第1章 年〜年

ワコールホールディングス:塚本幸一の和江商事創業とワコールへの商号変更

1946年〜復員から3年、資本金100万円で始めたブラジャー

1920年9月17日に滋賀県で生まれた塚本幸一氏は、1938年に滋賀県立八幡商業学校を出た。陸軍への召集は1940年12月、20歳のときである。中国からビルマへと転戦し、インパール作戦に加わった小隊は55人を数えたが、生還者は3人しかおらず、塚本幸一氏はその1人となった。1946年に復員すると、実家の繊維卸商の手伝いで身につけた商いの勘を頼りに婦人用装身具を売り始め、3カ月間は1日の休みもなく働いた。京都の自宅を拠点に婦人洋装装身具の卸商・和江商事を個人で起こしたのは、同年6月15日のことである。当時25歳、リュックサック一つの商売だった。

  • 日経ビジネス 1998年6月22日号
    • [1]塚本幸一は1920年9月17日滋賀県生まれ、1940年12月に20歳で陸軍へ召集された
    • [3]中国・ビルマなどを転戦し、インパール作戦では55人いた小隊のうち生還したのは本人を含め3人だった
    • [4]1946年に復員後、家業の繊維卸商の手伝いで身についた商売から婦人物の装身具の販売を手がけ、復員から3カ月は1日も休まず働いた
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [2]1938年に滋賀県立八幡商業学校を卒業し応召した
    • [6]創業当時25歳、リュックサック一つの商売だった
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1946年6月15日、塚本幸一が復員後に婦人洋装装身具の卸商として和江商事を京都の自宅で創業した

復員から3年後、塚本幸一氏はブラ・パッドという商品と出合った。その扱いを広げるなかで、米国の雑誌でその存在を初めて知ったブラジャーについても、手本のないまま独自に試作を重ねている。1949年11月1日、学生時代の友人らとともに資本金100万円・従業員10名で和江商事株式会社を創立した。同じ年にブラパットを発売し、卸商から洋装下着メーカーへと業態を移している。1946年6月の個人商店開業を創業、1949年11月の株式会社設立を創立と呼び分けている。周年行事が数えるのは後者で、1979年に創立30周年を迎え、同じ年に創立以来30年連続の増収増益を記録した。創立時の10名のうち、病死者と結婚退職者を除く8人が1975年になっても会社に残っていた。

  • 日経ビジネス 1998年6月22日号
    • [7]復員から3年後にブラ・パッドと出合い、その拡販のため米国の雑誌を通して存在を知ったブラジャーを見よう見まねで試作した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 日経ビジネス 1998年6月22日号「「個人商店」貫いて、塚本幸一会長逝く 女性用下着のガリバー、ワコールの創業者、77歳で」
    • [8]1949年11月1日、和江商事株式会社を創立(資本金100万円・従業員10名)/学生時代の友人らと設立
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1949年に「ブラパット」を発売し洋装下着メーカーへ転換した
    • [10]1946年6月の個人創業と1949年11月1日の株式会社創立
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [11]1979年に創立30周年を迎え、1954年度(1979年8月期)で創立(1949年11月)以来30年間連続の増収増益を達成した
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [12]創立時のメンバーは病死者・結婚退職者を除き8人全員が1975年時点でも留まっている

10年刻みで1950年代を国内市場開拓期、1960年代を国内市場確立期、1970年代を海外市場開拓期、1980年代を海外市場確立期とし、1990年代を予備期間に充てる構成の50年計画を、塚本幸一社長は1950年の正月に打ち出した。同じ1950年、高島屋京都店での競合各社との1週間の競争販売では、社長自ら売り場を離れずに包装もレジも受け持ち、納入権を手にした。和江商事の商売が採算に乗ったのは、この店への納入が起点である。当時同店の仕入れ担当だった部長は、後になって、拒めば命に関わるのではと思うほどだったと打ち明けている。1952年には初の下着ショーを大阪の阪急デパートで開いた。

