レーザーテック:工場を持たない研究開発型の独立創業と自社製品100%の達成
1960年〜松下通信工業から出た東京ITV研究所と、ナショナルの名で国内首位を取ったX線テレビカメラ
内山康氏は1960年7月、東京ITV研究所を資本金10万円で設立。内山康氏は1951年3月の広島工業専門学校電気科を卒業する直前に肺結核を患い、5年の療養と3年の無職の期間を過ごした。1959年に入った松下通信工業でも、内山康氏は正社員として採用されなかった。X線カメラの開発に携わる間も昇進の道は閉ざされており、内山康氏は入社から1年3カ月で独立を決めた。1991年の講演で内山康氏は、松下通信工業をスピンアウトして研究所を興し、X線診断用テレビカメラの開発設計から始めたと振り返った。組織の中で昇進の見込みを持てない技術者にとって、設計を自ら担える場は社外にしか無かったとみられる。
- 日経ビジネス 1979年8月13日号 異色企業 p119-121
- [1]内山康は1951年3月広島工業専門学校卒業直前に肺結核を発病し5年療養・3年無職、1959年松下通信工業に非正社員で入社、1年3カ月後の1960年7月に資本金10万円で東京ITV研究所を設立
- [2]内山康は1951年3月広島工業専門学校卒業直前に肺結核を発病し5年療養・3年無職、1959年松下通信工業に非正社員で入社、1年3カ月後の1960年7月に資本金10万円で東京ITV研究所を設立
- [3]内山康は1951年3月広島工業専門学校卒業直前に肺結核を発病し5年療養・3年無職、1959年松下通信工業に非正社員で入社、1年3カ月後の1960年7月に資本金10万円で東京ITV研究所を設立
- [4]内山康は1951年3月広島工業専門学校卒業直前に肺結核を発病し5年療養・3年無職、1959年松下通信工業に非正社員で入社、1年3カ月後の1960年7月に資本金10万円で東京ITV研究所を設立
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [5]1960年7月に松下通信工業をスピンアウトして(有)東京アイ・テイ・ブイ研究所を設立し、X線診断用テレビカメラの開発設計から始めた(内山康の講演)
東京ITV研究所の最初の仕事は、松下で身に付けた技術と人脈を元手に、松下通信工業向けにX線テレビカメラを納める下請けだった。仕事の口添えをしたのは、松下時代の上司で1979年時点で松下通信工業の社長だった小蒲秋定氏である。内山康氏は単純な下請けにとどまらず、設計段階から全てを自社で手がけた。松下通信工業は製品を「ナショナル」の商標で市場に出し、国内シェアは第1位となった。内山康氏は1962年に資本金を100万円へ増やし、社名を東京ITV研究所から日本自動制御に改めた。販売と製造を松下通信工業に委ねた結果、設計に人手を集中できた反面、自社の名で顧客と向き合う立場は持てなかったと推察される。
- 日経ビジネス 1979年8月13日号 異色企業 p119-121
- [6]松下時代の上司・小蒲秋定(1979年時点で松下通信工業社長)の口添えでX線テレビカメラを松下通信工業に納入する下請けを開始、設計段階から自社で担当。1962年に資本金100万円・社名を日本自動制御に変更
- [7]松下時代の上司・小蒲秋定(1979年時点で松下通信工業社長)の口添えでX線テレビカメラを松下通信工業に納入する下請けを開始、設計段階から自社で担当。1962年に資本金100万円・社名を日本自動制御に変更
- [8]松下時代の上司・小蒲秋定(1979年時点で松下通信工業社長)の口添えでX線テレビカメラを松下通信工業に納入する下請けを開始、設計段階から自社で担当。1962年に資本金100万円・社名を日本自動制御に変更
- [10]松下時代の上司・小蒲秋定(1979年時点で松下通信工業社長)の口添えでX線テレビカメラを松下通信工業に納入する下請けを開始、設計段階から自社で担当。1962年に資本金100万円・社名を日本自動制御に変更
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [9]X線診断用テレビカメラは松下通信工業を通じ「ナショナル」ブランドで発売され国内シェア1位となった
