三井高利
経歴
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1673年主要役職の状況(推定含む目安)1694年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 越後屋呉服店(現・三越伊勢丹) | 1673 | 設立 | ||
| 1694 | 死去 |
社長就任までの出自
出自
1622年、伊勢松坂で質屋と酒屋を営む三井家に、男子4人のうちの末子として生まれた。祖父の三井高安氏は近江の佐々木氏に仕えた武士で、父の三井高俊氏の代に松坂へ移り住み、商いは才覚のある母が切り盛りした。越後屋は株式会社になる前の個人の店で、株式会社三越呉服店の設立は1904年のため、三井高利氏は社長には就任していない。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
三井高利氏の長兄の三井俊次氏は、1627年に江戸本町四丁目で小間物店を開業し、店が伸びると西陣織を仕入れるために京都にも拠点を置いた。三井高利氏は少年のうちに江戸へ下って兄の店を手伝い、1639年、数えで18歳のときに江戸店の切り盛りを任された。10年のあいだに店は元手の十数倍となる銀1,500貫目の身代に育ち、三井高利氏も1649年に本町二丁目の屋敷を800両で買い取って、自らの江戸店を持つ計画を立てた。
- 三井財閥史 近世・明治編(安岡重明, 教育社, 1979)「江戸時代の三井家の発展」
- [4]長兄の俊次は伊豆蔵や富山の経営する呉服店で見習ったのち、寛永四年(一六二七)二十歳のとき本町四丁目に小間物店を開いた。寛永十~十一年ごろ江戸店の繁栄につれて、西陣織の仕入れの必要から京都の御池町で二階を借りて仕入れにあたった
- [5]俊次は弟の重俊や高利を呼びよせ仕事を手伝わせるかたわら商売を教えた。江戸店は重俊が担当したが、郷里の母が老いたので寛永十六年に松坂に帰り、高利が江戸店を担当することになった。ときに十八歳であった
- [6]高利は兄の店を切りもりし、一〇か年の間に元金の十数倍の銀一五〇〇貫目の身代を築きあげたといわれる。高利は自らも利殖を行って、慶安二年(一六四九)二十八歳のとき本町二丁目に金八〇〇両で屋敷を購入し、江戸店をもつ計画をたてた
しかし長兄は弟が独立して競争相手になることを嫌い、同年、郷里で母を看ていた次兄の三井重俊氏が病死したのを機に、三井高利氏を松坂へ帰らせた。松坂での事業は金融が中心で、大名や家臣への貸付、農村への抵当貸付のほか米の売買も手がけ、親族の小口の出資を集約して運用する「わけ貸し」も組んだ。そのかたわら、1667年に15歳の長男の三井高平氏、翌年に次男の三井高富氏、1672年に三男の三井高治氏を長兄の江戸店へ送り、腹心の奉公人とあわせて実地で商いを学ばせた。
- 三井財閥史 近世・明治編(安岡重明, 教育社, 1979)「江戸時代の三井家の発展」
- [7]高利が独立して自己の競争相手になることを恐れた長兄俊次は、高利が江戸店をもつことに賛成しなかった。同年五月、母の面倒をみていた重俊が病死したため、俊次は高利を無理に帰郷させ、江戸店持ちを断念させた
- [8]松坂での高利の事業は金融業と商業とであった。金融業としては大名貸し、大名家臣に対する小口貸付け(家中貸し)、農村に対する抵当貸付け(郷貸し)があり、商業としては米の売買を行った。また近親者よりの小口の出資を集めて「わけ貸し」(加入貸し)を組織した
- [9]寛文七年(一六六七)には十五歳の長男の高平を俊次の店へ入れて商売の道を見習わせた。翌八年には次男高富も同様にした。ついで同十二年三男の高治(十六歳)を兄の店へ送った。腹心の使用人を長兄の店へ送り、商売の実際を見習わせた
1673年7月、京都で仕入れを担っていた長兄が急死し、江戸への出店を阻んでいた壁が消えた。三井高利氏は52歳になっていた。三井高平氏が江戸本町一丁目に間口9尺の店を借り、8月には京都の室町薬師町に間口8尺の仕入店を構えた。江戸店は三井高富氏、京都の仕入店は三井高平氏に任せ、三井高利氏自身は松坂から指示を送った。開店に際しては、屋敷での掛売りや博打、手代が金銭を手元に置くことを禁じ、月3回の夜に商売の反省と相談の場を設ける店規を自ら書き下ろした。
- 三井財閥史 近世・明治編(安岡重明, 教育社, 1979)「江戸時代の三井家の発展」
- [10]江戸開店の準備にとりかかることになったとき、京都に居住して仕入れにあたっていた長兄の俊次が突然病死した。延宝元年(一六七三)七月十四日であった。高利の江戸店開業の障壁はとりのぞかれた。ときに高利は五十二歳
