荏原製作所:海外生産拠点の設立と半導体向け真空機器への参入
1975年〜初の海外生産拠点と袖ヶ浦工場、官公需頼みの慎重経営からの脱皮
1975年1月、荏原製作所は戦後初の海外生産拠点をブラジルに設立した。外へ出る引き金は第1次石油危機の後に国内の需要が細ったことで、小型ポンプを月3万台造れる藤沢工場の生産は月2万台を下回った。それまでの荏原は輸出に重きを置かず、1973年10月時点の輸出比率は4.8%にすぎなかった。1974年後半から輸出へ人材を回し始め、1976年4月には海外事業部を設けて専任の役員を置いた。国内では1975年11月に袖ヶ浦工場を新設し、コンプレッサとタービンの製造を始めた。一方で1975〜80年度の売上高は公共事業の伸びに支えられ、年平均8.0%増えていた。官公需がまだ伸びているうちに、工場の遊休能力を埋める販売先を海外に探り始めた動きとみられる。
- 荏原製作所 有価証券報告書 第161期(2025年12月期)【沿革】
- [1]1975年1月、戦後初の海外生産拠点としてブラジルにEbara Industrias Mecanicas e Comercio Ltda.を設立
- [5]1975年11月、袖ヶ浦工場を新設し、主にコンプレッサ及びタービンの製造を開始
- 日経ビジネス 1976年7月19日号
- [2]藤沢工場の小型ポンプ生産能力は月3万台だが、石油危機以降は月2万台以下の水準にとどまった
- [3]荏原は輸出に力を入れておらず、1973年10月時点の輸出比率は4.8%
- [4]1974年後半から輸出に向け人材を優先投入し、1976年4月の機構改革で海外事業部を設置、専任の重役を置いた
- 証券調査 (245) 1991年「荏原製作所」星野英彦
- [6]1975〜80年度は公共事業の伸びで年平均売上高成長率8.0%
1976年の荏原製作所は、当時社長の杉山正一氏が『石橋をたたいても渡らないといわれていた』と認めるほど慎重な会社だった。戦後は一貫して官公需を営業の土台とし、大型ポンプの国内シェアは40%に達していた。並べて論じられた米ウオシントン・ポンプ(WPI)は、13カ国に23の生産拠点を持つ世界最大のポンプメーカーだった。1974年に経営陣を入れ替えたWPIが現地法人へ権限を移すのと逆に、国内に根を張った荏原は外へ出る向きを選んだ。それでも官需への依存は長く残り、1990年ごろ、ポンプの需要先に占める官需の比率は約35%あった。専業色の強い同業3社の50〜65%を下回る程度にすぎなかった。官公需が不況の下でも売上を支えたからこそ、慎重な会社にも海外へ人を割く余力があったのだろう。
- 日経ビジネス 1976年7月19日号
- [7]杉山正一社長は荏原を「石橋をたたいても渡らない」と言われてきた慎重な会社と自認
- [8]戦後一貫して営業の基本を官公需に置き、大型ポンプの国内シェアは40%
- [9]WPIは世界最大のポンプメーカーで、13カ国に23の生産拠点を持つ多国籍企業
- [10]WPIは1974年に経営陣が一新され現地法人に自主性を与える路線へ転じた。現地化を志向するWPIとは逆に、荏原は国際化を志向しつつあった
- 証券調査 (245) 1991年「荏原製作所」星野英彦
- [11]ポンプの需要先で比べた荏原の官需依存度は低下傾向ながら約35%。専業色の強い西島製作所・電業社機械製作所・粟村製作所は50〜65%
- [12]ポンプの需要先で比べた荏原の官需依存度は低下傾向ながら約35%。専業色の強い西島製作所・電業社機械製作所・粟村製作所は50〜65%
1976年11月、創業者畠山一清氏の次男で副社長の畠山清二氏が社長に就任した。海軍技術士官の出身で、ワンマンだった父とは違い、周りの意見を聞いて進めるという方針を示した。インドネシアでは、1974年初めに現地資本と組む合弁の計画を打ち出していた。その計画は1979年12月、東南アジア向け標準ポンプの生産拠点PT. Ebara Indonesiaとして形になった。1981年1月には北米のポンプ事業拠点として、米国にEbara International Corporationを設立した。1980年代後半に円高が進むと輸出比率は27%から7%へ低下し、海外の軸は合弁や買収を通じた低付加価値品の現地生産へ移った。輸出が細った後も海外の売上をつなげたのは、畠山清二氏の代に築いた現地の足場だったと思われる。
