エバラ食品工業:荏原食品の設立とエバラブランドへの切り替え
1958年〜キンケイ食品の子会社として横浜に出た荏原食品と、年商2000万円からの立て直し
エバラ食品工業の前身は、1958年5月に横浜市神奈川区松見町で設立された荏原食品である。荏原食品は設立と同時に、キンケイの商標を付けたソースとケチャップの製造を始めた。親会社のキンケイ食品工業は、業務用と家庭用のカレーを専門とするメーカーである。キンケイ食品工業の社長は森村武次郎氏で、弟の森村国夫氏は1936年に入社し、1947年に専務に就任した。発足当初の荏原食品は、市場で名を知られていないソース・ケチャップの製造元にすぎなかった。1991年時点の会社概要は、設立を1960年5月、創業を1958年5月と記した。カレーで築いた商標を使いながら、新しい品目の成否を本体と切り離した別会社で見極めようとしたとみられる。
- エバラ食品工業 有価証券報告書 第48期(2006年3月期)【沿革】
- [1]1958年5月 荏原食品設立(本社・工場 横浜市神奈川区松見町)、キンケイブランドのソース・ケチャップ製造開始
- [2]1958年5月 荏原食品設立(本社・工場 横浜市神奈川区松見町)、キンケイブランドのソース・ケチャップ製造開始
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- [3]荏原食品は1958年に業務用・家庭用カレー専門メーカーのキンケイ食品の子会社として発足、当初は無名のソース・ケチャップメーカー。会社概要では設立1960年5月(創業58年5月)
- [5]荏原食品は1958年に業務用・家庭用カレー専門メーカーのキンケイ食品の子会社として発足、当初は無名のソース・ケチャップメーカー。会社概要では設立1960年5月(創業58年5月)
- [6]荏原食品は1958年に業務用・家庭用カレー専門メーカーのキンケイ食品の子会社として発足、当初は無名のソース・ケチャップメーカー。会社概要では設立1960年5月(創業58年5月)
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [4]森村国夫氏は1936年キンケイ食品工業入社、1947年専務。社長は実兄の森村武次郎氏
荏原食品は設立から間もなく業績不振に陥った。ソースとケチャップは商標の知名度で選ばれる商品であり、大手メーカーの売り場を崩せなかったためである。キンケイ食品工業社長の森村武次郎氏は1965年、弟で専務の森村国夫氏を荏原食品へ移し、専任の社長として再建を担わせた。当時の荏原食品は従業員が10人程度、年商は2000万円で、倒産しかねない状態にあった。森村国夫氏はまず、当時人気の即席ラーメンに添える別添えスープの生産を始め、業績を上向かせた。キンケイ食品工業で専務まで務めた森村国夫氏は、そこで身に付けたマーケティングの感覚を荏原食品に持ち込んだ。無名の商標で既存の市場に挑んだ失敗が、次の商品で大手のいない領域を選ぶ判断につながったと推察される。
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- [7]設立後まもなく業績不振。1965年に森村武次郎社長が弟で専務の国夫氏を専任社長として送り込み再建。当時従業員10人程度・年商2000万円、倒産寸前。即席ラーメンの別添えスープ生産で業績回復
- [8]設立後まもなく業績不振。1965年に森村武次郎社長が弟で専務の国夫氏を専任社長として送り込み再建。当時従業員10人程度・年商2000万円、倒産寸前。即席ラーメンの別添えスープ生産で業績回復
- [9]設立後まもなく業績不振。1965年に森村武次郎社長が弟で専務の国夫氏を専任社長として送り込み再建。当時従業員10人程度・年商2000万円、倒産寸前。即席ラーメンの別添えスープ生産で業績回復
- [10]設立後まもなく業績不振。1965年に森村武次郎社長が弟で専務の国夫氏を専任社長として送り込み再建。当時従業員10人程度・年商2000万円、倒産寸前。即席ラーメンの別添えスープ生産で業績回復
- [11]設立後まもなく業績不振。1965年に森村武次郎社長が弟で専務の国夫氏を専任社長として送り込み再建。当時従業員10人程度・年商2000万円、倒産寸前。即席ラーメンの別添えスープ生産で業績回復
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [12]森村国夫氏はキンケイ食品時代に養ったマーケティングのセンスをエバラ食品へ持ち込んだ
参考文献[1]-[12]
- エバラ食品工業 有価証券報告書 第48期(2006年3月期)【沿革】
