堀内平八郎
経歴1948〜1997年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1948年主要役職の状況(推定含む目安)1997年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 東海電子研究所 | 1948 | 創業 | ||
| 浜松ホトニクス | 1953 | 社長 | |||
| 1978 | 社長 退任 | ||||
| 1997 | 死去 |
創業ストーリー
創業ストーリー
堀内平八郎氏は浜松高等工業学校の電気科で高柳健次郎氏に学び、テレビ研究の先駆者だった師の指導に強く感化された。のちに高柳氏の助手としてNHKへ移り、1940年に予定された東京オリンピックのテレビ放送に向けた技術開発に携わったが、大会は中止になった。戦時中は陸軍の技術士官として赤外線の研究に従事し、東京と工場の疎開先の山形で暗視管の開発と製造にあたった。終戦で仕事を失って浜松へ戻り、戦前から蓄えた光電の技術を生かすと決めた。
- 浜松ホトニクス 公式サイト「浜松ホトニクスの歩み」1948年 東海電子研究所を設立(2026年11月)
- [1]小学校の時から光の不思議さに魅了され、高柳健次郎の門下生として浜松高等工業学校電気科で学んだ堀内平八郎(初代社長)は高柳イズムに感化された。第2次大戦中は東京、工場の疎開先の山形で暗視管の開発・製造に取り組んだが、終戦で再出発を余儀なくされ、浜松へ戻って光電の技術を生かそうと決意。昭和23年(1948年)、浜松市海老塚町456番地に工場用地を得て東海電子研究所を設立した
- [3]小学校の時から光の不思議さに魅了され、高柳健次郎の門下生として浜松高等工業学校電気科で学んだ堀内平八郎(初代社長)は高柳イズムに感化された。第2次大戦中は東京、工場の疎開先の山形で暗視管の開発・製造に取り組んだが、終戦で再出発を余儀なくされ、浜松へ戻って光電の技術を生かそうと決意。昭和23年(1948年)、浜松市海老塚町456番地に工場用地を得て東海電子研究所を設立した
- [5]小学校の時から光の不思議さに魅了され、高柳健次郎の門下生として浜松高等工業学校電気科で学んだ堀内平八郎(初代社長)は高柳イズムに感化された。第2次大戦中は東京、工場の疎開先の山形で暗視管の開発・製造に取り組んだが、終戦で再出発を余儀なくされ、浜松へ戻って光電の技術を生かそうと決意。昭和23年(1948年)、浜松市海老塚町456番地に工場用地を得て東海電子研究所を設立した
- 晝馬輝夫『ユニーク企業の経営哲学 第1巻』「光電変換技術の源流と「研究工業」の経営思想」(栄光出版社, 1993年9月)
- [2]高柳健次郎の助手を務めた堀内は高柳とともにNHKに移り、昭和15年の東京オリンピックのテレビ放送に向けて技術開発に取り組んだがオリンピックは中止。終戦後浜松に戻り昭和23年に東海電子研究所を設立。昭和28年、堀内から「自分は技術は分かるけど、経営は全くの素人なので会社を一緒にやらないか」と晝馬に声がかかり浜松テレビがスタート。商工中金に融資を申し込み、5年ぐらいかかって500万円の融資を受けた。大手電機メーカーに部品を供給していたが下請けになるのを避け、部品を海外で販売しようと会社設立9年後にアメリカへ行った(晝馬輝夫談)
- 月刊貿易と産業 1981年6月号「企業訪問 浜松テレビ株式会社」
