三光汽船:三光海運の創業と河本敏夫氏の社長就任
1934年〜資本金10万円で興した三光海運と、在学中の河本敏夫氏が担った建て直し
三光汽船の前身にあたる三光海運は、1934年8月31日に大阪北堀江で設立された。創業者は吉田市之助氏で、資本金は10万円だった。社名が汽船を名乗るのは4年後の1938年で、出発時は三光海運の名で営業した。事業は社船1隻の運航から始まり、太平洋戦争の開戦までに船隊を35隻へ広げる出発点となった。吉田市之助氏は1955年の時点でも三光汽船の会長として名を連ね、本社は大阪市西区江戸堀上通にあった。1隻の段階で会社組織を立てたのは、出資者を広げて船を増やす元手を調達する計画を描いていたためとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [1]1934年8月31日、吉田市之助が大阪北堀江に資本金10万円で三光海運を設立。1955年時点で吉田市之助は会長、本社は大阪市西区江戸堀上通
- [2]1934年8月31日、吉田市之助が大阪北堀江に資本金10万円で三光海運を設立。1955年時点で吉田市之助は会長、本社は大阪市西区江戸堀上通
- [3]1934年8月31日、吉田市之助が大阪北堀江に資本金10万円で三光海運を設立。1955年時点で吉田市之助は会長、本社は大阪市西区江戸堀上通
- [5]1934年8月31日、吉田市之助が大阪北堀江に資本金10万円で三光海運を設立。1955年時点で吉田市之助は会長、本社は大阪市西区江戸堀上通
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [4]1934年創業、社船1隻で出発し、太平洋戦争突入時までに計35隻へ船隊を拡充
河本敏夫氏は1934年、日本大学法科に在学したまま三光海運の取締役となった。兵庫県出身の河本敏夫氏は姫路高校を放校となったのち、父の勧めで日大法科へ進み、一時は新聞記者を志した。その進路を変えたのが、義兄の経営する三光海運の不振である。当時の三光海運は社員16人、持ち船2隻の規模にとどまった。河本敏夫氏は在学中から、この会社の建て直しを手伝う役回りを引き受けた。日大法科の卒業は1936年で、取締役の在任は卒業の2年前から数えた計算になる。家業を継ぐ立場になかった学生が取締役に入ったのは、義兄の会社を支える親族の人手が他に乏しかったためと推察される。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [6]役員欄:社長河本敏夫、明治44年兵庫生まれ、昭和11年日大法卒、昭和9年取締役、昭和12年社長
- [11]役員欄:社長河本敏夫、明治44年兵庫生まれ、昭和11年日大法卒、昭和9年取締役、昭和12年社長
- Decide 3(3)(18) 1985年
- [7]河本敏夫は姫路高校を放校後、父の勧めで日大法科へ進学し新聞記者を志したが、義兄の経営する三光海運が経営不振で在学中から建て直しに加わった。当時の三光海運は社員16人・持ち船2隻
- [8]河本敏夫は姫路高校を放校後、父の勧めで日大法科へ進学し新聞記者を志したが、義兄の経営する三光海運が経営不振で在学中から建て直しに加わった。当時の三光海運は社員16人・持ち船2隻
- [9]河本敏夫は姫路高校を放校後、父の勧めで日大法科へ進学し新聞記者を志したが、義兄の経営する三光海運が経営不振で在学中から建て直しに加わった。当時の三光海運は社員16人・持ち船2隻
- [10]河本敏夫は姫路高校を放校後、父の勧めで日大法科へ進学し新聞記者を志したが、義兄の経営する三光海運が経営不振で在学中から建て直しに加わった。当時の三光海運は社員16人・持ち船2隻
河本敏夫氏は1937年7月、26歳で三光海運の社長に就任した。1911年6月22日生まれの河本敏夫氏にとって、日大法科を出た翌年、取締役入りから3年後の昇格。翌1938年4月には、社名を三光海運から三光汽船へ改めた。創業者の吉田市之助氏は社長を譲ったのちも会社にとどまり、1955年の時点で会長の職にあった。1934年の取締役就任から1937年の社長就任まで、河本敏夫氏は経営の中枢を学生時代から通して担った。戦後の1964年の時点でも、河本敏夫氏は社長の座にあった。社名に汽船を掲げたのは、船を自ら持ち運航まで担う会社へ移る意思を示したものと思われる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [12]1937年7月に河本敏夫が社長に就任、1938年4月に社名を三光汽船へ変更。1955年時点で吉田市之助は会長
- [14]1937年7月に河本敏夫が社長に就任、1938年4月に社名を三光汽船へ変更。1955年時点で吉田市之助は会長
- [15]1937年7月に河本敏夫が社長に就任、1938年4月に社名を三光汽船へ変更。1955年時点で吉田市之助は会長
- Decide 3(3)(18) 1985年
