野村徳七
経歴1901〜1926年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1901年主要役職の状況(推定含む目安)1926年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 野村徳七商店(野村商店) | 1901 | 兵役を終えて家業に戻り、北浜で株式の売買を担当 | ||
| 1906 | 大阪野村商報を創刊し調査部を設置 | ||||
| 1907 | 家督相続 | ||||
| 1918 | 証券業を弟の野村実三郎氏に譲る | ||||
| 大阪野村銀行 | 1918 | 創業 | |||
| 野村合名会社 | 1922 | 創業 | |||
| 野村ホールディングス(旧・野村證券) | 1926 | 創業 |
社長就任までの出自
出自
1878年8月7日、大阪市東区農人橋詰町で銭両替商を営む初代野村徳七氏の家に生まれ、信之助と名づけられた。明治30年代に入ると家業の両替はごく小さな商いとなり、店の商いは株式の売買が主になりつつあった。1901年11月に3年間の兵役を終えて伏見の工兵大隊を除隊し、北浜の取引所へ通って株式の売買を受け持った。両替と出納は弟の野村実三郎氏が担い、信之助氏が株式の売買を受け持つ分担である。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
日露戦争が始まると、信之助氏は戦費の散布が物価と株価を押し上げるとみて、株式の売買を本格的に広げる資本を父に求めた。投機を嫌う父は強く反対したが、店の金銭と出納のすべてを弟の実三郎氏に任せることを条件に、最終的に2万円を出した。当時の野村家の資産は4、5万円程度とされ、家の蓄えの半ばに近い額である。
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L596-L620
- [5]日露戦争で戦争インフレが早晩到来し、株式売買を本格的に展開する機会と信之助は確信し、父に資本を出すよう訴えた。父は「投機は大嫌いや」と頑強に反対。今後、店の金銭・出納のすべてを実三郎に委ねる条件で、父は二万円を出した。野村家の総資産はせいぜい四、五万円程度
- [6]日露戦争で戦争インフレが早晩到来し、株式売買を本格的に展開する機会と信之助は確信し、父に資本を出すよう訴えた。父は「投機は大嫌いや」と頑強に反対。今後、店の金銭・出納のすべてを実三郎に委ねる条件で、父は二万円を出した。野村家の総資産はせいぜい四、五万円程度
- [7]日露戦争で戦争インフレが早晩到来し、株式売買を本格的に展開する機会と信之助は確信し、父に資本を出すよう訴えた。父は「投機は大嫌いや」と頑強に反対。今後、店の金銭・出納のすべてを実三郎に委ねる条件で、父は二万円を出した。野村家の総資産はせいぜい四、五万円程度
店の看板からは両替商の3文字を外し、有価証券現物問屋の8文字を掲げた。電話を3本に増やして北浜に出張所を置き、1906年4月には大阪野村商報を創刊して、大阪毎日新聞の記者だった橋本奇策氏に調査部を任せた。調査部が会社の資産と業績を調べて銘柄を顧客に示す方式は、相場の強弱だけを追う当時の業者との違いになった。1906年末からの熱狂相場では売りに回り、1907年初めからの暴落を経て、同年末の店の全資産は500万〜700万円に達したとされる。同年9月、父の隠居によって家督を継ぎ、二代目徳七を名のった。
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L624-L664
- [8]最初に手がけたのは看板の書き換えで、両替商の三文字を抹殺し有価証券現物問屋の八文字を加えた。電話を三本に増設し北浜に電話つき出張所。三十九年四月十一日から大阪野村商報を発刊。大阪毎日新聞社経済部記者・橋本奇策を招致し、新設の調査部の責任者に据えた。証券業者は会社銀行の資産・業績を研究し、真価を見出して放資の対象として推奨すべきとした
- [9]最初に手がけたのは看板の書き換えで、両替商の三文字を抹殺し有価証券現物問屋の八文字を加えた。電話を三本に増設し北浜に電話つき出張所。三十九年四月十一日から大阪野村商報を発刊。大阪毎日新聞社経済部記者・橋本奇策を招致し、新設の調査部の責任者に据えた。証券業者は会社銀行の資産・業績を研究し、真価を見出して放資の対象として推奨すべきとした
- [10]最初に手がけたのは看板の書き換えで、両替商の三文字を抹殺し有価証券現物問屋の八文字を加えた。電話を三本に増設し北浜に電話つき出張所。三十九年四月十一日から大阪野村商報を発刊。大阪毎日新聞社経済部記者・橋本奇策を招致し、新設の調査部の責任者に据えた。証券業者は会社銀行の資産・業績を研究し、真価を見出して放資の対象として推奨すべきとした
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L316・L789-L812