- [4]堀内平八郎は旧制浜松工専で高柳健次郎教授に電気工学を学び、戦時中は技術士官(終戦時は陸軍技術大尉)として第七研(陸軍・赤外線の研究)で赤外線(ノクトビジョン)の研究に従事し暗視管の開発に携わった。戦後、昭和23年に浜松市に東海電子研究所を設立し、2〜3人で広告灯やNECから注文があったファクシミリ用の光電管の製造を細々と行っていた
1948年、浜松市海老塚町に工場用地を得て東海電子研究所を設立した。陣容は2〜3人で、広告灯のほか、NECから注文を受けたファクシミリ用光電管を少量ずつ作った。並行して東海真空管工業も興し、蛍光灯用の点灯管を製造した。光電管を本業に据えながら最初に収入を得たのは誘蛾灯の補助ランプだったが、農薬の普及で需要が消え、堀内平八郎氏は後年これを目先の利益を追った失敗と振り返っている。
- 浜松ホトニクス 公式サイト「浜松ホトニクスの歩み」1948年 東海電子研究所を設立(2026年11月)
- [6]小学校の時から光の不思議さに魅了され、高柳健次郎の門下生として浜松高等工業学校電気科で学んだ堀内平八郎(初代社長)は高柳イズムに感化された。第2次大戦中は東京、工場の疎開先の山形で暗視管の開発・製造に取り組んだが、終戦で再出発を余儀なくされ、浜松へ戻って光電の技術を生かそうと決意。昭和23年(1948年)、浜松市海老塚町456番地に工場用地を得て東海電子研究所を設立した
- 月刊貿易と産業 1981年6月号「企業訪問 浜松テレビ株式会社」
- [7]堀内平八郎は旧制浜松工専で高柳健次郎教授に電気工学を学び、戦時中は技術士官(終戦時は陸軍技術大尉)として第七研(陸軍・赤外線の研究)で赤外線(ノクトビジョン)の研究に従事し暗視管の開発に携わった。戦後、昭和23年に浜松市に東海電子研究所を設立し、2〜3人で広告灯やNECから注文があったファクシミリ用の光電管の製造を細々と行っていた
- 発明 1985年7月号「わが社の技術開発 光を追求する技術集団浜松ホトニクス(株)」(発明協会)
- [8]堀内平八郎(現取締役相談役)は昭和23年に東海電子研究所と東海真空管工業を創立し蛍光灯用点灯管を製造。昭和28年9月に浜松テレビ(資本金50万円)を創立し東海電子研究所の業務を引き継いで光電管の製造を開始。昭和30年資本金100万円。昭和31年撮像管の商品化、光電子増倍管の試作を開始し34年に商品化、翌年RCAと技術援助契約。昭和44年ニューヨーク事務所を米国現地法人ハママツコーポレーションに変更設立、堀内社長が紫綬褒章を受く。昭和53年に晝馬輝夫と社長を交代。58年浜松ホトニクスに社名変更、59年株式を店頭公開
- 日経ビジネス 1985年4月15日号
- [9]前身は昭和23年設立の東海電子研究所。光電管の製造が目的だったが当初手がけたのは誘蛾灯の補助ランプ作りで、農薬の普及で仕事がなくなった。創業者の堀内平八郎相談役によれば「目先の利益を追ったための失敗」。最初の委託研究は昭和30年、科学技術庁からのガンマー線測定器と光電子増倍管の試作。当時は資本金100万円、町工場程度の設備で、補助金と国の設備の利用が技術開発力の強化に役立った
1951年の初め、自ら手がけた光電管(のちのPV29・PV26)に有望な引き合いが付き、PV26は街路灯の自動点滅器に採用された。研究所を発展的に解消すると決めた堀内平八郎氏は、実兄で浜松高等工業学校教授の高橋祐二氏を通じて知った晝馬輝夫氏と羽生紀夫氏に新会社への参加を求めた。技術は分かるが経営は素人だというのが、晝馬輝夫氏を誘った理由だった。1953年9月、資本金50万円で浜松テレビを設立し、研究所の業務を引き継いで光電管の製造を始めた。社名は師の高柳氏にちなみ、当時「高柳」と同じ意味で通っていた「テレビ」の語を採った。
