キオクシアホールディングス:東芝の半導体メモリ事業とNAND型フラッシュメモリの発明
1MビットDRAM制覇から未事業化のNAND発明へ
1951年〜トランジスタ試作から周回遅れのメモリ事業へ、大戸彧也時代の戦線縮小
キオクシアのNAND型フラッシュメモリ事業は、母体である東芝(東京芝浦電気)の半導体事業から分かれた。東京芝浦電気は1951年1月、川崎市の小向工場でトランジスタを試作した。1956年7月までには、東京通信工業(後のソニー)・日立製作所・三菱電機・神戸工業と並ぶ最初期5社の一角を占めた。技術は米ベル研究所とウェスタン・エレクトリックからのライセンスで得たものである。ただし記憶を担う素子の市場では、出発が遅れた。DRAMの競争は容量が4倍になるたび走路がひと回り大きくなるリレーに例えられ、東芝はそこで日本電気と日立製作所の後塵を拝していた。
- キオクシア「History of our memory」(公式サイト・2019年10月)
- [1]キオクシアのNAND型フラッシュメモリ事業は東芝(東京芝浦電気)の半導体事業を母体とする
- 東芝トランジスタ発祥の地 記念碑(1960年建立)
- [2]東京芝浦電気は1951年1月に川崎市幸区の小向工場でトランジスタを試作した。1960年建立の「東芝トランジスタ発祥の地」記念碑に「昭和二十六年一月」と刻む
- 半導体歴史館(SHMJ)
- [3]東京芝浦電気は東京通信工業(現ソニー)・日立製作所・三菱電機・神戸工業とともに、1956年7月までにベル研究所/ウェスタン・エレクトリックの日本最初期トランジスタ・ライセンシー5社の一社となった
- [4]東京芝浦電気は東京通信工業(現ソニー)・日立製作所・三菱電機・神戸工業とともに、1956年7月までにベル研究所/ウェスタン・エレクトリックの日本最初期トランジスタ・ライセンシー5社の一社となった
- 日経ビジネス 1991年7月1日号
- [5]メモリの事業は記憶容量が一回り大きくなるごとに走路が広がるリレー競争のようなもので、東芝はその競争でいわば周回遅れの位置にいた
- 日経ビジネス 1991年12月16日号
- [6]東芝のメモリ事業は1MビットDRAMで首位に立つまで日本電気・日立製作所の後塵を拝していた
東芝の半導体事業が縮んだのは、第2次石油危機をはさむ時期である。半導体事業部長を長く務めた取締役の大戸彧也氏の下で、東芝は合理化による戦線の縮小を迫られた。設備投資は抑えられ、DRAMなどのメモリは量産に踏み込めずにいた。折しも東芝本体は、1976年6月に就任した岩田式夫社長が利益の追求を第一の方針に掲げ、市場性と自社の力を見定めて切るものは切る選択経営へ方針を転換していた。1981年、病身の大戸彧也氏に代わって次長の川西剛氏が事業部長に就任し、直後に東芝がDRAMから撤退するという報道が新聞の紙面を大きく飾った。大戸彧也氏が死去したのは、その2か月後である。縮小の帳尻を合わせた組織と、投資を止めた数年分の遅れだけが事業部に残った。
- 日経ビジネス 1991年7月1日号
- [7]第2次石油危機をはさむ大戸彧也半導体事業部長の時代、東芝は半導体事業で合理化による戦線縮小を余儀なくされ、設備投資を抑制してDRAMなどメモリの量産に踏み込めずにいた
- [8]第2次石油危機をはさむ大戸彧也半導体事業部長の時代、東芝は半導体事業で合理化による戦線縮小を余儀なくされ、設備投資を抑制してDRAMなどメモリの量産に踏み込めずにいた
- [9]第2次石油危機をはさむ大戸彧也半導体事業部長の時代、東芝は半導体事業で合理化による戦線縮小を余儀なくされ、設備投資を抑制してDRAMなどメモリの量産に踏み込めずにいた
- [11]1981年、病身の大戸彧也に代わって半導体事業部次長の川西剛が事業部長に就いた。大戸はその2か月後に死去した
- [12]川西剛が半導体事業部長を引き継いだ直後、「東芝、DRAMから撤退」との新聞報道が大きく出た
- [13]1981年、病身の大戸彧也に代わって半導体事業部次長の川西剛が事業部長に就いた。大戸はその2か月後に死去した
