第2章 年〜年

キオクシアホールディングス:NAND型フラッシュメモリの量産と四日市工場の設立

HDD代替の断念からスマートメディアへ

1991年〜4MビットNANDの量産と四日市、そしてDRAM二世代連覇の宣言

新工場の最初の品種にDRAMを選ぶ

東芝は1991年、世界初の4MビットNAND型フラッシュメモリを製品化した。同じ年、東芝は社長の青井舒一氏の名で、1Mビットに続く4MビットDRAMの制覇を公言していた。メモリで2世代を続けて制覇した例は、それまでになかった。1Mビットは最初から制覇を狙ったのではなく、遅れを取り戻そうと走っていたら横に誰もいなくなっていた、というのが青井氏の説明である。4Mビットについても、青井氏は『4メガの場合でも、ただ一生懸命走っている。現在、日立さんが隣で走っていらっしゃるが、そのうち後ろに行っちゃうかもしれない』と構えていた。東芝の経営資源は、DRAMの連覇のほうへ向いた。1992年には三重県に四日市工場が発足し、1993年に始まった第1製造棟の操業で最初に作られた品種は16MビットDRAMだった。四日市でNAND型の生産が始まるのは、その6年後である。

  • キオクシア「History of our memory」(公式サイト・2019年10月)
    • [1]東芝は1991年に世界初の4MビットNAND型フラッシュメモリを製品化・量産した
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [2]東芝社長の青井舒一は1991年、1MビットDRAMに続いて4MビットDRAMも制覇すると公言した。2世代連続の制覇に前例はなく、1メガでは遅れていたため回復に努めた結果、気付けば横に誰もいなくなっていたと述べた
    • [3]東芝社長の青井舒一は1991年、1MビットDRAMに続いて4MビットDRAMも制覇すると公言した。2世代連続の制覇に前例はなく、1メガでは遅れていたため回復に努めた結果、気付けば横に誰もいなくなっていたと述べた
    • [4]東芝社長の青井舒一は1991年、1MビットDRAMに続いて4MビットDRAMも制覇すると公言した。2世代連続の制覇に前例はなく、1メガでは遅れていたため回復に努めた結果、気付けば横に誰もいなくなっていたと述べた
  • キオクシア「四日市工場の歴史」(公式サイト)
    • [5]1990〜92年に用地を造成し、1992年に四日市工場(三重県)が発足した。第1製造棟の操業開始は1993年で最初の生産品種は16MビットDRAM、NAND型フラッシュメモリの生産開始は1999年だった
    • [6]1990〜92年に用地を造成し、1992年に四日市工場(三重県)が発足した。第1製造棟の操業開始は1993年で最初の生産品種は16MビットDRAM、NAND型フラッシュメモリの生産開始は1999年だった
前工程を国内に集約し、現場の改善で削る

メモリの量産をどこで行うかについて、東芝は他社と逆の答えを出した。1993年に円高が進むと、日本電気・富士通・日立製作所は海外拠点の生産能力を増強した。東芝は前工程を大分・四日市・モトローラとの合弁である東北セミコンダクタの3工場に集中させたまま動かさなかった。1ドル100円までは日本で作るほうが安い、というのが半導体営業統括部の見立てである。国内に集中させた前工程を支えたのは、現場の改善だった。大分工場では、改善箇所に赤いシールを貼る絵符付けの提案が多い月で1000件に上った。1991年には15億円を投じた半導体技術訓練センターを設け、高卒の現場技術者を1年間養成した。量でみるとメモリの比率が大きく、市況の波は事業全体を振った。