日本自動制御は松下通信工業との取引に加え、テレビの技術を発展させた測定機の開発に力を入れ始めた。開発の考え方はテレビの画面で自動測定する機械をつくることにあり、自社製品の第1号は磁気テープを自動で測る装置である。創業から10年ほどの時点で、内山康氏は電電公社の技術部にいた同じ学校の先輩である粟村大吉氏を招き、自社ブランド製品の開発を本格化した。磁気テープの測定装置は10種類ほどに及び、幅の自動測定装置は人が丸1日かけた約1mの検査を2〜3分に縮めた。それでも需要は乏しく業績は一進一退で、銀行から融資を得にくい時期が続いた。下請けから抜け出す手段として自社製品を選んだものの、売れる市場の見極めはまだ付いていなかったと思われる。
- 日経ビジネス 1979年8月13日号 異色企業 p119-121
- [11]1962年以降、テレビ技術を発展させた各種測定機の製作に注力。自社製品第1号は磁気テープ関係の自動測定機。業績は一進一退で銀行融資を受けにくい時期が続いた
- [12]1962年以降、テレビ技術を発展させた各種測定機の製作に注力。自社製品第1号は磁気テープ関係の自動測定機。業績は一進一退で銀行融資を受けにくい時期が続いた
- [15]1962年以降、テレビ技術を発展させた各種測定機の製作に注力。自社製品第1号は磁気テープ関係の自動測定機。業績は一進一退で銀行融資を受けにくい時期が続いた
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [13]創業10年ほどで電電公社技術部にいた学校の先輩・粟村大吉を招き、磁気テープ関係の測定装置を10種類ほど開発。テープ幅自動測定装置は約1mで丸1日の検査を2〜3分にした
- [14]創業10年ほどで電電公社技術部にいた学校の先輩・粟村大吉を招き、磁気テープ関係の測定装置を10種類ほど開発。テープ幅自動測定装置は約1mで丸1日の検査を2〜3分にした
参考文献[1]-[15]
- 日経ビジネス 1979年8月13日号 異色企業 p119-121
- [1]内山康は1951年3月広島工業専門学校卒業直前に肺結核を発病し5年療養・3年無職、1959年松下通信工業に非正社員で入社、1年3カ月後の1960年7月に資本金10万円で東京ITV研究所を設立
- [2]内山康は1951年3月広島工業専門学校卒業直前に肺結核を発病し5年療養・3年無職、1959年松下通信工業に非正社員で入社、1年3カ月後の1960年7月に資本金10万円で東京ITV研究所を設立
- [3]内山康は1951年3月広島工業専門学校卒業直前に肺結核を発病し5年療養・3年無職、1959年松下通信工業に非正社員で入社、1年3カ月後の1960年7月に資本金10万円で東京ITV研究所を設立
- [4]内山康は1951年3月広島工業専門学校卒業直前に肺結核を発病し5年療養・3年無職、1959年松下通信工業に非正社員で入社、1年3カ月後の1960年7月に資本金10万円で東京ITV研究所を設立
- [6]松下時代の上司・小蒲秋定(1979年時点で松下通信工業社長)の口添えでX線テレビカメラを松下通信工業に納入する下請けを開始、設計段階から自社で担当。1962年に資本金100万円・社名を日本自動制御に変更
- [7]松下時代の上司・小蒲秋定(1979年時点で松下通信工業社長)の口添えでX線テレビカメラを松下通信工業に納入する下請けを開始、設計段階から自社で担当。1962年に資本金100万円・社名を日本自動制御に変更
- [8]松下時代の上司・小蒲秋定(1979年時点で松下通信工業社長)の口添えでX線テレビカメラを松下通信工業に納入する下請けを開始、設計段階から自社で担当。1962年に資本金100万円・社名を日本自動制御に変更
- [10]松下時代の上司・小蒲秋定(1979年時点で松下通信工業社長)の口添えでX線テレビカメラを松下通信工業に納入する下請けを開始、設計段階から自社で担当。1962年に資本金100万円・社名を日本自動制御に変更
- [11]1962年以降、テレビ技術を発展させた各種測定機の製作に注力。自社製品第1号は磁気テープ関係の自動測定機。業績は一進一退で銀行融資を受けにくい時期が続いた
- [12]1962年以降、テレビ技術を発展させた各種測定機の製作に注力。自社製品第1号は磁気テープ関係の自動測定機。業績は一進一退で銀行融資を受けにくい時期が続いた
- [15]1962年以降、テレビ技術を発展させた各種測定機の製作に注力。自社製品第1号は磁気テープ関係の自動測定機。業績は一進一退で銀行融資を受けにくい時期が続いた
