東京ドーム:後楽園スタヂアムの設立と競輪場・遊園地への多角化
1936年〜砲兵工廠跡の9500坪に建てた後楽園球場と、接収で止まった営業
後楽園スタヂアムは1936年12月、プロ野球専用球場の建設を目的に資本金200万円で設立された。発起の中心は小林一三氏・正力松太郎氏・田辺宗英氏の3人だった。役員会は田辺宗英氏の一派と兜町の有力者、創立を計画した野球人の3派による混成となった。阪急と東宝の社長を兼ねる小林一三氏と、政治家の田辺七六氏兄弟の代表として、田辺宗英氏が専務取締役に就任し、経営の実務を担った。用地には旧小石川区小石川町の元陸軍砲兵工廠跡の一部9500余坪を買収し、1937年4月に球場の建設工事へ着手。興行として成り立つか未知数だった職業野球に、専用球場という施設を先に用意する判断だったとみられる。
- 会社銀行八十年史 1955「後楽園スタヂアム」
- [1]1936年12月、プロ野球専用球場建設を目的に資本金200万円で設立。元陸軍砲兵工廠跡の一部9500余坪を買収し、1937年4月に建設着手
- [5]1936年12月、プロ野球専用球場建設を目的に資本金200万円で設立。元陸軍砲兵工廠跡の一部9500余坪を買収し、1937年4月に建設着手
- 企業の歴史 明治百年 1968「後楽園スタヂアム」
- [2]創立者は小林一三・正力松太郎・田辺宗英の諸氏
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [3]役員は田辺グループ・兜町の有力者・野球人の3派の混成。多忙な小林一三や政治家田辺七六兄弟の代表として田辺宗英が専務取締役に
- [4]役員は田辺グループ・兜町の有力者・野球人の3派の混成。多忙な小林一三や政治家田辺七六兄弟の代表として田辺宗英が専務取締役に
後楽園球場は1937年9月に完成し、職業野球に貸すかたわら、各種の運動競技や屋外の大集会にも場を貸与した。当時は小林一三氏でさえ職業野球の興行には時期が早いとみており、野球の貸し賃だけで収支が立つ見通しは無かった。観覧席の下には円タク500台を収める貸ガレージを設け、野球の無い日には野天興行を組む計画も立てた。ガレージは1台月50円で、月2万5000円の付帯収入を見込む計算である。その後は軍国主義の風潮のもとで業績が悪化し、東宝が経営刷新に人材を送り込んでも盛り返せなかった。開業の時点から、球場を野球以外にも使い回す多角利用が経営の前提に置かれていたのだろう。
- 会社銀行八十年史 1955「後楽園スタヂアム」
- [6]1937年9月に球場完成。職業野球場として賃貸するかたわら各種運動競技・屋外大集会場として貸与
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [7]小林一三でさえ職業野球は「まだ十年は早い」とした。観覧席下に円タク500台の貸ガレージ(1台月50円・月2万5千円の付帯収入見込み)、野天興行も計画
- [8]小林一三でさえ職業野球は「まだ十年は早い」とした。観覧席下に円タク500台の貸ガレージ(1台月50円・月2万5千円の付帯収入見込み)、野天興行も計画
- [9]小林一三でさえ職業野球は「まだ十年は早い」とした。観覧席下に円タク500台の貸ガレージ(1台月50円・月2万5千円の付帯収入見込み)、野天興行も計画
- [10]軍国主義の風潮で成績は悪化、東宝が経営刷新でスタッフを入れても盛り返せなかった
1944年1月に株式会社後楽園運動場へ改称したあと、同年9月に球場は旧東部軍の防空陣地として接収され、営業は事実上止まった。グラウンドは高射砲陣地となり、やがて兵の食料を自給するジャガイモ畑に転じた。後楽園運動場はグラウンドの一隅を野外集会に貸し、観覧席下のガレージ収入と月5000円の軍の借上料で社員の給料と維持費をまかなった。戦後は進駐軍が球場を接収したものの、解除の申請が当局のプロ野球への理解を得て受け入れられ、1946年2月に接収解除。同年11月に旧社名へ戻し、12月には設備改修のため資本金を500万円へ増資した。増資は1947年6月に2000万円、1948年6月に1億円と続き、球場を戦前の姿へ戻す資金に充当したと考えられる。
