第2章 年〜年

東京エレクトロン:Tokyo Electron Europe設立と海外販売の直販体制化

1994年〜代理店経由では届かなくなった欧米の顧客

メモリーICの量産は1980年代に日米が競った分野で、DRAMを筆頭に高い技術を要するこの領域では日本勢が米国勢に大差をつけた。その最も技術の進んだ顧客のそばで装置を磨けたことが東京エレクトロンの強みとなり、世界でも屈指の大きさの装置メーカーへ押し上げた。米国ではインテルがパソコン向けCPUで世界市場の7割を握り、モトローラやテキサス・インスツルメンツも控えていた。そのうえ1990年代前半には、先端の製造技術はまずメモリーから生まれるという従来の通念が揺らいでいると受け止められ始め、DRAMでも1990年代半ばに韓国のサムスンと現代が台頭したため、国外の顧客と深く結びつくことが避けられなくなった。米メーカーの声を聞かなければ、次世代の需要に適応できなくなる恐れがあった。

  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [1]80年代日本は米国とDRAMを中心としたメモリーICで生産競争を繰り広げた。ICの中では最先端の技術が必要とされたDRAMで日本勢が米国勢を圧倒した
    • [2]東京エレクトロンは、「最も優れたユーザーのもとで開発をするのが一番」(風間善副社長)という地の利を生かし、世界最大規模の装置メーカーに成長した
    • [3]米国にはパソコンの心臓部であるCPUで世界シェアの7割を握るインテルをはじめ、モトローラ、テキサス・インスツルメンツなど、MPU業界の雄がひしめく
    • [4]最先端の製造技術は、メモリーが先行するという従来の法則はもはや通用しないとの見方が強くなってきた
    • [6]東哲郎常務「米メーカーの声を聞かないと、次世代需要に適応できなくなる」
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [5]90年代半ばにDRAMで韓国サムスン・現代が台頭し、米インテルのMPUやTIのDSPが急成長。日本以外の顧客と密接な関係を持つ必要が生じた

国内で東京エレクトロンの優位を支えたのは、顧客の主力工場の近くに置いたフィールド・エンジニアリング・ステーションであった。欧米では代理店経由の販売にとどまっていたため、顧客が何を望み何に不満を抱えているかを正しくつかめず、情報も遅れて届いた。それに対して国内では22カ所に計500人の技術者を置き、トラブルが起きれば1時間以内に駆けつけて対応できるようにしていた。先端工場の保守を受け持てば、顧客の次の製品や、それに要る装置の仕様が見えてくる。主力4製品のシェアが日本とアジアで60%、世界全体で42%だったのに欧米では14%にとどまり、1995年3月期は国内向けが66%を占めて、収益が国内の設備投資次第という構造だった。

  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [7]同社は本社や事業所、営業所以外に「フィールド・エンジニアリング・ステーション」と呼ぶサービスセンターを全国に22カ所持つ。半導体各社の主力工場の近くに立地
    • [8]東哲郎常務「代理店方式では、必ずしも顧客の要求やクレームを的確につかめず、情報伝達も遅かった」
    • [9]合計500人の技術者を張り付けている。「何かトラブルが発生すれば1時間以内に駆け付け、対策を講じる」
    • [10]最先端工場のメンテナンスに携われば、メーカーが次にどんな製品を作ろうとしているのか、どんな仕様の装置が必要なのかが見えてくる
    • [11]主力4製品のシェアは、日本とアジアで60%、世界全体で42%を占めるのに対し、欧米は14%にすぎない
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [12]国内向け比率は95年3月期の66%から2000年3月期に海外7割へ反転した

1994年10月、東京エレクトロンは欧米向け半導体製造装置の販売を代理店経由から直販へ全面的に切り替えた。現地に販売と保守を受け持つ全額出資子会社を設け、すべて直接販売とした。米国では輸出入業務の窓口だったテル・アメリカを改組し、東京エレクトロン・アメリカとした。本社はカリフォルニア州からテキサス州オースティンへ移し、工場用地並みの20万平方メートルの敷地を確保した。欧州は1994年4月にロンドン郊外へ東京エレクトロン・ヨーロッパを設立して統括拠点とし、ドイツにも現地法人を置いた。1995年中にイタリア・スコットランド・フランス・オランダへ広げる計画で、1年のうちに合計200人を超える海外拠点ができた。