- 日経ビジネス 1980年2月25日号
- [10]1976年6月に就任した岩田式夫社長は第一の経営方針に利益追求を掲げ、市場性と自社の力を見定めて切るものは切り伸ばすものは伸ばす選択経営を採った
参考文献[1]-[13]
- [1]キオクシアのNAND型フラッシュメモリ事業は東芝(東京芝浦電気)の半導体事業を母体とする
- [2]東京芝浦電気は1951年1月に川崎市幸区の小向工場でトランジスタを試作した。1960年建立の「東芝トランジスタ発祥の地」記念碑に「昭和二十六年一月」と刻む
- [3]東京芝浦電気は東京通信工業(現ソニー)・日立製作所・三菱電機・神戸工業とともに、1956年7月までにベル研究所/ウェスタン・エレクトリックの日本最初期トランジスタ・ライセンシー5社の一社となった
- [4]東京芝浦電気は東京通信工業(現ソニー)・日立製作所・三菱電機・神戸工業とともに、1956年7月までにベル研究所/ウェスタン・エレクトリックの日本最初期トランジスタ・ライセンシー5社の一社となった
- 日経ビジネス 1991年7月1日号
- [5]メモリの事業は記憶容量が一回り大きくなるごとに走路が広がるリレー競争のようなもので、東芝はその競争でいわば周回遅れの位置にいた
- [7]第2次石油危機をはさむ大戸彧也半導体事業部長の時代、東芝は半導体事業で合理化による戦線縮小を余儀なくされ、設備投資を抑制してDRAMなどメモリの量産に踏み込めずにいた
- [8]第2次石油危機をはさむ大戸彧也半導体事業部長の時代、東芝は半導体事業で合理化による戦線縮小を余儀なくされ、設備投資を抑制してDRAMなどメモリの量産に踏み込めずにいた
- [9]第2次石油危機をはさむ大戸彧也半導体事業部長の時代、東芝は半導体事業で合理化による戦線縮小を余儀なくされ、設備投資を抑制してDRAMなどメモリの量産に踏み込めずにいた
- [11]1981年、病身の大戸彧也に代わって半導体事業部次長の川西剛が事業部長に就いた。大戸はその2か月後に死去した
- [12]川西剛が半導体事業部長を引き継いだ直後、「東芝、DRAMから撤退」との新聞報道が大きく出た
- [13]1981年、病身の大戸彧也に代わって半導体事業部次長の川西剛が事業部長に就いた。大戸はその2か月後に死去した
- 日経ビジネス 1991年12月16日号
- [6]東芝のメモリ事業は1MビットDRAMで首位に立つまで日本電気・日立製作所の後塵を拝していた
- 日経ビジネス 1980年2月25日号
- [10]1976年6月に就任した岩田式夫社長は第一の経営方針に利益追求を掲げ、市場性と自社の力を見定めて切るものは切り伸ばすものは伸ばす選択経営を採った
1981年〜64Kも256Kも飛ばした1Mビットへの先行投資と、1986年の世界首位
川西剛氏が事業部長として決めたのは、シリコンサイクルの底で設備投資を絞らないことだった。市況の後退した局面にこそ投資するのが半導体の必勝法だと誰もが口にしながら、実行できずにいた。各社が64Kビットから256KビットへDRAMの生産を移していた時期に、東芝は一挙に1Mビットへ先行投資した。投資だけでなく、技術の選択でも他社と道が分かれた。川西剛氏はその構えを『テニスをやらなくちゃいけないんです。人のいない所に打つ方が楽でしょう』とたとえた。集積度が上がるとコンデンサ容量の確保のため、掘り下げるトレンチか積み上げるスタックかの立体加工が要る。東芝は1Mビット世代で立体加工を避けて平面セルと低消費電力のCMOSを採り、消費電力を150ミリワットとNMOS比で半分未満に抑えた。1986年には月産100万個の体制を敷き、この製品分野で世界首位に立った。
- 日経ビジネス 1991年7月1日号
- [14]シリコンサイクルの底にある時こそ設備投資に資金を惜しまないことが半導体事業の必勝法とされながら各社は実行できずにおり、川西剛はそれを断行した
- [15]シリコンサイクルの底にある時こそ設備投資に資金を惜しまないことが半導体事業の必勝法とされながら各社は実行できずにおり、川西剛はそれを断行した
