第1章 年〜年

片倉工業:片倉組の器械製糸と諏訪からの製糸網の拡大

1873年〜川岸村の10人繰り座繰りと、天竜川の水車で回した32人繰りの垣外製糸場

片倉家の製糸は、1873年に長男の片倉兼太郎氏(初代)が諏訪の自邸前の小屋で始めた10人繰りの座繰り製糸を起点とする。片倉家は江戸時代に帰農し、代々三沢区の里正を務めた農家である。片倉兼太郎氏は当時24歳で公職を抱えていたため、日々の経営は次男の片倉光治氏が担った。弟にはほかに、のち今井家の養子となる片倉五介氏と、のち2代兼太郎を継ぐ片倉佐一氏がいた。片倉兼太郎氏は、製糸が将来の国富の増進に寄与する重要産業になると見通した。日本の生糸輸出は、1868年の20万貫足らずから明治9〜10年ごろに30万貫近くへ増えた。原料がすべて国産の生糸は、輸出した額がそのまま外貨の獲得になる品目だった。ただし始めた当初の製糸は、片倉家にとって農業の傍らの副業にとどまった。

  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [1]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [2]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [3]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [4]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [7]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [8]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
  • 会社銀行八十年史 1955「片倉工業」
    • [5]片倉兼太郎は製糸事業が将来国富増進に寄与する重要産業になると洞察し、1873年に弟光治と製糸業を始めた
  • 会社銀行八十年史 1955「製糸」
    • [6]生糸輸出は1868年の20万貫足らずから明治9〜10年ごろに30万貫近くへ増加

1878年6月、片倉兼太郎氏は諏訪郡川岸村深沢の天竜川畔に32人繰りの洋式器械製糸場を開設し、地名から垣外製糸場と名付けた。製糸を副業から片倉家の本業に改めるため、新鋭工場の建設を決めたのである。建物は長さ13間・奥行7間で、動力は天竜川にかけた直径約11.15メートルの水車、雇い入れたのは男工2人と女工34人。工場の管理には主に片倉光治氏が当たり、のちに弟の片倉五介氏と片倉佐一氏も加わった。垣外の規模を23釜の洋式機械製糸とする記録もあり、釜数には資料による異同がある。水力で回す器械への転換により、片倉家の製糸は家内の手仕事から工場の経営へ性格を変えたとみられる。

  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [9]1878年6月、川岸村深沢の天竜川畔に32人繰りの洋式製糸工場・垣外製糸場を開業。本業化のための新鋭工場。建物13間×7間、直径約11.15mの水車動力、男工2人・女工34人。管理は光治、のち五介・佐一も協力
    • [10]1878年6月、川岸村深沢の天竜川畔に32人繰りの洋式製糸工場・垣外製糸場を開業。本業化のための新鋭工場。建物13間×7間、直径約11.15mの水車動力、男工2人・女工34人。管理は光治、のち五介・佐一も協力
    • [11]1878年6月、川岸村深沢の天竜川畔に32人繰りの洋式製糸工場・垣外製糸場を開業。本業化のための新鋭工場。建物13間×7間、直径約11.15mの水車動力、男工2人・女工34人。管理は光治、のち五介・佐一も協力
    • [12]1878年6月、川岸村深沢の天竜川畔に32人繰りの洋式製糸工場・垣外製糸場を開業。本業化のための新鋭工場。建物13間×7間、直径約11.15mの水車動力、男工2人・女工34人。管理は光治、のち五介・佐一も協力
  • 会社銀行八十年史 1955「片倉工業」
    • [13]1878年6月、長野県諏訪郡に23釜の洋式機械製糸・垣外製糸所を建設(釜数の記載がフロンティア物語の32人繰りと異なる)

垣外製糸場は操業を始めた1878年7月、従弟の片倉俊太郎氏が営む一之沢社や近隣の同業者と共同出荷組合の深沢社を設けた。一之沢社は、片倉俊太郎氏が1876年に村の有志と始めた32釜の器械製糸場である。翌1879年1月には深沢社を広げて揚返と出荷を共同で担う開明社に改め、川岸村から岡谷方面の同業者の大半が加わった。小さな製糸場の糸は品質が粗くなりやすく、開明社は共同の揚返と出荷で質を揃えて開明社生糸の名を高めた。製糸の経営は明治6年以後、各地で地域的な結社の形をとって広がった。1881年には垣外製糸場が片倉俊太郎氏の製糸業を合併し、釜数を60釜とした。生糸を横浜の売込問屋へ送るほかなかった当時、共同出荷は規模の小さい荷主の交渉力を補う手立てでもあったのだろう。

