第1章 年〜年

亀田製菓:亀田町農産加工農業協同組合を母体とする亀田製菓の設立

1946年〜生協に頼まれて米と芋で炊いた水飴と、キューバ糖に押されて移った米菓

古泉栄治氏は1946年9月、新潟県中蒲原郡亀田町で水飴の委託加工を始め、この年月が亀田製菓の創業にあたる。古泉栄治氏は戦地から引き揚げた時点で、自分で事業を興すと決めていた。終戦直後は食糧が乏しかったため、古泉栄治氏は手がける品目を食品に絞った。最初の仕事は地元の生活協同組合からの依頼で、米と芋を原料に水飴を小規模に受託生産するものである。子の古泉肇氏は後年、水飴を製造した1946年からの10年余りを第1次創業期と呼び、1957年の米菓専業化と区別した。原料も売り先も依頼主が握る受託から出発した経験が、のちに自前の値決めと販路へのこだわりを生んだとみられる。

  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [1]創業は1946年(昭和21年)9月、本社は新潟県中蒲原郡亀田町
    • [5]古泉肇社長は1946年の創業から10年余りの水飴製造期を第1次創業期と呼ぶ
  • 日経ビジネス 546 1990年1月15日号 有訓無訓
    • [2]古泉栄治は引き揚げ時に自ら商売をすると決め、食糧難の中で生協の依頼により米・芋を使う水飴の委託加工を始めた
    • [3]古泉栄治は引き揚げ時に自ら商売をすると決め、食糧難の中で生協の依頼により米・芋を使う水飴の委託加工を始めた
    • [4]古泉栄治は引き揚げ時に自ら商売をすると決め、食糧難の中で生協の依頼により米・芋を使う水飴の委託加工を始めた

1950年代半ばにかけて砂糖の値が下がり、店頭にチョコレートやビスケットといった洋菓子が並ぶと、水飴の需要は減少した。古泉栄治氏は、キューバ産の砂糖が入り甘いものが余ったことを米菓へ転じた理由に挙げた。洋菓子は国内の大手が欧米の機械化生産を導入済みで、零細の水飴業者が一から挑むには不利である。米菓は工程が複雑で機械化が進まず大手も参入していなかったため、古泉栄治氏は機械化による量産に成長の余地を見た。米菓を量産する技術が固まる前の1950年ごろ、亀田製菓はボーロなどの焼き菓子も製造していた。ただ文献もない素人のうえ米の統制も厳しく、米菓の生産が安定するまで10年近くを要した。

  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [6]昭和20年代末に砂糖が安く出回り洋菓子が台頭して水飴需要が減少。洋菓子は大手が機械化済み、米菓は機械化が進まず大手不在だった
    • [8]昭和20年代末に砂糖が安く出回り洋菓子が台頭して水飴需要が減少。洋菓子は大手が機械化済み、米菓は機械化が進まず大手不在だった
    • [9]昭和20年代末に砂糖が安く出回り洋菓子が台頭して水飴需要が減少。洋菓子は大手が機械化済み、米菓は機械化が進まず大手不在だった
  • 日経ビジネス 546 1990年1月15日号 有訓無訓
    • [7]キューバ産砂糖の流入で甘味が余り米菓へ転換。素人で文献もなく米の統制下で軌道に乗るまで10年近くかかった
    • [11]キューバ産砂糖の流入で甘味が余り米菓へ転換。素人で文献もなく米の統制下で軌道に乗るまで10年近くかかった
  • 日経ビジネス 616 1991年11月25日号 有訓無訓
    • [10]1950年頃、米菓の量産技術確立前はボーロなどの焼き菓子を作っていた

古泉栄治氏は1957年8月、亀田町農産加工農業協同組合を土台に資本金10百万円で株式会社組織の亀田製菓を設立し、社長に就任した。同じ時期の、本社工場(現在の亀田工場)での生産開始。古泉肇氏は、1957年に米菓専業のメーカーへ転じた時点を第2次創業期と位置づけている。古泉栄治氏は、保存でき輸送も容易な米菓は寡占化が進むため、規模を大きくしなければ経営が安定しないと考え、資本と技術力を重んじた。しかし設立間もない会社に銀行は融資せず、設備投資の資金繰りは難航した。組合の受託加工のままでは資本を調達する主体になれず、株式会社の設立は機械化の投資に向けた最初の手当てだったのだろう。