- [13]河本敏夫は1911年(明治44年)6月22日、兵庫県相生市生まれ
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [16]役員欄:河本敏夫 昭和9年取締役、昭和12年社長、昭和11年日大法卒
- [17]役員欄:河本敏夫 昭和9年取締役、昭和12年社長、昭和11年日大法卒
参考文献[1]-[17]
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [1]1934年8月31日、吉田市之助が大阪北堀江に資本金10万円で三光海運を設立。1955年時点で吉田市之助は会長、本社は大阪市西区江戸堀上通
- [2]1934年8月31日、吉田市之助が大阪北堀江に資本金10万円で三光海運を設立。1955年時点で吉田市之助は会長、本社は大阪市西区江戸堀上通
- [3]1934年8月31日、吉田市之助が大阪北堀江に資本金10万円で三光海運を設立。1955年時点で吉田市之助は会長、本社は大阪市西区江戸堀上通
- [5]1934年8月31日、吉田市之助が大阪北堀江に資本金10万円で三光海運を設立。1955年時点で吉田市之助は会長、本社は大阪市西区江戸堀上通
- [12]1937年7月に河本敏夫が社長に就任、1938年4月に社名を三光汽船へ変更。1955年時点で吉田市之助は会長
- [14]1937年7月に河本敏夫が社長に就任、1938年4月に社名を三光汽船へ変更。1955年時点で吉田市之助は会長
- [15]1937年7月に河本敏夫が社長に就任、1938年4月に社名を三光汽船へ変更。1955年時点で吉田市之助は会長
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [4]1934年創業、社船1隻で出発し、太平洋戦争突入時までに計35隻へ船隊を拡充
- [6]役員欄:社長河本敏夫、明治44年兵庫生まれ、昭和11年日大法卒、昭和9年取締役、昭和12年社長
- [11]役員欄:社長河本敏夫、明治44年兵庫生まれ、昭和11年日大法卒、昭和9年取締役、昭和12年社長
- [16]役員欄:河本敏夫 昭和9年取締役、昭和12年社長、昭和11年日大法卒
- [17]役員欄:河本敏夫 昭和9年取締役、昭和12年社長、昭和11年日大法卒
- Decide 3(3)(18) 1985年
- [7]河本敏夫は姫路高校を放校後、父の勧めで日大法科へ進学し新聞記者を志したが、義兄の経営する三光海運が経営不振で在学中から建て直しに加わった。当時の三光海運は社員16人・持ち船2隻
- [8]河本敏夫は姫路高校を放校後、父の勧めで日大法科へ進学し新聞記者を志したが、義兄の経営する三光海運が経営不振で在学中から建て直しに加わった。当時の三光海運は社員16人・持ち船2隻
- [9]河本敏夫は姫路高校を放校後、父の勧めで日大法科へ進学し新聞記者を志したが、義兄の経営する三光海運が経営不振で在学中から建て直しに加わった。当時の三光海運は社員16人・持ち船2隻
- [10]河本敏夫は姫路高校を放校後、父の勧めで日大法科へ進学し新聞記者を志したが、義兄の経営する三光海運が経営不振で在学中から建て直しに加わった。当時の三光海運は社員16人・持ち船2隻
- [13]河本敏夫は1911年(明治44年)6月22日、兵庫県相生市生まれ
1938年〜天津航路の自営に就いた計画造船4隻と、小型海運界で最大の20隻
三光汽船は1939年4月、第一次計画造船の4隻3,197重量トンを就航させ、天津航路を自社で運航し始めた。三光海運の設立から4年8か月後の自営開始だった。4隻の1隻平均は約800重量トンで、船型は小型に限られた。天津を窓口とする華北へは、建設資材・機械類・小麦粉を運んだ。戦前の船隊は1,000〜1,500トン型の小型貨物船が中心で、満州・朝鮮・中国と京浜を結ぶ定期航路を事業の土台とした。社名の変更からちょうど1年後の転換。船を貸す立場から自ら荷を集める運航へ移ったのは、華北向けの建設資材の荷動きが、自社の運賃収入として取り込める量に達したからと考えられる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [18]1939年4月、第一次計画造船4隻3,197重量トンの就航で天津航路の自営を開始。華北向けに建設資材・機械類・小麦粉などを輸送
- [19]1939年4月、第一次計画造船4隻3,197重量トンの就航で天津航路の自営を開始。華北向けに建設資材・機械類・小麦粉などを輸送
- [20]1939年4月、第一次計画造船4隻3,197重量トンの就航で天津航路の自営を開始。華北向けに建設資材・機械類・小麦粉などを輸送
- [21]1939年4月、第一次計画造船4隻3,197重量トンの就航で天津航路の自営を開始。華北向けに建設資材・機械類・小麦粉などを輸送
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [22]戦前は1,000〜1,500トン型の小型貨物船を中心に満・鮮・支〜京浜の定期航路で事業基盤を確立