- [1]1958年5月 荏原食品設立(本社・工場 横浜市神奈川区松見町)、キンケイブランドのソース・ケチャップ製造開始
- [2]1958年5月 荏原食品設立(本社・工場 横浜市神奈川区松見町)、キンケイブランドのソース・ケチャップ製造開始
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- [3]荏原食品は1958年に業務用・家庭用カレー専門メーカーのキンケイ食品の子会社として発足、当初は無名のソース・ケチャップメーカー。会社概要では設立1960年5月(創業58年5月)
- [5]荏原食品は1958年に業務用・家庭用カレー専門メーカーのキンケイ食品の子会社として発足、当初は無名のソース・ケチャップメーカー。会社概要では設立1960年5月(創業58年5月)
- [6]荏原食品は1958年に業務用・家庭用カレー専門メーカーのキンケイ食品の子会社として発足、当初は無名のソース・ケチャップメーカー。会社概要では設立1960年5月(創業58年5月)
- [7]設立後まもなく業績不振。1965年に森村武次郎社長が弟で専務の国夫氏を専任社長として送り込み再建。当時従業員10人程度・年商2000万円、倒産寸前。即席ラーメンの別添えスープ生産で業績回復
- [8]設立後まもなく業績不振。1965年に森村武次郎社長が弟で専務の国夫氏を専任社長として送り込み再建。当時従業員10人程度・年商2000万円、倒産寸前。即席ラーメンの別添えスープ生産で業績回復
- [9]設立後まもなく業績不振。1965年に森村武次郎社長が弟で専務の国夫氏を専任社長として送り込み再建。当時従業員10人程度・年商2000万円、倒産寸前。即席ラーメンの別添えスープ生産で業績回復
- [10]設立後まもなく業績不振。1965年に森村武次郎社長が弟で専務の国夫氏を専任社長として送り込み再建。当時従業員10人程度・年商2000万円、倒産寸前。即席ラーメンの別添えスープ生産で業績回復
- [11]設立後まもなく業績不振。1965年に森村武次郎社長が弟で専務の国夫氏を専任社長として送り込み再建。当時従業員10人程度・年商2000万円、倒産寸前。即席ラーメンの別添えスープ生産で業績回復
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [4]森村国夫氏は1936年キンケイ食品工業入社、1947年専務。社長は実兄の森村武次郎氏
- [12]森村国夫氏はキンケイ食品時代に養ったマーケティングのセンスをエバラ食品へ持ち込んだ
1967年〜精肉店の冷蔵ケースの上に置いた焼肉のたれと、キンケイからエバラへ替えた看板
森村国夫氏は1967年、焼肉のたれを家庭向けに発売し、新しい市場に参入した。当時の焼肉は外で食べるごちそうとみなされ、家庭用のたれを手がけるメーカーはまだ無かった。肉の国内消費は増え、家庭で肉を焼くホットプレートも売れ始めた。森村国夫氏は、若者が朝鮮焼肉店でたれを付けて肉を食べる様子から、家庭の焼肉に大きな需要が眠っていると見た。供給の増えた豚肉やブロイラーをおいしく食べる調味料にも、需要が生まれると判断した。商品は安い肉でもおいしく食べられる味を目標に開発し、価格は100円台に抑えた。発売した1967年の荏原食品の年商は、3億〜4億円。再建6年目の1970年には、業務用のスープとカレーにも品目を拡大し、売上高が5億円に達した。
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- [13]1967年に焼肉のたれに進出。当時焼肉は外食のごちそうで家庭用たれは未開拓、肉消費量増加とホットプレート人気。「安い肉でもおいしく」を狙い100円台の価格。その後業務用ラーメンスープ・カレーへ広げ、1970年に売上高5億円
- [14]1967年に焼肉のたれに進出。当時焼肉は外食のごちそうで家庭用たれは未開拓、肉消費量増加とホットプレート人気。「安い肉でもおいしく」を狙い100円台の価格。その後業務用ラーメンスープ・カレーへ広げ、1970年に売上高5億円
- [15]1967年に焼肉のたれに進出。当時焼肉は外食のごちそうで家庭用たれは未開拓、肉消費量増加とホットプレート人気。「安い肉でもおいしく」を狙い100円台の価格。その後業務用ラーメンスープ・カレーへ広げ、1970年に売上高5億円
- [18]1967年に焼肉のたれに進出。当時焼肉は外食のごちそうで家庭用たれは未開拓、肉消費量増加とホットプレート人気。「安い肉でもおいしく」を狙い100円台の価格。その後業務用ラーメンスープ・カレーへ広げ、1970年に売上高5億円