- [11]江戸開店の準備にとりかかることになったとき、京都に居住して仕入れにあたっていた長兄の俊次が突然病死した。延宝元年(一六七三)七月十四日であった。高利の江戸店開業の障壁はとりのぞかれた。ときに高利は五十二歳
- [12]ただちに高平は江戸本町一丁目に間口九尺の店舗を借り受けた。八月初旬には高利は京都に登り、室町薬師町に間口八尺の明いた店をみつけ、家賃一年銀二〇〇目で借り受けて呉服の仕入店とした
- [13]当初高利は自分は松坂にいて、江戸店を次男の高富に、京の仕入店を長男の高平に任せて、松坂から指示していた
- 株式会社三越85年の記録(三越, 1990)資料編「延宝元年『式目』25ヶ条」
- [14]延宝元年(1673)8月10日越後屋江戸店開店に際し三井高利が自ら書き下した店規。諸勝負事の禁止、屋敷での掛売りの禁止、手代が自分で金銭を所持することの禁止(主人に預けよ)、毎月一日・十五日・廿八日の三回、夜に商売上の反省や相談を行うこと
本町通の大店は得意先を回って注文を取る見世物商いと屋敷売りが主で、代金は年1〜2回の掛売りだったため、貸倒れの危険を上乗せした高値になっていた。後発で資本の乏しい越後屋は、諸国の商人への卸売りと、店先で現金と引き換えに売る店前売りを打ち出し、資金と商品の回転を速めて薄利でも利益額を積み上げた。同業者は越後屋を仲間から外し、店員への脅しや京都での仕入れの妨害にまで及んだ。1682年冬に本町通が大火に遭うと駿河町に店を建てて翌年に移り、「現金安売無掛値」を掲げた引札を江戸市中に配った。
- 三井財閥史 近世・明治編(安岡重明, 教育社, 1979)「江戸時代の三井家の発展」
- [15]既成の呉服屋の商法は見世物商いと屋敷売りを特色とし、支払い方法は二節期払いか極月払いで、年に一度か二度だけに支払う掛売りだった。支払いの遅れ・貸倒れが生じやすく、その危険を見込んで価格をつけるから高価となった
- [16]越後屋は新規参入の小資本であったから、諸国商人売り(諸国の商人に対する卸売り)と店前売り(店さきで現金で小売り)を実行した。資金と商品の回転を速くすることができたから、薄利でも利益額は大きくなった
- [17]呉服屋仲間の反感から越後屋を仲間はずれにする運動が成功した。同業者は京都での仕入れの妨害を試み、店員を脅迫したりした
- [18]天和二年(一六八二)の冬、本町通が大火に見舞われたのを機会に、すばやく駿河町に店を建築し、翌年本町一丁目の店を移した。駿河町に店舗をかまえると江戸市中に「呉服物現金 安売無掛値」の引札をくばった
駿河町への移転と同時に江戸両替店を併置し、1687年に幕府の呉服御用達を命じられると、同業者との紛争もおさまった。1691年には金銀御為替御用達となり、大坂高麗橋に大坂両替店を開設して、江戸・京都・大坂の三都に呉服店と両替店をそろえた。三井高利氏は1694年、数えで73歳で没した。越後屋の呉服業は1904年12月に資本金50万円の株式会社三越呉服店へ引き継がれ、2008年4月には三越と伊勢丹が株式移転で三越伊勢丹ホールディングスを設立した。
- 三井財閥史 近世・明治編(安岡重明, 教育社, 1979)「江戸時代の三井家の発展」
- [19]天和三年(一六八三)五月には本町一丁目店を駿河町に移転し、同時に江戸両替店を併置した。同業者との紛争は、貞享四年(一六八七)に越後屋が幕府の呉服御用達を命ぜられることによってやんだ
- [20]元禄四年二月には金銀御為替御用達となり、同年大坂高麗橋一丁目に大坂両替店を開設した。こうして三井家は江戸・京都・大坂という三都に呉服店、両替店を開設した
- 越後屋覚書(豊泉益三, 1955)「三井家の起源とその家憲」
- [21]高利は元祿七年五月六日七十三歳で歿し、京都の真如堂に葬った
- 株式会社三越85年の記録(三越, 1990)「日本百貨店総覧」三越(昭和8年版)抜粋・資料編「デパートメントストア宣言」
- [22]明治37年12月6日に三井呉服店を解散、新たに資本金50万円の株式会社三越呉服店を設立した。明治三十七年十二月の挨拶状「合名會社三井呉服店の營業を其儘引繼ぎ」
- 株式会社三越伊勢丹ホールディングス 有価証券報告書(2009年3月期)【沿革】
- [23]平成20年4月1日 株式会社三越と株式会社伊勢丹が株式移転の方法により当社を設立。当社の普通株式を東京証券取引所に上場
参考文献3件
参考文献
- 三井財閥史 近世・明治編(安岡重明, 教育社, 1979)「江戸時代の三井家の発展」
- 越後屋覚書(豊泉益三, 1955)「三井家の起源とその家憲」
- 株式会社三越85年の記録(三越, 1990)
事実根拠:出所(三越伊勢丹ホールディングス)