  • 季報ほくとう 34 1995年 南武
    • [12]1957年8月、亀田町農産加工農業協同組合を土台に資本金10百万円で亀田製菓を設立。古泉榮治が社長に就任し本社工場(現亀田工場)で生産開始
    • [13]1957年8月、亀田町農産加工農業協同組合を土台に資本金10百万円で亀田製菓を設立。古泉榮治が社長に就任し本社工場(現亀田工場)で生産開始
  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [14]1957年(昭和32年)の米菓専業メーカーへの転業を古泉肇社長は第2次創業期と呼ぶ
  • 日経ビジネス 546 1990年1月15日号 有訓無訓
    • [15]米菓は保存・輸送が容易で寡占化するため規模拡大が経営安定に必要と考えたが、設立間もない頃は銀行が融資に応じなかった
    • [16]米菓は保存・輸送が容易で寡占化するため規模拡大が経営安定に必要と考えたが、設立間もない頃は銀行が融資に応じなかった
参考文献[1]-[16]
  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [1]創業は1946年(昭和21年)9月、本社は新潟県中蒲原郡亀田町
    • [5]古泉肇社長は1946年の創業から10年余りの水飴製造期を第1次創業期と呼ぶ
    • [6]昭和20年代末に砂糖が安く出回り洋菓子が台頭して水飴需要が減少。洋菓子は大手が機械化済み、米菓は機械化が進まず大手不在だった
    • [8]昭和20年代末に砂糖が安く出回り洋菓子が台頭して水飴需要が減少。洋菓子は大手が機械化済み、米菓は機械化が進まず大手不在だった
    • [9]昭和20年代末に砂糖が安く出回り洋菓子が台頭して水飴需要が減少。洋菓子は大手が機械化済み、米菓は機械化が進まず大手不在だった
    • [14]1957年(昭和32年)の米菓専業メーカーへの転業を古泉肇社長は第2次創業期と呼ぶ
  • 日経ビジネス 546 1990年1月15日号 有訓無訓
    • [2]古泉栄治は引き揚げ時に自ら商売をすると決め、食糧難の中で生協の依頼により米・芋を使う水飴の委託加工を始めた
    • [3]古泉栄治は引き揚げ時に自ら商売をすると決め、食糧難の中で生協の依頼により米・芋を使う水飴の委託加工を始めた
    • [4]古泉栄治は引き揚げ時に自ら商売をすると決め、食糧難の中で生協の依頼により米・芋を使う水飴の委託加工を始めた
    • [7]キューバ産砂糖の流入で甘味が余り米菓へ転換。素人で文献もなく米の統制下で軌道に乗るまで10年近くかかった
    • [11]キューバ産砂糖の流入で甘味が余り米菓へ転換。素人で文献もなく米の統制下で軌道に乗るまで10年近くかかった
    • [15]米菓は保存・輸送が容易で寡占化するため規模拡大が経営安定に必要と考えたが、設立間もない頃は銀行が融資に応じなかった
    • [16]米菓は保存・輸送が容易で寡占化するため規模拡大が経営安定に必要と考えたが、設立間もない頃は銀行が融資に応じなかった
  • 日経ビジネス 616 1991年11月25日号 有訓無訓
    • [10]1950年頃、米菓の量産技術確立前はボーロなどの焼き菓子を作っていた
  • 季報ほくとう 34 1995年 南武
    • [12]1957年8月、亀田町農産加工農業協同組合を土台に資本金10百万円で亀田製菓を設立。古泉榮治が社長に就任し本社工場(現亀田工場)で生産開始
    • [13]1957年8月、亀田町農産加工農業協同組合を土台に資本金10百万円で亀田製菓を設立。古泉榮治が社長に就任し本社工場(現亀田工場)で生産開始

1958年〜職人芸だったせんべいの連続機械化と、水原に建てた2つ目の工場

米菓は洗米・浸漬・蒸しから乾燥とねかせを経て焼き上げに至る多段の工程を持ち、どの段階も職人の経験と勘に依存していた。機械メーカーには米菓の知識がなかったため、亀田製菓は生産設備を自社で開発した。1965年ごろの売上高は10億円前後で、亀田製菓はそこから研究開発に毎年1億円程度を投じた。1955〜1964年(昭和30年代)には新潟県の食品研究所の協力を得て米菓を科学的に解明し、機械化を実現した。最も苦心したのは、焼く前の生地を自然乾燥させるねかせの連続化と、焼き具合のノウハウ。米の産地で量産できれば、消費地の近くで焼く業態から産地で集中生産する業態へ移れるという読みが背景にあった。