- [20]1967年に焼肉のたれに進出。当時焼肉は外食のごちそうで家庭用たれは未開拓、肉消費量増加とホットプレート人気。「安い肉でもおいしく」を狙い100円台の価格。その後業務用ラーメンスープ・カレーへ広げ、1970年に売上高5億円
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [16]昭和40年代に肉食志向が強まり若者が朝鮮焼き肉店でたれをつけて食べる様子から潜在需要を感じた。豚肉・ブロイラー向け調味料需要も判断。発売の昭和42年当時の年商3億〜4億円
- [17]昭和40年代に肉食志向が強まり若者が朝鮮焼き肉店でたれをつけて食べる様子から潜在需要を感じた。豚肉・ブロイラー向け調味料需要も判断。発売の昭和42年当時の年商3億〜4億円
- [19]昭和40年代に肉食志向が強まり若者が朝鮮焼き肉店でたれをつけて食べる様子から潜在需要を感じた。豚肉・ブロイラー向け調味料需要も判断。発売の昭和42年当時の年商3億〜4億円
森村国夫氏は焼肉のたれの販路を精肉店に絞った。スーパーの棚では他社の商品に埋もれるうえ、当時の精肉店は調味料をほとんど扱っていなかったためである。発想の起点は、精肉店の冷蔵ショーケース上部の空いた場所。客は店員が肉を量り代金を計算する間に手が空くので、派手な瓶を置けば手に取ると森村国夫氏は考えた。精肉店にとっても、たれは肉の販売量を増やす商品となり、荏原食品は店頭の目立つ場所を得た。社内ではこの販路の開き方を「モグラ作戦」と呼び、スーパーから引き合いが来ても当初は精肉店での固定客づくりを優先した。調味料売り場で大手と並ぶのを避け、肉と同時に買われる売り場を先に押さえたことが競争優位になったのだろう。
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- [21]販売ルートは精肉店主体。スーパーでは他社品に埋もれ、当時肉屋は調味料をほとんど売らなかった。肉の販促になるとして冷蔵ショーケースの上など目立つ場所に置かれた
- [22]販売ルートは精肉店主体。スーパーでは他社品に埋もれ、当時肉屋は調味料をほとんど売らなかった。肉の販促になるとして冷蔵ショーケースの上など目立つ場所に置かれた
- [25]販売ルートは精肉店主体。スーパーでは他社品に埋もれ、当時肉屋は調味料をほとんど売らなかった。肉の販促になるとして冷蔵ショーケースの上など目立つ場所に置かれた
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [23]精肉店の冷蔵ショーケース上の空間に着目。客が計量・計算を待つ間に派手な商品に手を伸ばすと考え、肉の購買量も増える商品として精肉店に働きかけた
- [24]精肉店の冷蔵ショーケース上の空間に着目。客が計量・計算を待つ間に派手な商品に手を伸ばすと考え、肉の購買量も増える商品として精肉店に働きかけた
- NIKKEI STYLE 2020年7月 エバラ食品工業 商品開発部長 清水憲一氏の談
- [26]精肉店だけで売ってファンづくりを優先し、社内でモグラ作戦と呼んだ。スーパーからの引き合いも早くにあった
荏原食品は1968年4月に商標をキンケイからエバラに切り替え、同年7月に商号をエバラ食品工業に改めた。社長の森村国夫氏は、兄でキンケイ食品工業社長の森村武次郎氏と経営方針をめぐって対立し、キンケイ食品工業から独立した。独立後のキンケイ食品工業は東証2部に上場したものの、1976年に経営が行き詰まり、レストラン西武へ吸収合併された。エバラ食品工業は1958年の発足時に親会社の子会社として出発しており、キンケイの名は親会社との資本関係の表れである。焼肉のたれが精肉店で売れ始めた時期に商標を改めたことで、エバラ食品工業は自社の名で商品を知らせる立場に移った。親会社との方針の対立を経て、たれの成長を他社の看板に預けない判断を下したと考えられる。
- エバラ食品工業 有価証券報告書 第48期(2006年3月期)【沿革】
- [27]1968年4月 キンケイブランドをエバラブランドに変更、1968年7月 エバラ食品工業に商号変更
- [31]1968年4月 キンケイブランドをエバラブランドに変更、1968年7月 エバラ食品工業に商号変更
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [28]森村国夫氏は実兄の武次郎社長と経営方針などで対立し独立、荏原食品へ移った。キンケイ食品は東証二部上場後、1976年に行き詰まりレストラン西武に吸収
- [29]森村国夫氏は実兄の武次郎社長と経営方針などで対立し独立、荏原食品へ移った。キンケイ食品は東証二部上場後、1976年に行き詰まりレストラン西武に吸収