  • 日経ビジネス 1994年2月7日号
    • [7]1993年の円高で日本電気・富士通・日立製作所が海外拠点のメモリ生産能力を増強する中、東芝は前工程を大分・四日市・東北セミコンダクタ(モトローラとの合弁)の3工場に集中させたまま海外生産を行わず、1ドル100円までは日本で作る方が安いとした。大分工場では改善提案の絵符付けが多い月で1000件に上り、1991年4月に15億円を投じた半導体技術訓練センターで高卒技術者を1年間養成した
    • [8]1993年の円高で日本電気・富士通・日立製作所が海外拠点のメモリ生産能力を増強する中、東芝は前工程を大分・四日市・東北セミコンダクタ(モトローラとの合弁)の3工場に集中させたまま海外生産を行わず、1ドル100円までは日本で作る方が安いとした。大分工場では改善提案の絵符付けが多い月で1000件に上り、1991年4月に15億円を投じた半導体技術訓練センターで高卒技術者を1年間養成した
    • [9]1993年の円高で日本電気・富士通・日立製作所が海外拠点のメモリ生産能力を増強する中、東芝は前工程を大分・四日市・東北セミコンダクタ(モトローラとの合弁)の3工場に集中させたまま海外生産を行わず、1ドル100円までは日本で作る方が安いとした。大分工場では改善提案の絵符付けが多い月で1000件に上り、1991年4月に15億円を投じた半導体技術訓練センターで高卒技術者を1年間養成した
    • [10]1993年の円高で日本電気・富士通・日立製作所が海外拠点のメモリ生産能力を増強する中、東芝は前工程を大分・四日市・東北セミコンダクタ(モトローラとの合弁)の3工場に集中させたまま海外生産を行わず、1ドル100円までは日本で作る方が安いとした。大分工場では改善提案の絵符付けが多い月で1000件に上り、1991年4月に15億円を投じた半導体技術訓練センターで高卒技術者を1年間養成した
    • [11]1993年の円高で日本電気・富士通・日立製作所が海外拠点のメモリ生産能力を増強する中、東芝は前工程を大分・四日市・東北セミコンダクタ(モトローラとの合弁)の3工場に集中させたまま海外生産を行わず、1ドル100円までは日本で作る方が安いとした。大分工場では改善提案の絵符付けが多い月で1000件に上り、1991年4月に15億円を投じた半導体技術訓練センターで高卒技術者を1年間養成した
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [12]東芝の半導体は全方位に品種を広げていたが、量でみるとメモリの割合が大きいため事業全体が市況に振られやすかった
円高と輸出停止処分の年に収益の目処を立てる

1993年度は、東芝の半導体事業本部にとって災難の年だった。上期には予想を上回る円高が進み、下期には旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁で27か国への1か月の輸出停止処分を受けた。それでも大山昌伸半導体事業本部長は、その年度の半導体事業の収益の目処はついたと言い切った。1994年3月期の半導体売上高は、前期比6%増の7300億円を見込んでいた。1993年3月期でメモリは半導体事業の売上高の36%を占めた。DRAMを中心とするMOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と、日立製作所と三星電子の9.9%を抑えて首位だった。三星電子は前年の投資でDRAMの首位に立っており、1993年には東芝がその攻勢を受けていた。