  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [14]1878年7月に一之沢社(片倉俊太郎が1876年に始めた32釜)等と共同出荷組合深沢社を創設、1879年1月に共同揚返共同出荷組合の開明社へ発展。川岸村・岡谷方面の大部分が参加し開明社生糸の名声を高めた。1881年に俊太郎の製糸業を合併し60釜。当時の製糸業者は横浜の売込問屋に送り出すだけだった
    • [15]1878年7月に一之沢社(片倉俊太郎が1876年に始めた32釜)等と共同出荷組合深沢社を創設、1879年1月に共同揚返共同出荷組合の開明社へ発展。川岸村・岡谷方面の大部分が参加し開明社生糸の名声を高めた。1881年に俊太郎の製糸業を合併し60釜。当時の製糸業者は横浜の売込問屋に送り出すだけだった
    • [16]1878年7月に一之沢社(片倉俊太郎が1876年に始めた32釜)等と共同出荷組合深沢社を創設、1879年1月に共同揚返共同出荷組合の開明社へ発展。川岸村・岡谷方面の大部分が参加し開明社生糸の名声を高めた。1881年に俊太郎の製糸業を合併し60釜。当時の製糸業者は横浜の売込問屋に送り出すだけだった
    • [17]1878年7月に一之沢社(片倉俊太郎が1876年に始めた32釜)等と共同出荷組合深沢社を創設、1879年1月に共同揚返共同出荷組合の開明社へ発展。川岸村・岡谷方面の大部分が参加し開明社生糸の名声を高めた。1881年に俊太郎の製糸業を合併し60釜。当時の製糸業者は横浜の売込問屋に送り出すだけだった
    • [19]1878年7月に一之沢社(片倉俊太郎が1876年に始めた32釜)等と共同出荷組合深沢社を創設、1879年1月に共同揚返共同出荷組合の開明社へ発展。川岸村・岡谷方面の大部分が参加し開明社生糸の名声を高めた。1881年に俊太郎の製糸業を合併し60釜。当時の製糸業者は横浜の売込問屋に送り出すだけだった
  • 会社銀行八十年史 1955「製糸」
    • [18]独立した製糸業の経営は明治6年以後、各地に地域的な結社として行われ始めた
参考文献[1]-[19]
  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [1]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [2]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [3]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [4]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [7]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [8]1873年、初代片倉兼太郎(24歳)が自邸前の小屋で10人繰りの座繰製糸を開始。公職があったため経営は次男光治が担当。当初は副業。片倉家は徳川時代に帰農し三沢区の里正。生糸は原料が国産で輸出がそのまま外貨獲得
    • [9]1878年6月、川岸村深沢の天竜川畔に32人繰りの洋式製糸工場・垣外製糸場を開業。本業化のための新鋭工場。建物13間×7間、直径約11.15mの水車動力、男工2人・女工34人。管理は光治、のち五介・佐一も協力
    • [10]1878年6月、川岸村深沢の天竜川畔に32人繰りの洋式製糸工場・垣外製糸場を開業。本業化のための新鋭工場。建物13間×7間、直径約11.15mの水車動力、男工2人・女工34人。管理は光治、のち五介・佐一も協力
    • [11]1878年6月、川岸村深沢の天竜川畔に32人繰りの洋式製糸工場・垣外製糸場を開業。本業化のための新鋭工場。建物13間×7間、直径約11.15mの水車動力、男工2人・女工34人。管理は光治、のち五介・佐一も協力
    • [12]1878年6月、川岸村深沢の天竜川畔に32人繰りの洋式製糸工場・垣外製糸場を開業。本業化のための新鋭工場。建物13間×7間、直径約11.15mの水車動力、男工2人・女工34人。管理は光治、のち五介・佐一も協力
    • [14]1878年7月に一之沢社(片倉俊太郎が1876年に始めた32釜)等と共同出荷組合深沢社を創設、1879年1月に共同揚返共同出荷組合の開明社へ発展。川岸村・岡谷方面の大部分が参加し開明社生糸の名声を高めた。1881年に俊太郎の製糸業を合併し60釜。当時の製糸業者は横浜の売込問屋に送り出すだけだった
    • [15]1878年7月に一之沢社(片倉俊太郎が1876年に始めた32釜)等と共同出荷組合深沢社を創設、1879年1月に共同揚返共同出荷組合の開明社へ発展。川岸村・岡谷方面の大部分が参加し開明社生糸の名声を高めた。1881年に俊太郎の製糸業を合併し60釜。当時の製糸業者は横浜の売込問屋に送り出すだけだった
    • [16]1878年7月に一之沢社(片倉俊太郎が1876年に始めた32釜)等と共同出荷組合深沢社を創設、1879年1月に共同揚返共同出荷組合の開明社へ発展。川岸村・岡谷方面の大部分が参加し開明社生糸の名声を高めた。1881年に俊太郎の製糸業を合併し60釜。当時の製糸業者は横浜の売込問屋に送り出すだけだった
    • [17]1878年7月に一之沢社(片倉俊太郎が1876年に始めた32釜)等と共同出荷組合深沢社を創設、1879年1月に共同揚返共同出荷組合の開明社へ発展。川岸村・岡谷方面の大部分が参加し開明社生糸の名声を高めた。1881年に俊太郎の製糸業を合併し60釜。当時の製糸業者は横浜の売込問屋に送り出すだけだった
    • [19]1878年7月に一之沢社(片倉俊太郎が1876年に始めた32釜)等と共同出荷組合深沢社を創設、1879年1月に共同揚返共同出荷組合の開明社へ発展。川岸村・岡谷方面の大部分が参加し開明社生糸の名声を高めた。1881年に俊太郎の製糸業を合併し60釜。当時の製糸業者は横浜の売込問屋に送り出すだけだった
  • 会社銀行八十年史 1955「片倉工業」
    • [5]片倉兼太郎は製糸事業が将来国富増進に寄与する重要産業になると洞察し、1873年に弟光治と製糸業を始めた
    • [13]1878年6月、長野県諏訪郡に23釜の洋式機械製糸・垣外製糸所を建設(釜数の記載がフロンティア物語の32人繰りと異なる)
  • 会社銀行八十年史 1955「製糸」
    • [6]生糸輸出は1868年の20万貫足らずから明治9〜10年ごろに30万貫近くへ増加
    • [18]独立した製糸業の経営は明治6年以後、各地に地域的な結社として行われ始めた

