第2章 年〜年

ワコールホールディングス:オルガ株の取得と70億円の出荷調整

1970年〜人手に頼る縫製を東南アジアへ移転した合弁3社

1950年に立てた10年一節の50年計画は、1970年代を海外市場開拓期と定めていた。ワコールは1970年8月、韓国・タイ・台湾に合弁会社を相次いで設立し、海外展開に着手した。国内で人手不足が深まれば、機械化が難しく人の手に頼る縫製業はいずれ日本では成り立たなくなる、という見通しがあった。韓国の和江繊維への出資は49%、タイ・ワコールは49%、台湾ワコールは50%である。タイでの合弁相手、総合雑貨商サハ・パタナピブンが提携を持ちかけてきたのは1968年である。塚本幸一社長は現地に出向いて同社首脳と会い、事業家としての力量を評価した。それでも実現が認められたのは、国内市場確立期が明けた1970年代になってからだった。

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [1]「10年一節」の50年計画では第3節の1970年代を海外市場開拓期、第4節の1980年代を海外市場確立期とした
    • [4]1970年に和江繊維(韓国)へ49%、タイワコールへ49%、台湾ワコールへ50%を出資して設立した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1970年8月、韓国・タイ・台湾に合弁会社を設立し海外展開に着手した
  • 日経ビジネス 1975年3月3日号
    • [3]1970年代以降は国内の労働力不足が深刻になり、機械化できず人手に頼らざるをえない縫製業は早晩日本ではやっていけないという事情があった
    • [5]1968年にサハ・パタナピブンがワコールへ提携を申し込み、塚本幸一もタイを訪れてサハ社グループ首脳に会い「企業家が多い。これならやっていける」と判断した
    • [6]当時はまだ国内市場確立期にあったため、1970年代に入るまで待ってもらった

タイ・ワコールは、日本から製品を輸出して市場を育ててから現地生産へ移るという順序を踏まなかった。1970年に資本金400万バーツで設立し、いきなり現地生産と市場づくりを同時に始めている。当初30台だったミシンは1975年初めに550台へ増え、従業員560人に対して日本人スタッフは2人だけだった。現地責任者の深沢幹弘副社長はタイ語で社員と意思を通わせ、タイ人社員と食事をともにし同じ車で帰った。1974年の売上高は6000万バーツで前年の2.4倍、輸出比率は1973年の20%から40%へ広がり、1973年からは10%の配当も始めた。狙ったのは、欧米からの輸入品ほど高くなく、現地製品ほど安くない中間の客層である。

  • 日経ビジネス 1975年3月3日号
    • [7]ワコールはタイ・ワコール設立まで製品をタイへ輸出しておらず、いきなり現地生産を始めて市場づくりに取り組んだ
    • [8]1970年に資本金400万バーツでタイ・ワコールを設立しタイ市場へ進出した
    • [9]当初30台だったミシンは550台に増え、社員560人に対し日本人スタッフは2人だった
    • [10]深沢幹弘副社長と社員の共通言語はタイ語で、タイ人社員と一緒に食事をし同じ車で帰った
    • [11]1974年1〜12月の売上高は6000万バーツで前年の2.4倍、輸出比率は1973年の20%から40%へ拡大し、1973年から10%の配当を開始した
    • [12]欧米からの輸入品ほど高くなく、ローカル製品ほど安くない中間の客層をねらっていた

1971年1月、ワコールは東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ指定替えとなった。1973年には海外戦略の行動部隊としてワコールインターナショナルを設立し、東南アジアの合弁会社から製品を輸入して、量販店向けの中級婦人下着をウイングのブランドで売り始めた。百貨店と専門店を通る高級品のワコールブランドに対し、売り先も価格帯も分ける建て方である。ウイングは設立から7年で75億円を売り上げ、1980年度には年商110億円に達する勢いを示した。1960年代前半に量販店の現金買い付けをいっさい断った判断は、10年を経て、同じ需要を別会社と別ブランドで受け直す体制へ組み替えられた。