- 日経ビジネス 1977年7月18日号
- [13]畠山清二氏は故・畠山一清氏の次男で、1976年4月に代表取締役副社長、同年11月に社長に就任
- [14]海軍技術士官の出身。ワンマンだった父と異なり、皆の意見を聞いて経営すると語った
- 日経ビジネス 1976年7月19日号
- [15]1974年初めにインドネシアで現地資本とのジョイントベンチャー計画を打ち出した
- 荏原製作所 有価証券報告書 第161期(2025年12月期)【沿革】
- [16]1979年12月、東南アジアにおける標準ポンプの生産拠点としてインドネシアにPT. Ebara Indonesiaを設立
- [17]1981年1月、北米のポンプ事業拠点として米国にEbara International Corporationを設立
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [18]1980年代後半の円高不況で輸出採算が悪化し、輸出比率が27%から7%に急減
- 証券調査 (245) 1991年「荏原製作所」星野英彦
- [19]かつて東南アジア・中東向けに輸出比率30%近くの時期もあったが、円高等で合弁・買収を核とする海外拠点での低付加価値品の現地生産にシフト
参考文献[1]-[19]
- 荏原製作所 有価証券報告書 第161期(2025年12月期)【沿革】
- [1]1975年1月、戦後初の海外生産拠点としてブラジルにEbara Industrias Mecanicas e Comercio Ltda.を設立
- [5]1975年11月、袖ヶ浦工場を新設し、主にコンプレッサ及びタービンの製造を開始
- [16]1979年12月、東南アジアにおける標準ポンプの生産拠点としてインドネシアにPT. Ebara Indonesiaを設立
- [17]1981年1月、北米のポンプ事業拠点として米国にEbara International Corporationを設立
- 日経ビジネス 1976年7月19日号
- [2]藤沢工場の小型ポンプ生産能力は月3万台だが、石油危機以降は月2万台以下の水準にとどまった
- [3]荏原は輸出に力を入れておらず、1973年10月時点の輸出比率は4.8%
- [4]1974年後半から輸出に向け人材を優先投入し、1976年4月の機構改革で海外事業部を設置、専任の重役を置いた
- [7]杉山正一社長は荏原を「石橋をたたいても渡らない」と言われてきた慎重な会社と自認
- [8]戦後一貫して営業の基本を官公需に置き、大型ポンプの国内シェアは40%
- [9]WPIは世界最大のポンプメーカーで、13カ国に23の生産拠点を持つ多国籍企業
- [10]WPIは1974年に経営陣が一新され現地法人に自主性を与える路線へ転じた。現地化を志向するWPIとは逆に、荏原は国際化を志向しつつあった
- [15]1974年初めにインドネシアで現地資本とのジョイントベンチャー計画を打ち出した
- 証券調査 (245) 1991年「荏原製作所」星野英彦
- [6]1975〜80年度は公共事業の伸びで年平均売上高成長率8.0%
- [11]ポンプの需要先で比べた荏原の官需依存度は低下傾向ながら約35%。専業色の強い西島製作所・電業社機械製作所・粟村製作所は50〜65%
- [12]ポンプの需要先で比べた荏原の官需依存度は低下傾向ながら約35%。専業色の強い西島製作所・電業社機械製作所・粟村製作所は50〜65%
- [19]かつて東南アジア・中東向けに輸出比率30%近くの時期もあったが、円高等で合弁・買収を核とする海外拠点での低付加価値品の現地生産にシフト
- 日経ビジネス 1977年7月18日号
- [13]畠山清二氏は故・畠山一清氏の次男で、1976年4月に代表取締役副社長、同年11月に社長に就任
- [14]海軍技術士官の出身。ワンマンだった父と異なり、皆の意見を聞いて経営すると語った
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [18]1980年代後半の円高不況で輸出採算が悪化し、輸出比率が27%から7%に急減
1985年〜藤沢の精密機械工場で始めた半導体向け真空ポンプと、藤村宏幸社長
