飯田亮
経歴1956〜1997年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1956年主要役職の状況(推定含む目安)1997年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 岡永商店 | 1956 | 入社 | ||
| セコム(旧・日本警備保障) | 1962 | 代表取締役社長 | |||
| 1976 | 代表取締役会長 | ||||
| 1976 | 社長 退任 | ||||
| 1997 | 取締役最高顧問 |
社長就任までの出自
社長に選ばれた経緯
抜擢
1962年7月、日本警備保障の設立と同時に代表取締役社長に就任した。ともに会社を興したのは大学時代の学友の戸田壽一氏で、戸田壽一氏は設立時に専務取締役に就任し、のちに副会長として経営を支えた。社長を14年務めたのち、1976年2月に42歳で代表取締役会長へ移り、戸田壽一氏も同時に代表取締役副会長に就任した。1983年の人物記事は、この会長就任を、社会システムの構想づくりに自らの役割を絞るための選択として描いている。1997年6月には取締役最高顧問に退いた。
在任中の主な施策
施策
在任中の施策の中心は、人手による警備から機械警備への転換である。1966年6月に、わが国初のオンライン安全システム「SPアラーム」を開発・発売した。機械で侵入者を見つけられるのかという疑問は根強く、1969年になっても無人警備は売上の0.5%にとどまった。飯田亮氏は「今後は無人警備以外の注文はとるな」と社内に号令をかけ、1972年には機械警備が売上の55%に達した。1974年6月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、1975年3月にはコンピュータ安全システムCSSを確立した。
創業ストーリー
創業ストーリー
1956年に大学を卒業した飯田亮氏は、父の経営する酒問屋の岡永商店に入り、2年ほど酒荷の出し入れを担ったのち小売店への営業に回った。岡永にはすでに3人の兄が勤めており、末弟の飯田亮氏は兄の下で働き続けても先が無いと考え、独立に傾いた。兄の飯田保氏によれば、父の飯田紋治郎氏は子に勤め人の道を許さず、「自分で商売して人を使う立場になれ」と説いていた。飯田亮氏は後年、創業の動機を「何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」と語っている。
- 日経ビジネス 1973年8月6日号
- [19]昭和31年学習院大学卒業、父親の経営する酒問屋岡永商店を手伝う。酒荷の出し入れを2年間ほどやり、その後小売店へのセールス。男5人兄弟の弟でいつまでも兄貴の下で仕事を手伝っていても仕方がない。「何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」。大学時代の学友戸田寿一氏と酒を飲んで議論し、メールオーダーなども挙がるなか、欧米には警備会社があると聞く。37年7月に設立、飯田氏29歳。ビルの夜のパトロールを売り込むが「テレビの見過ぎ」で終わる。38年秋から39年にかけて東京オリンピック関係の警備需要がふえ息をついた。学園騒ぎや労使のもめごとのガードはいっさいやらない方針で、高い料金の申し入れも断り、一般の防犯・防災などの警備に徹した
- [20]昭和31年学習院大学卒業、父親の経営する酒問屋岡永商店を手伝う。酒荷の出し入れを2年間ほどやり、その後小売店へのセールス。男5人兄弟の弟でいつまでも兄貴の下で仕事を手伝っていても仕方がない。「何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」。大学時代の学友戸田寿一氏と酒を飲んで議論し、メールオーダーなども挙がるなか、欧米には警備会社があると聞く。37年7月に設立、飯田氏29歳。ビルの夜のパトロールを売り込むが「テレビの見過ぎ」で終わる。38年秋から39年にかけて東京オリンピック関係の警備需要がふえ息をついた。学園騒ぎや労使のもめごとのガードはいっさいやらない方針で、高い料金の申し入れも断り、一般の防犯・防災などの警備に徹した
- [23]昭和31年学習院大学卒業、父親の経営する酒問屋岡永商店を手伝う。酒荷の出し入れを2年間ほどやり、その後小売店へのセールス。男5人兄弟の弟でいつまでも兄貴の下で仕事を手伝っていても仕方がない。「何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」。大学時代の学友戸田寿一氏と酒を飲んで議論し、メールオーダーなども挙がるなか、欧米には警備会社があると聞く。37年7月に設立、飯田氏29歳。ビルの夜のパトロールを売り込むが「テレビの見過ぎ」で終わる。38年秋から39年にかけて東京オリンピック関係の警備需要がふえ息をついた。学園騒ぎや労使のもめごとのガードはいっさいやらない方針で、高い料金の申し入れも断り、一般の防犯・防災などの警備に徹した
- 日経ビジネス 1985年12月9日号