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [5]1960年7月に松下通信工業をスピンアウトして(有)東京アイ・テイ・ブイ研究所を設立し、X線診断用テレビカメラの開発設計から始めた(内山康の講演)
- [9]X線診断用テレビカメラは松下通信工業を通じ「ナショナル」ブランドで発売され国内シェア1位となった
- [13]創業10年ほどで電電公社技術部にいた学校の先輩・粟村大吉を招き、磁気テープ関係の測定装置を10種類ほど開発。テープ幅自動測定装置は約1mで丸1日の検査を2〜3分にした
- [14]創業10年ほどで電電公社技術部にいた学校の先輩・粟村大吉を招き、磁気テープ関係の測定装置を10種類ほど開発。テープ幅自動測定装置は約1mで丸1日の検査を2〜3分にした
1971年〜テレビカメラ技術で世界に先駆けたフォトマスク検査装置と、自社製品100%の年商14億円
業績が一進一退を続けるなかで、内山康氏はIC・LSIの半導体分野に目を向け、フォトマスクの自動検査装置に開発の目標を絞った。当時、フォトマスクの欠陥を調べるには人が顕微鏡でのぞくほかなく、半導体メーカー各社が自動化を研究していた。内山康氏と粟村大吉氏はまず顕微鏡の自動焦点装置を開発し、そこへテレビカメラの技術を重ねて検査装置に仕上げた。日本自動制御は1976年10月に世界で最初の試作機を公表し、同年11月に大日本印刷が1台4200万円で最初に購入した。装置の検査速度は人の10倍。磁気テープの幅測定で人手の検査を自動化した経験が、微細なパターンの検査にそのまま転用できたと考えられる。
- 日経ビジネス 1979年8月13日号 異色企業 p119-121
- [16]IC・LSI分野に注目しフォトマスク自動検査装置に目標を絞り、粟村大吉と顕微鏡の自動焦点装置から開発。テレビカメラ技術を利用した欠陥検査装置の試作機を1976年10月に世界に先駆け発表、同年11月大日本印刷が1台4200万円で第1号購入。速度は人間の10倍
- [18]IC・LSI分野に注目しフォトマスク自動検査装置に目標を絞り、粟村大吉と顕微鏡の自動焦点装置から開発。テレビカメラ技術を利用した欠陥検査装置の試作機を1976年10月に世界に先駆け発表、同年11月大日本印刷が1台4200万円で第1号購入。速度は人間の10倍
- [19]IC・LSI分野に注目しフォトマスク自動検査装置に目標を絞り、粟村大吉と顕微鏡の自動焦点装置から開発。テレビカメラ技術を利用した欠陥検査装置の試作機を1976年10月に世界に先駆け発表、同年11月大日本印刷が1台4200万円で第1号購入。速度は人間の10倍
- [20]IC・LSI分野に注目しフォトマスク自動検査装置に目標を絞り、粟村大吉と顕微鏡の自動焦点装置から開発。テレビカメラ技術を利用した欠陥検査装置の試作機を1976年10月に世界に先駆け発表、同年11月大日本印刷が1台4200万円で第1号購入。速度は人間の10倍
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [17]フォトマスク欠陥検査は人が顕微鏡で行うしかなく半導体メーカー各社が自動化を研究。1976年に世界で最初に開発に成功(内山康の講演)
大日本印刷での実績が評価されると、三菱電機・凸版印刷・沖電気工業・富士通から引き合いが相次ぎ、米国のテキサス・インスツルメンツにも納入した。1991年の講演で内山康氏は、装置が国内に加えて米国と欧州でも売れたと述べている。米国のベンチャー企業は1年遅れで別の原理による同機能の装置を完成させ、1979年時点では2社が市場を占めていた。内山康氏は需要規模を数十億円とみて世界で2社程度の生産が適正とし、新たな競合の出現を唯一の懸念に挙げた。1990年時点でもパターン相互比較方式の欠陥検査装置のシェアは自社約70%に対しKLA社約30%で、ユーザーは両社の特徴を使い分けていた。世界で最初に装置を出したことで、半導体の本場の顧客からも比較の対象に選ばれたのだろう。
- 日経ビジネス 1979年8月13日号 異色企業 p119-121
- [21]大日本印刷の実績後、三菱電機・凸版印刷・沖電気工業・富士通から引き合い、テキサス・インスツルメンツにも販売。1年後に米国ベンチャーが別原理の同機能装置を完成し2社が市場を独占。需要規模は数十億円で世界2社が適正、唯一の不安は競争相手の出現(内山康)