  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [17]米菓は工程が多く職人の勘に依存し、機械メーカーに知識がないため設備を自社開発。1965年頃売上10億円前後で研究開発に年1億円程度
    • [18]米菓は工程が多く職人の勘に依存し、機械メーカーに知識がないため設備を自社開発。1965年頃売上10億円前後で研究開発に年1億円程度
    • [19]米菓は工程が多く職人の勘に依存し、機械メーカーに知識がないため設備を自社開発。1965年頃売上10億円前後で研究開発に年1億円程度
  • 季報ほくとう 34 1995年 南武
    • [20]昭和30年代に県の食品研究所の協力で米菓を科学的に解明し機械化に成功。難所はねかせの連続化と焼き具合。消費地立地から生産地立地への転換を狙った
    • [21]昭和30年代に県の食品研究所の協力で米菓を科学的に解明し機械化に成功。難所はねかせの連続化と焼き具合。消費地立地から生産地立地への転換を狙った
    • [22]昭和30年代に県の食品研究所の協力で米菓を科学的に解明し機械化に成功。難所はねかせの連続化と焼き具合。消費地立地から生産地立地への転換を狙った

1950年ごろ、新潟の地場菓子メーカー約30社は問屋から原料を仕入れ、製品は問屋が全量を買い上げていた。原価も問屋が計算して決めたため、メーカーの手元には給料を払えば利益がほとんど残らなかった。古泉栄治氏は同業者に原価計算を自分たちで担おうと呼びかけ、地元の問屋から取引停止を通告された。古泉栄治氏は、この動きが問屋に伝わって対立を招くことを事前に見込んでいたと後年明かした。取引停止を機に古泉栄治氏は秋田・山形を回って販路を開き、他県の問屋へ見本を担いで直接売り込んだ。地元問屋に縛られたままでは量産品の出荷先がないため、自力で販路を開く名分を得ることが古泉栄治氏の狙いだったと思われる。

  • 日経ビジネス 616 1991年11月25日号 有訓無訓
    • [23]1950年頃、新潟の地場菓子メーカー約30社は問屋から原料を買い製品を全量買い上げられ、原価計算も問屋が決めていた。古泉は問屋との対立を計算していた
    • [24]1950年頃、新潟の地場菓子メーカー約30社は問屋から原料を買い製品を全量買い上げられ、原価計算も問屋が決めていた。古泉は問屋との対立を計算していた
    • [26]1950年頃、新潟の地場菓子メーカー約30社は問屋から原料を買い製品を全量買い上げられ、原価計算も問屋が決めていた。古泉は問屋との対立を計算していた
  • 日経ビジネス 546 1990年1月15日号 有訓無訓
    • [25]昭和26〜27年頃、原価計算を自分たちでやろうと業者に呼びかけ問屋からボイコットされた
  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [27]地元問屋から締め出され、古泉栄治自ら見本を担いで他県の問屋を訪ね全国の問屋への直接販売を進めた(NB91では秋田・山形を回ったとする)

亀田製菓の売上高は1965〜1974年度(昭和40年代)に年平均約30%伸び、年10〜15%程度だった米菓市場の伸びを上回った。1968年には「うす焼」を発売し、大型の主力商品を得た。販路も1959年9月の東京営業所に続き、1963年10月に大阪、1966年9月に名古屋、1971年1月に仙台へ拠点を開設。1965年ごろまでは国内の米が足りず、亀田製菓は輸入米も使って原料を確保した。1971年9月には水原工場を新設し、亀田町の周辺に2つ目の量産拠点を構えた。売上高が年3割のペースで増える中、本社工場1か所では供給が追いつかず、生産能力の増強を急いだと推察される。