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [13]1950年に立てた「10年一節」の50年計画は、第1節1950年代を国内市場開拓期、第2節を国内市場確立期、第3節を海外市場開拓期、第4節を海外市場確立期、第5節を予備期間とする
    • [18]1952年、大阪・阪急デパートで初めての下着ショーを開催した
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号
    • [14]1950年の正月に塚本幸一が「50年計画」を掲げた
    • [15]1950年、高島屋京都店でライバル企業と競争で販売した1週間、売り場につきっきりで包装とレジ係をこなし、大差をつけて納入権を勝ち取った
    • [16]高島屋への納入をきっかけに和江商事の商売が軌道にのった
    • [17]当時の高島屋京都店の仕入れ担当部長は「断ったら殺されるのではないか」というほどの勢いを感じたと後に漏らした
参考文献[1]-[18]
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号
    • [1]塚本幸一は1920年9月17日滋賀県生まれ、1940年12月に20歳で陸軍へ召集された
    • [3]中国・ビルマなどを転戦し、インパール作戦では55人いた小隊のうち生還したのは本人を含め3人だった
    • [4]1946年に復員後、家業の繊維卸商の手伝いで身についた商売から婦人物の装身具の販売を手がけ、復員から3カ月は1日も休まず働いた
    • [7]復員から3年後にブラ・パッドと出合い、その拡販のため米国の雑誌を通して存在を知ったブラジャーを見よう見まねで試作した
    • [14]1950年の正月に塚本幸一が「50年計画」を掲げた
    • [15]1950年、高島屋京都店でライバル企業と競争で販売した1週間、売り場につきっきりで包装とレジ係をこなし、大差をつけて納入権を勝ち取った
    • [16]高島屋への納入をきっかけに和江商事の商売が軌道にのった
    • [17]当時の高島屋京都店の仕入れ担当部長は「断ったら殺されるのではないか」というほどの勢いを感じたと後に漏らした
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [2]1938年に滋賀県立八幡商業学校を卒業し応召した
    • [6]創業当時25歳、リュックサック一つの商売だった
    • [12]創立時のメンバーは病死者・結婚退職者を除き8人全員が1975年時点でも留まっている
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1946年6月15日、塚本幸一が復員後に婦人洋装装身具の卸商として和江商事を京都の自宅で創業した
    • [9]1949年に「ブラパット」を発売し洋装下着メーカーへ転換した
    • [10]1946年6月の個人創業と1949年11月1日の株式会社創立
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 日経ビジネス 1998年6月22日号「「個人商店」貫いて、塚本幸一会長逝く 女性用下着のガリバー、ワコールの創業者、77歳で」
    • [8]1949年11月1日、和江商事株式会社を創立(資本金100万円・従業員10名)/学生時代の友人らと設立
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [11]1979年に創立30周年を迎え、1954年度(1979年8月期)で創立(1949年11月)以来30年間連続の増収増益を達成した
    • [13]1950年に立てた「10年一節」の50年計画は、第1節1950年代を国内市場開拓期、第2節を国内市場確立期、第3節を海外市場開拓期、第4節を海外市場確立期、第5節を予備期間とする
    • [18]1952年、大阪・阪急デパートで初めての下着ショーを開催した

1951年〜繊維業ではなく装身具工業という自己規定と、安売りの拒否

和江商事は、仕入れた品を売る卸商から自ら縫う会社へ移った。1951年6月、本社を京都市中京区室町通姉小路上ルへ移し、工場を開設して自家製造に着手。販路の側では1951年に大阪、1952年に東京へ出張所を開設した。工場は1955年の下鴨分工場、1956年の北野工場、1957年の西大路工場と増え、1963年には京都市南区に本社工場が完成する。1957年11月、商号を和江商事株式会社からワコール株式会社へ改め、ブランド名と社名をそろえた。1959年11月には国内の縫製子会社として東海ワコール縫製を設立した。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [19]婦人洋装装身具の卸商として創業し、のちに自家製造を開始した
    • [21]1951年に大阪、1952年に東京に出張所を設けた
    • [22]1955年下鴨分工場、1956年北野工場、1957年西大路工場と設備を増強し、1963年に現在地(京都市南区吉祥院中島町)に本社工場を完成させた
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1951年6月、本社を京都市中京区室町通姉小路上ルに移転し工場を開設、自家製造に着手した
    • [23]1957年11月、和江商事株式会社からワコール株式会社へ商号変更した
    • [24]1959年11月、国内縫製子会社の東海ワコール縫製を設立した