三光汽船は続けて第二次新造船13隻15,199重量トンを加え、船腹を積み増した。第二次の1隻平均は約1,170重量トンで、第一次より一回り大きい船型を選んだ。第一次と第二次の新造を合わせると17隻18,396重量トンで、2年ほどで船隊の骨格ができた。主要航路は内地と華北、内地と朝鮮を結ぶ2本で、積み荷には石炭・鉱石・塩も入った。長期受託船2隻を合わせた船隊は20隻23,000重量トンとなり、小型海運界で最大の船腹を持つ会社に至った。満州・朝鮮・中国と京浜を結ぶ定期航路では、本邦最大の業者に数えられた。かさの大きい石炭や鉱石は船の数で運べる量が決まるため、天津航路で得た荷主との取引を船腹の量で受け止めようとしたのだろう。
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [23]第二次新造船13隻15,199重量トンで船腹を拡充。主要航路は内地・華北と内地・朝鮮で、石炭・鉱石・塩なども輸送。長期受託船2隻を含め20隻23,000重量トンとなり小型海運界で最大の船腹
- [24]第二次新造船13隻15,199重量トンで船腹を拡充。主要航路は内地・華北と内地・朝鮮で、石炭・鉱石・塩なども輸送。長期受託船2隻を含め20隻23,000重量トンとなり小型海運界で最大の船腹
- [25]第二次新造船13隻15,199重量トンで船腹を拡充。主要航路は内地・華北と内地・朝鮮で、石炭・鉱石・塩なども輸送。長期受託船2隻を含め20隻23,000重量トンとなり小型海運界で最大の船腹
- [26]第二次新造船13隻15,199重量トンで船腹を拡充。主要航路は内地・華北と内地・朝鮮で、石炭・鉱石・塩なども輸送。長期受託船2隻を含め20隻23,000重量トンとなり小型海運界で最大の船腹
- [27]第二次新造船13隻15,199重量トンで船腹を拡充。主要航路は内地・華北と内地・朝鮮で、石炭・鉱石・塩なども輸送。長期受託船2隻を含め20隻23,000重量トンとなり小型海運界で最大の船腹
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [28]満・鮮・支〜京浜の定期航路で本邦最大の業者となった
三光汽船は1940年9月、経営に失敗した中田造船所を引き受け、傘下の川上造船所と合わせて三光造船所として発足させた。中田造船所は三光汽船の計画造船を受注しており、両社は密接な取引関係にあった。この引き受けで、三光汽船は海運に加えて造船事業にも進出した。経営を率いたのは、1937年から社長を務める河本敏夫氏である。1911年生まれの河本敏夫氏は、このとき29歳で造船所の経営まで抱えることになった。発注先の破綻を放置すれば計画造船の船の引き渡しが滞るため、造船所を自社に取り込んで船の供給を確保しようとした意図がうかがえる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [29]1940年9月、計画造船の発注先で密接な関係にあった中田造船所が経営に失敗し、三光汽船が経営を引き受け。傘下の川上造船所とともに三光造船所として発足し造船事業に進出
- [30]1940年9月、計画造船の発注先で密接な関係にあった中田造船所が経営に失敗し、三光汽船が経営を引き受け。傘下の川上造船所とともに三光造船所として発足し造船事業に進出
- [31]1940年9月、計画造船の発注先で密接な関係にあった中田造船所が経営に失敗し、三光汽船が経営を引き受け。傘下の川上造船所とともに三光造船所として発足し造船事業に進出
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [32]役員欄:河本敏夫 明治44年生まれ、昭和12年社長
- [33]役員欄:河本敏夫 明治44年生まれ、昭和12年社長
参考文献[18]-[33]
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [18]1939年4月、第一次計画造船4隻3,197重量トンの就航で天津航路の自営を開始。華北向けに建設資材・機械類・小麦粉などを輸送
- [19]1939年4月、第一次計画造船4隻3,197重量トンの就航で天津航路の自営を開始。華北向けに建設資材・機械類・小麦粉などを輸送
- [20]1939年4月、第一次計画造船4隻3,197重量トンの就航で天津航路の自営を開始。華北向けに建設資材・機械類・小麦粉などを輸送
- [21]1939年4月、第一次計画造船4隻3,197重量トンの就航で天津航路の自営を開始。華北向けに建設資材・機械類・小麦粉などを輸送
- [23]第二次新造船13隻15,199重量トンで船腹を拡充。主要航路は内地・華北と内地・朝鮮で、石炭・鉱石・塩なども輸送。長期受託船2隻を含め20隻23,000重量トンとなり小型海運界で最大の船腹