- 日経ビジネス 1991年12月16日号
- [16]各社が64KビットDRAMから256Kビットへ生産を移す中、東芝は一挙に1Mビットへ先行投資し、日本電気・日立の後塵を拝していたメモリ事業で首位に立って先行者利得を得た
- 日経ビジネス 1989年12月4日号
- [17]DRAMは集積度を上げるとコンデンサ容量の確保のため、積み上げるスタックか掘り下げるトレンチかの立体加工が必要になり、両方式を追う余裕はないため選択を迫られる
- 半導体歴史館(志村幸雄「日本半導体興亡史」)
- [18]東芝は1MビットDRAM世代で3次元トレンチではなく平面セルと低消費電力CMOSを選び、消費電力をNMOS比で半分未満の150mWに抑えて量産性で優位に立った
- [19]東芝は1986年に1MビットDRAMで月産100万個体制を確立し、この製品分野で世界首位となった
首位に立った直後から、東芝は通商の摩擦に正面から当たった。1986年9月2日に結ばれた日米半導体協定は、公正市場価格を下回る販売をダンピングとして扱った。協定のもとでの値付けについて、専務の川西剛氏は『量産先行の利点から2000円を下回る価格で売ってもコスト割れではなかった。値下げでライバルを叩くことをしなかったのは業界秩序を考えたからだ』と振り返っている。翌1987年3月には子会社の東芝機械によるココム(対共産圏輸出統制委員会)違反事件が表面化した。当時27億ドルを売り上げていた米国市場から、東芝は排除されかけた。制裁が米政府関連資材の調達からの締め出しにとどまったのは、東芝の供給を受ける米国企業が動いたためである。1MビットDRAMが途絶えると商売が成り立たないと、IBMとヒューレット・パッカードが米議会へ働きかけた。事件の責任を取った渡里杉一郎社長の辞任に伴い、原子力事業本部長などを歴任した青井舒一氏が急きょ社長へ就任した。
- 半導体歴史館 / 日米半導体協定本文(1986年9月2日)
- [20]1986年9月2日に第一次日米半導体協定が締結され、公正市場価格(FMV)以下の販売がダンピングとして扱われた
- 日経ビジネス 1991年5月27日号
- [21]1987年3月に東芝機械のココム違反事件が表面化し、渡里杉一郎社長の引責辞任に伴い、原子力事業本部長・重電セクター長などを歴任した青井舒一が1987年7月に社長へ就いた
- [24]1987年3月に東芝機械のココム違反事件が表面化し、渡里杉一郎社長の引責辞任に伴い、原子力事業本部長・重電セクター長などを歴任した青井舒一が1987年7月に社長へ就いた
- 日経ビジネス 1991年7月1日号
- [22]東芝機械のココム違反事件で、当時27億ドルを売り上げていた米国市場から東芝が排除されかけた際、東芝が供給する1MビットDRAMが途絶えると商売が成り立たないとIBMやヒューレット・パッカードが米議会に働きかけ、制裁は米政府関連資材の調達からの締め出しにとどまった
- [23]東芝機械のココム違反事件で、当時27億ドルを売り上げていた米国市場から東芝が排除されかけた際、東芝が供給する1MビットDRAMが途絶えると商売が成り立たないとIBMやヒューレット・パッカードが米議会に働きかけ、制裁は米政府関連資材の調達からの締め出しにとどまった
1986年、日本の世界半導体シェアは米国を抜いて首位となり、上位10社のうち6社を日本勢が占めた。東芝の半導体事業の生産額は1990年度で7000億円に達し、日立製作所の5800億円を上回って、首位の日本電気の7250億円に迫った。この規模を摩擦の中で保つために、川西剛氏は海外へ工場を建てる選択を採らなかった。日本電気などが米国と英国に一貫生産の拠点を設けて摩擦の打開を図ったのに対し、東芝は海外メーカーと組んだ。モトローラとは合弁で東北セミコンダクタを設立し、日本モトローラへ社長を送り込んだ。欧州の盟主シーメンス、ASICの米LSIロジック、そして液晶ディスプレイではIBMと合弁を組んだ。自らの技術を持ち出して相手を助ける選択は、競争相手との結果の均等にまで及ぶものだった。