  • 日経ビジネス 1994年2月7日号
    • [13]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [14]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [15]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [16]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [17]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [18]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [20]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
  • 日経ビジネス 1996年11月11日号
    • [19]1992年の世界的な半導体不況下で日本勢が投資を抑制する中、三星電子は8インチウエハーの量産ライン投資を決断し、この投資戦略でDRAM世界首位に立った
参考文献[1]-[20]
    • [1]東芝は1991年に世界初の4MビットNAND型フラッシュメモリを製品化・量産した
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [2]東芝社長の青井舒一は1991年、1MビットDRAMに続いて4MビットDRAMも制覇すると公言した。2世代連続の制覇に前例はなく、1メガでは遅れていたため回復に努めた結果、気付けば横に誰もいなくなっていたと述べた
    • [3]東芝社長の青井舒一は1991年、1MビットDRAMに続いて4MビットDRAMも制覇すると公言した。2世代連続の制覇に前例はなく、1メガでは遅れていたため回復に努めた結果、気付けば横に誰もいなくなっていたと述べた
    • [4]東芝社長の青井舒一は1991年、1MビットDRAMに続いて4MビットDRAMも制覇すると公言した。2世代連続の制覇に前例はなく、1メガでは遅れていたため回復に努めた結果、気付けば横に誰もいなくなっていたと述べた
    • [12]東芝の半導体は全方位に品種を広げていたが、量でみるとメモリの割合が大きいため事業全体が市況に振られやすかった
    • [5]1990〜92年に用地を造成し、1992年に四日市工場(三重県)が発足した。第1製造棟の操業開始は1993年で最初の生産品種は16MビットDRAM、NAND型フラッシュメモリの生産開始は1999年だった
    • [6]1990〜92年に用地を造成し、1992年に四日市工場(三重県)が発足した。第1製造棟の操業開始は1993年で最初の生産品種は16MビットDRAM、NAND型フラッシュメモリの生産開始は1999年だった
  • 日経ビジネス 1994年2月7日号
    • [7]1993年の円高で日本電気・富士通・日立製作所が海外拠点のメモリ生産能力を増強する中、東芝は前工程を大分・四日市・東北セミコンダクタ(モトローラとの合弁)の3工場に集中させたまま海外生産を行わず、1ドル100円までは日本で作る方が安いとした。大分工場では改善提案の絵符付けが多い月で1000件に上り、1991年4月に15億円を投じた半導体技術訓練センターで高卒技術者を1年間養成した
    • [8]1993年の円高で日本電気・富士通・日立製作所が海外拠点のメモリ生産能力を増強する中、東芝は前工程を大分・四日市・東北セミコンダクタ(モトローラとの合弁)の3工場に集中させたまま海外生産を行わず、1ドル100円までは日本で作る方が安いとした。大分工場では改善提案の絵符付けが多い月で1000件に上り、1991年4月に15億円を投じた半導体技術訓練センターで高卒技術者を1年間養成した
    • [9]1993年の円高で日本電気・富士通・日立製作所が海外拠点のメモリ生産能力を増強する中、東芝は前工程を大分・四日市・東北セミコンダクタ(モトローラとの合弁)の3工場に集中させたまま海外生産を行わず、1ドル100円までは日本で作る方が安いとした。大分工場では改善提案の絵符付けが多い月で1000件に上り、1991年4月に15億円を投じた半導体技術訓練センターで高卒技術者を1年間養成した
    • [10]1993年の円高で日本電気・富士通・日立製作所が海外拠点のメモリ生産能力を増強する中、東芝は前工程を大分・四日市・東北セミコンダクタ(モトローラとの合弁)の3工場に集中させたまま海外生産を行わず、1ドル100円までは日本で作る方が安いとした。大分工場では改善提案の絵符付けが多い月で1000件に上り、1991年4月に15億円を投じた半導体技術訓練センターで高卒技術者を1年間養成した
    • [11]1993年の円高で日本電気・富士通・日立製作所が海外拠点のメモリ生産能力を増強する中、東芝は前工程を大分・四日市・東北セミコンダクタ(モトローラとの合弁)の3工場に集中させたまま海外生産を行わず、1ドル100円までは日本で作る方が安いとした。大分工場では改善提案の絵符付けが多い月で1000件に上り、1991年4月に15億円を投じた半導体技術訓練センターで高卒技術者を1年間養成した
    • [13]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [14]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [15]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [16]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [17]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [18]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
    • [20]1993年度の東芝半導体事業本部は上期の急激な円高と下期の旧東独への半導体技術輸出に対する行政制裁(27カ国への1カ月輸出停止処分)に見舞われたが、大山昌伸半導体事業本部長は同年度の半導体事業の収益の目処はついたと述べた。1994年3月期の半導体売上高は前期比6%増の7300億円見込み、1993年3月期でメモリは半導体事業売上高の36%を占め、MOSメモリの世界シェアは1992年で10.6%と日立製作所・三星電子(各9.9%)を抑えて首位、1993年は三星の攻勢を受けていた
  • 日経ビジネス 1996年11月11日号
    • [19]1992年の世界的な半導体不況下で日本勢が投資を抑制する中、三星電子は8インチウエハーの量産ライン投資を決断し、この投資戦略でDRAM世界首位に立った

1992年〜インテルのNOR型による市場先行と、HDD代替に賭けたNAND型

値下げで市場を開けた側と、助走と構えた側

フラッシュメモリの市場を先に取ったのは、米インテルだった。1992年3月、インテルは発売済みの1Mビット品と2Mビット品の価格を15%から50%引き下げた。4月には各社に先駆けて8Mビット品を4500円で発売し、DRAM並みで従来の半値に近い水準を付けた。これから4Mビットを量産化する日本勢は打撃を受けた、と日本のメーカーの関係者は述べた。置き換えの相手として見込まれたのは、当時5兆円、2000年には20兆円になるとされたハードディスクなどの磁気メモリ市場である。日本の各社は1Mから8Mビットを助走と位置づけ、市場が急拡大する16Mビット以降で本格的に競うと構えた。見える市場へ一斉に走る型は、DRAMで通用した型でもあった。