- [24]第二次新造船13隻15,199重量トンで船腹を拡充。主要航路は内地・華北と内地・朝鮮で、石炭・鉱石・塩なども輸送。長期受託船2隻を含め20隻23,000重量トンとなり小型海運界で最大の船腹
- [25]第二次新造船13隻15,199重量トンで船腹を拡充。主要航路は内地・華北と内地・朝鮮で、石炭・鉱石・塩なども輸送。長期受託船2隻を含め20隻23,000重量トンとなり小型海運界で最大の船腹
- [26]第二次新造船13隻15,199重量トンで船腹を拡充。主要航路は内地・華北と内地・朝鮮で、石炭・鉱石・塩なども輸送。長期受託船2隻を含め20隻23,000重量トンとなり小型海運界で最大の船腹
- [27]第二次新造船13隻15,199重量トンで船腹を拡充。主要航路は内地・華北と内地・朝鮮で、石炭・鉱石・塩なども輸送。長期受託船2隻を含め20隻23,000重量トンとなり小型海運界で最大の船腹
- [29]1940年9月、計画造船の発注先で密接な関係にあった中田造船所が経営に失敗し、三光汽船が経営を引き受け。傘下の川上造船所とともに三光造船所として発足し造船事業に進出
- [30]1940年9月、計画造船の発注先で密接な関係にあった中田造船所が経営に失敗し、三光汽船が経営を引き受け。傘下の川上造船所とともに三光造船所として発足し造船事業に進出
- [31]1940年9月、計画造船の発注先で密接な関係にあった中田造船所が経営に失敗し、三光汽船が経営を引き受け。傘下の川上造船所とともに三光造船所として発足し造船事業に進出
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [22]戦前は1,000〜1,500トン型の小型貨物船を中心に満・鮮・支〜京浜の定期航路で事業基盤を確立
- [28]満・鮮・支〜京浜の定期航路で本邦最大の業者となった
- [32]役員欄:河本敏夫 明治44年生まれ、昭和12年社長
- [33]役員欄:河本敏夫 明治44年生まれ、昭和12年社長
1941年〜戦時標準船と買船23隻で埋めた船隊と、終戦時に残った14隻
三光汽船は第三次新造船の建造に着手した。太平洋戦争の開戦で、その就航は6隻6,393重量トンにとどまった。第三次の1隻平均は約1,070重量トンで、小型船を数で揃える方針は開戦の直前まで変わらなかった。開戦までに、三光汽船は1,000〜1,500トン型の小型貨物船を中心に計35隻へ船隊を拡充した。創業時の社船1隻から、7年あまりで35倍の隻数に達した計算になる。第一次から第三次までの新造は計23隻24,789重量トンで、開戦時の船隊35隻の3分の2ほどを占めた。残る12隻は創業時の社船や受託船、ほかの取得船で構成されていたと推し量れる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [34]第三次新造船の建造に着手したが太平洋戦争により6隻6,393重量トンの就航にとどまった。第一次4隻・第二次13隻
- [35]第三次新造船の建造に着手したが太平洋戦争により6隻6,393重量トンの就航にとどまった。第一次4隻・第二次13隻
- [36]第三次新造船の建造に着手したが太平洋戦争により6隻6,393重量トンの就航にとどまった。第一次4隻・第二次13隻
- [39]第三次新造船の建造に着手したが太平洋戦争により6隻6,393重量トンの就航にとどまった。第一次4隻・第二次13隻
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [37]1934年創業時は社船1隻、太平洋戦争突入時までに1,000〜1,500トン型小型貨物船など計35隻に拡充
- [38]1934年創業時は社船1隻、太平洋戦争突入時までに1,000〜1,500トン型小型貨物船など計35隻に拡充
新造が開戦で減った戦時下で、三光汽船は23隻の買船に動いた。あわせて船主3社を合併し、戦時標準船6隻を新造した。買船と戦時標準船だけで29隻にのぼり、合併した船主3社の持ち船がこれに加わった。開戦時に35隻だった船隊に対し、買船の23隻はその3分の2に近い規模だった。35隻に買船と戦時標準船の29隻を足すと64隻となり、合併分を除いても戦時中に抱えた船は60隻を超えた。新造で船を揃える戦前の方法から、既存の船と船主を取り込む方法への切り替え。新造の枠が戦時の統制で絞られるなか、既存の船を取得し、船主ごと取り込むことが、船腹を保つ数少ない手段だった可能性が高い。
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [40]太平洋戦争中に23隻を買船し、船主3社を合併、戦時標準船6隻を新造
- [41]太平洋戦争中に23隻を買船し、船主3社を合併、戦時標準船6隻を新造
- [42]太平洋戦争中に23隻を買船し、船主3社を合併、戦時標準船6隻を新造
- [45]太平洋戦争中に23隻を買船し、船主3社を合併、戦時標準船6隻を新造