- [23]大日本印刷の実績後、三菱電機・凸版印刷・沖電気工業・富士通から引き合い、テキサス・インスツルメンツにも販売。1年後に米国ベンチャーが別原理の同機能装置を完成し2社が市場を独占。需要規模は数十億円で世界2社が適正、唯一の不安は競争相手の出現(内山康)
- [24]大日本印刷の実績後、三菱電機・凸版印刷・沖電気工業・富士通から引き合い、テキサス・インスツルメンツにも販売。1年後に米国ベンチャーが別原理の同機能装置を完成し2社が市場を独占。需要規模は数十億円で世界2社が適正、唯一の不安は競争相手の出現(内山康)
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [22]フォトマスク自動検査装置は国内に加え米国・欧州でも売れた。パタン相互比較方式の市場シェアは自社約70%・KLA社約30%で、ユーザーが両社を使い分け
- [25]フォトマスク自動検査装置は国内に加え米国・欧州でも売れた。パタン相互比較方式の市場シェアは自社約70%・KLA社約30%で、ユーザーが両社を使い分け
フォトマスク検査装置の発売後、日本自動制御の売上高は2億円前後から1979年6月期の14億9000万円へ拡大した。1979年時点の従業員は30人、資本金は3600万円で、本社工場は川崎市鹿島田の小さな建物である。同じ年の年末には、横浜市港北区綱島の松下通信工業の近くに鉄筋4階建ての本社工場を建てる予定だった。売上高は1985年6月期に41億円、経常利益は15億円となった。1991年時点で製造は全て外部に委ね、開発・技術者30人を含む社員53人で製品の開発と設計に絞っていた。松下向けのX線カメラから出発した下請けの仕事は、自社で開発した装置の売上に置き換わったとうかがえる。
- 日経ビジネス 1979年8月13日号 異色企業 p119-121
- [26]売上高は2億円前後から1979年6月期14億9000万円へ。1979年時点で従業員30人・資本金3600万円、川崎市鹿島田の町工場規模の本社工場。同年末に横浜市港北区綱島の松下通信工業近くへ鉄筋4階建ての本社工場を建設予定
- [27]売上高は2億円前後から1979年6月期14億9000万円へ。1979年時点で従業員30人・資本金3600万円、川崎市鹿島田の町工場規模の本社工場。同年末に横浜市港北区綱島の松下通信工業近くへ鉄筋4階建ての本社工場を建設予定
- [28]売上高は2億円前後から1979年6月期14億9000万円へ。1979年時点で従業員30人・資本金3600万円、川崎市鹿島田の町工場規模の本社工場。同年末に横浜市港北区綱島の松下通信工業近くへ鉄筋4階建ての本社工場を建設予定
- 日経ビジネス 1991年4月22日号 異色企業 p56-57
- [29]1985年6月期に売上高41億円・経常利益15億円。1991年時点で生産は外部に全面委託し、製品開発・設計を中心に手掛ける
- [30]1985年6月期に売上高41億円・経常利益15億円。1991年時点で生産は外部に全面委託し、製品開発・設計を中心に手掛ける
参考文献[16]-[30]
- 日経ビジネス 1979年8月13日号 異色企業 p119-121
- [16]IC・LSI分野に注目しフォトマスク自動検査装置に目標を絞り、粟村大吉と顕微鏡の自動焦点装置から開発。テレビカメラ技術を利用した欠陥検査装置の試作機を1976年10月に世界に先駆け発表、同年11月大日本印刷が1台4200万円で第1号購入。速度は人間の10倍
- [18]IC・LSI分野に注目しフォトマスク自動検査装置に目標を絞り、粟村大吉と顕微鏡の自動焦点装置から開発。テレビカメラ技術を利用した欠陥検査装置の試作機を1976年10月に世界に先駆け発表、同年11月大日本印刷が1台4200万円で第1号購入。速度は人間の10倍
- [19]IC・LSI分野に注目しフォトマスク自動検査装置に目標を絞り、粟村大吉と顕微鏡の自動焦点装置から開発。テレビカメラ技術を利用した欠陥検査装置の試作機を1976年10月に世界に先駆け発表、同年11月大日本印刷が1台4200万円で第1号購入。速度は人間の10倍