  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [13]同社は1994年10月、欧米向け半導体製造装置の販売体制を大幅に変えた。それまでは代理店経由だった
    • [14]現地に販売とメンテナンスを受け持つ全額出資子会社を設立。すべて直接販売に切り替えた
    • [15]米国に設立したのが東京エレクトロン・アメリカ。これまで輸出入業務の窓口として置いていた子会社、テル・アメリカを改組した
    • [16]本社はカリフォルニア州からテキサス州オースチンに移し、20万平方メートルという工場用地並みの敷地を確保した
    • [18]95年中にはイタリアとスコットランド、フランス、オランダにも開設する予定だ。わずか1年で合計200人を超える規模の海外拠点を展開
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1994年4月 Tokyo Electron Europe Ltd. を設立
参考文献[1]-[18]
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [1]80年代日本は米国とDRAMを中心としたメモリーICで生産競争を繰り広げた。ICの中では最先端の技術が必要とされたDRAMで日本勢が米国勢を圧倒した
    • [2]東京エレクトロンは、「最も優れたユーザーのもとで開発をするのが一番」(風間善副社長)という地の利を生かし、世界最大規模の装置メーカーに成長した
    • [3]米国にはパソコンの心臓部であるCPUで世界シェアの7割を握るインテルをはじめ、モトローラ、テキサス・インスツルメンツなど、MPU業界の雄がひしめく
    • [4]最先端の製造技術は、メモリーが先行するという従来の法則はもはや通用しないとの見方が強くなってきた
    • [6]東哲郎常務「米メーカーの声を聞かないと、次世代需要に適応できなくなる」
    • [7]同社は本社や事業所、営業所以外に「フィールド・エンジニアリング・ステーション」と呼ぶサービスセンターを全国に22カ所持つ。半導体各社の主力工場の近くに立地
    • [8]東哲郎常務「代理店方式では、必ずしも顧客の要求やクレームを的確につかめず、情報伝達も遅かった」
    • [9]合計500人の技術者を張り付けている。「何かトラブルが発生すれば1時間以内に駆け付け、対策を講じる」
    • [10]最先端工場のメンテナンスに携われば、メーカーが次にどんな製品を作ろうとしているのか、どんな仕様の装置が必要なのかが見えてくる
    • [11]主力4製品のシェアは、日本とアジアで60%、世界全体で42%を占めるのに対し、欧米は14%にすぎない
    • [13]同社は1994年10月、欧米向け半導体製造装置の販売体制を大幅に変えた。それまでは代理店経由だった
    • [14]現地に販売とメンテナンスを受け持つ全額出資子会社を設立。すべて直接販売に切り替えた
    • [15]米国に設立したのが東京エレクトロン・アメリカ。これまで輸出入業務の窓口として置いていた子会社、テル・アメリカを改組した
    • [16]本社はカリフォルニア州からテキサス州オースチンに移し、20万平方メートルという工場用地並みの敷地を確保した
    • [18]95年中にはイタリアとスコットランド、フランス、オランダにも開設する予定だ。わずか1年で合計200人を超える規模の海外拠点を展開
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [5]90年代半ばにDRAMで韓国サムスン・現代が台頭し、米インテルのMPUやTIのDSPが急成長。日本以外の顧客と密接な関係を持つ必要が生じた
    • [12]国内向け比率は95年3月期の66%から2000年3月期に海外7割へ反転した
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1994年4月 Tokyo Electron Europe Ltd. を設立

1995年〜オースティンのクリーンルームと現地人トップ

半導体製造装置は受注製品であり、標準モデルがあっても顧客によって求める加工が違うため、仕様は細部で異なる。オースティンに設けたクリーンルームは本物の半導体工場と変わらない環境を作り出すもので、海外では初の設備だった。そこでは顧客とともに装置の機能を評価し、顧客側の作業員を呼んで操作を訓練することもでき、訓練を納品前に済ませておけば据え付け後すぐ本格的に動かせる。狙いは目先の商売の拡大より、数年先をにらんだ戦略拠点としての役割にあった。東京エレクトロン・アメリカの社員はこの時点で200人、欧州は各国を合わせて約40人に上り、保守と据え付けを受け持つ技術者がその半分を占めていた。立ち上げの担い手だった小野里充氏は、1996年に過労から心筋梗塞で倒れ、帰国した。