- 半導体歴史館
- [25]1986年に日本の世界半導体シェア(総合)が米国を抜いて首位となり、世界上位10社中6社を日本勢(NEC・東芝・日立・富士通・松下・三菱電機)が占めた
- 日経ビジネス 1991年7月1日号
- [26]東芝の半導体事業の生産額は1990年度で7000億円と日立製作所の5800億円を上回り首位の日本電気の7250億円に迫った。日本電気ほかが米英に一貫生産拠点を設けて貿易摩擦の打開を図ったのに対し、東芝はモトローラとの合弁で東北セミコンダクタを設立して日本モトローラへ社長を送り、シーメンス・米LSIロジックと結び、液晶ディスプレイではIBMと合弁を始めた
- [27]東芝の半導体事業の生産額は1990年度で7000億円と日立製作所の5800億円を上回り首位の日本電気の7250億円に迫った。日本電気ほかが米英に一貫生産拠点を設けて貿易摩擦の打開を図ったのに対し、東芝はモトローラとの合弁で東北セミコンダクタを設立して日本モトローラへ社長を送り、シーメンス・米LSIロジックと結び、液晶ディスプレイではIBMと合弁を始めた
- [28]東芝の半導体事業の生産額は1990年度で7000億円と日立製作所の5800億円を上回り首位の日本電気の7250億円に迫った。日本電気ほかが米英に一貫生産拠点を設けて貿易摩擦の打開を図ったのに対し、東芝はモトローラとの合弁で東北セミコンダクタを設立して日本モトローラへ社長を送り、シーメンス・米LSIロジックと結び、液晶ディスプレイではIBMと合弁を始めた
- [29]東芝の半導体事業の生産額は1990年度で7000億円と日立製作所の5800億円を上回り首位の日本電気の7250億円に迫った。日本電気ほかが米英に一貫生産拠点を設けて貿易摩擦の打開を図ったのに対し、東芝はモトローラとの合弁で東北セミコンダクタを設立して日本モトローラへ社長を送り、シーメンス・米LSIロジックと結び、液晶ディスプレイではIBMと合弁を始めた
参考文献[14]-[29]
- 日経ビジネス 1991年7月1日号
- [14]シリコンサイクルの底にある時こそ設備投資に資金を惜しまないことが半導体事業の必勝法とされながら各社は実行できずにおり、川西剛はそれを断行した
- [15]シリコンサイクルの底にある時こそ設備投資に資金を惜しまないことが半導体事業の必勝法とされながら各社は実行できずにおり、川西剛はそれを断行した
- [22]東芝機械のココム違反事件で、当時27億ドルを売り上げていた米国市場から東芝が排除されかけた際、東芝が供給する1MビットDRAMが途絶えると商売が成り立たないとIBMやヒューレット・パッカードが米議会に働きかけ、制裁は米政府関連資材の調達からの締め出しにとどまった
- [23]東芝機械のココム違反事件で、当時27億ドルを売り上げていた米国市場から東芝が排除されかけた際、東芝が供給する1MビットDRAMが途絶えると商売が成り立たないとIBMやヒューレット・パッカードが米議会に働きかけ、制裁は米政府関連資材の調達からの締め出しにとどまった
- [26]東芝の半導体事業の生産額は1990年度で7000億円と日立製作所の5800億円を上回り首位の日本電気の7250億円に迫った。日本電気ほかが米英に一貫生産拠点を設けて貿易摩擦の打開を図ったのに対し、東芝はモトローラとの合弁で東北セミコンダクタを設立して日本モトローラへ社長を送り、シーメンス・米LSIロジックと結び、液晶ディスプレイではIBMと合弁を始めた
- [27]東芝の半導体事業の生産額は1990年度で7000億円と日立製作所の5800億円を上回り首位の日本電気の7250億円に迫った。日本電気ほかが米英に一貫生産拠点を設けて貿易摩擦の打開を図ったのに対し、東芝はモトローラとの合弁で東北セミコンダクタを設立して日本モトローラへ社長を送り、シーメンス・米LSIロジックと結び、液晶ディスプレイではIBMと合弁を始めた