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- [30]1958年にキンケイ食品の子会社「荏原食品」として発足
参考文献[13]-[31]
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- [13]1967年に焼肉のたれに進出。当時焼肉は外食のごちそうで家庭用たれは未開拓、肉消費量増加とホットプレート人気。「安い肉でもおいしく」を狙い100円台の価格。その後業務用ラーメンスープ・カレーへ広げ、1970年に売上高5億円
- [14]1967年に焼肉のたれに進出。当時焼肉は外食のごちそうで家庭用たれは未開拓、肉消費量増加とホットプレート人気。「安い肉でもおいしく」を狙い100円台の価格。その後業務用ラーメンスープ・カレーへ広げ、1970年に売上高5億円
- [15]1967年に焼肉のたれに進出。当時焼肉は外食のごちそうで家庭用たれは未開拓、肉消費量増加とホットプレート人気。「安い肉でもおいしく」を狙い100円台の価格。その後業務用ラーメンスープ・カレーへ広げ、1970年に売上高5億円
- [18]1967年に焼肉のたれに進出。当時焼肉は外食のごちそうで家庭用たれは未開拓、肉消費量増加とホットプレート人気。「安い肉でもおいしく」を狙い100円台の価格。その後業務用ラーメンスープ・カレーへ広げ、1970年に売上高5億円
- [20]1967年に焼肉のたれに進出。当時焼肉は外食のごちそうで家庭用たれは未開拓、肉消費量増加とホットプレート人気。「安い肉でもおいしく」を狙い100円台の価格。その後業務用ラーメンスープ・カレーへ広げ、1970年に売上高5億円
- [21]販売ルートは精肉店主体。スーパーでは他社品に埋もれ、当時肉屋は調味料をほとんど売らなかった。肉の販促になるとして冷蔵ショーケースの上など目立つ場所に置かれた
- [22]販売ルートは精肉店主体。スーパーでは他社品に埋もれ、当時肉屋は調味料をほとんど売らなかった。肉の販促になるとして冷蔵ショーケースの上など目立つ場所に置かれた
- [25]販売ルートは精肉店主体。スーパーでは他社品に埋もれ、当時肉屋は調味料をほとんど売らなかった。肉の販促になるとして冷蔵ショーケースの上など目立つ場所に置かれた
- [30]1958年にキンケイ食品の子会社「荏原食品」として発足
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [16]昭和40年代に肉食志向が強まり若者が朝鮮焼き肉店でたれをつけて食べる様子から潜在需要を感じた。豚肉・ブロイラー向け調味料需要も判断。発売の昭和42年当時の年商3億〜4億円
- [17]昭和40年代に肉食志向が強まり若者が朝鮮焼き肉店でたれをつけて食べる様子から潜在需要を感じた。豚肉・ブロイラー向け調味料需要も判断。発売の昭和42年当時の年商3億〜4億円
- [19]昭和40年代に肉食志向が強まり若者が朝鮮焼き肉店でたれをつけて食べる様子から潜在需要を感じた。豚肉・ブロイラー向け調味料需要も判断。発売の昭和42年当時の年商3億〜4億円
- [23]精肉店の冷蔵ショーケース上の空間に着目。客が計量・計算を待つ間に派手な商品に手を伸ばすと考え、肉の購買量も増える商品として精肉店に働きかけた
- [24]精肉店の冷蔵ショーケース上の空間に着目。客が計量・計算を待つ間に派手な商品に手を伸ばすと考え、肉の購買量も増える商品として精肉店に働きかけた
- [28]森村国夫氏は実兄の武次郎社長と経営方針などで対立し独立、荏原食品へ移った。キンケイ食品は東証二部上場後、1976年に行き詰まりレストラン西武に吸収
- [29]森村国夫氏は実兄の武次郎社長と経営方針などで対立し独立、荏原食品へ移った。キンケイ食品は東証二部上場後、1976年に行き詰まりレストラン西武に吸収
- NIKKEI STYLE 2020年7月 エバラ食品工業 商品開発部長 清水憲一氏の談
- [26]精肉店だけで売ってファンづくりを優先し、社内でモグラ作戦と呼んだ。スーパーからの引き合いも早くにあった
- エバラ食品工業 有価証券報告書 第48期(2006年3月期)【沿革】
- [27]1968年4月 キンケイブランドをエバラブランドに変更、1968年7月 エバラ食品工業に商号変更
- [31]1968年4月 キンケイブランドをエバラブランドに変更、1968年7月 エバラ食品工業に商号変更
1972年〜伊勢原工場とテレビCMで年商141億円に届いた焼肉のたれと、大手の参入