- 浜松ホトニクス 公式サイト「浜松ホトニクスの歩み」1951〜1983年(2026年11月)
- [10]昭和26年初頭に堀内が最初に手がけた光電管(後のPV29、PV26)が有望な引き合いを獲得。1951年、光電管PV26が街路灯自動点滅器に採用。東海電子研究所を発展的に解消しようと考えた堀内は、実兄の高橋祐二(浜松高等工業学校教授)を通じて交流のあった晝馬輝夫、羽生紀夫に呼びかけて新会社を設立。社名は高柳にちなみ、当時「高柳」=「テレビ」という代名詞的な関係があったため「浜松テレビ」とした。昭和33年暮れにブラウン管の輝度調整用としてCdSセルの注文が月1000個単位で舞い込み、多品種少量生産の当社が初めて大量生産を体験。1978年 創立25周年、晝馬輝夫社長就任。1983年 浜松ホトニクスに社名変更
- [11]昭和26年初頭に堀内が最初に手がけた光電管(後のPV29、PV26)が有望な引き合いを獲得。1951年、光電管PV26が街路灯自動点滅器に採用。東海電子研究所を発展的に解消しようと考えた堀内は、実兄の高橋祐二(浜松高等工業学校教授)を通じて交流のあった晝馬輝夫、羽生紀夫に呼びかけて新会社を設立。社名は高柳にちなみ、当時「高柳」=「テレビ」という代名詞的な関係があったため「浜松テレビ」とした。昭和33年暮れにブラウン管の輝度調整用としてCdSセルの注文が月1000個単位で舞い込み、多品種少量生産の当社が初めて大量生産を体験。1978年 創立25周年、晝馬輝夫社長就任。1983年 浜松ホトニクスに社名変更
- [14]昭和26年初頭に堀内が最初に手がけた光電管(後のPV29、PV26)が有望な引き合いを獲得。1951年、光電管PV26が街路灯自動点滅器に採用。東海電子研究所を発展的に解消しようと考えた堀内は、実兄の高橋祐二(浜松高等工業学校教授)を通じて交流のあった晝馬輝夫、羽生紀夫に呼びかけて新会社を設立。社名は高柳にちなみ、当時「高柳」=「テレビ」という代名詞的な関係があったため「浜松テレビ」とした。昭和33年暮れにブラウン管の輝度調整用としてCdSセルの注文が月1000個単位で舞い込み、多品種少量生産の当社が初めて大量生産を体験。1978年 創立25周年、晝馬輝夫社長就任。1983年 浜松ホトニクスに社名変更
- 晝馬輝夫『ユニーク企業の経営哲学 第1巻』「光電変換技術の源流と「研究工業」の経営思想」(栄光出版社, 1993年9月)
- [12]高柳健次郎の助手を務めた堀内は高柳とともにNHKに移り、昭和15年の東京オリンピックのテレビ放送に向けて技術開発に取り組んだがオリンピックは中止。終戦後浜松に戻り昭和23年に東海電子研究所を設立。昭和28年、堀内から「自分は技術は分かるけど、経営は全くの素人なので会社を一緒にやらないか」と晝馬に声がかかり浜松テレビがスタート。商工中金に融資を申し込み、5年ぐらいかかって500万円の融資を受けた。大手電機メーカーに部品を供給していたが下請けになるのを避け、部品を海外で販売しようと会社設立9年後にアメリカへ行った(晝馬輝夫談)
- 発明 1985年7月号「わが社の技術開発 光を追求する技術集団浜松ホトニクス(株)」(発明協会)
- [13]堀内平八郎(現取締役相談役)は昭和23年に東海電子研究所と東海真空管工業を創立し蛍光灯用点灯管を製造。昭和28年9月に浜松テレビ(資本金50万円)を創立し東海電子研究所の業務を引き継いで光電管の製造を開始。昭和30年資本金100万円。昭和31年撮像管の商品化、光電子増倍管の試作を開始し34年に商品化、翌年RCAと技術援助契約。昭和44年ニューヨーク事務所を米国現地法人ハママツコーポレーションに変更設立、堀内社長が紫綬褒章を受く。昭和53年に晝馬輝夫と社長を交代。58年浜松ホトニクスに社名変更、59年株式を店頭公開