1880年〜松本市に出た最初の県内分工場と、同族で組んだ匿名組合片倉組

1890年、片倉家は諏訪郡の外へ出る最初の拠点として松本市に48釜の松本製糸場を建て、同年6月に操業を始めた。会社銀行八十年史も、1890年の松本での製糸所建設を信州を中心とする事業拡張の第一歩に位置付ける。これに先立ち、本家の片倉兼太郎氏・新家の片倉光治氏・新宅の片倉俊太郎氏の3家は持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年には川岸村の天竜川畔で360釜の工場の建設に着手し、翌1894年に完成させた。3家が協力して製糸に全力を注ぐという意味から三全社と名付けられた工場は、当時の国内最大規模である。同じころ垣外製糸場は160釜、松本製糸場は168釜まで釜数を増やした。諏訪の外で最初に選んだ松本は、繭の産地である松本平の原料を確保する拠点だったと推察される。

  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [20]1890年、郡外発展の第一歩として松本市に48釜の松本製糸場を建設し6月操業。本家(兼太郎)・新家(光治)・新宅(俊太郎)の持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年着工・1894年完成の360釜の三全社は当時わが国最大規模。垣外160釜・松本168釜
    • [22]1890年、郡外発展の第一歩として松本市に48釜の松本製糸場を建設し6月操業。本家(兼太郎)・新家(光治)・新宅(俊太郎)の持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年着工・1894年完成の360釜の三全社は当時わが国最大規模。垣外160釜・松本168釜
    • [23]1890年、郡外発展の第一歩として松本市に48釜の松本製糸場を建設し6月操業。本家(兼太郎)・新家(光治)・新宅(俊太郎)の持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年着工・1894年完成の360釜の三全社は当時わが国最大規模。垣外160釜・松本168釜
    • [24]1890年、郡外発展の第一歩として松本市に48釜の松本製糸場を建設し6月操業。本家(兼太郎)・新家(光治)・新宅(俊太郎)の持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年着工・1894年完成の360釜の三全社は当時わが国最大規模。垣外160釜・松本168釜
    • [25]1890年、郡外発展の第一歩として松本市に48釜の松本製糸場を建設し6月操業。本家(兼太郎)・新家(光治)・新宅(俊太郎)の持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年着工・1894年完成の360釜の三全社は当時わが国最大規模。垣外160釜・松本168釜
  • 会社銀行八十年史 1955「片倉工業」
    • [21]1890年の松本市の製糸所建設を第一歩に、信州を中心に発展の基盤を固めた