エバラ食品工業は1972年7月、神奈川県伊勢原市で伊勢原工場を稼働させた。焼肉のたれを軸にした売上高は、発売時の3億〜4億円から1973年ごろに15億6000万円へ増加した。伊勢原工場は自動化した自社工場で、自社で建てた工場は伊勢原と横浜の第1・第2工場に限った。栃木県足尾、千葉県野田、茨城県真壁の工場は協力工場とし、エバラ食品工業が製造ラインの設計を担い、設備を貸与した。従業員と設備資金の負担を抑えた結果、1979年ごろの従業員200人強で1人当たり売上高は5000万円を上回った。借入金について森村国夫氏は『借金も金融機関との付き合い程度で、実質的には無借金』と説明した。需要の増加に自社の設備を追随させず、外部の工場で量を賄う方針を採ったと思われる。
- エバラ食品工業 有価証券報告書 第48期(2006年3月期)【沿革】
- [32]1972年7月 伊勢原工場(神奈川県伊勢原市)稼動
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [33]売上高は昭和42年の3億〜4億円から48年ごろ15億6000万円。伊勢原の自動化工場と横浜第1・第2工場を自社建設、足尾・野田・真壁・鳥浜は協力工場で製造ラインを設計しリース。従業員200人強、1人当たり売上高5000万円以上、実質無借金
- [34]売上高は昭和42年の3億〜4億円から48年ごろ15億6000万円。伊勢原の自動化工場と横浜第1・第2工場を自社建設、足尾・野田・真壁・鳥浜は協力工場で製造ラインを設計しリース。従業員200人強、1人当たり売上高5000万円以上、実質無借金
- [35]売上高は昭和42年の3億〜4億円から48年ごろ15億6000万円。伊勢原の自動化工場と横浜第1・第2工場を自社建設、足尾・野田・真壁・鳥浜は協力工場で製造ラインを設計しリース。従業員200人強、1人当たり売上高5000万円以上、実質無借金
- [36]売上高は昭和42年の3億〜4億円から48年ごろ15億6000万円。伊勢原の自動化工場と横浜第1・第2工場を自社建設、足尾・野田・真壁・鳥浜は協力工場で製造ラインを設計しリース。従業員200人強、1人当たり売上高5000万円以上、実質無借金
- [37]売上高は昭和42年の3億〜4億円から48年ごろ15億6000万円。伊勢原の自動化工場と横浜第1・第2工場を自社建設、足尾・野田・真壁・鳥浜は協力工場で製造ラインを設計しリース。従業員200人強、1人当たり売上高5000万円以上、実質無借金
1970年、エバラ食品工業による静岡県でのテレビCMの試験放映と、団地での料理教室の開催。試験放映の手応えを受けて、落語家の月の家円鏡をCMに起用して、国内最大の市場の東京へ進出した。1973年には名古屋と仙台にも販売地域を広げた。販売地域を限って順に広げる手法の社内での呼び名が、「城攻め」である。テレビとラジオでは独自のCMソングを流し、焼肉のたれという新しい品目の認知度を高めた。円鏡の起用は大衆層への浸透を狙ったもので、精肉店ルートでのエバラ食品工業の優位を支えた。森村国夫氏がテレビCMを重んじた背景には、無名のためにソースで市場参入に失敗した経験があった。精肉店の固定客を足場に、知名度を地域ごとに積み上げていったと推測される。
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- [38]1970年に静岡でテストCMと団地の料理教室、その後橘家円蔵(当時月の家円鏡)を起用し東京へ、73年に名古屋・仙台へ。知名度が低く市場参入に失敗した苦い経験がCM重視の理由
- [39]1970年に静岡でテストCMと団地の料理教室、その後橘家円蔵(当時月の家円鏡)を起用し東京へ、73年に名古屋・仙台へ。知名度が低く市場参入に失敗した苦い経験がCM重視の理由
- [40]1970年に静岡でテストCMと団地の料理教室、その後橘家円蔵(当時月の家円鏡)を起用し東京へ、73年に名古屋・仙台へ。知名度が低く市場参入に失敗した苦い経験がCM重視の理由
- [44]1970年に静岡でテストCMと団地の料理教室、その後橘家円蔵(当時月の家円鏡)を起用し東京へ、73年に名古屋・仙台へ。知名度が低く市場参入に失敗した苦い経験がCM重視の理由
- NIKKEI STYLE 2020年7月 エバラ食品工業 商品開発部長 清水憲一氏の談
- [41]販売エリアを限定して徐々に広げる戦法を社内で城攻めと呼んだ
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [42]テレビ・ラジオで特色あるCMソングを流し認知度を高めた。月の家円鏡を起用し大衆層へ浸透、精肉店ルートで圧倒的な強さ
- [43]テレビ・ラジオで特色あるCMソングを流し認知度を高めた。月の家円鏡を起用し大衆層へ浸透、精肉店ルートで圧倒的な強さ