設立後は国の委託研究で技術を積んだ。1955年に科学技術庁からガンマ線測定器と光電子増倍管の試作を受託し、資本金100万円の町工場が国の設備を使える立場を得た。1956年に撮像管を商品化し、試作を始めた光電子増倍管は1959年に製品となって、翌年には米国RCAと技術援助契約を結んだ。1958年暮れにはブラウン管の輝度調整用CdSセルの注文が月1,000個単位で入り、多品種少量の工場が初めて量産に取り組んだ。工場の資金は商工中金に申し込み、5年ほどかけて500万円の融資にこぎ着けた。
- 日経ビジネス 1985年4月15日号
- [15]前身は昭和23年設立の東海電子研究所。光電管の製造が目的だったが当初手がけたのは誘蛾灯の補助ランプ作りで、農薬の普及で仕事がなくなった。創業者の堀内平八郎相談役によれば「目先の利益を追ったための失敗」。最初の委託研究は昭和30年、科学技術庁からのガンマー線測定器と光電子増倍管の試作。当時は資本金100万円、町工場程度の設備で、補助金と国の設備の利用が技術開発力の強化に役立った
- 発明 1985年7月号「わが社の技術開発 光を追求する技術集団浜松ホトニクス(株)」(発明協会)
- [16]堀内平八郎(現取締役相談役)は昭和23年に東海電子研究所と東海真空管工業を創立し蛍光灯用点灯管を製造。昭和28年9月に浜松テレビ(資本金50万円)を創立し東海電子研究所の業務を引き継いで光電管の製造を開始。昭和30年資本金100万円。昭和31年撮像管の商品化、光電子増倍管の試作を開始し34年に商品化、翌年RCAと技術援助契約。昭和44年ニューヨーク事務所を米国現地法人ハママツコーポレーションに変更設立、堀内社長が紫綬褒章を受く。昭和53年に晝馬輝夫と社長を交代。58年浜松ホトニクスに社名変更、59年株式を店頭公開
- 浜松ホトニクス 公式サイト「浜松ホトニクスの歩み」1951〜1983年(2026年11月)
- [17]昭和26年初頭に堀内が最初に手がけた光電管(後のPV29、PV26)が有望な引き合いを獲得。1951年、光電管PV26が街路灯自動点滅器に採用。東海電子研究所を発展的に解消しようと考えた堀内は、実兄の高橋祐二(浜松高等工業学校教授)を通じて交流のあった晝馬輝夫、羽生紀夫に呼びかけて新会社を設立。社名は高柳にちなみ、当時「高柳」=「テレビ」という代名詞的な関係があったため「浜松テレビ」とした。昭和33年暮れにブラウン管の輝度調整用としてCdSセルの注文が月1000個単位で舞い込み、多品種少量生産の当社が初めて大量生産を体験。1978年 創立25周年、晝馬輝夫社長就任。1983年 浜松ホトニクスに社名変更
- 晝馬輝夫『ユニーク企業の経営哲学 第1巻』「光電変換技術の源流と「研究工業」の経営思想」(栄光出版社, 1993年9月)
- [18]高柳健次郎の助手を務めた堀内は高柳とともにNHKに移り、昭和15年の東京オリンピックのテレビ放送に向けて技術開発に取り組んだがオリンピックは中止。終戦後浜松に戻り昭和23年に東海電子研究所を設立。昭和28年、堀内から「自分は技術は分かるけど、経営は全くの素人なので会社を一緒にやらないか」と晝馬に声がかかり浜松テレビがスタート。商工中金に融資を申し込み、5年ぐらいかかって500万円の融資を受けた。大手電機メーカーに部品を供給していたが下請けになるのを避け、部品を海外で販売しようと会社設立9年後にアメリカへ行った(晝馬輝夫談)