  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1971年1月、東京・大阪証券取引所市場第一部に指定上場した
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [14]1973年にワコールインターナショナル(WIC)を設立し、東南アジアの合弁会社から製品を輸入して「ウイング」ブランドで量販店向けの中級婦人下着を販売した
    • [15]ワコールブランドは百貨店・専門店中心の高級品、ウイングブランドは量販店向けの中級品と位置づけられた
    • [16]ウイングブランドは設立後7年で75億円の売上高を上げ、1980年度の年商は当初見込みの100億円を上回り110億円に達する勢いだった
参考文献[1]-[16]
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [1]「10年一節」の50年計画では第3節の1970年代を海外市場開拓期、第4節の1980年代を海外市場確立期とした
    • [4]1970年に和江繊維(韓国)へ49%、タイワコールへ49%、台湾ワコールへ50%を出資して設立した
    • [14]1973年にワコールインターナショナル(WIC)を設立し、東南アジアの合弁会社から製品を輸入して「ウイング」ブランドで量販店向けの中級婦人下着を販売した
    • [15]ワコールブランドは百貨店・専門店中心の高級品、ウイングブランドは量販店向けの中級品と位置づけられた
    • [16]ウイングブランドは設立後7年で75億円の売上高を上げ、1980年度の年商は当初見込みの100億円を上回り110億円に達する勢いだった
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1970年8月、韓国・タイ・台湾に合弁会社を設立し海外展開に着手した
    • [13]1971年1月、東京・大阪証券取引所市場第一部に指定上場した
  • 日経ビジネス 1975年3月3日号
    • [3]1970年代以降は国内の労働力不足が深刻になり、機械化できず人手に頼らざるをえない縫製業は早晩日本ではやっていけないという事情があった
    • [5]1968年にサハ・パタナピブンがワコールへ提携を申し込み、塚本幸一もタイを訪れてサハ社グループ首脳に会い「企業家が多い。これならやっていける」と判断した
    • [6]当時はまだ国内市場確立期にあったため、1970年代に入るまで待ってもらった
    • [7]ワコールはタイ・ワコール設立まで製品をタイへ輸出しておらず、いきなり現地生産を始めて市場づくりに取り組んだ
    • [8]1970年に資本金400万バーツでタイ・ワコールを設立しタイ市場へ進出した
    • [9]当初30台だったミシンは550台に増え、社員560人に対し日本人スタッフは2人だった
    • [10]深沢幹弘副社長と社員の共通言語はタイ語で、タイ人社員と一緒に食事をし同じ車で帰った
    • [11]1974年1〜12月の売上高は6000万バーツで前年の2.4倍、輸出比率は1973年の20%から40%へ拡大し、1973年から10%の配当を開始した
    • [12]欧米からの輸入品ほど高くなく、ローカル製品ほど安くない中間の客層をねらっていた

1971年〜丸坊主と値上げ自粛、据え置きで消えた8億円

1971年、下着を着けないノーブラ運動の波が押し寄せ、ワコールの需要は低迷した。塚本幸一社長は自ら丸坊主になって社内を引き締めた。1972年の正月にも、経営は結果であるという式の利潤追求第一主義ではもはや駄目だと言い切り、突然頭を丸めている。当時のワコールは1973年8月期で売上高純利益率8%、自己資本比率45%という体質を備え、圧倒的に強いブランド力を持っていた。1974年は創立25周年にあたる節目でもあった。石油危機をきっかけに企業批判の嵐がわき起こるなか、ワコールは価格を動かさない側へ回る。売上高の伸びで会社を測る尺度を社長自身が先に降ろしたことが、翌年の価格判断の下地になった。