  • 日経ビジネス 1992年6月8日号
    • [21]インテルは1992年3月に発売済みの1メガ・2メガビットのフラッシュメモリ価格を15%から50%引き下げ、4月には各社に先駆け8メガビット品を4500円(DRAM並み・従来の半値近く)で発売した。日本メーカー関係者はこれから4メガを量産化する日本勢が打撃を受けたと述べ、日本の各社は1〜8メガビットを助走段階と位置づけ16メガビット以降で本格勝負する構えだった
    • [22]インテルは1992年3月に発売済みの1メガ・2メガビットのフラッシュメモリ価格を15%から50%引き下げ、4月には各社に先駆け8メガビット品を4500円(DRAM並み・従来の半値近く)で発売した。日本メーカー関係者はこれから4メガを量産化する日本勢が打撃を受けたと述べ、日本の各社は1〜8メガビットを助走段階と位置づけ16メガビット以降で本格勝負する構えだった
    • [23]インテルは1992年3月に発売済みの1メガ・2メガビットのフラッシュメモリ価格を15%から50%引き下げ、4月には各社に先駆け8メガビット品を4500円(DRAM並み・従来の半値近く)で発売した。日本メーカー関係者はこれから4メガを量産化する日本勢が打撃を受けたと述べ、日本の各社は1〜8メガビットを助走段階と位置づけ16メガビット以降で本格勝負する構えだった
    • [25]インテルは1992年3月に発売済みの1メガ・2メガビットのフラッシュメモリ価格を15%から50%引き下げ、4月には各社に先駆け8メガビット品を4500円(DRAM並み・従来の半値近く)で発売した。日本メーカー関係者はこれから4メガを量産化する日本勢が打撃を受けたと述べ、日本の各社は1〜8メガビットを助走段階と位置づけ16メガビット以降で本格勝負する構えだった
  • 日経ビジネス 1991年7月22日号
    • [24]フラッシュメモリが狙うハードディスクなどの磁気メモリ市場は当時5兆円で、2000年には20兆円以上になるとされた
直列のNAND型に寄せ、技術は韓国へ渡る

東芝が主力に選んだのは、自ら考案したNAND型だった。ULSI研究所研究第3部長の舛岡富士雄氏は『HDDとの代替にはNAND型が最も適している。ほかのメーカーもそれは分かっているはず』とみていた。NAND型は素子を直列につなぐ構造で、ビット当たりのコストがNOR型の半分強で済んだ。書き換えられる回数も原理的に1桁多く、書き換えにかかる時間も短かった。弱点は、読み出しの速度がNOR型より遅いことだった。東芝以外の日本メーカーの多くは、従来のEEPROMに技術的に近く扱いやすいNOR型から手をつけた。インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと言い切り、ハードディスクの置き換えに絞らず用途の開拓に力を入れた。東芝は1992年、そのNAND技術を韓国の三星電子へ供与した。三星は半導体不況で日本勢が投資を抑えた同じ年に8インチウエハーの量産ラインへ着手し、DRAMの世界首位へ出た。

  • 日経ビジネス 1992年6月8日号
    • [26]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
    • [27]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
    • [28]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
    • [29]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
    • [30]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
    • [31]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
  • IEEE Spectrum「Chip Hall of Fame: Toshiba NAND Flash Memory」
    • [32]東芝は1992年にNAND技術を三星電子(サムスン電子)へライセンス供与した
  • 日経ビジネス 1996年11月11日号
    • [33]1992年の世界的な半導体不況下で日本勢が投資を抑制する中、三星電子は8インチウエハーの量産ライン投資を決断し、この投資戦略でDRAM世界首位に立った
置き換えるはずの相手が先に小さくなる

置き換えの相手と見込んだハードディスクが、先に小さくなった。1992年6月、米ヒューレット・パッカードが開発した1.3インチの超小型ハードディスクが発表された。36.5×50.8×10.5ミリのマッチ箱ほどの大きさで重さ32グラム、記憶容量は約20メガバイトである。衝撃を検知するセンサーとガラス基板の採用で、動作中に1メートルの高さから落としても壊れなくなった。米データクエストは、1メガバイト当たりの単価が1995年でもハードディスクの5倍程度にとどまり、2000年時点でもなお割高だと予測した。東芝の見方は逆だった。舛岡富士雄氏は置き換えを『真空管とトランジスタの関係のように、HDDがいずれはフラッシュメモリーに置き換わるのは歴史の必然』と位置づけ、東芝は1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出す計画だった。