- [20]IC・LSI分野に注目しフォトマスク自動検査装置に目標を絞り、粟村大吉と顕微鏡の自動焦点装置から開発。テレビカメラ技術を利用した欠陥検査装置の試作機を1976年10月に世界に先駆け発表、同年11月大日本印刷が1台4200万円で第1号購入。速度は人間の10倍
- [21]大日本印刷の実績後、三菱電機・凸版印刷・沖電気工業・富士通から引き合い、テキサス・インスツルメンツにも販売。1年後に米国ベンチャーが別原理の同機能装置を完成し2社が市場を独占。需要規模は数十億円で世界2社が適正、唯一の不安は競争相手の出現(内山康)
- [23]大日本印刷の実績後、三菱電機・凸版印刷・沖電気工業・富士通から引き合い、テキサス・インスツルメンツにも販売。1年後に米国ベンチャーが別原理の同機能装置を完成し2社が市場を独占。需要規模は数十億円で世界2社が適正、唯一の不安は競争相手の出現(内山康)
- [24]大日本印刷の実績後、三菱電機・凸版印刷・沖電気工業・富士通から引き合い、テキサス・インスツルメンツにも販売。1年後に米国ベンチャーが別原理の同機能装置を完成し2社が市場を独占。需要規模は数十億円で世界2社が適正、唯一の不安は競争相手の出現(内山康)
- [26]売上高は2億円前後から1979年6月期14億9000万円へ。1979年時点で従業員30人・資本金3600万円、川崎市鹿島田の町工場規模の本社工場。同年末に横浜市港北区綱島の松下通信工業近くへ鉄筋4階建ての本社工場を建設予定
- [27]売上高は2億円前後から1979年6月期14億9000万円へ。1979年時点で従業員30人・資本金3600万円、川崎市鹿島田の町工場規模の本社工場。同年末に横浜市港北区綱島の松下通信工業近くへ鉄筋4階建ての本社工場を建設予定
- [28]売上高は2億円前後から1979年6月期14億9000万円へ。1979年時点で従業員30人・資本金3600万円、川崎市鹿島田の町工場規模の本社工場。同年末に横浜市港北区綱島の松下通信工業近くへ鉄筋4階建ての本社工場を建設予定
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [17]フォトマスク欠陥検査は人が顕微鏡で行うしかなく半導体メーカー各社が自動化を研究。1976年に世界で最初に開発に成功(内山康の講演)
- [22]フォトマスク自動検査装置は国内に加え米国・欧州でも売れた。パタン相互比較方式の市場シェアは自社約70%・KLA社約30%で、ユーザーが両社を使い分け
- [25]フォトマスク自動検査装置は国内に加え米国・欧州でも売れた。パタン相互比較方式の市場シェアは自社約70%・KLA社約30%で、ユーザーが両社を使い分け
- 日経ビジネス 1991年4月22日号 異色企業 p56-57
- [29]1985年6月期に売上高41億円・経常利益15億円。1991年時点で生産は外部に全面委託し、製品開発・設計を中心に手掛ける
- [30]1985年6月期に売上高41億円・経常利益15億円。1991年時点で生産は外部に全面委託し、製品開発・設計を中心に手掛ける
1985年〜30分の1秒で走査するカラーレーザー顕微鏡と、南青山のサロンを構えて臨んだ店頭公開
売上高41億円に達した翌年から世界的な半導体不況に入り、年商は一挙に11億円へ減少。内山康氏は、半導体関連だけでは好不況の振れ幅が大きすぎると考え、事業の間口を広げるためにレーザー顕微鏡を開発した。レーザー顕微鏡はフォトマスク検査装置の技術を応用した製品で、紙パルプや液晶パネルの検査にも使えた。機械的な可動部の無い音響光学偏向素子でレーザーを走査するため全画面を30分の1秒で走査でき、鏡を振る他社品は少なくとも2秒を要した。価格はカラー機が3,000万円、モノクロ機が1,000万円前後で、1991年時点で販売の約5分の1がカラーだった。1990年6月期の売上高構成比は、フォトマスクの欠陥検査装置が54.9%、レーザー顕微鏡が35.0%となった。
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [31]年商41億円の翌年から半導体不況で11億円に。半導体の好不況の影響を避けるため間口を広げレーザー顕微鏡を開発。音響光学偏向素子で全画面走査30分の1秒、他社は鏡の機械振動で最低2秒。単価カラー3,000万円・モノクロ1,000万円、約5分の1がカラー。1990年6月期構成比はフォトマスク欠陥検査装置54.9%・レーザー顕微鏡35.0%