1895年、片倉家が垣外・松本・三全社の3工場を統轄するため組織したのが、同族の匿名組合の片倉組である。3工場の釜数は合わせて688釜に達し、片倉は製糸業界で頭角を現した。片倉組は組織と同時に東京支店を設け、中央への進出を図った。この東京支店の所在地は、1955年時点の本社がある東京・京橋の地にあたる。製糸の経営は明治20年代から、地域の結社に代わって株式会社や匿名組合の組織で営まれるものが現れた。片倉組は1920年3月に片倉製糸紡績へ改組されるまで、同族の匿名組合のまま事業を広げた。出資を一族に限る匿名組合は、外部の株主に左右されずに一族の資金と出荷を一つの組で回す仕組みだったと思われる。

  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [26]1895年、垣外・松本・三全社(計688釜)を統轄するため匿名組合片倉組を組織し、同時に中央進出のため東京支店を設置
    • [27]1895年、垣外・松本・三全社(計688釜)を統轄するため匿名組合片倉組を組織し、同時に中央進出のため東京支店を設置
    • [28]1895年、垣外・松本・三全社(計688釜)を統轄するため匿名組合片倉組を組織し、同時に中央進出のため東京支店を設置
  • 会社銀行八十年史 1955「片倉工業」
    • [29]1895年に片倉同族の匿名組合片倉組を組織し、東京の現本社所在地(1955年時点の本社は東京都中央区京橋3の2)に支店を設けた
  • 会社銀行八十年史 1955「製糸」
    • [30]製糸経営は明治20年代より株式会社や匿名組合その他の組織で設立されるものが現われ、郡是製糸・片倉工業等はこの時代に生まれた
  • 企業の歴史 明治百年 1968「片倉工業」
    • [31]1920年3月、将来の発展を期して事業の公開を決定し、片倉組を改組した
参考文献[20]-[31]
  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [20]1890年、郡外発展の第一歩として松本市に48釜の松本製糸場を建設し6月操業。本家(兼太郎)・新家(光治)・新宅(俊太郎)の持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年着工・1894年完成の360釜の三全社は当時わが国最大規模。垣外160釜・松本168釜
    • [22]1890年、郡外発展の第一歩として松本市に48釜の松本製糸場を建設し6月操業。本家(兼太郎)・新家(光治)・新宅(俊太郎)の持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年着工・1894年完成の360釜の三全社は当時わが国最大規模。垣外160釜・松本168釜
    • [23]1890年、郡外発展の第一歩として松本市に48釜の松本製糸場を建設し6月操業。本家(兼太郎)・新家(光治)・新宅(俊太郎)の持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年着工・1894年完成の360釜の三全社は当時わが国最大規模。垣外160釜・松本168釜
    • [24]1890年、郡外発展の第一歩として松本市に48釜の松本製糸場を建設し6月操業。本家(兼太郎)・新家(光治)・新宅(俊太郎)の持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年着工・1894年完成の360釜の三全社は当時わが国最大規模。垣外160釜・松本168釜
    • [25]1890年、郡外発展の第一歩として松本市に48釜の松本製糸場を建設し6月操業。本家(兼太郎)・新家(光治)・新宅(俊太郎)の持ち分を5分の2・5分の1・5分の2と定めた。1893年着工・1894年完成の360釜の三全社は当時わが国最大規模。垣外160釜・松本168釜
    • [26]1895年、垣外・松本・三全社(計688釜)を統轄するため匿名組合片倉組を組織し、同時に中央進出のため東京支店を設置
    • [27]1895年、垣外・松本・三全社(計688釜)を統轄するため匿名組合片倉組を組織し、同時に中央進出のため東京支店を設置
    • [28]1895年、垣外・松本・三全社(計688釜)を統轄するため匿名組合片倉組を組織し、同時に中央進出のため東京支店を設置
  • 会社銀行八十年史 1955「片倉工業」
    • [21]1890年の松本市の製糸所建設を第一歩に、信州を中心に発展の基盤を固めた
    • [29]1895年に片倉同族の匿名組合片倉組を組織し、東京の現本社所在地(1955年時点の本社は東京都中央区京橋3の2)に支店を設けた
  • 会社銀行八十年史 1955「製糸」
    • [30]製糸経営は明治20年代より株式会社や匿名組合その他の組織で設立されるものが現われ、郡是製糸・片倉工業等はこの時代に生まれた
  • 企業の歴史 明治百年 1968「片倉工業」
    • [31]1920年3月、将来の発展を期して事業の公開を決定し、片倉組を改組した