- 会社銀行八十年史 1955「後楽園スタヂアム」
- [11]1944年1月後楽園運動場へ改称、同年9月東部軍の防空陣地として接収され営業休止。戦後進駐軍が接収、解除申請が受け入れられ1946年2月解除。同年11月旧社名、12月500万円、1947年6月2000万円、1948年6月1億円へ増資
- [14]1944年1月後楽園運動場へ改称、同年9月東部軍の防空陣地として接収され営業休止。戦後進駐軍が接収、解除申請が受け入れられ1946年2月解除。同年11月旧社名、12月500万円、1947年6月2000万円、1948年6月1億円へ増資
- [15]1944年1月後楽園運動場へ改称、同年9月東部軍の防空陣地として接収され営業休止。戦後進駐軍が接収、解除申請が受け入れられ1946年2月解除。同年11月旧社名、12月500万円、1947年6月2000万円、1948年6月1億円へ増資
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [12]球場は高射砲陣地となりグラウンドはジャガイモ畑に。一隅の野外集会への賃貸とガレージ収入、軍の借上料月5000円で給料と維持管理費をまかなった
- [13]球場は高射砲陣地となりグラウンドはジャガイモ畑に。一隅の野外集会への賃貸とガレージ収入、軍の借上料月5000円で給料と維持管理費をまかなった
参考文献[1]-[15]
- 会社銀行八十年史 1955「後楽園スタヂアム」
- [1]1936年12月、プロ野球専用球場建設を目的に資本金200万円で設立。元陸軍砲兵工廠跡の一部9500余坪を買収し、1937年4月に建設着手
- [5]1936年12月、プロ野球専用球場建設を目的に資本金200万円で設立。元陸軍砲兵工廠跡の一部9500余坪を買収し、1937年4月に建設着手
- [6]1937年9月に球場完成。職業野球場として賃貸するかたわら各種運動競技・屋外大集会場として貸与
- [11]1944年1月後楽園運動場へ改称、同年9月東部軍の防空陣地として接収され営業休止。戦後進駐軍が接収、解除申請が受け入れられ1946年2月解除。同年11月旧社名、12月500万円、1947年6月2000万円、1948年6月1億円へ増資
- [14]1944年1月後楽園運動場へ改称、同年9月東部軍の防空陣地として接収され営業休止。戦後進駐軍が接収、解除申請が受け入れられ1946年2月解除。同年11月旧社名、12月500万円、1947年6月2000万円、1948年6月1億円へ増資
- [15]1944年1月後楽園運動場へ改称、同年9月東部軍の防空陣地として接収され営業休止。戦後進駐軍が接収、解除申請が受け入れられ1946年2月解除。同年11月旧社名、12月500万円、1947年6月2000万円、1948年6月1億円へ増資
- 企業の歴史 明治百年 1968「後楽園スタヂアム」
- [2]創立者は小林一三・正力松太郎・田辺宗英の諸氏
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [3]役員は田辺グループ・兜町の有力者・野球人の3派の混成。多忙な小林一三や政治家田辺七六兄弟の代表として田辺宗英が専務取締役に
- [4]役員は田辺グループ・兜町の有力者・野球人の3派の混成。多忙な小林一三や政治家田辺七六兄弟の代表として田辺宗英が専務取締役に
- [7]小林一三でさえ職業野球は「まだ十年は早い」とした。観覧席下に円タク500台の貸ガレージ(1台月50円・月2万5千円の付帯収入見込み)、野天興行も計画