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [43]太平洋戦争突入時までに計35隻の船隊
- [44]太平洋戦争突入時までに計35隻の船隊
戦禍で船を失い、三光汽船の終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トンとなった。合併分を除いても64隻を数えた船隊のうち、終戦まで残ったのは14隻にとどまった。終戦時の資本金は1,564万8千円だった。1隻平均は約2,015重量トンで、1,000〜1,500トン型が中心の戦前より1隻あたりの船型は大きい。戦後は国民食糧の確保と三光造船所の受注確保のために水産部を新設し、漁船8隻を建造した。続いて小型船を数で揃える戦前の方針を改め、大型の計画造船に加わった。戦後の三光汽船は、大型外航船の拡充へ経営資源を集中した。終戦時の船隊が1隻あたりで大きくなっていたことは、大型船へ転じる判断の下地になったと読める。
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [46]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- [47]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- [48]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- [49]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- [50]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- [51]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [52]戦後は大型外航船舶の拡充に注力し、大型タンカー・専用船中心に船隊を再編
参考文献[34]-[52]
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- [34]第三次新造船の建造に着手したが太平洋戦争により6隻6,393重量トンの就航にとどまった。第一次4隻・第二次13隻
- [35]第三次新造船の建造に着手したが太平洋戦争により6隻6,393重量トンの就航にとどまった。第一次4隻・第二次13隻
- [36]第三次新造船の建造に着手したが太平洋戦争により6隻6,393重量トンの就航にとどまった。第一次4隻・第二次13隻
- [39]第三次新造船の建造に着手したが太平洋戦争により6隻6,393重量トンの就航にとどまった。第一次4隻・第二次13隻
- [40]太平洋戦争中に23隻を買船し、船主3社を合併、戦時標準船6隻を新造
- [41]太平洋戦争中に23隻を買船し、船主3社を合併、戦時標準船6隻を新造
- [42]太平洋戦争中に23隻を買船し、船主3社を合併、戦時標準船6隻を新造
- [45]太平洋戦争中に23隻を買船し、船主3社を合併、戦時標準船6隻を新造
- [46]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- [47]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- [48]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- [49]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- [50]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- [51]戦禍により終戦時の残存船腹は14隻28,210重量トン、資本金は1,564万8千円。戦後、国民食糧確保と三光造船所の受注確保のため水産部を新設し漁船8隻を建造、小型船主義を改め大型計画造船に参加
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- [37]1934年創業時は社船1隻、太平洋戦争突入時までに1,000〜1,500トン型小型貨物船など計35隻に拡充
- [38]1934年創業時は社船1隻、太平洋戦争突入時までに1,000〜1,500トン型小型貨物船など計35隻に拡充
- [43]太平洋戦争突入時までに計35隻の船隊
- [44]太平洋戦争突入時までに計35隻の船隊
- [52]戦後は大型外航船舶の拡充に注力し、大型タンカー・専用船中心に船隊を再編
出典・参考
3件
- 会社銀行八十年史(1955年)「三光汽船」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三光汽船」
- Decide 3(3)(18) 1985年