1898年〜繭不足で出た大宮・八王子の製糸場と、682釜の平野製糸所

長野県内の繭が不足したため、片倉組は1898年に県外へ出た。同年、東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設し、のちに武州大宮町へ移して大宮製糸場(50釜)とした。同じ1898年に武州八王子の荻原彦七氏が営む製糸工場を買収し、八王子製糸場(160釜)と改めた。政府は1898年4月から生糸直輸出奨励金を交付し、同年の金本位制の採用で為替相場も安定した。1900年には生糸の輸出税も撤廃。大宮は、のちに郡山・高畠・一宮へ続く県外拠点の最初の一つとなった。輸出の条件が整った時期に、片倉組は新設と買収を組み合わせて繭の産地ごとに工場を得たと考えられる。

  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [32]県内の繭不足に対処し、1898年に東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設(のち武州大宮町へ移し大宮製糸場50釜)、同年武州八王子の荻原彦七経営の工場を買収し八王子製糸場(160釜)。1898年4月から生糸直輸出奨励金、1900年に生糸輸出税撤廃、1898年に金本位制採用
    • [33]県内の繭不足に対処し、1898年に東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設(のち武州大宮町へ移し大宮製糸場50釜)、同年武州八王子の荻原彦七経営の工場を買収し八王子製糸場(160釜)。1898年4月から生糸直輸出奨励金、1900年に生糸輸出税撤廃、1898年に金本位制採用
    • [34]県内の繭不足に対処し、1898年に東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設(のち武州大宮町へ移し大宮製糸場50釜)、同年武州八王子の荻原彦七経営の工場を買収し八王子製糸場(160釜)。1898年4月から生糸直輸出奨励金、1900年に生糸輸出税撤廃、1898年に金本位制採用
    • [35]県内の繭不足に対処し、1898年に東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設(のち武州大宮町へ移し大宮製糸場50釜)、同年武州八王子の荻原彦七経営の工場を買収し八王子製糸場(160釜)。1898年4月から生糸直輸出奨励金、1900年に生糸輸出税撤廃、1898年に金本位制採用
    • [36]県内の繭不足に対処し、1898年に東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設(のち武州大宮町へ移し大宮製糸場50釜)、同年武州八王子の荻原彦七経営の工場を買収し八王子製糸場(160釜)。1898年4月から生糸直輸出奨励金、1900年に生糸輸出税撤廃、1898年に金本位制採用
  • 会社銀行八十年史 1955「片倉工業」
    • [37]信州を中心に基盤を固め、さらに大宮・郡山・高畠・一宮・姫路・上井・鳥栖・大分等全国に事業を拡張

1909年、片倉組は諏訪郡平野村の林国蔵氏が所有する682釜の製糸工場を買収し、平野製糸所と改めた。682釜は、1894年に国内最大規模とされた三全社の360釜の2倍近い規模だった。県内の買収はそれ以前から続き、1898年に川岸村の小口亀弥氏の100釜の工場を丸大製糸場とした。1899年には川岸村に96釜の丸七製糸場を新設し、諏訪町の七曜星社製糸場を買収して丸六製糸場(100釜)に改称。1905年には下伊那郡の松葉製糸工場(230釜)を買収して飯田製糸所とした。明治30年代の日本の生糸輸出は年150万貫前後に増え、生産の8割を占めた。既存の大工場の取得は、新設を待たずに製糸の中心地で釜数を積み増す手段だったと推測される。

