高は操業当初の2倍を上回った。大消費地の近くに置いた立地が、輸入の途絶えた時期に東京の需要を取り込む条件になったと推量される。
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [37]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [39]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [40]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [41]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [42]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [43]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [44]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱製紙」
- [38]1917年に東京葛飾新宿に中川工場を新設
1917年11月1日、合資会社三菱製紙所は株式会社に改め、社名を三菱製紙株式会社とした。改組の前、事業は高砂工場の外へ多方面に広がった。中川工場のほか、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所、群青製造所、尾上製膠所を持っていた。関西の販売を担う菱三商会の経営も、三菱製紙所の指揮下にあった。これに先立つ1916年11月6日に、資本金は250万円へ増えた。1918年には工場群を統括する本部を高砂から東京へ移し、所在地は麹町区有楽町とした。資本金は1918年に500万円、1920年に1000万円となり、1925年12月には本社の丸ノ内への移転も完了。事業が多岐にわたり資本も膨らんだことが、合資会社から株式会社への切り替えを促したと考えられる。
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [45]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [47]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [48]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [49]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [50]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [52]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [53]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱製紙」
- [46]1916年に資本金250万円、1917年11月に株式組織に変更し三菱製紙と改称。1918年1月500万円、1920年6月1000万円、1925年12月に本社を東京丸ノ内に移転
- [51]1916年に資本金250万円、1917年11月に株式組織に変更し三菱製紙と改称。1918年1月500万円、1920年6月1000万円、1925年12月に本社を東京丸ノ内に移転
- [54]1916年に資本金250万円、1917年11月に株式組織に変更し三菱製紙と改称。1918年1月500万円、1920年6月1000万円、1925年12月に本社を東京丸ノ内に移転
1918年、三菱製紙は高砂工場でアート紙の製造に着手した。大正の初期まで、国内で使うアート紙は全量を輸入品で賄っていた。三菱製紙はその将来性を見込み、米国のジョンワルドロン社からコーター、スーパーカレンダー、カッターを輸入した。同じころ日本加工製紙と日本紙器の亀有工場も製造を始め、国内で競争が生じた。日本加工製紙の創業者の井口誠一氏は1915年に東京千住町で国内初のアート紙を造ったものの、設備と材料が未熟で輸入品に及ばなかった。三菱製紙の製品も当初は品質が粗く、輸入紙が市場にあふれていたため出足は難航した。需要の増加とともに技術が上がり、1919年後期にはたばこ袋用として中国への輸出が始まった。上級紙から塗工紙へ広げた高級紙の技術が、のちの写真用原紙への参入の土台になったと推測される。
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [55]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- [56]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- [57]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- [58]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- [61]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- [62]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- 会社銀行八十年史(1955)「紙・パルプ」
- [59]日本加工製紙は1915年に井口誠一が日本アート紙(名)を設立し東京千住町で国内最初のアート紙製造を開始。設備材料が幼稚で外国品に匹敵せず、1917年2月に王子製紙・富士製紙の援助で設立
- [60]日本加工製紙は1915年に井口誠一が日本アート紙(名)を設立し東京千住町で国内最初のアート紙製造を開始。設備材料が幼稚で外国品に匹敵せず、1917年2月に王子製紙・富士製紙の援助で設立
参考文献[37]-[62]
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- [37]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [39]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [40]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [41]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [42]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [43]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [44]日露戦争後、紙需要は年10%程度増加し需要に追われ、1913年ころ新工場建設を決定。大消費地東京近辺を調査し中川工場の地を選定、1915年10月建設開始。第1次大戦で輸入途絶、1917年操業開始の中川工場の製品は飛ぶように売れた。1924年に抄紙機1基増設で4基、生産高は当初の2倍以上
- [45]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [47]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [48]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [49]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [50]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [52]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [53]中川工場、台湾の竹林事務所、上海の華章造紙廠、江戸川工業所・群青製造所・尾上製膠所、菱三商会の経営と事業が多岐化。1916年11月6日に資本金250万円、1917年11月1日に株式組織とし三菱製紙株式会社と改称。1918年に本部を高砂から東京市麹町区有楽町へ移転。資本金は1918年500万円、1920年1000万円
- [55]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- [56]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- [57]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- [58]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- [61]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- [62]大正初期まで国内のアート紙は全量輸入。1918年から高砂工場でアート紙製造に着手し、米ジョンワルドロン社からコーター・スーパーカレンダー・カッターを輸入。日本加工製紙・日本紙器亀有工場も前後して参入。当初は品質が粗く輸入紙も氾濫し難航、1919年後期にたばこ袋用に中国へ輸出、1920年に塗抹機1台増設
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱製紙」
- [38]1917年に東京葛飾新宿に中川工場を新設
- [46]1916年に資本金250万円、1917年11月に株式組織に変更し三菱製紙と改称。1918年1月500万円、1920年6月1000万円、1925年12月に本社を東京丸ノ内に移転
- [51]1916年に資本金250万円、1917年11月に株式組織に変更し三菱製紙と改称。1918年1月500万円、1920年6月1000万円、1925年12月に本社を東京丸ノ内に移転
- [54]1916年に資本金250万円、1917年11月に株式組織に変更し三菱製紙と改称。1918年1月500万円、1920年6月1000万円、1925年12月に本社を東京丸ノ内に移転
- 会社銀行八十年史(1955)「紙・パルプ」
- [59]日本加工製紙は1915年に井口誠一が日本アート紙(名)を設立し東京千住町で国内最初のアート紙製造を開始。設備材料が幼稚で外国品に匹敵せず、1917年2月に王子製紙・富士製紙の援助で設立
- [60]日本加工製紙は1915年に井口誠一が日本アート紙(名)を設立し東京千住町で国内最初のアート紙製造を開始。設備材料が幼稚で外国品に匹敵せず、1917年2月に王子製紙・富士製紙の援助で設立
出典・参考
4件
- 三菱製紙七十年史(1970)コマ28-33「合資会社三菱製紙所」「台湾の事業」
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱製紙」
- 会社銀行八十年史(1955)「紙・パルプ」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「三菱製紙」