- [8]小林一三でさえ職業野球は「まだ十年は早い」とした。観覧席下に円タク500台の貸ガレージ(1台月50円・月2万5千円の付帯収入見込み)、野天興行も計画
- [9]小林一三でさえ職業野球は「まだ十年は早い」とした。観覧席下に円タク500台の貸ガレージ(1台月50円・月2万5千円の付帯収入見込み)、野天興行も計画
- [10]軍国主義の風潮で成績は悪化、東宝が経営刷新でスタッフを入れても盛り返せなかった
- [12]球場は高射砲陣地となりグラウンドはジャガイモ畑に。一隅の野外集会への賃貸とガレージ収入、軍の借上料月5000円で給料と維持管理費をまかなった
- [13]球場は高射砲陣地となりグラウンドはジャガイモ畑に。一隅の野外集会への賃貸とガレージ収入、軍の借上料月5000円で給料と維持管理費をまかなった
1949年〜文京区の計画から開いた後楽園競輪場と、2000人のアイスパレス
後楽園スタヂアムは1949年10月、球場の隣接地1万3000坪に陸上競技場を併設した自転車競走場を建設した。発端は文京区の財源開発計画で、区が建設資金を調達できずに話が持ち込まれた。使用料は当初月800万円ほどを求めたものの、採算を見込めない都の案に合わせ、場内の食堂と売店の全面経営を条件に売上高の4%で決着した。同年11月3日に始まった都営競輪の車券売上は、当初の1日3000万円ほどから1967年には1日3億円超に膨らんだ。1955年7月期には総収入3億7000万円のうち競輪収入が3割5分を占めた。定額の場代を捨てて売上連動を選んだことで、競輪の人気がそのまま後楽園の収入を押し上げる構造が生まれたと推測される。
- 会社銀行八十年史 1955「後楽園スタヂアム」
- [16]1949年10月、隣接地1万3000坪に陸上競技場併設の自転車競走場を建設。同年11月競輪場建設のため資本金2億円。1955年7月期総収入3億7千万円のうち競輪収入が3割5分
- [20]1949年10月、隣接地1万3000坪に陸上競技場併設の自転車競走場を建設。同年11月競輪場建設のため資本金2億円。1955年7月期総収入3億7千万円のうち競輪収入が3割5分
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [17]競輪場は文京区の財源開発計画に呼応。区で金が集まらず持ち込まれた。使用料は月800万円ほどを要求したが都が売上の4%を提示。場内の食堂販売店を全面経営する条件で決定。第1回都営競輪は1949年11月3日。当初1日3000万円の売上が1日3億円超、年300万人超を動員
- [18]競輪場は文京区の財源開発計画に呼応。区で金が集まらず持ち込まれた。使用料は月800万円ほどを要求したが都が売上の4%を提示。場内の食堂販売店を全面経営する条件で決定。第1回都営競輪は1949年11月3日。当初1日3000万円の売上が1日3億円超、年300万人超を動員
- [19]競輪場は文京区の財源開発計画に呼応。区で金が集まらず持ち込まれた。使用料は月800万円ほどを要求したが都が売上の4%を提示。場内の食堂販売店を全面経営する条件で決定。第1回都営競輪は1949年11月3日。当初1日3000万円の売上が1日3億円超、年300万人超を動員
1951年、2000人が同時に滑走できるアイスパレスが開業した。運営したのは1950年に発足した姉妹会社の日本スケートで、後楽園スタヂアムは1953年11月に日本スケートを吸収合併し、アイスパレスとプールを傘下に収めた。アイスパレスは春になると4000人収容の劇場に切り替わり、ホリデイ・オン・アイスやサーカスの公演を受け入れている。1954年12月には屋内ローラースケート場を建設し、屋外中心だった施設群に冬期も稼働する屋内の興行場が加わった。スケート場の年間利用者は1967年時点でも200万人を上回った。野球と競輪は屋外で天候と季節に左右されるため、屋内施設で年間の稼働を平準化する狙いがあったと推察される。