  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [19]半導体製造装置は受注製品。標準モデルはあるが、各半導体メーカーによって求める加工内容が異なるため、ユーザーが違えば仕様は細かく異なる
    • [20]オースチンには海外で初めて実際の半導体工場と同じ環境を再現するクリーンルームを備える
    • [21]ここではユーザーを交えて装置機能の評価をするほか、メーカーの作業員を招いて操作のトレーニングもできるようにする
    • [22]納品前にトレーニングを済ませておけば、納品後、速やかに本格稼働に入ることができる
    • [23]こうした目先の商売を拡大するというより、数年後を見据えた戦略拠点という意味合いが強い
    • [24]東京エレクトロン・アメリカの社員数はすでに200人、欧州は各国合計で約40人に上る。そのうち、アフターサービスや設備の据え付けなどを担当し、同時に情報収集にも携わる技術者が半分を占める
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [25]立ち上げを担った小野里充が過労で心筋梗塞に倒れて帰国した

1994年11月、東京エレクトロンは国際テレビ会議システムを導入した。トラブルが起きた際に研究所・工場・サービス拠点の担当者が同時に手立てを練れるよう、国内の工場や事業所に海外拠点もつないだ。海外の顧客へは代理店を介し電話やファクスで部品を取り寄せていたため時間がかかっていたが、同年10月に部品検索システムを入れ、世界の拠点が持つ在庫をコンピュータで一元管理する体制に改めた。これで米国で要る部品が日米ともに品切れでも、欧州にある在庫を探して回せるようになった。東哲郎社長は、米国の3カ所に工場を置き、現地の外注先と組んで開発と製造を進めるとして、営業だけにとどまらないグローバル化を打ち出した。

  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [26]その1つが94年11月に導入した国際テレビ会議システム
    • [27]国内工場や各事業所はもちろん、海外拠点を交えて会議ができる。トラブル発生など一刻を争う事態になっても、研究所から工場、フィールド・エンジニアリング・ステーションなどの各担当者を交えて対応策を練ることができる
    • [28]海外ユーザーに対する部品供給は、代理店経由で電話やファクスで手配しており時間がかかっていた
    • [29]10月には、メンテナンス体制の強化策として、部品検索システムを導入した。世界中の拠点にある部品在庫をコンピューターシステムで一括管理する
    • [30]このシステムなら、米国で必要な部品が日米で在庫切れの場合、欧州の在庫を検索して手配することも容易になった
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [31]東哲郎社長「米国の3カ所に工場を持っていますが、ここでも米国内でアウトソーシングするところと一緒になって、製品の開発・製造をやっていくつもりです。営業だけでなく、そういう方面でのグローバル化も進めていく」

1997年4月、米国法人の社長にバリー・ラポーゾ氏が就任した。日本人がトップでは現地企業との意思疎通が難しく、顧客の信頼を得るには現地の人間を据えるのが最善だと判断した結果である。陣容づくりでは、かつて米国の販売代理店だったバリアン社などで同社製品を扱った技術者を迎え入れた。海外法人の長には現地の人材を就け、日本人は後ろから支える側に回るのが方針で、顧客とのやり取りの中心も現地の社員が担い、日本人社員はその支え役とされた。ラポーゾ氏が率いた米国法人は現地化を突き詰め、社員は300人から1200人に増えた。