- [28]東芝の半導体事業の生産額は1990年度で7000億円と日立製作所の5800億円を上回り首位の日本電気の7250億円に迫った。日本電気ほかが米英に一貫生産拠点を設けて貿易摩擦の打開を図ったのに対し、東芝はモトローラとの合弁で東北セミコンダクタを設立して日本モトローラへ社長を送り、シーメンス・米LSIロジックと結び、液晶ディスプレイではIBMと合弁を始めた
- [29]東芝の半導体事業の生産額は1990年度で7000億円と日立製作所の5800億円を上回り首位の日本電気の7250億円に迫った。日本電気ほかが米英に一貫生産拠点を設けて貿易摩擦の打開を図ったのに対し、東芝はモトローラとの合弁で東北セミコンダクタを設立して日本モトローラへ社長を送り、シーメンス・米LSIロジックと結び、液晶ディスプレイではIBMと合弁を始めた
- 日経ビジネス 1991年12月16日号
- [16]各社が64KビットDRAMから256Kビットへ生産を移す中、東芝は一挙に1Mビットへ先行投資し、日本電気・日立の後塵を拝していたメモリ事業で首位に立って先行者利得を得た
- 日経ビジネス 1989年12月4日号
- [17]DRAMは集積度を上げるとコンデンサ容量の確保のため、積み上げるスタックか掘り下げるトレンチかの立体加工が必要になり、両方式を追う余裕はないため選択を迫られる
- [18]東芝は1MビットDRAM世代で3次元トレンチではなく平面セルと低消費電力CMOSを選び、消費電力をNMOS比で半分未満の150mWに抑えて量産性で優位に立った
- [19]東芝は1986年に1MビットDRAMで月産100万個体制を確立し、この製品分野で世界首位となった
- [20]1986年9月2日に第一次日米半導体協定が締結され、公正市場価格(FMV)以下の販売がダンピングとして扱われた
- 日経ビジネス 1991年5月27日号
- [21]1987年3月に東芝機械のココム違反事件が表面化し、渡里杉一郎社長の引責辞任に伴い、原子力事業本部長・重電セクター長などを歴任した青井舒一が1987年7月に社長へ就いた
- [24]1987年3月に東芝機械のココム違反事件が表面化し、渡里杉一郎社長の引責辞任に伴い、原子力事業本部長・重電セクター長などを歴任した青井舒一が1987年7月に社長へ就いた
- [25]1986年に日本の世界半導体シェア(総合)が米国を抜いて首位となり、世界上位10社中6社を日本勢(NEC・東芝・日立・富士通・松下・三菱電機)が占めた
1980年〜舛岡富士雄氏の一括消去メモリと、事業化へ回されなかった数十人
キオクシアの主力製品であるNAND型フラッシュメモリは、東芝の技術者が発明した。舛岡富士雄氏は1980年、川崎の研究拠点で数名の技術者と不揮発性メモリの開発に着手した。1984年の国際会議IEDMで発表したのは、記憶素子を1個のトランジスタで構成する小型のメモリである。ビット当たりの面積は従来のEEPROMの4分の1以下に縮んだ。一括して素早く消せる様子がカメラのフラッシュを思わせることから、同僚の有泉章二氏がフラッシュと名付けた。後にNOR型と呼ばれるこの方式に対し、舛岡氏は素子を直列につないで面積あたりの容量を高めたNAND型を考案した。東芝は1987年のIEDMでこれを世界で初めて発表した。狙いはパソコンのハードディスクを半導体で置き換えることにあった。
- IEEE Spectrum「Chip Hall of Fame: Toshiba NAND Flash Memory」
- [30]NAND型フラッシュメモリは東芝の技術者・舛岡富士雄(1943年生、東北大・西澤潤一門下)が発明した
- [31]舛岡富士雄は1980年に川崎のR&Dセンターで技術者数名と不揮発性メモリのプロジェクトを主導した
- [32]舛岡富士雄は1984年のIEDM(サンフランシスコ)で、従来の2トランジスタEPROMより小さい単一トランジスタ・セルのフラッシュEEPROM(後のNOR型)を発表した