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [17]1971年(昭和46年)にノーブラ運動の波に襲われ需要が低迷した
    • [18]需要低迷時に塚本幸一社長自ら丸坊主になって社内を引き締め、高成長・高収益路線を守った
  • 日経ビジネス 1974年4月29日号
    • [19]1972年の正月に「経営は結果である式の利潤追求第一主義的な経営パターンではもはやダメ」と喝破して突然丸坊主頭になった
    • [20]1973年8月期決算で売上高純利益率8%、自己資本比率45%、圧倒的に強いブランド力を持っていた
    • [21]1974年に創立25周年を迎えたと塚本幸一が述べた
    • [22]石油危機をきっかけにして企業批判の嵐がわき起こった

財界4団体が1974年1月上旬に値上げの自粛を打ち出すと、塚本幸一社長はそれに応じ、ファンデーションやランジェリーを含む全製品の価格を動かさないと表明した。当初の条件だった春闘のベースアップ率20%以内は、その後の春闘の急変で撤回され、決算期末の8月末までは条件を付けずに値上げを見送ることになった。社長の試算では、例年なら下半期に19億円ほど出る税引き後利益が11億円程度まで縮み、据え置きで8億円ほどの利益を手放す勘定だった。石油危機の前の安値で主原料の70%を押さえてはいたが、副資材の高騰と人件費の重みはのしかかった。

  • 日経ビジネス 1974年4月29日号
    • [23]1974年1月上旬の財界4団体による値上げ自粛宣言に呼応し、塚本幸一社長がファンデーション・ランジェリーその他の全製品の価格据え置きを表明した
    • [24]当初は春闘のベースアップ率が20%を超えないという条件付きだったが、春闘情勢の激変を受けて条件を降ろし、8月まで無条件で値上げを見送る方針を決めた
    • [25]例年なら下半期は上半期の10〜20%増しで19億円程度の税引き後利益が期待できるところ、せいぜい11億円程度に終わると塚本幸一が述べた
    • [26]差し引き8億円程度の利益が価格据え置きによって吹っ飛ぶ勘定になった
    • [27]主原料の70%は石油危機前の安い価格で仕入れていたが、副資材の値上がりと人件費の負担をもろに受けた

ワコールはファンデーションで2位メーカーの2.5倍を売り、市場占有率も60%弱を握っていた。価格を据え置いた結果は、同業他社との差に現れた。他社は一斉に20%前後の値上げに動き、販売高が前年を割り込む不振に陥った。2位以下との差がさらに開く見込みが立ち、値上げを見送ったことで社員の意気が上がったという声も社内から上がった。その支えは、対照的な動きを見せたワコールのファンデーション販売高である。1973年9月から12月の伸び率は平均60%以上から30%程度に落ちたが、それでも前年の実績は上回り続けた。創立からの30年は、ピンチを好機に変えてきた歩みとして社内でまとめられ、その底には、世の中にピンチなど存在せず、それはピンチと受け取る自分の心の中にしかないという構えがあった。