1987年7月、荏原製作所は藤沢工場の中に精密機械工場を建て、半導体産業向けの真空機器の生産を始め、最初の精密工場に20億円を投じた。需要を生んだのは半導体の高集積化で、256Kの世代からウエハーの加工が湿式から乾式へ移り、真空ポンプが多く使われるようになった。荏原の多段式ドライ真空ポンプは価格こそ高かったが、油回転ポンプからの置き換えを取り込んだ。工場はその後第2、第3工場へと広がり、真空機器の売上高は1991年3月期に100億円を超える見込みとなった。1991年度に始まったACT'95でも、半導体製造装置は新分野の一角に数えられた。水を送る羽根車で培った流体の技術が、気体を引き出す機械へそのまま転用できたと推察される。
- 荏原製作所 有価証券報告書 第161期(2025年12月期)【沿革】
- [20]1987年7月、藤沢工場内に精密機械工場を建設し、半導体産業向け真空機器の生産を開始
- 証券調査 (245) 1991年「荏原製作所」星野英彦
- [21]真空機器は藤沢に20億円を投じた第一精密工場の完成から始まった
- [22]半導体製造工程で真空ポンプが多用されるようになったのは256K以降、ウエハーのウエットプロセスがドライプロセスに変わってから
- [23]荏原の多段式ドライ真空ポンプは油回転ポンプからの移行(値段は高い)と新規需要で需要が急速に高まった
- [24]第2工場を経て第3工場を建設中、真空機器の売上高は1991年3月期に100億円超の見込み
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [25]中長期経営計画ACT'95の売上構成で「新分野」に電子線排煙脱硫・脱硝装置と半導体製造装置を置いた
1988年、創業家の畠山清二氏に代わり、藤村宏幸氏が社長に就任した。藤村宏幸氏は1983年、川崎工場長として工場の閉鎖にあたり、1,400人の従業員のうち800人を他の工場へ、600人を他の職場や子会社へ移した。社長に就任すると、企業理念の「水と空気」に続けて「環境」の語を加えた。同じころの中期経営計画は、売上高を1988年度の1,706億円から1992年度に2,500億円まで引き上げる目標を掲げた。長く例外扱いだった中途採用も1989年に解禁し、年に30人強を迎え入れた。こうした判断の根には、希望退職を出さずに乗り切った過去の経験があり、『新たな成長事業を生み出すのが経営者の最大の責任』という考えはそこから育ったという。
- 日経ビジネス 2000年1月24日号
- [26]藤村宏幸氏は1988年に社長に就任
- [27]1983年、工場長として川崎工場の閉鎖に直面。従業員1400人のうち800人を他工場、600人を他の職場や子会社に移した
- [31]希望退職はせずに済んだ。この苦い経験から新たな成長事業を生み出すことを経営者の責任と考えた
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [28]藤村社長は1988年の就任後、企業理念「水と空気の明日を考える」に「環境」を加えた
- [30]原則行わなかった中途採用を1989年から開始し、毎年30人強を採用
- 証券調査 (245) 1991年「荏原製作所」星野英彦
- [29]中期経営計画は1988年度売上高1,706億円に対し1992年度2,500億円を想定
参考文献[20]-[31]
- 荏原製作所 有価証券報告書 第161期(2025年12月期)【沿革】
- [20]1987年7月、藤沢工場内に精密機械工場を建設し、半導体産業向け真空機器の生産を開始
- 証券調査 (245) 1991年「荏原製作所」星野英彦
- [21]真空機器は藤沢に20億円を投じた第一精密工場の完成から始まった
- [22]半導体製造工程で真空ポンプが多用されるようになったのは256K以降、ウエハーのウエットプロセスがドライプロセスに変わってから
- [23]荏原の多段式ドライ真空ポンプは油回転ポンプからの移行(値段は高い)と新規需要で需要が急速に高まった
- [24]第2工場を経て第3工場を建設中、真空機器の売上高は1991年3月期に100億円超の見込み
- [29]中期経営計画は1988年度売上高1,706億円に対し1992年度2,500億円を想定
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [25]中長期経営計画ACT'95の売上構成で「新分野」に電子線排煙脱硫・脱硝装置と半導体製造装置を置いた