- [35]NAND型はセルを直列に連ねる構造でNOR型より小セル・高集積を実現し、1.0µmルールでセル面積6.43µm²、従来の4MビットEPROM比でビット当たり面積を約30%減らした
- Computer History Museum「Pioneers of Semiconductor Non-Volatile Memory (NVM)」
- [33]1984年発表のフラッシュEEPROMはビット当たり面積が既存EEPROMの4分の1未満だった
- キオクシア「History of our memory」(公式サイト・2019年10月)
- [34]一括消去がカメラのフラッシュのように速いことから、舛岡の同僚・有泉章二が「flash」の名称を提案した
- [36]東芝は1987年のIEDM(ワシントンDC)で世界初のNAND型フラッシュメモリを発表した
- 日経ビジネス 1998年1月26日号
- [37]1990年ごろまで東芝はフラッシュメモリを、パソコン用の大量記録媒体であるハードディスク装置の置き換えとして構想していた
フラッシュメモリの開発が数十人で進んでいたころ、東芝の半導体技術研究所では16MビットDRAMの開発が動いていた。DRAMは市場規模が大きく、高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす商品だった。1メガに続く3連覇を狙う設計チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ、配置配線の設計に不眠不休で当たった。136.9平方ミリメートルのチップに3510万個の素子を作り、すべてを誤りなく動作させる仕事である。集積度が上がるたび掘り下げるか積み上げるかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えていた。開発の現場では、データを集めても判断材料にならないことが多く、最後は想像力で決めるほかなかった。
- 日経ビジネス 1991年7月22日号
- [38]フラッシュメモリを発明した東芝の開発要員は1991年時点で数十人規模にとどまっていた
- 日経ビジネス 1989年12月4日号
- [39]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- [40]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- [41]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- [42]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- [43]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- [44]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
発明を事業へ移す速さでは、東芝は追う側に回った。フラッシュメモリの開発要員は1991年の時点で数十人規模にとどまった。東芝を追って開発へ参入した米インテルは、1986年に事業部を設けて数百人規模の研究体制を組み、1992年には世界市場の85%以上を占めた。DRAMの製造設備をそのまま流用できるため、インテルほど力を入れなくてよいというのが東芝の判断だった。立体加工を要するDRAMと違い、フラッシュメモリは平面の加工で量産できる。1995年に64Mビット品が量産されれば5000円を切るとされ、1メガバイト当たり約600円と、当時約3000円だったハードディスクに対し価格でも競争力を持つ計算だった。設備を共用できるという強みは、専任の人を置かない理由にもなった。
- 日経ビジネス 1991年7月22日号
- [45]フラッシュメモリを発明した東芝の開発要員は数十人規模にとどまり、DRAMの製造設備が流用できるためインテルほど力を入れなくてよいとの判断からだった。インテルは1986年に事業部を設けて数百人規模の研究体制を組んだ