ワコールは繊維を扱いながら自らを繊維業とみなさず、繊維を原材料とする装身具工業と規定し、ブランドを売ることに力を注いだ。社章の三ツ葉のクローバーは、三つの葉に創意・計画・自信を、中央の茎に相互信頼を割り当てたものである。ワコールのブランドは高級品として広く浸透した。売り先は百貨店を軸に据え、1968年時点で全国約160軒のデパートと直接取引し、市場占有率は約50%を占めた。約1300軒の小売店にも直売し、全体の90%を自社から直接卸して、残り10%程度を地方問屋に回した。同じ1968年、資本金は5億円、従業員は2299名を数えた。商品の側では、昭和30年代のうちから妊婦用として前開きのブラジャーを手がけていた。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [25]「繊維を扱うが繊維業でなく繊維を原材料とする装身具工業である」との考えのもとブランドを売ることに注力した
    • [26]社章は三ツ葉のクローバーで、三ツ葉はそれぞれ創意・計画・自信を表わし、中央の茎は相互信頼を意味する
    • [27]ワコールのブランドは高級品のイメージのもと広く浸透した
    • [28]1968年時点で全国約160軒のデパートと直接取引し、市場占有率は約50%
    • [29]約1300軒の小売店にも直売し、全体の90%が直接同社から卸、残り10%程度を地方問屋に卸していた
    • [30]1968年時点の資本金5億円、従業員2299名
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [31]フロント・ホック・ブラ(前開きブラジャー)は昭和30年代から妊婦用として発売されていた

暮らしの欧風化に伴ってランジェリーやファンデーションガーメント類の需要が急伸し、ワコールの事業も拡大した。安値で量販店に流せば築いてきた基盤は2〜3年後には崩れる、と塚本幸一社長は見ていた。そのため1960年代前半に量販店が現金を持って買い付けに来ても、一切応じなかった。値引き販売は、売上高が目標に達しない局面でも認めなかった。原材料についても、半年から1年の契約で仕入れた品は横流しすればすぐ利益になる場面が何度もあったが、必ず全量を製品にし、ワコールの商標を付けて出荷した。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [32]生活様式の欧風化に伴いランジェリー、ファンデーションガーメント類の需要が急上昇を続け、事業も拡大した
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [33]量販店に安売りで流せば積み上げてきた土台が2〜3年後に全部崩れることを恐れた
    • [34]昭和30年代後半から40年代前半にかけて量販店がいっせいにキャッシュを持って買い付けに来た
    • [35]塚本幸一はその買い付けをいっさい断った
    • [36]売り上げが目標に達しなくても絶対に安売りはやらせなかった
    • [37]半年から1年の契約で仕入れた原材料を右から左に売れば簡単に利益が出る場面が何度もあったが、原材料を原材料として売る行為は一度もやらせず、必ず全部を商品化してワコールの商標で出した
参考文献[19]-[37]
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [19]婦人洋装装身具の卸商として創業し、のちに自家製造を開始した
    • [21]1951年に大阪、1952年に東京に出張所を設けた
    • [22]1955年下鴨分工場、1956年北野工場、1957年西大路工場と設備を増強し、1963年に現在地(京都市南区吉祥院中島町)に本社工場を完成させた
    • [25]「繊維を扱うが繊維業でなく繊維を原材料とする装身具工業である」との考えのもとブランドを売ることに注力した
    • [26]社章は三ツ葉のクローバーで、三ツ葉はそれぞれ創意・計画・自信を表わし、中央の茎は相互信頼を意味する
    • [27]ワコールのブランドは高級品のイメージのもと広く浸透した
    • [28]1968年時点で全国約160軒のデパートと直接取引し、市場占有率は約50%
    • [29]約1300軒の小売店にも直売し、全体の90%が直接同社から卸、残り10%程度を地方問屋に卸していた
    • [30]1968年時点の資本金5億円、従業員2299名
    • [32]生活様式の欧風化に伴いランジェリー、ファンデーションガーメント類の需要が急上昇を続け、事業も拡大した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1951年6月、本社を京都市中京区室町通姉小路上ルに移転し工場を開設、自家製造に着手した
    • [23]1957年11月、和江商事株式会社からワコール株式会社へ商号変更した
    • [24]1959年11月、国内縫製子会社の東海ワコール縫製を設立した
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [31]フロント・ホック・ブラ(前開きブラジャー)は昭和30年代から妊婦用として発売されていた
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [33]量販店に安売りで流せば積み上げてきた土台が2〜3年後に全部崩れることを恐れた
    • [34]昭和30年代後半から40年代前半にかけて量販店がいっせいにキャッシュを持って買い付けに来た
    • [35]塚本幸一はその買い付けをいっさい断った
    • [36]売り上げが目標に達しなくても絶対に安売りはやらせなかった
    • [37]半年から1年の契約で仕入れた原材料を右から左に売れば簡単に利益が出る場面が何度もあったが、原材料を原材料として売る行為は一度もやらせず、必ず全部を商品化してワコールの商標で出した

