上組は1867年、神戸港開港当時に運上所(税関)出入の貨物運搬を請負う神戸浜仲として創業した[1]。神戸市の記録では、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に兵庫として開港し、翌1868年に運上所(現神戸税関)が業務を始めている[2]。創業したのは一人の商人ではなく、港で人手を出す団体で、伊豆半七郎が判頭となって神戸浜仲を組織し、外国人交易の運上所の御用常人夫を仰せつかって、出入貨物の運搬を一手に扱った[3]。当時の業務は、神戸港での輸移出入貨物を波止場から荷揚げして得意先の倉庫へ運搬することで、いまの沿岸荷役業務にあたる[4]。
1873年、神戸浜仲は業務によって二派に分かれ[5]、港における運搬業に従事する浜仲と、薪炭を専門とする岡仲の二つになった[6]。分けたのは資本でも地縁でもなく、扱う貨物と職場の位置で、浜仲となった側は神戸港の上方(東部)に寄場をつくり、上方の組、すなわち上組の名が生じた[7]。上組という呼び名も、のちに設立する上組合資会社を縮めたものではなく、神戸港の上方に職場を持つ組であることを指す[8]。改称から先も荷役の請負は組合組織のまま続き[9]、明治の開化から日清・日露両戦役、第一次大戦を通じて取扱いを伸ばした[10]。
戦前の港湾荷役は、荷主が人夫を直に雇う形では回らず、荷主と直接契約する請負業者と、その下で人夫を集める小頭の二層が現場を担った[11]。若松港では、仲仕請負業者(大親方)が荷主から直接受注して仲仕を雇用せず、請負業者と特定の従属関係にある小頭(親方)と呼ばれた下請けの人夫供給者が現場に立ち、各小頭は権造部屋を所有して子方の仲仕で独立の組をつくった[12]。1920年代半ばの若松港では、請負業者が荷主受取額の約1割を差し引いて小頭に払い、小頭が残額から陸仲仕約2割5分・沖仲仕3割5分を差し引いて仲仕へ日払いした[13]。
1906年5月、当時の組合員だけの出資によって上組合資会社を設立した[14]。神戸浜仲としての創業から39年、上組への改称から33年が経っていた[15]。神戸港における港湾運送会社としての出資金は20万円で[16]、組の外から資本を入れずに会社の形へ移したため、出資者は現場を差配してきた組合員のままだった。1909年には、それまでの沿岸荷役業務に、はしけ運送業務と船内荷役業務を新たに加え[17]、本船の船内から艀へ、艀から岸へ、岸から倉庫へと続く工程を、一つの会社で通して引き受ける一貫した港湾運送になった[18]。
神戸の外へ拠点を出す動きは大阪築港から始まり、1909年3月に大阪築港出張所を開設して1925年に支店へ昇格させた[19]。名古屋では1922年6月に営業を開始して翌1923年に支店とし、東京では1923年5月に出張所を開設して1947年に支店とした[20]。横浜支店は1927年4月、門司支店は1934年4月、広畑出張所は1937年2月の開設で、広畑は1939年に支店となった[21]。大阪・東京・広畑は出張所から始めて支店へ改め、横浜と門司は開設の時点から支店に据えており[22]、大正末年にはそれまでの阪神中心から東京・横浜・名古屋・門司へ駒を進め、全国的に営業基盤をひろげた[23]。
港ごとに一つの会社へ荷役を集める仕組みが上組から本業の大半を取り上げ、1941年9月、戦時の諸法令により、港湾運送事業のうち沿岸荷役を除いて各港統制会社へ譲渡した[24]。根拠となった港湾運送業等統制令は国家総動員法にもとづいて発令され、戦争目的の遂行を掲げて一港一社を原則とし、事業を許可制に置いた[25]。それまで港湾運送事業として様々な業態に区分されていた業者は、一港一社を原則に各港湾で単一の事業組織へ集約された[26]。1909年に加えた船内荷役とはしけ運送を上組は32年で失い、手元には創業時から扱ってきた沿岸荷役だけが残った[27]。
本業の大半を譲渡したのち、上組は周辺の事業を別会社へ切り出し、1943年11月には造船部門を分離して東神戸造船鉄工(現カミックス)を設立した[28]。同社はいまも連結子会社として残る[29]。1947年2月に設けた上組土建は[30]、上組合資会社の倉庫・社宅等の建設および増改築を主たる業務とし、上組合資会社社員の出資による資本金19万5千円で発足した[31]。組合員の出資で会社を興す形は1906年の上組合資会社設立と変わらず、この19万5千円は、41年前の上組合資会社設立時の出資金20万円をわずかに下回る[32]。