  • 日経ビジネス 1974年4月29日号
    • [28]ファンデーションで2位メーカーの2.5倍の販売実績を持ち、市場シェアは60%弱だった
    • [29]価格据え置きによる同業他社との相対的価格差が、買い控え機運の中で安定した販売高の伸びを保証した
    • [30]据え置きで2位以下のメーカーとの差はさらに広がる見通しで、値上げ自粛で社員のモラールも高まっていると社長室が述べた
    • [31]他社が20%前後の値上げを実施して販売高で前年実績を割り込む中、1973年9月〜12月に平均60%以上で伸びていたワコールのファンデーション販売高は1974年に入って30%程度の伸びに落ちたが前年を上回った
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ワコール 海外市場を確立世界企業へ」
    • [32]「創立以来30年間、ピンチをチャンスにしてきたのがワコールの歴史でありました。世の中にピンチというものはありません。ただ、ピンチだと思う自分の心があるだけです」と塚本幸一が述べた
参考文献[17]-[32]
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [17]1971年(昭和46年)にノーブラ運動の波に襲われ需要が低迷した
    • [18]需要低迷時に塚本幸一社長自ら丸坊主になって社内を引き締め、高成長・高収益路線を守った
  • 日経ビジネス 1974年4月29日号
    • [19]1972年の正月に「経営は結果である式の利潤追求第一主義的な経営パターンではもはやダメ」と喝破して突然丸坊主頭になった
    • [20]1973年8月期決算で売上高純利益率8%、自己資本比率45%、圧倒的に強いブランド力を持っていた
    • [21]1974年に創立25周年を迎えたと塚本幸一が述べた
    • [22]石油危機をきっかけにして企業批判の嵐がわき起こった
    • [23]1974年1月上旬の財界4団体による値上げ自粛宣言に呼応し、塚本幸一社長がファンデーション・ランジェリーその他の全製品の価格据え置きを表明した
    • [24]当初は春闘のベースアップ率が20%を超えないという条件付きだったが、春闘情勢の激変を受けて条件を降ろし、8月まで無条件で値上げを見送る方針を決めた
    • [25]例年なら下半期は上半期の10〜20%増しで19億円程度の税引き後利益が期待できるところ、せいぜい11億円程度に終わると塚本幸一が述べた
    • [26]差し引き8億円程度の利益が価格据え置きによって吹っ飛ぶ勘定になった
    • [27]主原料の70%は石油危機前の安い価格で仕入れていたが、副資材の値上がりと人件費の負担をもろに受けた
    • [28]ファンデーションで2位メーカーの2.5倍の販売実績を持ち、市場シェアは60%弱だった
    • [29]価格据え置きによる同業他社との相対的価格差が、買い控え機運の中で安定した販売高の伸びを保証した
    • [30]据え置きで2位以下のメーカーとの差はさらに広がる見通しで、値上げ自粛で社員のモラールも高まっていると社長室が述べた
    • [31]他社が20%前後の値上げを実施して販売高で前年実績を割り込む中、1973年9月〜12月に平均60%以上で伸びていたワコールのファンデーション販売高は1974年に入って30%程度の伸びに落ちたが前年を上回った
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ワコール 海外市場を確立世界企業へ」
    • [32]「創立以来30年間、ピンチをチャンスにしてきたのがワコールの歴史でありました。世の中にピンチというものはありません。ただ、ピンチだと思う自分の心があるだけです」と塚本幸一が述べた

1977年〜10年前の後継指名、70億円の出荷調整、3ブランド作戦

1977年末から1979年11月にかけて2年がかりで進めたコーポレート・アイデンティティー運動は、30年の間に積もった馴れ合いとセクショナリズムの一掃を狙うものだった。これは、塚本幸一社長が1977年7月に突如として、10年後に社長を退き後継には長男の能交氏を推したいと宣言したことを受けた最初の取り組みで、以後の経営戦略は創業者のいない体制づくりに的を絞っていた。運動は社是・社歌・シンボルマークの見直しにまで及び、本社正面には創立30周年当時の社員約4300人の名を第二の創業社員として刻んだ碑が建てられた。1979年9月、塚本社長は中村伊一副社長を社長代行職に就け、自らは会長のような役割に専念すると表明した。1980年の年頭に全社員4500人へ示された総括は、これまでの30年が新たなスタートを切るための準備だったというものである。

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [33]1977年末から1979年11月まで2年がかりでコーポレート・アイデンティティー運動を展開し、30年間のうちにたまったもたれ合いやセクショナリズムを取り除き社員の意思統一をはかることを狙った
    • [34]1977年7月、塚本幸一が「ぼくは10年後に社長を退く。後継者としては長男の能交を推したい」と宣言した
    • [35]その時から塚本幸一の経営戦略はポスト創業者の対策に照準を定めた
    • [36]CI運動は社是・経営方針・社歌・シンボルマークの見直しにまで波及し、京都市南区の本社正面には創立30周年時点の社員約4300人の名を「第二の創業社員」として刻んだ碑が建てられた
    • [37]1979年9月、塚本幸一社長は総括担当の中村伊一副社長を社長代行職にして自らは会長的な役割に徹すると宣言した
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ワコール 海外市場を確立世界企業へ」
    • [38]1980年の年頭に4500人に及ぶ全社員へ「飛翔」を掲げ、これまでの30年間は新たなスタートをきるための準備であったと述べた