- [21]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
- [22]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
事業の題材は、大学時代の友人の戸田壽一氏と酒席で議論を重ねるなかで選んだ。通信販売も候補に挙がったが、航空会社に勤める友人から欧州に警備を請け負う会社があると聞き、日本にまだ無い業態に狙いを定めた。父の飯田紋治郎氏は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対し、3度目に意思を告げた飯田亮氏に勘当を言い渡した。
- 日経ビジネス 1973年8月6日号
- [24]昭和31年学習院大学卒業、父親の経営する酒問屋岡永商店を手伝う。酒荷の出し入れを2年間ほどやり、その後小売店へのセールス。男5人兄弟の弟でいつまでも兄貴の下で仕事を手伝っていても仕方がない。「何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」。大学時代の学友戸田寿一氏と酒を飲んで議論し、メールオーダーなども挙がるなか、欧米には警備会社があると聞く。37年7月に設立、飯田氏29歳。ビルの夜のパトロールを売り込むが「テレビの見過ぎ」で終わる。38年秋から39年にかけて東京オリンピック関係の警備需要がふえ息をついた。学園騒ぎや労使のもめごとのガードはいっさいやらない方針で、高い料金の申し入れも断り、一般の防犯・防災などの警備に徹した
- [25]昭和31年学習院大学卒業、父親の経営する酒問屋岡永商店を手伝う。酒荷の出し入れを2年間ほどやり、その後小売店へのセールス。男5人兄弟の弟でいつまでも兄貴の下で仕事を手伝っていても仕方がない。「何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」。大学時代の学友戸田寿一氏と酒を飲んで議論し、メールオーダーなども挙がるなか、欧米には警備会社があると聞く。37年7月に設立、飯田氏29歳。ビルの夜のパトロールを売り込むが「テレビの見過ぎ」で終わる。38年秋から39年にかけて東京オリンピック関係の警備需要がふえ息をついた。学園騒ぎや労使のもめごとのガードはいっさいやらない方針で、高い料金の申し入れも断り、一般の防犯・防災などの警備に徹した
- 日経ビジネス 1985年12月9日号
- [26]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
- [27]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
1962年7月、29歳の飯田亮氏は戸田壽一氏とともに日本警備保障を設立した。元手は自ら蓄えた50万円に、金融機関からの借入400万円を加えたものである。発足時の陣容は、創業者2人に警備員2人を加えた4人であった。ビルの夜間巡回を提案して回っても契約には結びつかず、最初の契約となった麹町の旅行代理店ビルの巡回警備を得るまでに数カ月を要した。それでも3カ月分の前金、3年の契約期間、中途解約の違約金という条件は崩さなかった。
- セコム 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [28]1962年7月 日本初の警備保障会社、日本警備保障㈱(現セコム㈱)を設立。1964年10月 東京オリンピックで選手村などの警備を当社単独で担当。1966年6月 SPアラームを開発・発売。1974年6月 東京証券取引所市場第二部に上場
- 日経ビジネス 1973年8月6日号
- [29]昭和31年学習院大学卒業、父親の経営する酒問屋岡永商店を手伝う。酒荷の出し入れを2年間ほどやり、その後小売店へのセールス。男5人兄弟の弟でいつまでも兄貴の下で仕事を手伝っていても仕方がない。「何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」。大学時代の学友戸田寿一氏と酒を飲んで議論し、メールオーダーなども挙がるなか、欧米には警備会社があると聞く。37年7月に設立、飯田氏29歳。ビルの夜のパトロールを売り込むが「テレビの見過ぎ」で終わる。38年秋から39年にかけて東京オリンピック関係の警備需要がふえ息をついた。学園騒ぎや労使のもめごとのガードはいっさいやらない方針で、高い料金の申し入れも断り、一般の防犯・防災などの警備に徹した
- [32]昭和31年学習院大学卒業、父親の経営する酒問屋岡永商店を手伝う。酒荷の出し入れを2年間ほどやり、その後小売店へのセールス。男5人兄弟の弟でいつまでも兄貴の下で仕事を手伝っていても仕方がない。「何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」。大学時代の学友戸田寿一氏と酒を飲んで議論し、メールオーダーなども挙がるなか、欧米には警備会社があると聞く。37年7月に設立、飯田氏29歳。ビルの夜のパトロールを売り込むが「テレビの見過ぎ」で終わる。38年秋から39年にかけて東京オリンピック関係の警備需要がふえ息をついた。学園騒ぎや労使のもめごとのガードはいっさいやらない方針で、高い料金の申し入れも断り、一般の防犯・防災などの警備に徹した