設立から9年目には、大手電機メーカーの下請けに固まるのを避けるため、部品の販路を海外に求めて晝馬輝夫氏が米国へ売り込みに出た。1969年にニューヨーク事務所を米国現地法人に改め、この年に堀内平八郎氏は紫綬褒章を受けた。創立25周年の1978年に社長を晝馬輝夫氏へ譲って取締役相談役に退き、会社は1983年に浜松ホトニクスへ改称、1984年に株式を店頭公開した。1997年7月に死去した。
- 晝馬輝夫『ユニーク企業の経営哲学 第1巻』「光電変換技術の源流と「研究工業」の経営思想」(栄光出版社, 1993年9月)
- [19]高柳健次郎の助手を務めた堀内は高柳とともにNHKに移り、昭和15年の東京オリンピックのテレビ放送に向けて技術開発に取り組んだがオリンピックは中止。終戦後浜松に戻り昭和23年に東海電子研究所を設立。昭和28年、堀内から「自分は技術は分かるけど、経営は全くの素人なので会社を一緒にやらないか」と晝馬に声がかかり浜松テレビがスタート。商工中金に融資を申し込み、5年ぐらいかかって500万円の融資を受けた。大手電機メーカーに部品を供給していたが下請けになるのを避け、部品を海外で販売しようと会社設立9年後にアメリカへ行った(晝馬輝夫談)
- 発明 1985年7月号「わが社の技術開発 光を追求する技術集団浜松ホトニクス(株)」(発明協会)
- [20]堀内平八郎(現取締役相談役)は昭和23年に東海電子研究所と東海真空管工業を創立し蛍光灯用点灯管を製造。昭和28年9月に浜松テレビ(資本金50万円)を創立し東海電子研究所の業務を引き継いで光電管の製造を開始。昭和30年資本金100万円。昭和31年撮像管の商品化、光電子増倍管の試作を開始し34年に商品化、翌年RCAと技術援助契約。昭和44年ニューヨーク事務所を米国現地法人ハママツコーポレーションに変更設立、堀内社長が紫綬褒章を受く。昭和53年に晝馬輝夫と社長を交代。58年浜松ホトニクスに社名変更、59年株式を店頭公開
- [21]堀内平八郎(現取締役相談役)は昭和23年に東海電子研究所と東海真空管工業を創立し蛍光灯用点灯管を製造。昭和28年9月に浜松テレビ(資本金50万円)を創立し東海電子研究所の業務を引き継いで光電管の製造を開始。昭和30年資本金100万円。昭和31年撮像管の商品化、光電子増倍管の試作を開始し34年に商品化、翌年RCAと技術援助契約。昭和44年ニューヨーク事務所を米国現地法人ハママツコーポレーションに変更設立、堀内社長が紫綬褒章を受く。昭和53年に晝馬輝夫と社長を交代。58年浜松ホトニクスに社名変更、59年株式を店頭公開
- 浜松ホトニクス 公式サイト「浜松ホトニクスの歩み」1951〜1983年(2026年11月)
- [22]昭和26年初頭に堀内が最初に手がけた光電管(後のPV29、PV26)が有望な引き合いを獲得。1951年、光電管PV26が街路灯自動点滅器に採用。東海電子研究所を発展的に解消しようと考えた堀内は、実兄の高橋祐二(浜松高等工業学校教授)を通じて交流のあった晝馬輝夫、羽生紀夫に呼びかけて新会社を設立。社名は高柳にちなみ、当時「高柳」=「テレビ」という代名詞的な関係があったため「浜松テレビ」とした。昭和33年暮れにブラウン管の輝度調整用としてCdSセルの注文が月1000個単位で舞い込み、多品種少量生産の当社が初めて大量生産を体験。1978年 創立25周年、晝馬輝夫社長就任。1983年 浜松ホトニクスに社名変更
- 東海総研マネジメント 1997年10月号「経営万華鏡 浜松ホトニクス 晝馬輝夫」(丸谷英司)
- [23]堀内平八郎氏(浜松ホトニクス初代社長、今年七月死去)
参考文献4件
事実根拠:出所(浜松ホトニクス)