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [21]1951年に2000人が同時に滑れるアイスパレスを建設。春には4000人収容の劇場に切り替え、ホリデイ・オン・アイスやサーカス公演に使用。年間利用者は200万人超
- [23]1951年に2000人が同時に滑れるアイスパレスを建設。春には4000人収容の劇場に切り替え、ホリデイ・オン・アイスやサーカス公演に使用。年間利用者は200万人超
- [25]1951年に2000人が同時に滑れるアイスパレスを建設。春には4000人収容の劇場に切り替え、ホリデイ・オン・アイスやサーカス公演に使用。年間利用者は200万人超
- 会社銀行八十年史 1955「後楽園スタヂアム」
- [22]1950年発足の姉妹会社日本スケートを1953年11月に吸収合併しアイスパレスとプールを傘下に。1954年12月屋内ローラースケート場を建設し冬期間の稼動部門を持った
- [24]1950年発足の姉妹会社日本スケートを1953年11月に吸収合併しアイスパレスとプールを傘下に。1954年12月屋内ローラースケート場を建設し冬期間の稼動部門を持った
後楽園スタヂアムは1955年7月9日、遊園地を開園した。日光と外気に恵まれない都会の子どもの遊び場をつくる構想は1948年夏からあり、プールや回転塔を並べる計画は資材の入手難で一度見送られた。1954年9月、大蔵省から旧南方開発金庫の跡地2800坪の払下げを受け、そこを中心に建設へ着手している。同月には児童遊園地とローラースケート場の建設費に充当するため、資本金を8億2500万円へ増資した。後楽園スタヂアムの真鍋八千代氏が描いた遊園地の構想は『スリルとスピードに満ち、立体的に機械化された楽園』であった。機械化した欧米風の遊具を並べた遊園地は、1961年に規模を大きく広げた。施設は観る競技から自ら滑るスケートへ広がり、その先に家族連れで楽しむ遊園地が続いた。
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [26]遊園地は1955年7月9日開園。1948年夏の計画は資材難で実現せず。1954年9月に大蔵省から旧南方開発金庫跡地2800坪の払下げを受け建設
- [27]遊園地は1955年7月9日開園。1948年夏の計画は資材難で実現せず。1954年9月に大蔵省から旧南方開発金庫跡地2800坪の払下げを受け建設
- [28]遊園地は1955年7月9日開園。1948年夏の計画は資材難で実現せず。1954年9月に大蔵省から旧南方開発金庫跡地2800坪の払下げを受け建設
- [30]遊園地は1955年7月9日開園。1948年夏の計画は資材難で実現せず。1954年9月に大蔵省から旧南方開発金庫跡地2800坪の払下げを受け建設
- [32]観賞スポーツから自ら楽しむスケート・ボウリングへ施設を充実し、家族ぐるみで楽しむ施設として遊園地が生まれた
- 会社銀行八十年史 1955「後楽園スタヂアム」
- [29]1954年9月、屋内ローラースケート場・児童遊園地の建設費に充てるため資本金8億2500万円へ増資
- 企業の歴史 明治百年 1968「後楽園スタヂアム」
- [31]1955年に機械化された新機軸の欧米風遊園地を建設、1961年に遊園地を大拡張
参考文献[16]-[32]
- 会社銀行八十年史 1955「後楽園スタヂアム」
- [16]1949年10月、隣接地1万3000坪に陸上競技場併設の自転車競走場を建設。同年11月競輪場建設のため資本金2億円。1955年7月期総収入3億7千万円のうち競輪収入が3割5分
- [20]1949年10月、隣接地1万3000坪に陸上競技場併設の自転車競走場を建設。同年11月競輪場建設のため資本金2億円。1955年7月期総収入3億7千万円のうち競輪収入が3割5分