- [32]年商41億円の翌年から半導体不況で11億円に。半導体の好不況の影響を避けるため間口を広げレーザー顕微鏡を開発。音響光学偏向素子で全画面走査30分の1秒、他社は鏡の機械振動で最低2秒。単価カラー3,000万円・モノクロ1,000万円、約5分の1がカラー。1990年6月期構成比はフォトマスク欠陥検査装置54.9%・レーザー顕微鏡35.0%
- [34]年商41億円の翌年から半導体不況で11億円に。半導体の好不況の影響を避けるため間口を広げレーザー顕微鏡を開発。音響光学偏向素子で全画面走査30分の1秒、他社は鏡の機械振動で最低2秒。単価カラー3,000万円・モノクロ1,000万円、約5分の1がカラー。1990年6月期構成比はフォトマスク欠陥検査装置54.9%・レーザー顕微鏡35.0%
- [35]年商41億円の翌年から半導体不況で11億円に。半導体の好不況の影響を避けるため間口を広げレーザー顕微鏡を開発。音響光学偏向素子で全画面走査30分の1秒、他社は鏡の機械振動で最低2秒。単価カラー3,000万円・モノクロ1,000万円、約5分の1がカラー。1990年6月期構成比はフォトマスク欠陥検査装置54.9%・レーザー顕微鏡35.0%
- [36]年商41億円の翌年から半導体不況で11億円に。半導体の好不況の影響を避けるため間口を広げレーザー顕微鏡を開発。音響光学偏向素子で全画面走査30分の1秒、他社は鏡の機械振動で最低2秒。単価カラー3,000万円・モノクロ1,000万円、約5分の1がカラー。1990年6月期構成比はフォトマスク欠陥検査装置54.9%・レーザー顕微鏡35.0%
- 日経ビジネス 1991年4月22日号 異色企業 p56-57
- [33]レーザー顕微鏡はフォトマスク検査装置の技術を生かして開発し、紙パルプ・液晶パネルの素材検査にも使える
内山康氏は1986年、東京・南青山に「レーザーテック研究所」の名を冠した約160平方メートルの一室を設けた。室内には研究設備も自社製品も置かず、ピアノとソファのもとで月に1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回の学識経験者のセミナーを催した。当初は研究拠点として構想したものの、レーザー光学を専門とする東海大学の教授から助言を受けた。内山康氏は研究を横浜の本社で強化し、南青山は交流の場とする方針に改めた。年間の維持費は5000万円に及び、売上高26億円弱の会社には軽くない負担である。背景には新卒採用がここ数年ゼロで中途採用で補っていた事情があり、研究開発の担い手は1991年時点で約10人にとどまった。
- 日経ビジネス 1991年4月22日号 異色企業 p56-57
- [37]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [38]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [39]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [40]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [41]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [42]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [43]研究開発従事者は約10人、研究開発費は売上高の12%程度が通常で、新製品開発で必要なら人も経費も制限せず投入(1991年1月の講演)
レーザーテックは株式を1990年12月15日に店頭市場へ公開し、直後の講演で内山康氏はフォトマスク検査装置とレーザー顕微鏡への特化を掲げた。フォトマスク検査装置の開発を共にした粟村大吉氏は、1991年時点で副社長を務めていた。1990年6月期の売上高は26億円、経常利益は6億9000万円で、売上高に対する経常利益の比率は26.6%である。内山康氏は高付加価値の商品を作り続けて利益率を25〜30%に保つ方針を掲げた。海外では1987年に米国サンフランシスコへ現地法人を設立し、1990年初めにロンドン支店を開設した。株式の公開は、海外の販売網を担う営業の人材を採用する際に知名度を高める機会でもあったと推測される。