  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [38]1909年に平野村林国蔵所有の製糸工場(682釜)を買収し平野製糸所。1898年川岸村小口亀弥の100釜を買収し丸大製糸場、1899年丸七製糸場(96釜)新設・七曜星社を買収し丸六製糸場(100釜)、1905年松葉製糸工場(230釜)を買収し飯田製糸所。三全社360釜は当時最大規模
    • [39]1909年に平野村林国蔵所有の製糸工場(682釜)を買収し平野製糸所。1898年川岸村小口亀弥の100釜を買収し丸大製糸場、1899年丸七製糸場(96釜)新設・七曜星社を買収し丸六製糸場(100釜)、1905年松葉製糸工場(230釜)を買収し飯田製糸所。三全社360釜は当時最大規模
    • [40]1909年に平野村林国蔵所有の製糸工場(682釜)を買収し平野製糸所。1898年川岸村小口亀弥の100釜を買収し丸大製糸場、1899年丸七製糸場(96釜)新設・七曜星社を買収し丸六製糸場(100釜)、1905年松葉製糸工場(230釜)を買収し飯田製糸所。三全社360釜は当時最大規模
    • [41]1909年に平野村林国蔵所有の製糸工場(682釜)を買収し平野製糸所。1898年川岸村小口亀弥の100釜を買収し丸大製糸場、1899年丸七製糸場(96釜)新設・七曜星社を買収し丸六製糸場(100釜)、1905年松葉製糸工場(230釜)を買収し飯田製糸所。三全社360釜は当時最大規模
    • [42]1909年に平野村林国蔵所有の製糸工場(682釜)を買収し平野製糸所。1898年川岸村小口亀弥の100釜を買収し丸大製糸場、1899年丸七製糸場(96釜)新設・七曜星社を買収し丸六製糸場(100釜)、1905年松葉製糸工場(230釜)を買収し飯田製糸所。三全社360釜は当時最大規模
  • 会社銀行八十年史 1955「製糸」
    • [43]生糸輸出は明治30年代に150万貫を上下し、生産の8割を占めた

片倉組は1911年に川岸村へ丸五製糸所(180釜)を、1912年に松本市へ丸四製糸所(244釜)を設け、県内の拠点を厚くした。県外では1905年に仙台市へ200釜の仙台製糸所を新設し、1907年に武州熊谷町の工場を買収して改めたのが石原製糸所(150釜)である。1908年に愛知県一宮町へ300釜の愛知製糸所を設け、1909年に山形県高畠町の工場を買収して両羽製糸所(214釜)とした。1912年には福島県郡山町に240釜の岩代製糸所を設けた。この間、富士瓦斯紡績と共同で川岸村に川岸精練所を起こし、副産糸の精練にも着手した。会社銀行八十年史は、片倉の拠点として郡山・高畠・一宮に加え、のちの姫路・上井・鳥栖・大分の名を挙げる。県内外に散らばった工場群は、同族の組合という組織では運営しきれない規模に近づいていたとみてよい。