- [28]藤村社長は1988年の就任後、企業理念「水と空気の明日を考える」に「環境」を加えた
- [30]原則行わなかった中途採用を1989年から開始し、毎年30人強を採用
- 日経ビジネス 2000年1月24日号
- [26]藤村宏幸氏は1988年に社長に就任
- [27]1983年、工場長として川崎工場の閉鎖に直面。従業員1400人のうち800人を他工場、600人を他の職場や子会社に移した
- [31]希望退職はせずに済んだ。この苦い経験から新たな成長事業を生み出すことを経営者の責任と考えた
1991年〜脱ポンプを掲げたACT'95と、電子線の排煙脱硫・荏原インフィルコ合併
荏原製作所は1991年度に始めた中長期経営計画「ACT'95」で、ポンプを主力とする風水力事業の売上高比率を53%まで下げる目標を立てた。目標の売上高4,200億円のうち、風水力以外の47%・約2,000億円の中心に環境事業を置いた。環境事業そのものの売上は、500億円程度から1,000億円へ引き上げる計画だった。藤村宏幸社長は、ポンプ事業について『ポンプ事業の成長性・将来性を分析した結果、それだけに頼っていてはいずれは収益力が低下すると判断した』と語った。ポンプの生産は1975〜90年に年率4〜5%しか伸びず、需要と技術の両面で成熟していた。80年代後半に売上高に占める官公需の比率が5割になると、研究開発が既存技術の手直しに偏る懸念が強まった。環境事業のうちごみ処理プラントは、1989年度に受注220億円で業界首位に立っていた。
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [32]1991年度開始のACT'95で、ポンプを主力とする風水力事業の売上高比率を53%まで落とす目標
- [33]1996年3月期までに売上高を4200億円に拡大し、残り47%・約2000億円の核は環境事業。現在500億円程度の売上を1000億円に伸ばす
- [34]1996年3月期までに売上高を4200億円に拡大し、残り47%・約2000億円の核は環境事業。現在500億円程度の売上を1000億円に伸ばす
- [35]藤村社長はポンプ事業の成長性・将来性を分析し、それだけでは収益力が低下すると判断した
- [37]1980年代後半に売上高に占める官公需比率が5割になったころから、研究開発が既存技術の改良に終始しがちとの懸念が社内で強まった
- 証券調査 (245) 1991年「荏原製作所」星野英彦
- [36]ポンプの生産は1975〜90年に年率約4〜5%の伸びで、需要・技術の両面で成熟期に入っていた
- [38]ごみ処理プラントの前年度(1989年度)受注は220億円、5カ所・1,225tで初めて業界トップシェア
環境事業の中核技術に荏原製作所が選んだのは、電子線を排煙に当てて硫黄酸化物と窒素酸化物を同時に取り除くEBA法だった。排水処理の設備も高価な触媒も要らず、建設費と運転費を10〜30%減らせる点を売りにした。1970年代から日本原子力研究所と共同研究を続け、1992年11月に中部電力の新名古屋火力発電所で実証を始め、1995年の商品化を予定した。米国政府は1991年3月に2000年までのSOx排出半減を打ち出し、年2,000億〜3,000億円の市場が見込まれた。国内は三菱重工業など大手4社が6〜7割を握り、荏原のシェアはゼロに近かった。1992年8月には、中国の青島にボイラなど製缶品の生産拠点として青島荏原環境設備有限公司を設けた。
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [39]電子線排煙脱硫・脱硝(EBA法)は電子ビームをSOx・NOxに照射して硫安・硝安の粉末で回収し、同時処理できる
- [40]排水処理設備・触媒が不要で、プラント建設費と運転コストを10〜30%削減できる
- [41]1970年代から日本原子力研究所と共同研究。1992年11月に中部電力新名古屋火力発電所で実証データの取得を始め、1995年に商品化予定
- [42]米国政府は1991年3月にSOx排出量を2000年までに半減する方針を打ち出し、年間2000億〜3000億円の市場が生まれるとみられた
- [43]国内市場は三菱重工業・住友重機械工業・川崎重工業・石川島播磨重工業の4社が6〜7割を握り、荏原のシェアはゼロに近い