  • 日経ビジネス 1998年1月26日号
    • [34]1990年ごろまで東芝はフラッシュメモリを、パソコン用の大量記録媒体であるハードディスク装置の置き換えとして構想していた
  • 日経ビジネス 1992年9月14日号
    • [35]1992年6月11日に横河・ヒューレット・パッカードが発表した米HP開発の1.3インチ超小型HDD「キティーホーク」は36.5×50.8×10.5ミリ・32グラム・約20メガバイトで、衝撃検知センサーとガラス基板により動作中に1メートルの高さから落としても壊れない。米データクエストは1メガバイト当たり単価が1995年でもHDDの5倍程度、2000年時点でもHDDの方が安いと予測した。東芝ULSI研究所の舛岡富士雄はこれに反論し、1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出すと述べた
    • [36]1992年6月11日に横河・ヒューレット・パッカードが発表した米HP開発の1.3インチ超小型HDD「キティーホーク」は36.5×50.8×10.5ミリ・32グラム・約20メガバイトで、衝撃検知センサーとガラス基板により動作中に1メートルの高さから落としても壊れない。米データクエストは1メガバイト当たり単価が1995年でもHDDの5倍程度、2000年時点でもHDDの方が安いと予測した。東芝ULSI研究所の舛岡富士雄はこれに反論し、1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出すと述べた
    • [37]1992年6月11日に横河・ヒューレット・パッカードが発表した米HP開発の1.3インチ超小型HDD「キティーホーク」は36.5×50.8×10.5ミリ・32グラム・約20メガバイトで、衝撃検知センサーとガラス基板により動作中に1メートルの高さから落としても壊れない。米データクエストは1メガバイト当たり単価が1995年でもHDDの5倍程度、2000年時点でもHDDの方が安いと予測した。東芝ULSI研究所の舛岡富士雄はこれに反論し、1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出すと述べた
    • [38]1992年6月11日に横河・ヒューレット・パッカードが発表した米HP開発の1.3インチ超小型HDD「キティーホーク」は36.5×50.8×10.5ミリ・32グラム・約20メガバイトで、衝撃検知センサーとガラス基板により動作中に1メートルの高さから落としても壊れない。米データクエストは1メガバイト当たり単価が1995年でもHDDの5倍程度、2000年時点でもHDDの方が安いと予測した。東芝ULSI研究所の舛岡富士雄はこれに反論し、1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出すと述べた
    • [39]1992年6月11日に横河・ヒューレット・パッカードが発表した米HP開発の1.3インチ超小型HDD「キティーホーク」は36.5×50.8×10.5ミリ・32グラム・約20メガバイトで、衝撃検知センサーとガラス基板により動作中に1メートルの高さから落としても壊れない。米データクエストは1メガバイト当たり単価が1995年でもHDDの5倍程度、2000年時点でもHDDの方が安いと予測した。東芝ULSI研究所の舛岡富士雄はこれに反論し、1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出すと述べた
参考文献[21]-[39]
  • 日経ビジネス 1992年6月8日号
    • [21]インテルは1992年3月に発売済みの1メガ・2メガビットのフラッシュメモリ価格を15%から50%引き下げ、4月には各社に先駆け8メガビット品を4500円(DRAM並み・従来の半値近く)で発売した。日本メーカー関係者はこれから4メガを量産化する日本勢が打撃を受けたと述べ、日本の各社は1〜8メガビットを助走段階と位置づけ16メガビット以降で本格勝負する構えだった
    • [22]インテルは1992年3月に発売済みの1メガ・2メガビットのフラッシュメモリ価格を15%から50%引き下げ、4月には各社に先駆け8メガビット品を4500円(DRAM並み・従来の半値近く)で発売した。日本メーカー関係者はこれから4メガを量産化する日本勢が打撃を受けたと述べ、日本の各社は1〜8メガビットを助走段階と位置づけ16メガビット以降で本格勝負する構えだった
    • [23]インテルは1992年3月に発売済みの1メガ・2メガビットのフラッシュメモリ価格を15%から50%引き下げ、4月には各社に先駆け8メガビット品を4500円(DRAM並み・従来の半値近く)で発売した。日本メーカー関係者はこれから4メガを量産化する日本勢が打撃を受けたと述べ、日本の各社は1〜8メガビットを助走段階と位置づけ16メガビット以降で本格勝負する構えだった
    • [25]インテルは1992年3月に発売済みの1メガ・2メガビットのフラッシュメモリ価格を15%から50%引き下げ、4月には各社に先駆け8メガビット品を4500円(DRAM並み・従来の半値近く)で発売した。日本メーカー関係者はこれから4メガを量産化する日本勢が打撃を受けたと述べ、日本の各社は1〜8メガビットを助走段階と位置づけ16メガビット以降で本格勝負する構えだった