- [46]フラッシュメモリを発明した東芝の開発要員は数十人規模にとどまり、DRAMの製造設備が流用できるためインテルほど力を入れなくてよいとの判断からだった。インテルは1986年に事業部を設けて数百人規模の研究体制を組んだ
- [48]フラッシュメモリを発明した東芝の開発要員は数十人規模にとどまり、DRAMの製造設備が流用できるためインテルほど力を入れなくてよいとの判断からだった。インテルは1986年に事業部を設けて数百人規模の研究体制を組んだ
- [49]フラッシュメモリはDRAMのようなスタック・トレンチの立体加工が不要で量産しやすく、1995年に64メガビットが量産化されれば5000円を切り1バイト当たり約600円となって、1メガバイト当たり約3000円のハードディスクに対し価格競争力を持つと見込まれた
- [50]フラッシュメモリはDRAMのようなスタック・トレンチの立体加工が不要で量産しやすく、1995年に64メガビットが量産化されれば5000円を切り1バイト当たり約600円となって、1メガバイト当たり約3000円のハードディスクに対し価格競争力を持つと見込まれた
- [51]フラッシュメモリはDRAMのようなスタック・トレンチの立体加工が不要で量産しやすく、1995年に64メガビットが量産化されれば5000円を切り1バイト当たり約600円となって、1メガバイト当たり約3000円のハードディスクに対し価格競争力を持つと見込まれた
- 日経ビジネス 1992年6月8日号
- [47]インテルは1992年時点でフラッシュメモリの世界市場の約85%以上のシェアを占めていた
参考文献[30]-[51]
- [30]NAND型フラッシュメモリは東芝の技術者・舛岡富士雄(1943年生、東北大・西澤潤一門下)が発明した
- [31]舛岡富士雄は1980年に川崎のR&Dセンターで技術者数名と不揮発性メモリのプロジェクトを主導した
- [32]舛岡富士雄は1984年のIEDM(サンフランシスコ)で、従来の2トランジスタEPROMより小さい単一トランジスタ・セルのフラッシュEEPROM(後のNOR型)を発表した
- [35]NAND型はセルを直列に連ねる構造でNOR型より小セル・高集積を実現し、1.0µmルールでセル面積6.43µm²、従来の4MビットEPROM比でビット当たり面積を約30%減らした
- [33]1984年発表のフラッシュEEPROMはビット当たり面積が既存EEPROMの4分の1未満だった
- [34]一括消去がカメラのフラッシュのように速いことから、舛岡の同僚・有泉章二が「flash」の名称を提案した
- [36]東芝は1987年のIEDM(ワシントンDC)で世界初のNAND型フラッシュメモリを発表した
- 日経ビジネス 1998年1月26日号
- [37]1990年ごろまで東芝はフラッシュメモリを、パソコン用の大量記録媒体であるハードディスク装置の置き換えとして構想していた
- 日経ビジネス 1991年7月22日号
- [38]フラッシュメモリを発明した東芝の開発要員は1991年時点で数十人規模にとどまっていた
- [45]フラッシュメモリを発明した東芝の開発要員は数十人規模にとどまり、DRAMの製造設備が流用できるためインテルほど力を入れなくてよいとの判断からだった。インテルは1986年に事業部を設けて数百人規模の研究体制を組んだ
- [46]フラッシュメモリを発明した東芝の開発要員は数十人規模にとどまり、DRAMの製造設備が流用できるためインテルほど力を入れなくてよいとの判断からだった。インテルは1986年に事業部を設けて数百人規模の研究体制を組んだ
- [48]フラッシュメモリを発明した東芝の開発要員は数十人規模にとどまり、DRAMの製造設備が流用できるためインテルほど力を入れなくてよいとの判断からだった。インテルは1986年に事業部を設けて数百人規模の研究体制を組んだ