  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [44]1911年川岸村に丸五製糸所(180釜)、1912年松本市に丸四製糸所(244釜)。1905年仙台製糸所(200釜)新設、1907年熊谷の三木原製糸場を買収し石原製糸所(150釜)、1908年愛知製糸所(300釜)、1909年高畠の両羽製糸工場を買収し両羽製糸所(214釜)、1912年郡山町に岩代製糸所(240釜。本文は「福岡県」と誤植)、富士瓦斯紡績と共同で川岸精練所
    • [45]1911年川岸村に丸五製糸所(180釜)、1912年松本市に丸四製糸所(244釜)。1905年仙台製糸所(200釜)新設、1907年熊谷の三木原製糸場を買収し石原製糸所(150釜)、1908年愛知製糸所(300釜)、1909年高畠の両羽製糸工場を買収し両羽製糸所(214釜)、1912年郡山町に岩代製糸所(240釜。本文は「福岡県」と誤植)、富士瓦斯紡績と共同で川岸精練所
    • [46]1911年川岸村に丸五製糸所(180釜)、1912年松本市に丸四製糸所(244釜)。1905年仙台製糸所(200釜)新設、1907年熊谷の三木原製糸場を買収し石原製糸所(150釜)、1908年愛知製糸所(300釜)、1909年高畠の両羽製糸工場を買収し両羽製糸所(214釜)、1912年郡山町に岩代製糸所(240釜。本文は「福岡県」と誤植)、富士瓦斯紡績と共同で川岸精練所
    • [47]1911年川岸村に丸五製糸所(180釜)、1912年松本市に丸四製糸所(244釜)。1905年仙台製糸所(200釜)新設、1907年熊谷の三木原製糸場を買収し石原製糸所(150釜)、1908年愛知製糸所(300釜)、1909年高畠の両羽製糸工場を買収し両羽製糸所(214釜)、1912年郡山町に岩代製糸所(240釜。本文は「福岡県」と誤植)、富士瓦斯紡績と共同で川岸精練所
    • [48]1911年川岸村に丸五製糸所(180釜)、1912年松本市に丸四製糸所(244釜)。1905年仙台製糸所(200釜)新設、1907年熊谷の三木原製糸場を買収し石原製糸所(150釜)、1908年愛知製糸所(300釜)、1909年高畠の両羽製糸工場を買収し両羽製糸所(214釜)、1912年郡山町に岩代製糸所(240釜。本文は「福岡県」と誤植)、富士瓦斯紡績と共同で川岸精練所
  • 会社銀行八十年史 1955「片倉工業」
    • [49]事業網は大宮・郡山・高畠・一宮・姫路・上井・鳥栖・大分等全国に拡張
参考文献[32]-[49]
  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
    • [32]県内の繭不足に対処し、1898年に東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設(のち武州大宮町へ移し大宮製糸場50釜)、同年武州八王子の荻原彦七経営の工場を買収し八王子製糸場(160釜)。1898年4月から生糸直輸出奨励金、1900年に生糸輸出税撤廃、1898年に金本位制採用
    • [33]県内の繭不足に対処し、1898年に東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設(のち武州大宮町へ移し大宮製糸場50釜)、同年武州八王子の荻原彦七経営の工場を買収し八王子製糸場(160釜)。1898年4月から生糸直輸出奨励金、1900年に生糸輸出税撤廃、1898年に金本位制採用
    • [34]県内の繭不足に対処し、1898年に東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設(のち武州大宮町へ移し大宮製糸場50釜)、同年武州八王子の荻原彦七経営の工場を買収し八王子製糸場(160釜)。1898年4月から生糸直輸出奨励金、1900年に生糸輸出税撤廃、1898年に金本位制採用
    • [35]県内の繭不足に対処し、1898年に東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設(のち武州大宮町へ移し大宮製糸場50釜)、同年武州八王子の荻原彦七経営の工場を買収し八王子製糸場(160釜)。1898年4月から生糸直輸出奨励金、1900年に生糸輸出税撤廃、1898年に金本位制採用
    • [36]県内の繭不足に対処し、1898年に東京千駄ケ谷に32釜の器械製糸工場を新設(のち武州大宮町へ移し大宮製糸場50釜)、同年武州八王子の荻原彦七経営の工場を買収し八王子製糸場(160釜)。1898年4月から生糸直輸出奨励金、1900年に生糸輸出税撤廃、1898年に金本位制採用