- 荏原製作所 有価証券報告書 第161期(2025年12月期)【沿革】
- [44]1992年8月、各種ボイラ等製缶品の生産拠点として中国に青島荏原環境設備有限公司を設立
1996年6月、環境プラント部門を長く担当した専務の前田滋氏が社長に就任し、藤村宏幸氏は会長となった。前田滋社長は拡大の中で膨らんだ新規事業について『収益性を見極め、刈り取るべきところは刈り取る』という姿勢を示した。業績は1996年3月期まで9期連続の増収と、11期連続の経常増益を記録していた。前田滋氏が担った環境事業は、1992年時点では子会社と分担して営んでいた。1990年4月に設けた環境事業本部も、グループを統括しきれていなかった。そこで1994年10月、荏原製作所は水処理の子会社だった荏原インフィルコを吸収合併した。合併で従業員は5,000人、売上高は4,000億円規模となった。ごみ処理や水処理を一つのシステムとして売るには、子会社との分業では受注の窓口がまとまらないと考えたのだろう。
- 日経ビジネス 1997年1月13日号
- [45]前田滋氏は後発の環境プラント部門を長く担当し、1994年6月専務を経て1996年6月社長に就任。藤村宏幸氏は会長
- [46]拡大戦略で膨らんだ新規事業について、収益性を見極めて刈り取るべきところは刈り取る考え
- [47]1996年3月期まで9期連続増収、11期連続経常増益
- [51]1994年に水処理大手の荏原インフィルコを合併し、従業員5000人・売上高4000億円規模の会社になった
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [48]水処理など一部の環境事業は荏原インフィルコ・荏原実業などの子会社と分担。1990年4月に環境事業本部を新設したが強力な指導力を発揮するには至っていない
- [49]水処理など一部の環境事業は荏原インフィルコ・荏原実業などの子会社と分担。1990年4月に環境事業本部を新設したが強力な指導力を発揮するには至っていない
- 荏原製作所 有価証券報告書 第161期(2025年12月期)【沿革】
- [50]1994年10月、荏原インフィルコ株式会社を吸収合併
参考文献[32]-[51]
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [32]1991年度開始のACT'95で、ポンプを主力とする風水力事業の売上高比率を53%まで落とす目標
- [33]1996年3月期までに売上高を4200億円に拡大し、残り47%・約2000億円の核は環境事業。現在500億円程度の売上を1000億円に伸ばす
- [34]1996年3月期までに売上高を4200億円に拡大し、残り47%・約2000億円の核は環境事業。現在500億円程度の売上を1000億円に伸ばす
- [35]藤村社長はポンプ事業の成長性・将来性を分析し、それだけでは収益力が低下すると判断した
- [37]1980年代後半に売上高に占める官公需比率が5割になったころから、研究開発が既存技術の改良に終始しがちとの懸念が社内で強まった
- [39]電子線排煙脱硫・脱硝(EBA法)は電子ビームをSOx・NOxに照射して硫安・硝安の粉末で回収し、同時処理できる
- [40]排水処理設備・触媒が不要で、プラント建設費と運転コストを10〜30%削減できる
- [41]1970年代から日本原子力研究所と共同研究。1992年11月に中部電力新名古屋火力発電所で実証データの取得を始め、1995年に商品化予定
- [42]米国政府は1991年3月にSOx排出量を2000年までに半減する方針を打ち出し、年間2000億〜3000億円の市場が生まれるとみられた
- [43]国内市場は三菱重工業・住友重機械工業・川崎重工業・石川島播磨重工業の4社が6〜7割を握り、荏原のシェアはゼロに近い
- [48]水処理など一部の環境事業は荏原インフィルコ・荏原実業などの子会社と分担。1990年4月に環境事業本部を新設したが強力な指導力を発揮するには至っていない
- [49]水処理など一部の環境事業は荏原インフィルコ・荏原実業などの子会社と分担。1990年4月に環境事業本部を新設したが強力な指導力を発揮するには至っていない
- 証券調査 (245) 1991年「荏原製作所」星野英彦
- [36]ポンプの生産は1975〜90年に年率約4〜5%の伸びで、需要・技術の両面で成熟期に入っていた