  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [32]1997年4月、バリー・ラポーゾが米国法人社長に就任した
    • [33]日本人がトップでは現地企業とのコミュニケーションが難しい。顧客からの信頼を勝ち得るためにはベストの方法だと考えた
    • [35]海外法人の社長にはすべて現地の人間を据え日本人はサポート役に回る戦略を採った
    • [37]後任の米国人社長バリー・ラポーゾが徹底した現地化で米国法人を300人から1200人へ拡大した
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [34]かつて、米国における販売代理店だった装置メーカー、バリアン社(カリフォルニア州)などから、東京エレクトロンの製品を担当していた技術者に移籍してもらうなどで陣容を固めた
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [36]東哲郎社長「海外では、お客さんに合わせて、こうしたサポートもほとんどは現地の人が中心になり、日本人の社員もそのなかに入るという格好でやっています」
参考文献[19]-[37]
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [19]半導体製造装置は受注製品。標準モデルはあるが、各半導体メーカーによって求める加工内容が異なるため、ユーザーが違えば仕様は細かく異なる
    • [20]オースチンには海外で初めて実際の半導体工場と同じ環境を再現するクリーンルームを備える
    • [21]ここではユーザーを交えて装置機能の評価をするほか、メーカーの作業員を招いて操作のトレーニングもできるようにする
    • [22]納品前にトレーニングを済ませておけば、納品後、速やかに本格稼働に入ることができる
    • [23]こうした目先の商売を拡大するというより、数年後を見据えた戦略拠点という意味合いが強い
    • [24]東京エレクトロン・アメリカの社員数はすでに200人、欧州は各国合計で約40人に上る。そのうち、アフターサービスや設備の据え付けなどを担当し、同時に情報収集にも携わる技術者が半分を占める
    • [26]その1つが94年11月に導入した国際テレビ会議システム
    • [27]国内工場や各事業所はもちろん、海外拠点を交えて会議ができる。トラブル発生など一刻を争う事態になっても、研究所から工場、フィールド・エンジニアリング・ステーションなどの各担当者を交えて対応策を練ることができる
    • [28]海外ユーザーに対する部品供給は、代理店経由で電話やファクスで手配しており時間がかかっていた
    • [29]10月には、メンテナンス体制の強化策として、部品検索システムを導入した。世界中の拠点にある部品在庫をコンピューターシステムで一括管理する
    • [30]このシステムなら、米国で必要な部品が日米で在庫切れの場合、欧州の在庫を検索して手配することも容易になった
    • [34]かつて、米国における販売代理店だった装置メーカー、バリアン社(カリフォルニア州)などから、東京エレクトロンの製品を担当していた技術者に移籍してもらうなどで陣容を固めた
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [25]立ち上げを担った小野里充が過労で心筋梗塞に倒れて帰国した
    • [32]1997年4月、バリー・ラポーゾが米国法人社長に就任した
    • [33]日本人がトップでは現地企業とのコミュニケーションが難しい。顧客からの信頼を勝ち得るためにはベストの方法だと考えた
    • [35]海外法人の社長にはすべて現地の人間を据え日本人はサポート役に回る戦略を採った
    • [37]後任の米国人社長バリー・ラポーゾが徹底した現地化で米国法人を300人から1200人へ拡大した
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [31]東哲郎社長「米国の3カ所に工場を持っていますが、ここでも米国内でアウトソーシングするところと一緒になって、製品の開発・製造をやっていくつもりです。営業だけでなく、そういう方面でのグローバル化も進めていく」
    • [36]東哲郎社長「海外では、お客さんに合わせて、こうしたサポートもほとんどは現地の人が中心になり、日本人の社員もそのなかに入るという格好でやっています」

1997年〜国際競争力ランキング1位と空前の半導体不況

1997年10月に公表された国際競争力ランキングで、東京エレクトロンが首位に立った。連結財務データを開示する上場・店頭公開企業2102社のうち、条件を満たす375社が対象だった。海外売上高比率や在外売上高営業利益率など6つの指標で評点し、総合点83.2で2位の任天堂を上回った。連結売上高は4327億8400万円、海外売上高比率は28.34%、前年に対する海外売上高の伸び率は40.66%であった。1997年3月期のROEは14.2%で、海外の顧客からきちんとした経営をしていると見られることが重要だった。海外にはこの比率が30%や40%の企業もあり、競争する以上は少なくとも20%を早く達成することが目標となった。

  • 日経ビジネス 1997年10月6日号
    • [38]トップの東京エレクトロンは、半導体関連の商社として創業したが、現在は半導体製造装置メーカーに変身
    • [39]対象は、最新決算期が96年4月以降で、連結財務データを開示している上場・店頭公開企業2102社。この結果、最終的に対象企業は375社になった
    • [40]1 東京エレクトロン 総合点83.2 / 2 任天堂 総合点81.7。海外売上高比率、海外売上高伸び率、在外売上高営業利益率、ROE、売上高、流動比率の6つの指標の評点の平均値を「総合点」として順位を出した
    • [41]東京エレクトロン 海外売上高伸び率40.66% 海外売上高比率28.34% 売上高432,784百万円
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [42]東哲郎社長「半導体製造装置ビジネスの60%ぐらいは海外ですので、海外のお客さんから『ああ、ちゃんとした経営をしているんだな』と思われることが重要です」(97年3月期のROEは14.2%)
    • [43]東哲郎社長「海外ではこの比率が30%、40%という会社もあります。そういう企業と競争するわけだから、少なくとも20%は早く達成したいですね」