1958年〜スト寸前から組合要求100%受諾へ、浅草橋の製品研究部

1958年に労働組合ができたワコールでは、1962年にストライキ直前まで事態がこじれた。ストはいったん避けられたが、塚本幸一社長は悩み抜いてやせ衰え、死ぬのではないかと思うほどだった。1962年7月23日、出光佐三氏の講演をたまたま耳にし、人間尊重を説くその経営哲学によって迷いは消えた。社員の大半は急成長のさなかに入ってきた人たちなのに、社長は創業期と同じ感覚で、自分の思いは伝わっていると決め込んでいた。思いを届けるどころか遠ざける振る舞いばかりしていた、と社長は自省している。

  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [38]ワコールに組合ができたのは1958年、1962年にスト寸前までいった
    • [39]ストを一時回避したものの悩み抜いてげっそり痩せ、このまま死ぬのではないかと思うほどだった
    • [40]1962年7月23日、出光佐三の講演を初めて聞く機会があった
    • [41]人間尊重の経営哲学に触れてそれまでの迷いがさめた
    • [42]創業当時と同じ気分で社員は自分の気持ちを分かってくれていると思い込んでいたが、社員の大半は途中の急成長期に入社していた
    • [43]社員をわからせるどころか向こうへ押しやるようなことばかりやっていた、と塚本幸一が述懐した

塚本幸一社長は、組合の要求を100%受け入れ、遅刻・早退・私用外出をすべて社員の自由とし、タイムレコーダーを廃止し、工場の日給月給制を全部月給制へ改める案を役員会に諮った。役員は全員が反対し、そんなことをすれば会社は潰れると答えた。塚本幸一社長は会社の解散を決意した。社長がそこまで言うならと、役員は改革を引き受けた。実行までの2カ月間、当時1400〜1500人の社員を10〜15人のグループに分けて集め、塚本幸一社長自身が直接考え方を伝えて回った。同じ年の年末要求では、従来方式に戻すよう頼みに自宅を訪ねた組合委員長を追い返し、組合が出してきた高い要求にそのまま判を押した。

  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [44]組合の要求を100%きく、遅刻・早退・私用外出を社員の自由にする、タイムレコーダーを廃止する、工場の日給月給制を全部月給制にする、という改革を役員会にはかった
    • [45]役員は全員が大反対し、そんなことをしたら会社は潰れると答えた
    • [46]塚本幸一は会社を解散する決心をした
    • [47]社長がそこまで言うならと役員たちは改革をやる気になった
    • [48]実行に移すまでの2カ月間、当時1400〜1500人の社員を10〜15人のグループに分けて集め、塚本幸一自身が直接考え方を話した
    • [49]年末要求の際、従来方式でと頼みに自宅を訪ねた組合委員長を追い返し、出てきた高い要求にそのまま判を押した

1964年6月、ワコール株式会社は株式会社ワコールへ商号を変更し、同じ月にワコール販売株式会社を吸収した。同年9月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第二部、および京都証券取引所に上場。女性の体型を自ら測って商品に反映させるため、同じ1964年、東京・浅草橋に製品研究部を置き、人間工学に基づく体型計測研究を始めた。以後、18歳から50歳の女性の人体を毎年計測し、1980年までの15年間続けた。役員と従業員の賛同を得て賞与と配当をプールし、毎年増資に充てる方式は、1965年まで16年間続いた。体型計測の蓄積は商品にも表れ、1965年に売り出したタミーガードルは1967年に国際特許として米国で登録された。創業から20年余りを経て、ワコールは女性の体の寸法を自ら測り、その数値で商品の形を決める会社になっていた。