- [11]明治三十九年末から熱狂相場、信之助は売り向かい四十年の大崩落で完全な勝利。四十年末の野村商店の全資産は概略五百万円ないし七百万円。父浄功隠居により明治四十年九月十三日家督相続、信之助は初代の名前「徳七」を襲名
- [12]明治三十九年末から熱狂相場、信之助は売り向かい四十年の大崩落で完全な勝利。四十年末の野村商店の全資産は概略五百万円ないし七百万円。父浄功隠居により明治四十年九月十三日家督相続、信之助は初代の名前「徳七」を襲名
1908年3月には欧米へ渡り、ニューヨークの証券会社で組織と調査部門の働きを確かめた。帰国後は調査部の人員を増やして調査・統計・編集・翻訳の係を置き、学校を出た人材の採用を進めた。1910年からは大阪と東京の業者による社債の現物引受団で中心を担い、1911年4月の尼崎紡績で初めて新株の募集を引き受けた。
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L844・L874-L891・L995-L1034
- [13]父親と死別した翌年(四十一年)三月、徳七は欧米に向けて日本を発った。ニューヨークの仲買店の組織と調査部の機能に驚嘆。帰国後、調査部長格の橋本奇策の下に調査・統計・編集・翻訳の係を置いて拡充し、学校出の店員を大量に採用する方針をとった
- [14]父親と死別した翌年(四十一年)三月、徳七は欧米に向けて日本を発った。ニューヨークの仲買店の組織と調査部の機能に驚嘆。帰国後、調査部長格の橋本奇策の下に調査・統計・編集・翻訳の係を置いて拡充し、学校出の店員を大量に採用する方針をとった
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L1350-L1372
- [15]四十三年十月以降、野村徳七商店を中心とした現物引受団が社債募集を相次いで成功させ、徳七は常任幹事として主導権を握った。東京の業者も加えた社債引き受け現物仲買団を結成。徳七が初めて新株募集を引き受けたのは四十四年四月の尼崎紡績
1918年には社債の信託に重きを置く大阪野村銀行を設け、8月1日に開業させた。このとき野村商店の証券業は実三郎氏に譲り、頭取には弟の野村元五郎氏を据え、自らは責任者の地位を避けて取締役にとどまった。支配人には日本興業銀行の貸付課長だった片岡音吾氏を招いた。同じ1918年の6月には、南方との貿易を担う資本金500万円の大東物産と、野村家の事業を統括する野村総本店も設けている。1920年秋に国債市場が開かれると、同行は行内に証券部を設けた。1922年には野村総本店にかわる統合機関として野村合名会社を設け、銀行や事業会社への出資をここに集めた。
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L2048-L2050・L2085・L2098・L2106・L2146
- [16]形式上、自分は責任者の地位を避け、野村商店の証券業を次弟の実三郎に譲り、新たに創立する野村銀行の頭取には三弟の元五郎をすえる。行名は大阪野村銀行に変更。初代支配人に日本興業銀行本店貸付課長の片岡音吾を招請。企業家を援助する社債信託事業に重きを置いた銀行経営を志した
- [18]形式上、自分は責任者の地位を避け、野村商店の証券業を次弟の実三郎に譲り、新たに創立する野村銀行の頭取には三弟の元五郎をすえる。行名は大阪野村銀行に変更。初代支配人に日本興業銀行本店貸付課長の片岡音吾を招請。企業家を援助する社債信託事業に重きを置いた銀行経営を志した
- [20]形式上、自分は責任者の地位を避け、野村商店の証券業を次弟の実三郎に譲り、新たに創立する野村銀行の頭取には三弟の元五郎をすえる。行名は大阪野村銀行に変更。初代支配人に日本興業銀行本店貸付課長の片岡音吾を招請。企業家を援助する社債信託事業に重きを置いた銀行経営を志した
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L2145・L2175
- [17]大阪野村銀行が開業したのは大正七年八月一日。重役陣は取締役頭取野村元五郎、取締役支配人片岡音吾、取締役野村徳七ら
- [19]大阪野村銀行が開業したのは大正七年八月一日。重役陣は取締役頭取野村元五郎、取締役支配人片岡音吾、取締役野村徳七ら
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L2146-L2149
- [21]大阪野村銀行の設立認可がおりた翌六月、徳七は大東物産と野村総本店を矢継ぎ早に設立した。大東物産の資本金は五百万円で、ダナウ・サラック農園への資材補給と広く南方各地との貿易を担う
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L2408-L2430
- [22]この年の秋、大蔵省と日本銀行の斡旋で国債市場が開設され、大阪野村銀行は真っ先にこの動きに乗り証券部新設を決めた。この証券部の新設は六年後の野村證券誕生へとつながる
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L2446・L2462