技術を中核と周辺に分け、中核は徹底して自社で手がけるのが東京エレクトロンのやり方で、半導体製造装置なら生産工程、機械、熱の技術がそれに当たる。ウエハーを化学反応室まで移すロボットのような周辺は外に任せた。移り変わりの速い技術分野で他社の全事業を取り込めば、かえって身動きが鈍るとみて、アプライド・マテリアルズのように周辺技術に長けた会社を買収して規模を拡大することはしなかった。製造装置は400種類あるともいわれる中で、同社はプラズマエッチング装置やウエハープローバーなど前工程の4機種に絞り込み、主力製品の国内シェアは6割、装置全体でも4割近くを握っている。

  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [44]東哲郎社長「コア(核)になる技術と周辺の技術に分けると、コアになる技術に関しては徹底して自分たちでやらなくちゃいけないと思っています」
    • [45]東哲郎社長「半導体製造装置でいうと、プロセス(生産工程)技術とか、機械関係の技術、あるいは熱に関する技術ですね」
    • [46]東哲郎社長「ウエハーをその化学反応室に運ぶロボットなどは自社で開発せず、ほかの会社につくってもらいます」
    • [47]東哲郎社長「技術の変化があまりに速い分野なので、そうした企業を抱え込むと、かえって動きがとれなくなるということがありうるからです」
    • [48]東哲郎社長「ええ、米国のアプライド・マテリアルズ社などがそうですね。私たちはそういうやり方をとりません」(周辺技術に優れた企業を買収して大きくなる手法について)
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [49]400種類ともいわれる製造装置のうち、東京エレクトロンは前工程の重要装置4機種で強さを誇る。シリコンウエハーの表面を加工するプラズマエッチング装置や、チップの動作を検査するウエハープローバーなどだ
    • [50]これら主力製品の国内シェアは6割で、装置全体でも4割近くを握る国内トップメーカーだ

1998年1月、東京エレクトロンは米国アリゾナ州に現地法人を設け、直販体制の拠点をさらに広げた。1999年3月期は空前の半導体不況に見舞われ、連結売上高は前期の3分の2にあたる3138億円へ減った。当期純利益は18億円にとどまったが、最終損益は黒字を保った。国内向けの比率は1995年3月期の66%から反転し、2000年3月期には海外が7割を占めた。米国市場のシェアは1995年末の8%から1999年末には34%へ伸びた。売上が3分の2まで減少しても最終損益が黒字で残ったのは、収益を国内の設備投資の波だけに委ねる構造から抜け出していたためだろう。