エバラ食品工業は1978年、焼肉のたれの高級品として「黄金の味」の販売を始めた。醤油味の従来品と異なり、リンゴや梅を加えたとろみのある甘口に仕上げた。1975年に大阪営業所を開設した関西では当初シェアをほとんど得られず、その黄金の味が関西攻略の決め手となった。焼肉のたれの市場は1975年前後の40億〜50億円から、1979年ごろには約200億円に拡大した。拡大に伴い、味の素、日本ハム、プリマハム、エスビー食品の参入が相次いだ。スーパーの安売りは精肉店の価格崩れにもつながった。エバラ食品工業は1978年秋からスーパーの店頭へ専用の陳列棚を無償で配り、関東と関西で500台を設置した。1979年3月期の売上高は141億円である。同じ時期のシェアは約5割で、2位以下の桃屋や日本ハムは7〜8%から10%強にとどまった。
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [45]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- [48]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- [49]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- [50]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- [51]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- [53]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- [46]黄金の味は78年発売、リンゴや梅入りのとろみある甘口。大阪営業所は75年開設、当初関西でシェアが取れず黄金の味が突破の原動力
- [47]黄金の味は78年発売、リンゴや梅入りのとろみある甘口。大阪営業所は75年開設、当初関西でシェアが取れず黄金の味が突破の原動力
- エバラ食品工業 有価証券報告書 1979年3月期(売上高)
- [52]1979年3月期 売上高141億円(単体)
参考文献[32]-[53]
- エバラ食品工業 有価証券報告書 第48期(2006年3月期)【沿革】
- [32]1972年7月 伊勢原工場(神奈川県伊勢原市)稼動
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [33]売上高は昭和42年の3億〜4億円から48年ごろ15億6000万円。伊勢原の自動化工場と横浜第1・第2工場を自社建設、足尾・野田・真壁・鳥浜は協力工場で製造ラインを設計しリース。従業員200人強、1人当たり売上高5000万円以上、実質無借金
- [34]売上高は昭和42年の3億〜4億円から48年ごろ15億6000万円。伊勢原の自動化工場と横浜第1・第2工場を自社建設、足尾・野田・真壁・鳥浜は協力工場で製造ラインを設計しリース。従業員200人強、1人当たり売上高5000万円以上、実質無借金
- [35]売上高は昭和42年の3億〜4億円から48年ごろ15億6000万円。伊勢原の自動化工場と横浜第1・第2工場を自社建設、足尾・野田・真壁・鳥浜は協力工場で製造ラインを設計しリース。従業員200人強、1人当たり売上高5000万円以上、実質無借金
- [36]売上高は昭和42年の3億〜4億円から48年ごろ15億6000万円。伊勢原の自動化工場と横浜第1・第2工場を自社建設、足尾・野田・真壁・鳥浜は協力工場で製造ラインを設計しリース。従業員200人強、1人当たり売上高5000万円以上、実質無借金
- [37]売上高は昭和42年の3億〜4億円から48年ごろ15億6000万円。伊勢原の自動化工場と横浜第1・第2工場を自社建設、足尾・野田・真壁・鳥浜は協力工場で製造ラインを設計しリース。従業員200人強、1人当たり売上高5000万円以上、実質無借金
- [42]テレビ・ラジオで特色あるCMソングを流し認知度を高めた。月の家円鏡を起用し大衆層へ浸透、精肉店ルートで圧倒的な強さ
- [43]テレビ・ラジオで特色あるCMソングを流し認知度を高めた。月の家円鏡を起用し大衆層へ浸透、精肉店ルートで圧倒的な強さ