    • [26]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
    • [27]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
    • [28]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
    • [29]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
    • [30]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
    • [31]舛岡富士雄が1987年に開発したNAND型はビット当たりコストがNOR型の半分強で書き換え可能回数が原理的に1桁多く書き換え時間も短い一方、読み出し速度はNOR型より遅い。東芝以外の日本メーカーの多くは従来のEEPROMに近く扱いやすいNOR型から着手し、インテルジャパンの傅田信行副社長はNAND型をやるつもりは全くないと述べ、HDD置き換えに絞らず用途開拓に力を入れた
  • 日経ビジネス 1991年7月22日号
    • [24]フラッシュメモリが狙うハードディスクなどの磁気メモリ市場は当時5兆円で、2000年には20兆円以上になるとされた
    • [32]東芝は1992年にNAND技術を三星電子(サムスン電子)へライセンス供与した
  • 日経ビジネス 1996年11月11日号
    • [33]1992年の世界的な半導体不況下で日本勢が投資を抑制する中、三星電子は8インチウエハーの量産ライン投資を決断し、この投資戦略でDRAM世界首位に立った
  • 日経ビジネス 1998年1月26日号
    • [34]1990年ごろまで東芝はフラッシュメモリを、パソコン用の大量記録媒体であるハードディスク装置の置き換えとして構想していた
  • 日経ビジネス 1992年9月14日号
    • [35]1992年6月11日に横河・ヒューレット・パッカードが発表した米HP開発の1.3インチ超小型HDD「キティーホーク」は36.5×50.8×10.5ミリ・32グラム・約20メガバイトで、衝撃検知センサーとガラス基板により動作中に1メートルの高さから落としても壊れない。米データクエストは1メガバイト当たり単価が1995年でもHDDの5倍程度、2000年時点でもHDDの方が安いと予測した。東芝ULSI研究所の舛岡富士雄はこれに反論し、1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出すと述べた
    • [36]1992年6月11日に横河・ヒューレット・パッカードが発表した米HP開発の1.3インチ超小型HDD「キティーホーク」は36.5×50.8×10.5ミリ・32グラム・約20メガバイトで、衝撃検知センサーとガラス基板により動作中に1メートルの高さから落としても壊れない。米データクエストは1メガバイト当たり単価が1995年でもHDDの5倍程度、2000年時点でもHDDの方が安いと予測した。東芝ULSI研究所の舛岡富士雄はこれに反論し、1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出すと述べた
    • [37]1992年6月11日に横河・ヒューレット・パッカードが発表した米HP開発の1.3インチ超小型HDD「キティーホーク」は36.5×50.8×10.5ミリ・32グラム・約20メガバイトで、衝撃検知センサーとガラス基板により動作中に1メートルの高さから落としても壊れない。米データクエストは1メガバイト当たり単価が1995年でもHDDの5倍程度、2000年時点でもHDDの方が安いと予測した。東芝ULSI研究所の舛岡富士雄はこれに反論し、1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出すと述べた
    • [38]1992年6月11日に横河・ヒューレット・パッカードが発表した米HP開発の1.3インチ超小型HDD「キティーホーク」は36.5×50.8×10.5ミリ・32グラム・約20メガバイトで、衝撃検知センサーとガラス基板により動作中に1メートルの高さから落としても壊れない。米データクエストは1メガバイト当たり単価が1995年でもHDDの5倍程度、2000年時点でもHDDの方が安いと予測した。東芝ULSI研究所の舛岡富士雄はこれに反論し、1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出すと述べた
    • [39]1992年6月11日に横河・ヒューレット・パッカードが発表した米HP開発の1.3インチ超小型HDD「キティーホーク」は36.5×50.8×10.5ミリ・32グラム・約20メガバイトで、衝撃検知センサーとガラス基板により動作中に1メートルの高さから落としても壊れない。米データクエストは1メガバイト当たり単価が1995年でもHDDの5倍程度、2000年時点でもHDDの方が安いと予測した。東芝ULSI研究所の舛岡富士雄はこれに反論し、1994年に32メガ、1995年に64メガと128メガビットの製品を出すと述べた