  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [50]1964年6月、ワコール株式会社から株式会社ワコールへ商号変更/1964年6月にワコール販売を吸収した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1964年9月、東京・大阪証券取引所市場第二部および京都証券取引所に上場した
    • [52]1964年、東京・浅草橋に製品研究部を設置し人間工学に基づく体型計測研究を開始した
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [53]1980年時点で過去15年間にわたり毎年18〜50歳の女性の人体を計測し、人間工学の手法でプロポーション・人体研究を進めてきた
    • [55]タミーガードルは昭和40年(1965年)に売り出した商品である
    • [56]1967年、国際特許タミーガードルを米国で登録した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [54]役員・従業員の賛同を得て賞与金額と配当金をプールし、毎年増資を1965年まで16年間続けた
参考文献[38]-[56]
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [38]ワコールに組合ができたのは1958年、1962年にスト寸前までいった
    • [39]ストを一時回避したものの悩み抜いてげっそり痩せ、このまま死ぬのではないかと思うほどだった
    • [40]1962年7月23日、出光佐三の講演を初めて聞く機会があった
    • [41]人間尊重の経営哲学に触れてそれまでの迷いがさめた
    • [42]創業当時と同じ気分で社員は自分の気持ちを分かってくれていると思い込んでいたが、社員の大半は途中の急成長期に入社していた
    • [43]社員をわからせるどころか向こうへ押しやるようなことばかりやっていた、と塚本幸一が述懐した
    • [44]組合の要求を100%きく、遅刻・早退・私用外出を社員の自由にする、タイムレコーダーを廃止する、工場の日給月給制を全部月給制にする、という改革を役員会にはかった
    • [45]役員は全員が大反対し、そんなことをしたら会社は潰れると答えた
    • [46]塚本幸一は会社を解散する決心をした
    • [47]社長がそこまで言うならと役員たちは改革をやる気になった
    • [48]実行に移すまでの2カ月間、当時1400〜1500人の社員を10〜15人のグループに分けて集め、塚本幸一自身が直接考え方を話した
    • [49]年末要求の際、従来方式でと頼みに自宅を訪ねた組合委員長を追い返し、出てきた高い要求にそのまま判を押した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [50]1964年6月、ワコール株式会社から株式会社ワコールへ商号変更/1964年6月にワコール販売を吸収した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1964年9月、東京・大阪証券取引所市場第二部および京都証券取引所に上場した
    • [52]1964年、東京・浅草橋に製品研究部を設置し人間工学に基づく体型計測研究を開始した
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [53]1980年時点で過去15年間にわたり毎年18〜50歳の女性の人体を計測し、人間工学の手法でプロポーション・人体研究を進めてきた
    • [55]タミーガードルは昭和40年(1965年)に売り出した商品である
    • [56]1967年、国際特許タミーガードルを米国で登録した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [54]役員・従業員の賛同を得て賞与金額と配当金をプールし、毎年増資を1965年まで16年間続けた

筆者考察

ワコールの創業期を貫いているのは、値段を自分で決め続けるという一点である。復員した塚本幸一が選んだのは、当時の日本にまだ市場のない婦人の装身具だった。市場がなければ相場もなく、値段は作り手が決めるほかない。1950年に掲げた10年一節の50年計画も、1957年の社名変更も、1963年の本社工場も、その値段を支える裏づけを一つずつ積む作業である。繊維を扱いながら自らを繊維業と呼ばず、繊維を原材料とする装身具工業と規定したのは、原材料の相場に値段を握られる立場から降りるという宣言であった。1968年に全国160軒の百貨店と直接取引し、市場の半分を占めるに至ったのは、その延長にある。

1962年に組合の要求を100%のむと決めた判断も、同じ線の上にある。急成長の途中で入社した社員の大半にとって、創業者の気分は共有されていない。タイムレコーダーを外し、遅刻も早退も社員の自由とした改革は、監視で品質を保つのをやめ、社員の判断に品質を委ねるという選択だった。高級品の値段は、縫い目の一本ずつが支える。1964年に浅草橋へ製品研究部を置き、18歳から50歳の女性の体を毎年測り始めたのは、その値段の根拠を寸法という数値で持つためである。量販店が現金を積んで買い付けに来ても塚本幸一が断り続けられたのは、断っても崩れない裏づけを社内に備えていたからであった。

出典・参考

7件
出典・参考
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 日経ビジネス 1998年6月22日号「「個人商店」貫いて、塚本幸一会長逝く 女性用下着のガリバー、ワコールの創業者、77歳で」
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号

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