- [38]ごみ処理プラントの前年度(1989年度)受注は220億円、5カ所・1,225tで初めて業界トップシェア
- 荏原製作所 有価証券報告書 第161期(2025年12月期)【沿革】
- [44]1992年8月、各種ボイラ等製缶品の生産拠点として中国に青島荏原環境設備有限公司を設立
- [50]1994年10月、荏原インフィルコ株式会社を吸収合併
- 日経ビジネス 1997年1月13日号
- [45]前田滋氏は後発の環境プラント部門を長く担当し、1994年6月専務を経て1996年6月社長に就任。藤村宏幸氏は会長
- [46]拡大戦略で膨らんだ新規事業について、収益性を見極めて刈り取るべきところは刈り取る考え
- [47]1996年3月期まで9期連続増収、11期連続経常増益
- [51]1994年に水処理大手の荏原インフィルコを合併し、従業員5000人・売上高4000億円規模の会社になった
1975年〜1998年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1975年04月期 | 単体 | 938 | n/a | 59 | 29 | 3.1% | n/a |
| 1976年04月期 | 単体 | 929 | ▲1.0% | 67 | 31 | 3.3% | n/a |
| 1977年04月期 | 単体 | 951 | +2.4% | 57 | 27 | 2.8% | n/a |
| 1978年04月期 | 単体 | 1,028 | +8.1% | 54 | 26 | 2.5% | n/a |
| 1979年04月期 | 単体 | 1,169 | +13.7% | 62 | 28 | 2.4% | n/a |
| 1980年04月期 | 単体 | 1,266 | +8.3% | 73 | 36 | 2.8% | n/a |
| 1981年04月期 | 単体 | 1,362 | +7.6% | 78 | 39 | 2.9% | n/a |
| 1982年04月期 | 単体 | 1,516 | +11.3% | 88 | 45 | 3.0% | n/a |
| 1983年04月期 | 単体 | 1,515 | ▲0.1% | 53 | 28 | 1.8% | n/a |
| 1984年04月期 | 単体 | 1,525 | +0.7% | 56 | 28 | 1.8% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 3,791 | n/a | n/a | 72 | 1.9% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 4,138 | +9.2% | n/a | 38 | 0.9% | n/a |
| 1994年03月期 | 連結 | 4,408 | +6.5% | n/a | 99 | 2.2% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 4,676 | +6.1% | n/a | 54 | 1.2% | n/a |
| 1996年03月期 | 連結 | 4,909 | +5.0% | n/a | 80 | 1.6% | n/a |
| 1997年03月期 | 連結 | 5,410 | +10.2% | n/a | 98 | 1.8% | n/a |
| 1998年03月期 | 連結 | 5,685 | +5.1% | n/a | 103 | 1.8% | n/a |
出所:会社年鑑(1976年版、1986年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
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- 荏原製作所 有価証券報告書 第161期(2025年12月期)【沿革】
- 日経ビジネス 1976年7月19日号
- 日経ビジネス 1977年7月18日号
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- 日経ビジネス 1997年1月13日号
- 日経ビジネス 2000年1月24日号
- 証券調査 (245) 1991年「荏原製作所」星野英彦