  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [28]昭和40年代の売上高伸び率は年平均約30%で米菓市場の10〜15%を上回った。1968年(昭和43年)にうす焼を発売
    • [29]昭和40年代の売上高伸び率は年平均約30%で米菓市場の10〜15%を上回った。1968年(昭和43年)にうす焼を発売
  • 季報ほくとう 34 1995年 南武
    • [30]1959年9月東京、1963年10月大阪、1966年9月名古屋の営業所、1971年1月仙台出張所を開設。1971年9月水原工場を新設
    • [31]昭和40年代前半までの米不足の時期に輸入米を使用した
    • [32]1959年9月東京、1963年10月大阪、1966年9月名古屋の営業所、1971年1月仙台出張所を開設。1971年9月水原工場を新設
参考文献[17]-[32]
  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [17]米菓は工程が多く職人の勘に依存し、機械メーカーに知識がないため設備を自社開発。1965年頃売上10億円前後で研究開発に年1億円程度
    • [18]米菓は工程が多く職人の勘に依存し、機械メーカーに知識がないため設備を自社開発。1965年頃売上10億円前後で研究開発に年1億円程度
    • [19]米菓は工程が多く職人の勘に依存し、機械メーカーに知識がないため設備を自社開発。1965年頃売上10億円前後で研究開発に年1億円程度
    • [27]地元問屋から締め出され、古泉栄治自ら見本を担いで他県の問屋を訪ね全国の問屋への直接販売を進めた(NB91では秋田・山形を回ったとする)
    • [28]昭和40年代の売上高伸び率は年平均約30%で米菓市場の10〜15%を上回った。1968年(昭和43年)にうす焼を発売
    • [29]昭和40年代の売上高伸び率は年平均約30%で米菓市場の10〜15%を上回った。1968年(昭和43年)にうす焼を発売
  • 季報ほくとう 34 1995年 南武
    • [20]昭和30年代に県の食品研究所の協力で米菓を科学的に解明し機械化に成功。難所はねかせの連続化と焼き具合。消費地立地から生産地立地への転換を狙った
    • [21]昭和30年代に県の食品研究所の協力で米菓を科学的に解明し機械化に成功。難所はねかせの連続化と焼き具合。消費地立地から生産地立地への転換を狙った
    • [22]昭和30年代に県の食品研究所の協力で米菓を科学的に解明し機械化に成功。難所はねかせの連続化と焼き具合。消費地立地から生産地立地への転換を狙った
    • [30]1959年9月東京、1963年10月大阪、1966年9月名古屋の営業所、1971年1月仙台出張所を開設。1971年9月水原工場を新設
    • [31]昭和40年代前半までの米不足の時期に輸入米を使用した
    • [32]1959年9月東京、1963年10月大阪、1966年9月名古屋の営業所、1971年1月仙台出張所を開設。1971年9月水原工場を新設
  • 日経ビジネス 616 1991年11月25日号 有訓無訓
    • [23]1950年頃、新潟の地場菓子メーカー約30社は問屋から原料を買い製品を全量買い上げられ、原価計算も問屋が決めていた。古泉は問屋との対立を計算していた
    • [24]1950年頃、新潟の地場菓子メーカー約30社は問屋から原料を買い製品を全量買い上げられ、原価計算も問屋が決めていた。古泉は問屋との対立を計算していた
    • [26]1950年頃、新潟の地場菓子メーカー約30社は問屋から原料を買い製品を全量買い上げられ、原価計算も問屋が決めていた。古泉は問屋との対立を計算していた
  • 日経ビジネス 546 1990年1月15日号 有訓無訓
    • [25]昭和26〜27年頃、原価計算を自分たちでやろうと業者に呼びかけ問屋からボイコットされた

1972年〜白根に建てた3つ目の工場と、スーパー向けの配送網でつかんだ米菓の首位

亀田製菓は1976年9月に白根工場を新設し、亀田・水原と合わせて3工場で米菓を量産するようになった。1975年には「ハッピーターン」、1977年には「梅の香巻」を発売し、主力商品が3品目にそろった。1975年以降に米菓市場はマイナス成長へ転じた一方、亀田製菓は売上高を増やして首位のメーカーとなった。1986年時点で最新鋭の白根工場は、1段100メートルの生地乾燥機を12段つなぎ、総延長は1200メートルに及ぶ。3工場への設備投資は1986年までの累計で約200億円に達し、1984年度の米菓売上高482億円は全国生産額の22〜23%を占めた。市場が縮む時期にも産地の工場を増やして供給力を積んだことが、他社との差を広げた要因になったと考えられる。