- [22]1950年発足の姉妹会社日本スケートを1953年11月に吸収合併しアイスパレスとプールを傘下に。1954年12月屋内ローラースケート場を建設し冬期間の稼動部門を持った
- [24]1950年発足の姉妹会社日本スケートを1953年11月に吸収合併しアイスパレスとプールを傘下に。1954年12月屋内ローラースケート場を建設し冬期間の稼動部門を持った
- [29]1954年9月、屋内ローラースケート場・児童遊園地の建設費に充てるため資本金8億2500万円へ増資
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [17]競輪場は文京区の財源開発計画に呼応。区で金が集まらず持ち込まれた。使用料は月800万円ほどを要求したが都が売上の4%を提示。場内の食堂販売店を全面経営する条件で決定。第1回都営競輪は1949年11月3日。当初1日3000万円の売上が1日3億円超、年300万人超を動員
- [18]競輪場は文京区の財源開発計画に呼応。区で金が集まらず持ち込まれた。使用料は月800万円ほどを要求したが都が売上の4%を提示。場内の食堂販売店を全面経営する条件で決定。第1回都営競輪は1949年11月3日。当初1日3000万円の売上が1日3億円超、年300万人超を動員
- [19]競輪場は文京区の財源開発計画に呼応。区で金が集まらず持ち込まれた。使用料は月800万円ほどを要求したが都が売上の4%を提示。場内の食堂販売店を全面経営する条件で決定。第1回都営競輪は1949年11月3日。当初1日3000万円の売上が1日3億円超、年300万人超を動員
- [21]1951年に2000人が同時に滑れるアイスパレスを建設。春には4000人収容の劇場に切り替え、ホリデイ・オン・アイスやサーカス公演に使用。年間利用者は200万人超
- [23]1951年に2000人が同時に滑れるアイスパレスを建設。春には4000人収容の劇場に切り替え、ホリデイ・オン・アイスやサーカス公演に使用。年間利用者は200万人超
- [25]1951年に2000人が同時に滑れるアイスパレスを建設。春には4000人収容の劇場に切り替え、ホリデイ・オン・アイスやサーカス公演に使用。年間利用者は200万人超
- [26]遊園地は1955年7月9日開園。1948年夏の計画は資材難で実現せず。1954年9月に大蔵省から旧南方開発金庫跡地2800坪の払下げを受け建設
- [27]遊園地は1955年7月9日開園。1948年夏の計画は資材難で実現せず。1954年9月に大蔵省から旧南方開発金庫跡地2800坪の払下げを受け建設
- [28]遊園地は1955年7月9日開園。1948年夏の計画は資材難で実現せず。1954年9月に大蔵省から旧南方開発金庫跡地2800坪の払下げを受け建設
- [30]遊園地は1955年7月9日開園。1948年夏の計画は資材難で実現せず。1954年9月に大蔵省から旧南方開発金庫跡地2800坪の払下げを受け建設
- [32]観賞スポーツから自ら楽しむスケート・ボウリングへ施設を充実し、家族ぐるみで楽しむ施設として遊園地が生まれた
- 企業の歴史 明治百年 1968「後楽園スタヂアム」
- [31]1955年に機械化された新機軸の欧米風遊園地を建設、1961年に遊園地を大拡張
1957年〜日本最初の自動式ボウリング場と、50億円を投じた熱海後楽園
後楽園スタヂアムは1962年4月、総工費20億円を投じたボウリング会館を完成させ、日本最初の自動式ボウリング場を置いた。それまでの後楽園はスケート場を除くと野球場・競輪場・遊園地の屋外施設で構成され、雨の日には来場者の楽しみが妨げられた。雨天でも客を呼べる屋内施設に合う新しい競技を探すため、役員を海外に派遣して検討を重ねている。会館は地上6階・地下1階の建物で、ボクシングジムも置き、ボウリングのほかサウナバス、ビリヤード、映画館、レストランを収めた。創立25周年の記念祝典も、1962年に新装の会館で挙行。天候に左右されない屋内の売上を持ち、屋外施設の収入の振れを抑える狙いがあったと考えられる。