- [23]大正十一年には野村総本店にかわる組織として新たに野村合名会社が設立され、膨張する企業グループの統合機関の役目を果たした
証券部を銀行から切り離すよう強く求めたのは片岡音吾氏である。片岡音吾氏は米国でナショナル・シティ・バンクが証券部門を別会社にした例を調べ、1924年春に帰国して独立の方針を固めた。野村徳七氏は野村合名の幹部の同意を得て独立の準備を進め、社名はノムラ・ボンド・ハウスとの2案から野村證券株式会社に決めた。1926年1月4日に資本金50万円の野村證券株式会社が開業し、社長には片岡音吾氏が就任した。野村徳七氏は野村合名の代表社員として発起人8名に名を連ね、株式の大半を自身と野村合名で持ったが、野村證券の社長には就任していない。1928年には貴族院の勅選議員に任じられ、1945年に68歳で没した。
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L2860-L2944
- [24]証券部独立を強く訴えたのは支配人の片岡音吾。片岡はナショナルシティー・バンクの証券部が別会社として独立した例を研究し、ミッチェルとの会見で独立の腹を固め翌十三年春に帰国。徳七は野村合名の幹部たちの同意を取りつけ独立の準備。社名はノムラ・ボンド・ハウスと野村證券株式会社の二案が残り、徳七が断を下して野村證券株式会社で決着。大正十五年一月四日、野村證券株式会社が開業。重役陣は取締役社長片岡音吾、取締役野村元五郎ら。会社創立の発起人は徳七以下八名で、代表社員野村徳七の名義で野村合名会社が加わる。当初の資本金五十万円、総株式数十万株のうち徳七と合名の持ち株は九万八(以下、行が切れる)
- [25]証券部独立を強く訴えたのは支配人の片岡音吾。片岡はナショナルシティー・バンクの証券部が別会社として独立した例を研究し、ミッチェルとの会見で独立の腹を固め翌十三年春に帰国。徳七は野村合名の幹部たちの同意を取りつけ独立の準備。社名はノムラ・ボンド・ハウスと野村證券株式会社の二案が残り、徳七が断を下して野村證券株式会社で決着。大正十五年一月四日、野村證券株式会社が開業。重役陣は取締役社長片岡音吾、取締役野村元五郎ら。会社創立の発起人は徳七以下八名で、代表社員野村徳七の名義で野村合名会社が加わる。当初の資本金五十万円、総株式数十万株のうち徳七と合名の持ち株は九万八(以下、行が切れる)
- [26]証券部独立を強く訴えたのは支配人の片岡音吾。片岡はナショナルシティー・バンクの証券部が別会社として独立した例を研究し、ミッチェルとの会見で独立の腹を固め翌十三年春に帰国。徳七は野村合名の幹部たちの同意を取りつけ独立の準備。社名はノムラ・ボンド・ハウスと野村證券株式会社の二案が残り、徳七が断を下して野村證券株式会社で決着。大正十五年一月四日、野村證券株式会社が開業。重役陣は取締役社長片岡音吾、取締役野村元五郎ら。会社創立の発起人は徳七以下八名で、代表社員野村徳七の名義で野村合名会社が加わる。当初の資本金五十万円、総株式数十万株のうち徳七と合名の持ち株は九万八(以下、行が切れる)
- [27]証券部独立を強く訴えたのは支配人の片岡音吾。片岡はナショナルシティー・バンクの証券部が別会社として独立した例を研究し、ミッチェルとの会見で独立の腹を固め翌十三年春に帰国。徳七は野村合名の幹部たちの同意を取りつけ独立の準備。社名はノムラ・ボンド・ハウスと野村證券株式会社の二案が残り、徳七が断を下して野村證券株式会社で決着。大正十五年一月四日、野村證券株式会社が開業。重役陣は取締役社長片岡音吾、取締役野村元五郎ら。会社創立の発起人は徳七以下八名で、代表社員野村徳七の名義で野村合名会社が加わる。当初の資本金五十万円、総株式数十万株のうち徳七と合名の持ち株は九万八(以下、行が切れる)
- [28]証券部独立を強く訴えたのは支配人の片岡音吾。片岡はナショナルシティー・バンクの証券部が別会社として独立した例を研究し、ミッチェルとの会見で独立の腹を固め翌十三年春に帰国。徳七は野村合名の幹部たちの同意を取りつけ独立の準備。社名はノムラ・ボンド・ハウスと野村證券株式会社の二案が残り、徳七が断を下して野村證券株式会社で決着。大正十五年一月四日、野村證券株式会社が開業。重役陣は取締役社長片岡音吾、取締役野村元五郎ら。会社創立の発起人は徳七以下八名で、代表社員野村徳七の名義で野村合名会社が加わる。当初の資本金五十万円、総株式数十万株のうち徳七と合名の持ち株は九万八(以下、行が切れる)
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L3060-L3091
- [29]昭和三年四月四日、田中義一内閣は勅選議員七名の補充を閣議決定し、徳七は貴族院議員に任命された
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(1990)本文.txt L185
- [30]昭和二十年、徳七は六十八歳の生涯を閉じた
参考文献1件
参考文献
- 木村勝美『相場は狂せり 野村証券創始者・野村徳七の生涯』(徳間書店、1990)
事実根拠:出所(野村ホールディングス)