  • 季報ほくとう 34 1995年 南武
    • [33]1976年9月白根工場を新設。亀田・水原・白根の3工場体制
  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [34]1975年ハッピーターン、1977年梅の香巻。昭和50年代に米菓市場はマイナス成長だが亀田は成長し首位。白根工場の生地乾燥機は100m×12段で総延長1200m、3工場の設備投資累計約200億円、1984年度売上482億円で米菓生産額シェア22〜23%
    • [35]1975年ハッピーターン、1977年梅の香巻。昭和50年代に米菓市場はマイナス成長だが亀田は成長し首位。白根工場の生地乾燥機は100m×12段で総延長1200m、3工場の設備投資累計約200億円、1984年度売上482億円で米菓生産額シェア22〜23%
    • [36]1975年ハッピーターン、1977年梅の香巻。昭和50年代に米菓市場はマイナス成長だが亀田は成長し首位。白根工場の生地乾燥機は100m×12段で総延長1200m、3工場の設備投資累計約200億円、1984年度売上482億円で米菓生産額シェア22〜23%
    • [37]1975年ハッピーターン、1977年梅の香巻。昭和50年代に米菓市場はマイナス成長だが亀田は成長し首位。白根工場の生地乾燥機は100m×12段で総延長1200m、3工場の設備投資累計約200億円、1984年度売上482億円で米菓生産額シェア22〜23%

全国に店舗網を広げはじめた大手スーパーは仕入れを本部に集中させ、せんべいやあられをまとまった量で一括して納入できるメーカーを求めた。当時、その量を供給できる米菓メーカーは亀田製菓のほかになかった。古泉栄治氏はスーパー向けの配送網を業界に先んじて整えた。スーパーの取引はまだ売上高の2割にすぎず、残り8割の小売店を軽んじるのかという反対が周囲から出た。古泉栄治氏は、反対を押して伸び盛りのスーパーへの納入を増やしたことで、米菓のトップシェアを得たと振り返った。1980年代前半には月1回の新製品検討会に試作品20〜30品目を並べ、新たな商品を毎月2〜3品目ずつ店頭へ送り出した。

  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [38]大手スーパーは集中仕入れが原則で、米菓を大量供給できるメーカーは亀田だけだった。業績停滞後、月1回の新製品検討会で20〜30品目を試作し毎月2〜3品目を発売
    • [39]大手スーパーは集中仕入れが原則で、米菓を大量供給できるメーカーは亀田だけだった。業績停滞後、月1回の新製品検討会で20〜30品目を試作し毎月2〜3品目を発売
    • [43]大手スーパーは集中仕入れが原則で、米菓を大量供給できるメーカーは亀田だけだった。業績停滞後、月1回の新製品検討会で20〜30品目を試作し毎月2〜3品目を発売
  • 日経ビジネス 616 1991年11月25日号 有訓無訓
    • [40]スーパー向け配送網をいち早く作り、売上の2割のスーパーに注力することに周囲が反対したが、取引拡大で米菓トップシェアを得た
    • [41]スーパー向け配送網をいち早く作り、売上の2割のスーパーに注力することに周囲が反対したが、取引拡大で米菓トップシェアを得た
    • [42]スーパー向け配送網をいち早く作り、売上の2割のスーパーに注力することに周囲が反対したが、取引拡大で米菓トップシェアを得た

古泉栄治氏は1983年6月に社長を辞任し、会長に就任した。後任は、1965年に入社し1974年5月から常務取締役を務めた子の古泉肇氏である。交代直前の1981・1982年度は、売上高が2期とも400億円程度で横ばいとなり、経常利益も2期連続で前期を下回った。古泉肇氏は社長に就任した当初から、会社は第3次創業期に入ると社員に説き、奮起を求めた。亀田製菓は翌1984年10月、米菓の専業メーカーのまま新潟証券取引所へ株式を上場し、資本金は19億6,500万円となった。成長が足踏みし上場を控えた時期に、経営の世代を交代させて次の成長の担い手を定めた交代と解される。