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [33]1962年4月、総工費20億円でボウリング会館完成(日本最初の自動式ボウリング場)。館内にボクシングジム。屋外施設は雨に弱く、屋内施設のため役員を外国に派遣して研究。創立25周年祝典を同館で挙行
- [34]1962年4月、総工費20億円でボウリング会館完成(日本最初の自動式ボウリング場)。館内にボクシングジム。屋外施設は雨に弱く、屋内施設のため役員を外国に派遣して研究。創立25周年祝典を同館で挙行
- [35]1962年4月、総工費20億円でボウリング会館完成(日本最初の自動式ボウリング場)。館内にボクシングジム。屋外施設は雨に弱く、屋内施設のため役員を外国に派遣して研究。創立25周年祝典を同館で挙行
- [37]1962年4月、総工費20億円でボウリング会館完成(日本最初の自動式ボウリング場)。館内にボクシングジム。屋外施設は雨に弱く、屋内施設のため役員を外国に派遣して研究。創立25周年祝典を同館で挙行
- 企業の歴史 明治百年 1968「後楽園スタヂアム」
- [36]地上6階地下1階のビルにボーリング・サウナバス・ビリヤード・シネマ・レストランの総合娯楽センター
社長の真鍋八千代氏は1965年8月、50億円を投じて熱海後楽園を開場した。施設は遊園地とレストセンターに加え、後楽園スタヂアムとして初めてのホテルを併設している。狙いは、安く気軽な温泉旅行を求める家族連れを、歓楽街として知られた熱海に呼び込むことに置かれた。レストセンターは日帰り350円とし、家族や町内会の旅行でも千円札で釣りが来る料金に抑えた。50億円の借入金の金利は、建設費に含めずに別勘定で管理された。不況期の巨額投資は当初こそ無謀な拡張との見方を招いたものの、開業後の来場者は家族連れを中心に年間150万人に達した。1960年の箱根のレクリエーションセンターに続く地方進出であり、宿泊を伴うレジャーへの初めての参入である。
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [38]1965年8月、50億円を投じて熱海後楽園を開場。家族ぐるみの清遊を掲げた
- [39]熱海後楽園は後楽園として未経験のホテルを併設。当初は勇み足との見方、開業後は年間150万人
- [40]安く気軽に温泉旅行を楽しみたい大衆の心にそうため熱海後楽園を建設
- [41]熱海後楽園のレストセンターは日帰り350円、千円札でおつりがくる
- [42]熱海の50億円の借入資金の金利を建設費に入れず分けて管理
- [43]熱海後楽園は後楽園として未経験のホテルを併設。当初は勇み足との見方、開業後は年間150万人
- 企業の歴史 明治百年 1968「後楽園スタヂアム」
- [44]1960年に箱根に一大レクリエーションセンターを建設、1965年に熱海後楽園を完成
後楽園スタヂアムは1967年までに、石打・箱根・大森・自由ヶ丘・熱海へボウリング場やスケート場、ゴルフ場、スキー場を広げた。新規の施設は本家である後楽園の実績を確かめてから出し、拡張の速さは社長の真鍋八千代氏が掲げた『本家の負担能力の範囲内でステップ・バイ・ステップで拡張していくのが私の方針だし、いってみれば後楽園商法である』という方針で抑えた。後楽園の競輪は東京都が月6日間主催し、後楽園スタヂアムは売上高の4%を賃貸料として受け取る仕組みだった。1968年時点の年間売上高は58億円強に上った。一方で1967年に革新系の都知事が誕生すると、後楽園の競輪の先行きを危ぶむ声が出た。都の判断ひとつで賃貸料が失われる構造は、次の時代の経営課題として残ったと思われる。