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [44]1990年12月15日に株式を店頭公開。フォトマスク検査装置とレーザー顕微鏡に特化。粟村大吉は副社長
- [45]1990年12月15日に株式を店頭公開。フォトマスク検査装置とレーザー顕微鏡に特化。粟村大吉は副社長
- 日経ビジネス 1991年4月22日号 異色企業 p56-57
- [46]1990年6月期は売上高26億円・経常利益6億9000万円・売上高経常利益率26.6%、内山康は高付加価値商品で利益率25〜30%維持を掲げる。1987年米国サンフランシスコに現地法人、1990年初めにロンドン支店開設。株式を1990年末に店頭公開
- [47]1990年6月期は売上高26億円・経常利益6億9000万円・売上高経常利益率26.6%、内山康は高付加価値商品で利益率25〜30%維持を掲げる。1987年米国サンフランシスコに現地法人、1990年初めにロンドン支店開設。株式を1990年末に店頭公開
- [48]1990年6月期は売上高26億円・経常利益6億9000万円・売上高経常利益率26.6%、内山康は高付加価値商品で利益率25〜30%維持を掲げる。1987年米国サンフランシスコに現地法人、1990年初めにロンドン支店開設。株式を1990年末に店頭公開
参考文献[31]-[48]
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- [31]年商41億円の翌年から半導体不況で11億円に。半導体の好不況の影響を避けるため間口を広げレーザー顕微鏡を開発。音響光学偏向素子で全画面走査30分の1秒、他社は鏡の機械振動で最低2秒。単価カラー3,000万円・モノクロ1,000万円、約5分の1がカラー。1990年6月期構成比はフォトマスク欠陥検査装置54.9%・レーザー顕微鏡35.0%
- [32]年商41億円の翌年から半導体不況で11億円に。半導体の好不況の影響を避けるため間口を広げレーザー顕微鏡を開発。音響光学偏向素子で全画面走査30分の1秒、他社は鏡の機械振動で最低2秒。単価カラー3,000万円・モノクロ1,000万円、約5分の1がカラー。1990年6月期構成比はフォトマスク欠陥検査装置54.9%・レーザー顕微鏡35.0%
- [34]年商41億円の翌年から半導体不況で11億円に。半導体の好不況の影響を避けるため間口を広げレーザー顕微鏡を開発。音響光学偏向素子で全画面走査30分の1秒、他社は鏡の機械振動で最低2秒。単価カラー3,000万円・モノクロ1,000万円、約5分の1がカラー。1990年6月期構成比はフォトマスク欠陥検査装置54.9%・レーザー顕微鏡35.0%
- [35]年商41億円の翌年から半導体不況で11億円に。半導体の好不況の影響を避けるため間口を広げレーザー顕微鏡を開発。音響光学偏向素子で全画面走査30分の1秒、他社は鏡の機械振動で最低2秒。単価カラー3,000万円・モノクロ1,000万円、約5分の1がカラー。1990年6月期構成比はフォトマスク欠陥検査装置54.9%・レーザー顕微鏡35.0%
- [36]年商41億円の翌年から半導体不況で11億円に。半導体の好不況の影響を避けるため間口を広げレーザー顕微鏡を開発。音響光学偏向素子で全画面走査30分の1秒、他社は鏡の機械振動で最低2秒。単価カラー3,000万円・モノクロ1,000万円、約5分の1がカラー。1990年6月期構成比はフォトマスク欠陥検査装置54.9%・レーザー顕微鏡35.0%
- [43]研究開発従事者は約10人、研究開発費は売上高の12%程度が通常で、新製品開発で必要なら人も経費も制限せず投入(1991年1月の講演)
- [44]1990年12月15日に株式を店頭公開。フォトマスク検査装置とレーザー顕微鏡に特化。粟村大吉は副社長
- [45]1990年12月15日に株式を店頭公開。フォトマスク検査装置とレーザー顕微鏡に特化。粟村大吉は副社長
- 日経ビジネス 1991年4月22日号 異色企業 p56-57
- [33]レーザー顕微鏡はフォトマスク検査装置の技術を生かして開発し、紙パルプ・液晶パネルの素材検査にも使える