- 日経ビジネス 1983年10月17日号
- [30]昭和37年、コツコツ貯めた50万円を元手に、金庫から借りた400万円を加えて警備会社を設立。東京オリンピックでガードマンが受けに入っている頃、飯田の頭の中ではすでに「ガードマンからSPアラーム・システム」への移行が概念設計されつつあった
- 日経ビジネス 1985年12月9日号
- [31]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
- [33]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
- [34]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
経営が持ち直したのは、1963年秋から東京オリンピック関連の警備需要が増え始めてからである。1964年10月の大会では選手村などの警備を単独で担い、1963年暮れに50〜60人だった人員は大会後に約300人まで増加した。1965年に同社を題材とするテレビドラマが始まる際には、飯田亮氏が題名の協議に加わり、「ガードマン」という造語が生まれた。一方で、学園紛争や労使紛争の警備は高い料金を示されても引き受けず、一般の防犯・防災に業務を絞った。
- 日経ビジネス 1973年8月6日号
- [35]昭和31年学習院大学卒業、父親の経営する酒問屋岡永商店を手伝う。酒荷の出し入れを2年間ほどやり、その後小売店へのセールス。男5人兄弟の弟でいつまでも兄貴の下で仕事を手伝っていても仕方がない。「何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」。大学時代の学友戸田寿一氏と酒を飲んで議論し、メールオーダーなども挙がるなか、欧米には警備会社があると聞く。37年7月に設立、飯田氏29歳。ビルの夜のパトロールを売り込むが「テレビの見過ぎ」で終わる。38年秋から39年にかけて東京オリンピック関係の警備需要がふえ息をついた。学園騒ぎや労使のもめごとのガードはいっさいやらない方針で、高い料金の申し入れも断り、一般の防犯・防災などの警備に徹した
- [39]昭和31年学習院大学卒業、父親の経営する酒問屋岡永商店を手伝う。酒荷の出し入れを2年間ほどやり、その後小売店へのセールス。男5人兄弟の弟でいつまでも兄貴の下で仕事を手伝っていても仕方がない。「何が何でも独立したいというガムシャラな独立心から」。大学時代の学友戸田寿一氏と酒を飲んで議論し、メールオーダーなども挙がるなか、欧米には警備会社があると聞く。37年7月に設立、飯田氏29歳。ビルの夜のパトロールを売り込むが「テレビの見過ぎ」で終わる。38年秋から39年にかけて東京オリンピック関係の警備需要がふえ息をついた。学園騒ぎや労使のもめごとのガードはいっさいやらない方針で、高い料金の申し入れも断り、一般の防犯・防災などの警備に徹した
- セコム 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [36]1962年7月 日本初の警備保障会社、日本警備保障㈱(現セコム㈱)を設立。1964年10月 東京オリンピックで選手村などの警備を当社単独で担当。1966年6月 SPアラームを開発・発売。1974年6月 東京証券取引所市場第二部に上場
- 日経ビジネス 1985年12月9日号
- [37]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
- [38]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
飯田亮氏は、東京オリンピックの警備を担っていたころから、ガードマンによる警備を機械に置き換える構想を練っていた。人件費の差を理由に、当初からマンパワーによる警備は過渡期の形と位置づけていた。1966年6月に発売した「SPアラーム」は、1969年4月に連続射殺事件の犯人逮捕のきっかけとなった。同じころ飯田亮氏が「巡回はやめよう」と提案すると社内は騒然となったが、ガードマン会社という社員の固定観念を改めさせる狙いがあったとみられる。
- 日経ビジネス 1983年10月17日号
- [40]昭和37年、コツコツ貯めた50万円を元手に、金庫から借りた400万円を加えて警備会社を設立。東京オリンピックでガードマンが受けに入っている頃、飯田の頭の中ではすでに「ガードマンからSPアラーム・システム」への移行が概念設計されつつあった
- 日経ビジネス 1985年12月9日号
- [41]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
- [43]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
- [44]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