港湾運送業等統制令は1945年9月に廃止され、港湾運送事業は自由営業に戻った[33]。1946年、GHQは独占解体指令を発令して一港一社制を廃止し[34]、東京2社・京浜2社・名古屋3社・大阪4社・神戸3社・関門1社の計15社が解体された一方、地方港湾では一港一社が解体されずに存続した[35]。統制の解けた港湾運送事業は無規制となり、荷役量が急増するなかで零細事業者が乱立して、荷物の奪い合いによる荷役の混乱や暴力労務手配師の跋扈を招いたうえ[36]、はしけや荷役機械の維持修理すら行われない状態も生じている[37]。この港で、1948年9月、上組は港湾における運送事業を統合的に再開し、商号を上津合資会社と改称した[38]。
1950年7月、上津合資会社は通運事業免許を取得し、貨物自動車運送事業を再開するとともに倉庫業を始めた[39]。通運事業は汽車を使って荷を運ぶ営業を、倉庫業は荷を預かって保管する営業を指す[40]。船内荷役、はしけ運送、沿岸荷役という港の中の3工程を本業とし、それを一括して請け負う元請けの立場も併せ持ってきた会社が、鉄道の駅とトラックと倉庫を同じ年にそろえた[41]。港湾運送事業そのものは、戦時中の港湾運送業等統制令が解かれて以来まだ無規制のもとにあり、この年の時点では登録も免許も求められていなかった[42]。
港の中と外を続けて請け負う形は、その後も崩れなかった。1971年の時点でも、港湾運送は港の中で完結せず、内陸への輸送、港に着くまでの輸送、港での貨物の保管と荷捌きが派生するものとして扱われていた[43]。上組はそこから、汽車を使う通運事業、荷を預かる倉庫業、倉庫や工場の中の荷役請負、貨物自動車による運送、大きな重量品の運搬と据付、梱包業、通関業、船会社の代理店業までを兼営し、ひとつの総合した運輸業態を組み立てた[44]。1950年7月にそろえた3つの営業は、この並びのうち通運事業と倉庫業と貨物自動車運送にあたる[45]。
戦時中の港湾運送業等統制令が解かれると港湾運送事業は無規制になり、荷役量が急増するなかで零細事業者が乱立し、荷物の奪い合いによって荷役が混乱し、暴力労務手配師が横行する状況が生じた[46]。ダンピングをはじめとする過当競争も続き、はしけや荷役機械の維持修理すら行われない危険な状態に至った[47]。これに対して1951年、事業登録制と料金届出制を内容とする港湾運送事業法が法律第161号として制定された[48]。同法が事業免許制と料金認可制へ切り替わるのは1959年の改正からで、この時点の規制は事業の登録と料金の届出にとどまった[49]。
港湾運送事業法の登録は、それまで届出も許可も要らなかった港での作業を、事業者ごとに国へ届け出させる仕組みだった[50]。上組は1923年までに東京・大阪・横浜・名古屋・門司へ支店を開き、事業区域を5大港まで広げており、神戸のほかにも登録の要る港を抱えていた[51]。1952年4月に商号を上組合資会社へ復元し[52]、1948年9月に港湾における運送事業を統合的に再開したときの上津合資会社から、3年7か月で元の名に戻した勘定になる[53]。上組合資会社は、1906年5月に神戸港の港湾運送会社として出資金20万円で設立された会社の名である[54]。
通運と倉庫の免許をそろえた翌年の1951年4月、上組は神戸の外へ徳山出張所を開き、この出張所は1992年に支店へ昇格した[55]。徳山は瀬戸内海に面した山口県の港で、上組はここで徳山曹達の構内作業を請け負ったが、工場の構内作業を引き受ける道は1937年の日本製鉄広畑工場に始まり、その後は丸善石油や日本鋼管の構内へも広がっていた[56]。荷主の工場の中で行う構内作業は港湾運送事業ではなく兼業に数えられ、倉庫工場荷役請負業として上組の重要な部門に育った[57]。1971年の時点で、上組は徳山下松港での一般荷役も手がけていた[58]。
神戸港では、港の整備が進むにつれて三井・住友・三菱が倉庫業を開き、その倉庫へ荷を運ぶ仕事を自社へ引き寄せるために港湾運送を兼営した[59]。上組はこれと逆の順をたどり、岸壁の現場作業の側から倉庫業へ伸びたため、生成の過程がまったく違った[60]。上組が倉庫業を始めたのは1950年7月、通運事業免許の取得と貨物自動車運送事業の再開と同じ月にあたる[61]。倉庫業は荷を預かって保管する営業であり、寄託された貨物を表す倉庫証券を出せると、荷主は荷を倉庫に置いたまま証券の裏書だけで売買や担保の差し入れができ、港で降ろした荷を自社の倉庫へ収めれば、荷主が引き取るまでの間も荷を動かさずに商いを立てられる[62]。