1978年の春以降、月末に集中する取引が続いていた。通常なら上旬3・中旬3・下旬4の比で流れる出荷が、下旬に7割ほど集まっていた。塚本幸一社長が調べさせると在庫は正常の倍にあたる4カ月分まで膨らんでおり、実態は押し込み販売だった。50億円の売上目標を修正しろと支店長へ指示し、4〜5カ月で70億円近い出荷調整と生産調整を断行した。過去10年は平均27%の増収を重ねる売上至上主義だったが、1978年度はそこから利益重視へ転じる節目となった。前開きのフロント・ホック・ブラの健闘もあって、この年度の売上高は前期比2.5%増、経常利益は8.1%増だった。高くても買いたいと思わせる品を作れ、ただしそう思わせても値が高すぎれば商売にならない。塚本幸一社長は部下にそう繰り返し説いていたという。

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [39]1978年(昭和53年)の春以来、月末集中型の取引が続いた
    • [40]普通なら上旬3・中旬3・下旬4の比率のところ、下旬に7割ほど集中していた
    • [41]在庫が正常の倍の4カ月分もたまっており、ひどい押し込み販売だった
    • [42]50億円の売上目標を修正しろと支店長に指示し、4〜5カ月で70億円近い出荷調整・生産調整を断行した
    • [43]在庫調整で押し込み販売のウミを出し切り、過去10年間平均27%の増収を誇ったワコールも売上至上主義を脱皮して利益重視の傾向を強めた
    • [44]フロント・ホック・ブラの健闘も幸いして1978年度の売上高は前期比2.5%増、経常利益は8.1%増となった
  • 日経ビジネス 1989年3月27日号
    • [45]塚本幸一は「高くても欲しいと思うものを作れ、欲しいけど高いじゃ商売にならん」と部下に口ぐせのように言っていた

米国への資本進出は、ワコールという単一ブランドで世界を押さえるという当初の構想を改めさせた。その進出の資金は、1977年に発行した米国預託証券2700万ドルである。1978年、ワコールは高級婦人下着で全米5位のオルガ社の株式30万株・29%を公開買い付けで取得して業務提携を結び、全株の取得も申し入れた。下着のように文化の色合いが濃い商品は現地に定着させにくく、各国でいちばん浸透したブランドを使うほうが有利だと判断し、米国はオルガ、欧州はフランスの有力メーカー、アジアはワコールという3つのブランドで市場を分ける3B作戦に切り替えた。1979年9月からのオルガ製品の輸入販売は、その2年前に後継者として名前の挙がっていた塚本能交氏が指揮をとり、米国では1981年6月にワコール・アメリカを設け、1983年12月にティーンフォーム社グループの全株を取得した。

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [46]かつてはワコールブランドによる世界制覇を目論んでいたが、米国への資本進出をきっかけに方針を改めた
    • [47]1977年にADR(米国預託証券)2700万ドルを発行した
    • [48]1978年、米国のオルガ社(高級婦人下着で全米5位)の株式30万株(29%)を公開買い付けで取得して業務提携に踏み切り、全株取得を申し入れた
    • [49]米国はオルガブランド、欧州はフランスの有力婦人下着メーカーのブランド、アジア地域はワコールブランドという3ブランド(3B)作戦を採った
    • [50]1979年9月からオルガ社の商品を輸入販売するオルガ事業部の事業部長は塚本能交だった
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1981年6月にアメリカ合衆国に子会社WACOAL AMERICAを設立し、1983年12月に米国ティーンフォーム社グループの全株式を取得した