1995年〜ハードディスクを置き換えられず、制御回路を外した薄型カードへ

機能をはぎ取って小さく安く製造する

ハードディスクの置き換えという当初の狙いは、実現しなかった。ハードディスクの容量は予想を上回る速さで増え、価格も下がり続けた。容量と価格では太刀打ちできないことが明白になった。ただし一定の容量以下なら、モーターや記録再生の機構を省いて安く作れることも分かった。東芝の開発陣は、余分な機能をはぎ取って小さく安く作る方針へ転換した。行き着いたのが、信号の記録を制御するコントローラーを持たないメモリである。1995年に産声を上げたスマートメディアの正式名称は、ソリッドステート・フロッピーディスク・カードという。ハードディスクではなく軽量薄型のフロッピーディスクを目指す、180度の方向転換だった。この間も四日市工場の主力品種はDRAMで、1996年には64MビットDRAMを生産した。

  • 日経ビジネス 1998年1月26日号
    • [40]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [41]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [42]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [43]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [44]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [45]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [46]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [47]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
  • キオクシア「四日市工場の歴史」(公式サイト)
    • [48]四日市工場は1993年に16MビットDRAM、1996年に64MビットDRAMを生産した
携帯電話とデジタルカメラが主役を入れ替える

薄さと価格の優位は、使う側の選択が証明した。1997年夏以降、オリンパス光学工業がスマートメディアを採用したデジタルカメラで、出荷台数の首位に立っていたカシオ計算機を追い上げた。4メガバイト品の価格はコンパクトフラッシュの1万7000円に対し6800円だった。DRAMについて、上席常務の森本泰生氏は1998年に『当社は1メガ、4メガの時代にはトップサプライヤーとして位置づけられていたが、16メガではトップクラスの競争力を確保できなかった』と総括した。入れ替わるように、1999年春先から携帯電話とデジタルカメラの普及でフラッシュメモリの需給が逼迫し、大手が相次いで値上げに転じた。同じ年の7月、東芝はIBMと合弁で運営していた米国の半導体工場の経営権を取得した。四日市でNAND型の生産が始まったのも1999年である。用途が決まって初めて、発明は事業の形を得た。