1961年8月、上組は本店自動車部の業務を分離して上組陸運を設立した[63]。1950年7月に再開した貨物自動車運送事業は11年で別会社として切り出す規模に達しており[64]、港で降ろした荷を鉄道の駅へ、倉庫へ、荷主の工場へと運ぶ経路のうち、道路を走る部分がここで独立した会社の仕事になった。上組陸運はその後も上組のもとに残り、現在は連結子会社である[65]。1970年10月期の作業収入では、自動車運送事業が3.8%、通運業が0.3%、純然たる倉庫業が1.7%を占め、港湾運送事業と兼業の比率はちょうど50%ずつだった[66]。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/9364/manifest.json https://the-shashi.com/api/9364/history.json https://the-shashi.com/api/9364/timeline.json https://the-shashi.com/api/9364/executives.json https://the-shashi.com/api/9364/shareholders.json https://the-shashi.com/api/9364/financials.json https://the-shashi.com/api/9364/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/9364/segments.json https://the-shashi.com/api/9364/regions.json https://the-shashi.com/api/9364/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1867〜1949年神戸浜仲が上組合資会社となり、戦時統制で本業を手放すまで | 神戸港開港にあたり運上所出入の貨物運搬を請け負う神戸浜仲として創業 | ★★★ | ||
| 業務によって二派に分かれ、神戸港の上方に職場を持つ組として商号を上組に変更 | ★★ | |||
| 組合員だけの出資により上組合資会社に改組 | ★★ | |||
| 大阪築港出張所を開設 | ★ | |||
| 名古屋で営業を開始 | ★ | |||
| 東京出張所を開設 | ★ | |||
| 横浜支店を開設 | ★ | |||
| 門司支店を開設 | ★ | |||
| 戦時の諸法令により、沿岸荷役を除く港湾運送事業を各港の統制会社に譲渡 | ★★★ | |||
| 造船部門を分離して東神戸造船鉄工(現カミックス)を設立 | ★★ | |||
| 上組土建を設立 | ★ | |||
| 港湾における運送事業を統合的に再開 | ★★ | |||
| 1950〜1962年通運免許と倉庫業を取り、神戸港の外へ荷を運ぶ会社になる | 通運事業免許の取得により貨物自動車運送事業と倉庫業に参入 | ★★★ | ||
| 倉庫証券の発行許可を取得 | ★ | |||
| 本店自動車部の業務を分離して上組陸運を設立 | ★ | |||
| 1963〜1971年株式会社上組への改組とコンテナー扱いの開始、設備が要る会社への転換 | 上組土建との合併により株式会社上組に改組 | ★★★ | ||
| コンテナー課を発足させ、コンテナ貨物の取り扱いを開始 | ★★ | |||
| 上組海運を設立 | ★ | |||
| 大阪証券取引所および東京証券取引所市場第二部に上場 | ★★ | |||
| シベリアランドブリッジによる欧州向け輸送を開始 | ★★ | |||
| ドッドウエル上組エアカーゴ(現上組航空サービス)を設立 | ★ | |||
| 大阪証券取引所および東京証券取引所市場第一部に指定 | ★★ | |||
| 泉包装作業(現泉産業)を設立 | ★ | |||
| エル・ハジャール製鉄所のプラント工事を受注 | ★★ | |||
| 神戸支店を開設 | ★ | |||
| 上組(香港)有限公司を設立 | ★ | |||
| 尾崎睦 | 決算期を9月から3月に変更 | ★ | ||
| 尾崎睦 | 大分港運の全株式を取得 | ★ | ||
| 尾崎睦 | 上組神戸コンテナターミナルを開設 | ★★★ | ||
| 尾崎睦 | 上組東京コンテナターミナルを開設 | ★★ | ||
| 久保昌三 | 東京本社を開設 | ★★ | ||
| 久保昌三 | サニープレイス事業部を開設 | ★ | ||
| 深井義博 | 太陽光発電事業を開始 | ★★ | ||
| 深井義博 | 飼料・穀物事業本部を開設 | ★ | ||
| 深井義博 | エムビー・サービス日本の株式を取得 | ★ | ||
| 深井義博 | 日本ポート産業の株式を追加取得 | ★ | ||
| 深井義博 | 東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行 | ★★ | ||
| 深井義博 | 系統用蓄電池事業に参入 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(上組)