  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1998年1月 Tokyo Electron Arizona, LLC を設立
  • 会社年鑑
    • [52]1999年3月期 連結売上高3138億円(前期の3分の2)
    • [53]1999年3月期 当期純利益18億円(連結)
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [54]国内向け比率は95年3月期の66%から2000年3月期に海外7割へ反転した
    • [55]米国市場シェアは95年末の8%から99年末に34%へ伸びた
参考文献[38]-[55]
  • 日経ビジネス 1997年10月6日号
    • [38]トップの東京エレクトロンは、半導体関連の商社として創業したが、現在は半導体製造装置メーカーに変身
    • [39]対象は、最新決算期が96年4月以降で、連結財務データを開示している上場・店頭公開企業2102社。この結果、最終的に対象企業は375社になった
    • [40]1 東京エレクトロン 総合点83.2 / 2 任天堂 総合点81.7。海外売上高比率、海外売上高伸び率、在外売上高営業利益率、ROE、売上高、流動比率の6つの指標の評点の平均値を「総合点」として順位を出した
    • [41]東京エレクトロン 海外売上高伸び率40.66% 海外売上高比率28.34% 売上高432,784百万円
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
    • [42]東哲郎社長「半導体製造装置ビジネスの60%ぐらいは海外ですので、海外のお客さんから『ああ、ちゃんとした経営をしているんだな』と思われることが重要です」(97年3月期のROEは14.2%)
    • [43]東哲郎社長「海外ではこの比率が30%、40%という会社もあります。そういう企業と競争するわけだから、少なくとも20%は早く達成したいですね」
    • [44]東哲郎社長「コア(核)になる技術と周辺の技術に分けると、コアになる技術に関しては徹底して自分たちでやらなくちゃいけないと思っています」
    • [45]東哲郎社長「半導体製造装置でいうと、プロセス(生産工程)技術とか、機械関係の技術、あるいは熱に関する技術ですね」
    • [46]東哲郎社長「ウエハーをその化学反応室に運ぶロボットなどは自社で開発せず、ほかの会社につくってもらいます」
    • [47]東哲郎社長「技術の変化があまりに速い分野なので、そうした企業を抱え込むと、かえって動きがとれなくなるということがありうるからです」
    • [48]東哲郎社長「ええ、米国のアプライド・マテリアルズ社などがそうですね。私たちはそういうやり方をとりません」(周辺技術に優れた企業を買収して大きくなる手法について)
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
    • [49]400種類ともいわれる製造装置のうち、東京エレクトロンは前工程の重要装置4機種で強さを誇る。シリコンウエハーの表面を加工するプラズマエッチング装置や、チップの動作を検査するウエハープローバーなどだ
    • [50]これら主力製品の国内シェアは6割で、装置全体でも4割近くを握る国内トップメーカーだ
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1998年1月 Tokyo Electron Arizona, LLC を設立
  • 会社年鑑
    • [52]1999年3月期 連結売上高3138億円(前期の3分の2)
    • [53]1999年3月期 当期純利益18億円(連結)
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号
    • [54]国内向け比率は95年3月期の66%から2000年3月期に海外7割へ反転した
    • [55]米国市場シェアは95年末の8%から99年末に34%へ伸びた

筆者考察

1994年10月の直販への全面転換は、海外へ売りに出るための決定ではなく、国内でうまくいっていた仕組みを海外へ移すための決定だった。東京エレクトロンは国内に22カ所のフィールド・エンジニアリング・ステーションを置き、500人の技術者を顧客の主力工場の隣に張り付けていた。最先端の工場を保守すれば、顧客が次に何を作りたいのかが装置の仕様として見えてくる。その情報の流れが開発を支えていたのに、欧米では代理店が間に立ち、要求もクレームも遅れて届いた。主力4製品のシェアが日本とアジアで60%、欧米で14%という差は、技術の差というより接点の差だった。

移したのは組織ではなく、顧客の内側へ入るための条件のほうである。オースティンに20万平方メートルの敷地と海外初のクリーンルームを構え、装置を前にして現地の技術者と評価を重ねる場を作った。米国法人の社長にバリー・ラポーゾ氏を据え、日本人を支援に充てたのも同じ理屈で、信頼が先に立たなければ情報は流れない。転換の効き目は好況ではなく不況で現れた。1999年3月期に売上高が前期の3分の2の3138億円まで減少しても最終損益は黒字で残り、1995年3月期に66%だった国内向けの比率は2000年3月期に海外7割へ反転した。米国市場のシェアは4年で8%から34%になった。

連結売上高 1994年3月期〜1999年3月期(億円)

1,897 1994 2,516 1995 4,017 1996 4,327 1997 4,555 1998 3,138 1999
  • 連結(3月期)。直販へ全面転換したのは1994年10月。
  • 出所は会社年鑑。

1994年〜1999年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1994年03月期 連結 1,897 n/a 51 2.7% n/a
1995年03月期 連結 2,516 +32.6% 97 3.9% n/a
1996年03月期 連結 4,017 +59.7% 309 7.7% n/a
1997年03月期 連結 4,327 +7.7% 299 6.9% n/a
1998年03月期 連結 4,555 +5.3% 300 6.6% n/a
1999年03月期 連結 3,138 ▲31.1% 18 0.6% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

6件
出典・参考
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1995年1月2日号
  • 日経ビジネス 1997年12月1日号
  • 日経ビジネス 1997年10月6日号
  • 日経ビジネス 2000年10月9日号

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