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [45]石打・箱根・大森・自由ヶ丘・熱海にボウリング場・スケート場・ゴルフ場・スキー場。本家後楽園の実績をみて進出し、負担能力の範囲で段階的に拡張。子会社の成長過程で後楽園の利益が低下する現象も当然とした
- [46]石打・箱根・大森・自由ヶ丘・熱海にボウリング場・スケート場・ゴルフ場・スキー場。本家後楽園の実績をみて進出し、負担能力の範囲で段階的に拡張。子会社の成長過程で後楽園の利益が低下する現象も当然とした
- [47]後楽園の競輪は東京都が主催し月6日間、賃貸料は売上の4%。入場者は1日最高6万人
- [49]革新都知事の誕生で「競輪と後楽園」のピンチがうわさされた
- 企業の歴史 明治百年 1968「後楽園スタヂアム」
- [48]年間売上高58億円強、事業に競輪場を含む
参考文献[33]-[49]
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- [33]1962年4月、総工費20億円でボウリング会館完成(日本最初の自動式ボウリング場)。館内にボクシングジム。屋外施設は雨に弱く、屋内施設のため役員を外国に派遣して研究。創立25周年祝典を同館で挙行
- [34]1962年4月、総工費20億円でボウリング会館完成(日本最初の自動式ボウリング場)。館内にボクシングジム。屋外施設は雨に弱く、屋内施設のため役員を外国に派遣して研究。創立25周年祝典を同館で挙行
- [35]1962年4月、総工費20億円でボウリング会館完成(日本最初の自動式ボウリング場)。館内にボクシングジム。屋外施設は雨に弱く、屋内施設のため役員を外国に派遣して研究。創立25周年祝典を同館で挙行
- [37]1962年4月、総工費20億円でボウリング会館完成(日本最初の自動式ボウリング場)。館内にボクシングジム。屋外施設は雨に弱く、屋内施設のため役員を外国に派遣して研究。創立25周年祝典を同館で挙行
- [38]1965年8月、50億円を投じて熱海後楽園を開場。家族ぐるみの清遊を掲げた
- [39]熱海後楽園は後楽園として未経験のホテルを併設。当初は勇み足との見方、開業後は年間150万人
- [40]安く気軽に温泉旅行を楽しみたい大衆の心にそうため熱海後楽園を建設
- [41]熱海後楽園のレストセンターは日帰り350円、千円札でおつりがくる
- [42]熱海の50億円の借入資金の金利を建設費に入れず分けて管理
- [43]熱海後楽園は後楽園として未経験のホテルを併設。当初は勇み足との見方、開業後は年間150万人
- [45]石打・箱根・大森・自由ヶ丘・熱海にボウリング場・スケート場・ゴルフ場・スキー場。本家後楽園の実績をみて進出し、負担能力の範囲で段階的に拡張。子会社の成長過程で後楽園の利益が低下する現象も当然とした
- [46]石打・箱根・大森・自由ヶ丘・熱海にボウリング場・スケート場・ゴルフ場・スキー場。本家後楽園の実績をみて進出し、負担能力の範囲で段階的に拡張。子会社の成長過程で後楽園の利益が低下する現象も当然とした
- [47]後楽園の競輪は東京都が主催し月6日間、賃貸料は売上の4%。入場者は1日最高6万人
- [49]革新都知事の誕生で「競輪と後楽園」のピンチがうわさされた
- 企業の歴史 明治百年 1968「後楽園スタヂアム」
- [36]地上6階地下1階のビルにボーリング・サウナバス・ビリヤード・シネマ・レストランの総合娯楽センター
- [44]1960年に箱根に一大レクリエーションセンターを建設、1965年に熱海後楽園を完成
- [48]年間売上高58億円強、事業に競輪場を含む
出典・参考
3件
- 会社銀行八十年史 1955「後楽園スタヂアム」
- 歴史をつくる人々 1967「衆は愚にあらず(後楽園スタヂアム 真鍋八千代)」
- 企業の歴史 明治百年 1968「後楽園スタヂアム」