- [45]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- [48]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- [49]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- [50]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- [51]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- [53]1978年に高級品「黄金の味」発売。市場規模は3〜4年前の40億〜50億円から約200億円、味の素・日本ハム・プリマハム・エスビー食品が参入。スーパーの値崩れが精肉店ルートに波及するため昨秋から専用キャビネット500台を無償設置。シェア約50%、桃屋・日本ハムは7〜8%から10%強
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- [38]1970年に静岡でテストCMと団地の料理教室、その後橘家円蔵(当時月の家円鏡)を起用し東京へ、73年に名古屋・仙台へ。知名度が低く市場参入に失敗した苦い経験がCM重視の理由
- [39]1970年に静岡でテストCMと団地の料理教室、その後橘家円蔵(当時月の家円鏡)を起用し東京へ、73年に名古屋・仙台へ。知名度が低く市場参入に失敗した苦い経験がCM重視の理由
- [40]1970年に静岡でテストCMと団地の料理教室、その後橘家円蔵(当時月の家円鏡)を起用し東京へ、73年に名古屋・仙台へ。知名度が低く市場参入に失敗した苦い経験がCM重視の理由
- [44]1970年に静岡でテストCMと団地の料理教室、その後橘家円蔵(当時月の家円鏡)を起用し東京へ、73年に名古屋・仙台へ。知名度が低く市場参入に失敗した苦い経験がCM重視の理由
- [46]黄金の味は78年発売、リンゴや梅入りのとろみある甘口。大阪営業所は75年開設、当初関西でシェアが取れず黄金の味が突破の原動力
- [47]黄金の味は78年発売、リンゴや梅入りのとろみある甘口。大阪営業所は75年開設、当初関西でシェアが取れず黄金の味が突破の原動力
- NIKKEI STYLE 2020年7月 エバラ食品工業 商品開発部長 清水憲一氏の談
- [41]販売エリアを限定して徐々に広げる戦法を社内で城攻めと呼んだ
- エバラ食品工業 有価証券報告書 1979年3月期(売上高)
- [52]1979年3月期 売上高141億円(単体)
1958年〜1979年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1958年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 2 | +66.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 4 | +80.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 9 | +104.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 15 | +70.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 23 | +49.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 39 | +66.8% | n/a | n/a | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 54 | +39.8% | n/a | n/a | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 73 | +34.1% | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 86 | +17.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 116 | +34.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 141 | +21.6% | n/a | n/a | n/a |
出所:有価証券報告書、森村国夫『2からの発想』1987
出典・参考
5件
- エバラ食品工業 有価証券報告書 1979年3月期(売上高)
- エバラ食品工業 有価証券報告書 第48期(2006年3月期)【沿革】
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- 日経ビジネス 1991年3月25日号
- NIKKEI STYLE 2020年7月 エバラ食品工業 商品開発部長 清水憲一氏の談