売上高の伸びは1982年から止まっており、利益も1981年8月期の74億5000万円が天井のままだった。39歳の塚本能交氏が社長に就いたのは1987年6月である。10年前に本人が宣言していた通りの就任だった。5年後の1992年、同氏は売上高2000億円を目標に据えた事業計画を示したが、足元の数字は伸び悩んでいた。市場占有率は1988年6月時点で25.2%に落ち、5年のあいだに4.9ポイントを減らしていた。一方、通信販売と低価格を売りにするセシールは1年でシェアを5ポイント上積みし、9.8%まで迫っていた。それでも塚本社長は、低価格帯に踏み込むことには慎重だった。同じ価格帯の商品を作れば品質を下げるほかなく、築き上げてきたブランドイメージに傷が付くという理由である。1980年の時点で塚本幸一会長が描いていた承継の形は、男の花道とは腹八分目で次々とバトンを渡すことであり、相当の力を残して体制を引き継ぐというものだった。

  • 日経ビジネス 1989年3月27日号
    • [52]1987年6月、創業者である父・塚本幸一会長の後継者として塚本能交が39歳で社長に就任した
    • [54]塚本能交は就任後5年たった1992年にグループ売上高を2000億円にする事業計画を発表したが、売上高は1982年から頭打ちで、利益は1981年8月期の74億5000万円を超えられずにいた
    • [55]日本経済新聞のシェア調査で1988年6月の市場シェアは25.2%と、この5年間で4.9ポイントを失った
    • [56]セシールが1年間でシェアを5ポイント伸ばして市場シェア9.8%とする中、塚本能交は低価格品分野の積極開拓に難色を示した
    • [57]セシールと同じ価格帯で商品を作ればデザイン・縫製・素材すべての品質を下げねばならず、ブランドイメージに傷を付けかねないという理由だった
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [53]1977年7月に塚本幸一が10年後の退任と長男・能交の後継指名を宣言していた
    • [58]塚本幸一は「男の花道というのは、腹八分目で次々とバトンを渡していくことですわ。だから私も相当力を残して、ワコールの体制を後に引き継ぎたい」と述べた
参考文献[33]-[58]
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [33]1977年末から1979年11月まで2年がかりでコーポレート・アイデンティティー運動を展開し、30年間のうちにたまったもたれ合いやセクショナリズムを取り除き社員の意思統一をはかることを狙った
    • [34]1977年7月、塚本幸一が「ぼくは10年後に社長を退く。後継者としては長男の能交を推したい」と宣言した
    • [35]その時から塚本幸一の経営戦略はポスト創業者の対策に照準を定めた
    • [36]CI運動は社是・経営方針・社歌・シンボルマークの見直しにまで波及し、京都市南区の本社正面には創立30周年時点の社員約4300人の名を「第二の創業社員」として刻んだ碑が建てられた
    • [37]1979年9月、塚本幸一社長は総括担当の中村伊一副社長を社長代行職にして自らは会長的な役割に徹すると宣言した
    • [39]1978年(昭和53年)の春以来、月末集中型の取引が続いた
    • [40]普通なら上旬3・中旬3・下旬4の比率のところ、下旬に7割ほど集中していた
    • [41]在庫が正常の倍の4カ月分もたまっており、ひどい押し込み販売だった
    • [42]50億円の売上目標を修正しろと支店長に指示し、4〜5カ月で70億円近い出荷調整・生産調整を断行した
    • [43]在庫調整で押し込み販売のウミを出し切り、過去10年間平均27%の増収を誇ったワコールも売上至上主義を脱皮して利益重視の傾向を強めた
    • [44]フロント・ホック・ブラの健闘も幸いして1978年度の売上高は前期比2.5%増、経常利益は8.1%増となった
    • [46]かつてはワコールブランドによる世界制覇を目論んでいたが、米国への資本進出をきっかけに方針を改めた
    • [47]1977年にADR(米国預託証券)2700万ドルを発行した
    • [48]1978年、米国のオルガ社(高級婦人下着で全米5位)の株式30万株(29%)を公開買い付けで取得して業務提携に踏み切り、全株取得を申し入れた
    • [49]米国はオルガブランド、欧州はフランスの有力婦人下着メーカーのブランド、アジア地域はワコールブランドという3ブランド(3B)作戦を採った
    • [50]1979年9月からオルガ社の商品を輸入販売するオルガ事業部の事業部長は塚本能交だった
    • [53]1977年7月に塚本幸一が10年後の退任と長男・能交の後継指名を宣言していた
    • [58]塚本幸一は「男の花道というのは、腹八分目で次々とバトンを渡していくことですわ。だから私も相当力を残して、ワコールの体制を後に引き継ぎたい」と述べた
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ワコール 海外市場を確立世界企業へ」
    • [38]1980年の年頭に4500人に及ぶ全社員へ「飛翔」を掲げ、これまでの30年間は新たなスタートをきるための準備であったと述べた
  • 日経ビジネス 1989年3月27日号
    • [45]塚本幸一は「高くても欲しいと思うものを作れ、欲しいけど高いじゃ商売にならん」と部下に口ぐせのように言っていた
    • [52]1987年6月、創業者である父・塚本幸一会長の後継者として塚本能交が39歳で社長に就任した
    • [54]塚本能交は就任後5年たった1992年にグループ売上高を2000億円にする事業計画を発表したが、売上高は1982年から頭打ちで、利益は1981年8月期の74億5000万円を超えられずにいた
    • [55]日本経済新聞のシェア調査で1988年6月の市場シェアは25.2%と、この5年間で4.9ポイントを失った
    • [56]セシールが1年間でシェアを5ポイント伸ばして市場シェア9.8%とする中、塚本能交は低価格品分野の積極開拓に難色を示した
    • [57]セシールと同じ価格帯で商品を作ればデザイン・縫製・素材すべての品質を下げねばならず、ブランドイメージに傷を付けかねないという理由だった
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1981年6月にアメリカ合衆国に子会社WACOAL AMERICAを設立し、1983年12月に米国ティーンフォーム社グループの全株式を取得した