  • 季報ほくとう 34 1995年 南武
    • [44]1983年6月古泉榮治が社長を辞任し会長、古泉肇(1965年入社、1974年常務)が社長就任。1984年10月新潟証券取引所に上場し資本金19億6,500万円
    • [45]1983年6月古泉榮治が社長を辞任し会長、古泉肇(1965年入社、1974年常務)が社長就任。1984年10月新潟証券取引所に上場し資本金19億6,500万円
    • [48]1983年6月古泉榮治が社長を辞任し会長、古泉肇(1965年入社、1974年常務)が社長就任。1984年10月新潟証券取引所に上場し資本金19億6,500万円
  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [46]1981・1982年度の売上高は400億円程度で伸び悩み経常利益は2期連続減少。古泉肇は1983年6月の社長就任以来第3次創業期と社員に訴えた
    • [47]1981・1982年度の売上高は400億円程度で伸び悩み経常利益は2期連続減少。古泉肇は1983年6月の社長就任以来第3次創業期と社員に訴えた
参考文献[33]-[48]
  • 季報ほくとう 34 1995年 南武
    • [33]1976年9月白根工場を新設。亀田・水原・白根の3工場体制
    • [44]1983年6月古泉榮治が社長を辞任し会長、古泉肇(1965年入社、1974年常務)が社長就任。1984年10月新潟証券取引所に上場し資本金19億6,500万円
    • [45]1983年6月古泉榮治が社長を辞任し会長、古泉肇(1965年入社、1974年常務)が社長就任。1984年10月新潟証券取引所に上場し資本金19億6,500万円
    • [48]1983年6月古泉榮治が社長を辞任し会長、古泉肇(1965年入社、1974年常務)が社長就任。1984年10月新潟証券取引所に上場し資本金19億6,500万円
  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
    • [34]1975年ハッピーターン、1977年梅の香巻。昭和50年代に米菓市場はマイナス成長だが亀田は成長し首位。白根工場の生地乾燥機は100m×12段で総延長1200m、3工場の設備投資累計約200億円、1984年度売上482億円で米菓生産額シェア22〜23%
    • [35]1975年ハッピーターン、1977年梅の香巻。昭和50年代に米菓市場はマイナス成長だが亀田は成長し首位。白根工場の生地乾燥機は100m×12段で総延長1200m、3工場の設備投資累計約200億円、1984年度売上482億円で米菓生産額シェア22〜23%
    • [36]1975年ハッピーターン、1977年梅の香巻。昭和50年代に米菓市場はマイナス成長だが亀田は成長し首位。白根工場の生地乾燥機は100m×12段で総延長1200m、3工場の設備投資累計約200億円、1984年度売上482億円で米菓生産額シェア22〜23%
    • [37]1975年ハッピーターン、1977年梅の香巻。昭和50年代に米菓市場はマイナス成長だが亀田は成長し首位。白根工場の生地乾燥機は100m×12段で総延長1200m、3工場の設備投資累計約200億円、1984年度売上482億円で米菓生産額シェア22〜23%
    • [38]大手スーパーは集中仕入れが原則で、米菓を大量供給できるメーカーは亀田だけだった。業績停滞後、月1回の新製品検討会で20〜30品目を試作し毎月2〜3品目を発売
    • [39]大手スーパーは集中仕入れが原則で、米菓を大量供給できるメーカーは亀田だけだった。業績停滞後、月1回の新製品検討会で20〜30品目を試作し毎月2〜3品目を発売
    • [43]大手スーパーは集中仕入れが原則で、米菓を大量供給できるメーカーは亀田だけだった。業績停滞後、月1回の新製品検討会で20〜30品目を試作し毎月2〜3品目を発売
    • [46]1981・1982年度の売上高は400億円程度で伸び悩み経常利益は2期連続減少。古泉肇は1983年6月の社長就任以来第3次創業期と社員に訴えた
    • [47]1981・1982年度の売上高は400億円程度で伸び悩み経常利益は2期連続減少。古泉肇は1983年6月の社長就任以来第3次創業期と社員に訴えた
  • 日経ビジネス 616 1991年11月25日号 有訓無訓
    • [40]スーパー向け配送網をいち早く作り、売上の2割のスーパーに注力することに周囲が反対したが、取引拡大で米菓トップシェアを得た
    • [41]スーパー向け配送網をいち早く作り、売上の2割のスーパーに注力することに周囲が反対したが、取引拡大で米菓トップシェアを得た
    • [42]スーパー向け配送網をいち早く作り、売上の2割のスーパーに注力することに周囲が反対したが、取引拡大で米菓トップシェアを得た

出典・参考

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出典・参考
  • 日経ビジネス 432 1986年3月31日号
  • 日経ビジネス 546 1990年1月15日号 有訓無訓
  • 日経ビジネス 616 1991年11月25日号 有訓無訓
  • 季報ほくとう 34 1995年 南武

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