  • 日経ビジネス 1998年1月26日号
    • [49]1997年夏以降、スマートメディアを採用したオリンパス光学工業のデジタルカメラが出荷台数首位のカシオ計算機を追い上げた。4メガバイト品の価格はコンパクトフラッシュが1万7000円、スマートメディアが6800円だった
    • [50]1997年夏以降、スマートメディアを採用したオリンパス光学工業のデジタルカメラが出荷台数首位のカシオ計算機を追い上げた。4メガバイト品の価格はコンパクトフラッシュが1万7000円、スマートメディアが6800円だった
  • 証券アナリストジャーナル 1998年9月号 別冊付録 東芝(1998年8月3日 講演)
    • [51]東芝は1メガ・4メガの時代にはトップサプライヤーだったが、16メガではトップクラスの競争力を確保できなかった(森本泰生・東芝上席常務)
  • 日経ビジネス 1999年8月23日号
    • [52]1999年、多機能化する携帯電話とデジタルカメラの普及でフラッシュメモリの需要が春先から逼迫し大手メーカーが相次いで値上げに転じた。同年7月に東芝はIBMと合弁で運営していた米国の半導体工場の経営権をIBMから買い取り、DRAM製造設備の9割を流用して100億円強でフラッシュメモリ工場へ転換する狙いを示した
    • [53]1999年、多機能化する携帯電話とデジタルカメラの普及でフラッシュメモリの需要が春先から逼迫し大手メーカーが相次いで値上げに転じた。同年7月に東芝はIBMと合弁で運営していた米国の半導体工場の経営権をIBMから買い取り、DRAM製造設備の9割を流用して100億円強でフラッシュメモリ工場へ転換する狙いを示した
  • キオクシア「四日市工場の歴史」(公式サイト)
    • [54]四日市工場でのNAND型フラッシュメモリの生産開始は1999年だった
参考文献[40]-[54]
  • 日経ビジネス 1998年1月26日号
    • [40]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [41]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [42]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [43]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [44]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [45]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [46]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [47]ハードディスク装置の容量が予想を上回る速さで増え価格も下がったため東芝は容量とコストで太刀打ちできないと判断し、一定容量以下ならモーターや記録再生機構を持たない分安く作れることから余分な機能をはぎ取る方針へ転換してコントローラーを持たないメモリに至った。1995年に生まれたスマートメディアの正式名称はソリッドステート・フロッピーディスク・カード(SSFDC)で、開発の方向を180度変えたものだった
    • [49]1997年夏以降、スマートメディアを採用したオリンパス光学工業のデジタルカメラが出荷台数首位のカシオ計算機を追い上げた。4メガバイト品の価格はコンパクトフラッシュが1万7000円、スマートメディアが6800円だった
    • [50]1997年夏以降、スマートメディアを採用したオリンパス光学工業のデジタルカメラが出荷台数首位のカシオ計算機を追い上げた。4メガバイト品の価格はコンパクトフラッシュが1万7000円、スマートメディアが6800円だった
    • [48]四日市工場は1993年に16MビットDRAM、1996年に64MビットDRAMを生産した
    • [54]四日市工場でのNAND型フラッシュメモリの生産開始は1999年だった
  • 証券アナリストジャーナル 1998年9月号 別冊付録 東芝(1998年8月3日 講演)
    • [51]東芝は1メガ・4メガの時代にはトップサプライヤーだったが、16メガではトップクラスの競争力を確保できなかった(森本泰生・東芝上席常務)
  • 日経ビジネス 1999年8月23日号
    • [52]1999年、多機能化する携帯電話とデジタルカメラの普及でフラッシュメモリの需要が春先から逼迫し大手メーカーが相次いで値上げに転じた。同年7月に東芝はIBMと合弁で運営していた米国の半導体工場の経営権をIBMから買い取り、DRAM製造設備の9割を流用して100億円強でフラッシュメモリ工場へ転換する狙いを示した
    • [53]1999年、多機能化する携帯電話とデジタルカメラの普及でフラッシュメモリの需要が春先から逼迫し大手メーカーが相次いで値上げに転じた。同年7月に東芝はIBMと合弁で運営していた米国の半導体工場の経営権をIBMから買い取り、DRAM製造設備の9割を流用して100億円強でフラッシュメモリ工場へ転換する狙いを示した

筆者考察

用途の決まらない製品は、性能をいくら上げても市場を取れない。東芝がNAND型に見込んだ用途は、パソコンのハードディスクの置き換え一本だった。ところが1992年に米ヒューレット・パッカードがマッチ箱ほどの1.3インチ機を出し、置き換えるはずの相手のほうが先に小さくなった。同じ時期、米インテルは価格を半値近くまで下げてNOR型を配り、用途を作る側に回っていた。日本の各社は16Mビット以降で本格的に競うと構えて時機を待ち、市場の入口を明け渡した。技術で先を行きながら10年を費やしたのは、販売先を一つに決めていたためである。

転機は、機能を足すのではなく、はぎ取ったところに来た。ハードディスクに容量でも価格でも届かないと見た東芝は、信号を制御する回路をカードから外し、薄く安く作るほうへ振り切った。1995年に生まれたスマートメディアは、ハードディスクではなく軽量のフロッピーディスクを目指す製品である。4メガバイトで6800円という価格と1ミリを切る薄さが、デジタルカメラという当時の新しい市場と噛み合った。1999年に携帯電話とデジタルカメラの普及でフラッシュメモリの需給が逼迫したとき、東芝は16MビットDRAMで競争力を失った場所とは別の場所に立っていた。

出典・参考

12件
出典・参考
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
  • 日経ビジネス 1991年7月22日号
  • 日経ビジネス 1992年6月8日号
  • 日経ビジネス 1992年9月14日号
  • 日経ビジネス 1994年2月7日号
  • 日経ビジネス 1996年11月11日号
  • 日経ビジネス 1998年1月26日号
  • 証券アナリストジャーナル 1998年9月号 別冊付録 東芝(1998年8月3日 講演)
  • 日経ビジネス 1999年8月23日号
  • キオクシア「History of our memory」(公式サイト・2019年10月)
  • キオクシア「四日市工場の歴史」(公式サイト)
  • IEEE Spectrum「Chip Hall of Fame: Toshiba NAND Flash Memory」

免責事項およびポリシー