- [49]フラッシュメモリはDRAMのようなスタック・トレンチの立体加工が不要で量産しやすく、1995年に64メガビットが量産化されれば5000円を切り1バイト当たり約600円となって、1メガバイト当たり約3000円のハードディスクに対し価格競争力を持つと見込まれた
- [50]フラッシュメモリはDRAMのようなスタック・トレンチの立体加工が不要で量産しやすく、1995年に64メガビットが量産化されれば5000円を切り1バイト当たり約600円となって、1メガバイト当たり約3000円のハードディスクに対し価格競争力を持つと見込まれた
- [51]フラッシュメモリはDRAMのようなスタック・トレンチの立体加工が不要で量産しやすく、1995年に64メガビットが量産化されれば5000円を切り1バイト当たり約600円となって、1メガバイト当たり約3000円のハードディスクに対し価格競争力を持つと見込まれた
- 日経ビジネス 1989年12月4日号
- [39]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- [40]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- [41]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- [42]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- [43]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- [44]DRAMは市場規模が大きく高いシェアを握れば100億円単位の利益をもたらす。東芝半導体技術研究所の16MビットDRAM開発チームは18人で、半導体国際学会ISSCCに照準を合わせ配置配線設計に不眠不休で当たった。チップ面積136.9平方ミリメートルに3510万個の素子を作る。集積度を上げるとスタックかトレンチかの決断が要り、東芝は4メガの世代でスタックからトレンチへ変えた。主査の藤井秀壮は、データを集めても判断材料にならないことが多く最後は想像力だと述べた
- 日経ビジネス 1992年6月8日号
- [47]インテルは1992年時点でフラッシュメモリの世界市場の約85%以上のシェアを占めていた
筆者考察
同じ会社が同じ時期に、自ら発明したメモリへは人を割かなかった。舛岡富士雄氏が1980年に始めた不揮発性メモリは、1984年に一括消去の方式として形になり、1987年には素子を直列につないだNAND型として世界で初めて公表された。ところが開発に当たる人数は数十人にとどまり、1986年に事業部を置いて数百人を投じた米インテルに市場を取られた。理由は技術の軽視ではない。DRAMの製造設備をそのまま流用できるという強みが、専任の組織を置かない理由に変わったからである。研究所の人手は16MビットDRAMの3連覇へ向かい、発明のほうは事業になる順番を待つことになった。
出典・参考
16件
- 日経ビジネス 1980年2月25日号
- 日経ビジネス 1989年12月4日号
- 日経ビジネス 1991年7月1日号
- 日経ビジネス 1991年12月16日号
- 日経ビジネス 1991年5月27日号
- 日経ビジネス 1991年7月22日号
- 日経ビジネス 1992年6月8日号
- 日経ビジネス 1998年1月26日号
- 東芝トランジスタ発祥の地 記念碑(1960年建立)
- 半導体歴史館 / 日米半導体協定本文(1986年9月2日)
- キオクシア「History of our memory」(公式サイト・2019年10月)
- 半導体歴史館(SHMJ)
- 半導体歴史館(志村幸雄「日本半導体興亡史」)
- 半導体歴史館
- IEEE Spectrum「Chip Hall of Fame: Toshiba NAND Flash Memory」
- Computer History Museum「Pioneers of Semiconductor Non-Volatile Memory (NVM)」