- セコム 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [42]1962年7月 日本初の警備保障会社、日本警備保障㈱(現セコム㈱)を設立。1964年10月 東京オリンピックで選手村などの警備を当社単独で担当。1966年6月 SPアラームを開発・発売。1974年6月 東京証券取引所市場第二部に上場
1974年6月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、1983年12月には社名をセコムに改めた。新社名は「セキュリティ・コミュニケーション」の略で、警備会社から安全産業へ移ったことを社内外に示す意図があった。
- セコム 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [45]1962年7月 日本初の警備保障会社、日本警備保障㈱(現セコム㈱)を設立。1964年10月 東京オリンピックで選手村などの警備を当社単独で担当。1966年6月 SPアラームを開発・発売。1974年6月 東京証券取引所市場第二部に上場
- 日経ビジネス 1985年12月9日号
- [46]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
- [47]すでに3人の兄が岡永にいた。父は「自分で商売して人を使う立場になれ」(二男・保)。航空会社の友人から「ヨーロッパに警備をやる会社がある」と聞き、カタログ販売も考えたが警備会社に踏み切った。父は「社会の中にないような仕事を始めることはない」と反対、3回目に勘当。昭和37年7月、戸田寿一と2人の警備員の計4人でスタート。初契約は麹町の旅行代理店ビルの巡回警備で5カ月かかった。「3カ月前金制」「3年契約」「契約破棄はペナルティ」を崩さなかった。38年暮れの手勢は5〜60人、オリンピック後に約300人。40年のテレビドラマの題名の協議でガードマンという新造語ができた。当初からマンパワーによる警備から機械警備への転換が予定され、第1に人件費コストが違う。44年4月SPアラームが連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけ。「巡回はやめよう」と提案、社内は騒然、ガードマン会社という社員の固定観念を変えるショック療法だったようである。58年12月に社名をセコムに変更、「セキュリティ・コミュニケーション」の略で警備会社から安全産業へ離陸したことを社内外に宣言
業績貢献
飯田亮氏:在任中の業績貢献
| 決算期 | 在任 | 売上高 | 前期比 | 営業利益率 | ROE | 主な施策 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1969年12月期 | 32億円 | — | — | — | 本社を東京都港区赤坂の三会堂ビルに移転「SPアラーム」が連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけに | |
| 1970年12月期 | 49億円 | +53.1% | — | — | 安全システム機器の設置工事を担う日警電設を設立東京・晴海に中央管制センターを開設 | |
| 1971年12月期 | 64億円 | +30.6% | — | — | ||
| 1972年12月期 | 82億円 | +28.1% | — | — | 額面変更のためエスピーアラームシステムズと合併 | |
| 1973年12月期 | 110億円 | +34.1% | — | — | 大規模施設向けトータル安全管理システム「セコム3」を発売米ハンティントン・ナショナル銀行と無人銀行の安全システムで相互提携 | |
| 1974年12月期 | 150億円 | +36.4% | — | — | CDの安全管理システム「CDセキュリティパック」を発売東京証券取引所市場第二部に上場横浜市青葉台に研修所「セコムHDセンター」を開設 | |
| 1975年11月期 | 185億円 | +23.3% | — | — | 世界初のコンピュータ安全システムCSSを確立 | |
| 1976年11月期 | 240億円 | +29.7% | — | — | ||
| 1977年11月期 | 286億円 | +19.2% | — | — | ||
| 1978年11月期 | 342億円 | +19.6% | — | — | ||
| 1979年11月期 | 402億円 | +17.5% | — | — | ||
| 1980年11月期 | 442億円 | +10.0% | — | — |
参考文献4件
参考文献
- セコム 有価証券報告書(2006年3月期)【役員の状況】
- 日経ビジネス 1985年12月9日号「激動する時代が性に合う元太陽族の安全"商人"」
- 日経ビジネス 1973年8月6日号「安心産業夢見る草分けガードマン」
- 日経ビジネス 1983年10月17日号「浪花節と先見性がうまくミックス」
事実根拠:出所(セコム)