筆者考察

1970年代のワコールが海外へ出た理由は、市場を取ることだけではない。機械化のきかない縫製は、日本の労働力が不足すれば成り立たなくなる。韓国・タイ・台湾へ同時に合弁を置いたのは、作る場所を先に確保する判断だった。タイでは輸出で市場を育ててから現地生産へ移るという順序を踏まず、ミシン30台からいきなり作り始め、5年で550台まで増やしている。国内では1973年にワコールインターナショナルを設け、合弁先の製品をウイングの名で量販店へ流した。1960年代に断った安売りの需要を、10年後に別会社と別ブランドで受け直したことになる。値段を下げないという原則は、売り先を分けることで守られた。

1978年の70億円の出荷調整は、その原則が内側から破られかけた場面である。月末に集中する出荷の裏で在庫は4カ月分に膨らみ、伸び続ける売上高は押し込みで作られていた。50億円の売上目標を自ら引き下げ、4〜5カ月かけて出荷と生産を止めた判断は、数字の伸びよりも値段の信用を採るという選択だった。同じ年に米オルガ社の株式29%を買い、ブランドを国ごとに分ける3B作戦へ移った背景にも、値段の根拠はその国の文化に属するという読みがある。ただし1987年に39歳の塚本能交へ渡された会社では、この原則が別の働き方を始めていた。セシールが低価格で伸びるなかでも値段を下げなかったワコールは、成長する市場の外にとどまった。

出典・参考

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出典・参考
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1974年4月29日号
  • 日経ビジネス 1975年3月3日号
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
  • 日経ビジネス 1989年3月27日号
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ワコール 海外市場を確立世界企業へ」

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