- [37]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [38]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [39]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [40]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [41]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [42]1986年に東京・南青山のビルの一室(約160㎡)に「レーザーテック研究所」を発足。設備も製品も置かずピアノとソファのみ、月1〜2回のコンサートや能、2カ月に1回セミナー。東海大学教授の助言で研究は本社で強化し交流の場に転換。維持費年5000万円、売上高26億円弱。新卒採用は数年ゼロで中途採用。社員53人
- [46]1990年6月期は売上高26億円・経常利益6億9000万円・売上高経常利益率26.6%、内山康は高付加価値商品で利益率25〜30%維持を掲げる。1987年米国サンフランシスコに現地法人、1990年初めにロンドン支店開設。株式を1990年末に店頭公開
- [47]1990年6月期は売上高26億円・経常利益6億9000万円・売上高経常利益率26.6%、内山康は高付加価値商品で利益率25〜30%維持を掲げる。1987年米国サンフランシスコに現地法人、1990年初めにロンドン支店開設。株式を1990年末に店頭公開
- [48]1990年6月期は売上高26億円・経常利益6億9000万円・売上高経常利益率26.6%、内山康は高付加価値商品で利益率25〜30%維持を掲げる。1987年米国サンフランシスコに現地法人、1990年初めにロンドン支店開設。株式を1990年末に店頭公開
1960年〜1992年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1960年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1976年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1980年06月期 | n/a | 19 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1981年06月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1982年06月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1983年06月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1984年06月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1985年06月期 | n/a | 41 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年06月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年06月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年06月期 | n/a | 11 | n/a | 0 | 7.4% | n/a |
| 1989年06月期 | n/a | 18 | +66.1% | 1 | 6.0% | n/a |
| 1990年06月期 | n/a | 26 | +42.5% | 3 | 11.3% | n/a |
| 1991年06月期 | n/a | 28 | +7.5% | 2 | 10.5% | n/a |
| 1992年06月期 | n/a | 22 | ▲21.4% | ▲1 | ▲7.3% | n/a |
出所:技術と経済(5)、証券アナリストジャーナル29(2)、会社年鑑、有価証券報告書
出典・参考
3件
- 日経ビジネス 1979年8月13日号 異色企業 p119-121
- 証券アナリストジャーナル 1991年2月号 別冊付録 レーザーテック(内山康講演・1991年1月28日)
- 日経ビジネス 1991年4月22日号 異色企業 p56-57