    • [38]1909年に平野村林国蔵所有の製糸工場(682釜)を買収し平野製糸所。1898年川岸村小口亀弥の100釜を買収し丸大製糸場、1899年丸七製糸場(96釜)新設・七曜星社を買収し丸六製糸場(100釜)、1905年松葉製糸工場(230釜)を買収し飯田製糸所。三全社360釜は当時最大規模
    • [39]1909年に平野村林国蔵所有の製糸工場(682釜)を買収し平野製糸所。1898年川岸村小口亀弥の100釜を買収し丸大製糸場、1899年丸七製糸場(96釜)新設・七曜星社を買収し丸六製糸場(100釜)、1905年松葉製糸工場(230釜)を買収し飯田製糸所。三全社360釜は当時最大規模
    • [40]1909年に平野村林国蔵所有の製糸工場(682釜)を買収し平野製糸所。1898年川岸村小口亀弥の100釜を買収し丸大製糸場、1899年丸七製糸場(96釜)新設・七曜星社を買収し丸六製糸場(100釜)、1905年松葉製糸工場(230釜)を買収し飯田製糸所。三全社360釜は当時最大規模
    • [41]1909年に平野村林国蔵所有の製糸工場(682釜)を買収し平野製糸所。1898年川岸村小口亀弥の100釜を買収し丸大製糸場、1899年丸七製糸場(96釜)新設・七曜星社を買収し丸六製糸場(100釜)、1905年松葉製糸工場(230釜)を買収し飯田製糸所。三全社360釜は当時最大規模
    • [42]1909年に平野村林国蔵所有の製糸工場(682釜)を買収し平野製糸所。1898年川岸村小口亀弥の100釜を買収し丸大製糸場、1899年丸七製糸場(96釜)新設・七曜星社を買収し丸六製糸場(100釜)、1905年松葉製糸工場(230釜)を買収し飯田製糸所。三全社360釜は当時最大規模
    • [44]1911年川岸村に丸五製糸所(180釜)、1912年松本市に丸四製糸所(244釜)。1905年仙台製糸所(200釜)新設、1907年熊谷の三木原製糸場を買収し石原製糸所(150釜)、1908年愛知製糸所(300釜)、1909年高畠の両羽製糸工場を買収し両羽製糸所(214釜)、1912年郡山町に岩代製糸所(240釜。本文は「福岡県」と誤植)、富士瓦斯紡績と共同で川岸精練所
    • [45]1911年川岸村に丸五製糸所(180釜)、1912年松本市に丸四製糸所(244釜)。1905年仙台製糸所(200釜)新設、1907年熊谷の三木原製糸場を買収し石原製糸所(150釜)、1908年愛知製糸所(300釜)、1909年高畠の両羽製糸工場を買収し両羽製糸所(214釜)、1912年郡山町に岩代製糸所(240釜。本文は「福岡県」と誤植)、富士瓦斯紡績と共同で川岸精練所
    • [46]1911年川岸村に丸五製糸所(180釜)、1912年松本市に丸四製糸所(244釜)。1905年仙台製糸所(200釜)新設、1907年熊谷の三木原製糸場を買収し石原製糸所(150釜)、1908年愛知製糸所(300釜)、1909年高畠の両羽製糸工場を買収し両羽製糸所(214釜)、1912年郡山町に岩代製糸所(240釜。本文は「福岡県」と誤植)、富士瓦斯紡績と共同で川岸精練所
    • [47]1911年川岸村に丸五製糸所(180釜)、1912年松本市に丸四製糸所(244釜)。1905年仙台製糸所(200釜)新設、1907年熊谷の三木原製糸場を買収し石原製糸所(150釜)、1908年愛知製糸所(300釜)、1909年高畠の両羽製糸工場を買収し両羽製糸所(214釜)、1912年郡山町に岩代製糸所(240釜。本文は「福岡県」と誤植)、富士瓦斯紡績と共同で川岸精練所
    • [48]1911年川岸村に丸五製糸所(180釜)、1912年松本市に丸四製糸所(244釜)。1905年仙台製糸所(200釜)新設、1907年熊谷の三木原製糸場を買収し石原製糸所(150釜)、1908年愛知製糸所(300釜)、1909年高畠の両羽製糸工場を買収し両羽製糸所(214釜)、1912年郡山町に岩代製糸所(240釜。本文は「福岡県」と誤植)、富士瓦斯紡績と共同で川岸精練所
  • 会社銀行八十年史 1955「片倉工業」
    • [37]信州を中心に基盤を固め、さらに大宮・郡山・高畠・一宮・姫路・上井・鳥栖・大分等全国に事業を拡張
    • [49]事業網は大宮・郡山・高畠・一宮・姫路・上井・鳥栖・大分等全国に拡張
  • 会社銀行八十年史 1955「製糸」
    • [43]生糸輸出は明治30年代に150万貫を上下し、生産の8割を占めた

出典・参考

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出典・参考
  • 会社銀行八十年史 1955「片倉工業」
  • 会社銀行八十年史 1955「製糸」
  • 産業フロンティア物語 1966「生糸〈片倉工業〉」
  • 企業の歴史 明治百年 1968「片倉工業」

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