住友銀行:安宅産業の処理と平和相互銀行の合併による首都圏進出
1977年〜安宅産業の処理で償却した1132億円と、東洋工業の再建
住友銀行は1977年9月期、安宅産業向けの債権1132億円を貸し倒れとして一括で償却した。この決算では内部留保276億円も取り崩した。処理の現場は、1976年に常務から安宅産業の社長へ転じた小松康氏が指揮し、従業員3600人のうち2500人を整理する案で労組と向き合った。1977年6月に頭取に就任した磯田一郎氏は、手を引けば損失は小さく済んだと認めた。そのうえで、引き受けなければ『間違いなく内外に信用恐慌を起こしたと思います』と理由を明かした。償却の後も、清算会社のエーシー産業には1691億円の貸出が残った。磯田氏は同じ時期、3年以内に収益首位の座を取り戻す目標を掲げた。損失を一期に寄せたのは、翌期からの決算を首位回復の物差しに使える状態へ戻すためだったとみられる。
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- [1]1977年9月期に安宅産業向け債権1132億円を貸し倒れとして一括償却
- [2]安宅処理の決算で内部留保276億円を取り崩した
- [4]磯田頭取は、安宅から逃げていれば損失はうんと少なくて済んだと認めた
- [5]磯田頭取は、損失は承知で自らの意思で処理した、逃げていれば内外に信用恐慌を起こしたと答えた
- [6]安宅の清算会社エーシー産業に1691億円の貸出残があり、資産処分のめどは立っていなかった
- [7]磯田頭取は3年以内に収益トップの座を奪回する方針を示した
- 金融財政事情 35(1)(1984年1月2・9日号)
- [3]小松康は1976年に安宅産業へ出向し社長。安宅従業員3600人中2500人を整理する案で労組と交渉
1978年、住友銀行は大阪の関西相互銀行を吸収合併する構想を進めたが、同年秋に断念した。関西相互銀行の従業員はほぼ全員が反対に回り、8月2日には取引先が「関西相銀を守る会」を結成した。反対の中心は東大阪の取引先で、その多くは住友銀行が吸収した旧河内銀行の取引先だったという。住友銀行は専務の小松康氏を副頭取の岩沢正二氏の補佐に付け、株主や従業員へ手紙を送る説得に切り替えた。それでも9月13日、相互銀行協会の理事会は大蔵省銀行局長の働きかけを退け、合併反対を決議した。この構想には、大蔵省が新たな金融効率化行政の実績として後押ししていたという見方があった。安宅産業で失った収益源を、地元大阪の預金と中小企業取引で埋めようとした構想だったのだろう。
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- [8]住友銀行と関西相互銀行の合併構想は1978年秋に流産した
- [9]関西相銀の従業員のほぼ全員が反対し、8月2日に取引先が「関西相銀を守る会」を結成
- [10]守る会の強硬派は東大阪の取引先で、多くが住友と合併した旧河内銀行の取引先だった
- [12]銀行局長の圧力にかかわらず9月13日に相互銀行協会理事会が合併反対を決議
- 日経ビジネス 1978年9月25日号
- [11]住友銀行は小松康専務に岩沢正二副頭取の補佐を命じ、株主・取引先・従業員への手紙など対話作戦を取った
- [13]時評は、新金融効率化行政の実績を欲する官僚が合併を後押ししたとみた
1979年11月、住友銀行が主力銀行として支えてきた東洋工業は、米フォードから25%の出資を受け入れる資本提携にこぎつけた。住友銀行は1975年3月に住友信託銀行と緊急融資で資金繰りをつなぎ、同年12月には常務の村井勉氏を副社長として送った。頭取の磯田一郎氏は、広島経済の4分の1を占める企業を倒せば地元に従業員の再就職先がないとして、東洋工業を残す方針を固めていた。1977年7月には常務の巽外夫氏が磯田氏の親書を携えてデトロイトに渡り、フォード首脳と9時間に及ぶ会談を持った。出資比率に20〜25%の幅を持たせたのは、フォードの支配下に入ったと受け取られない線を探った結果だという。住友銀行は1981年度決算で富士銀行を抜き、都市銀行の収益首位に戻った。
- 日経ビジネス 1979年9月10日号
- [14]1979年9月7日の臨時株主総会でフォードの25%資本参加を承認し、11月1日に資本提携
- [15]1975年3月に住銀と住友信託が緊急融資。1975年12月に住銀常務の村井勉を副社長に派遣
- [16]磯田は東洋工業をつぶさないと決めていた。広島経済の4分の1を占め、再就職先も探せないため
- [18]基本合意の20〜25%の幅は、15%では少なく30〜35%ではフォード支配と受け取られるための選択と巽専務が説明
- 日経ビジネス 1988年1月4日号
- [17]1977年7月、常務の巽外夫が磯田頭取の親書を持ってデトロイトへ行き、フォード幹部と9時間会談
- 日経ビジネス 1982年9月20日号
- [19]住友銀行は1981年度(56年度)に富士銀行を抜いて収益首位に返り咲いた
参考文献[1]-[19]
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- [1]1977年9月期に安宅産業向け債権1132億円を貸し倒れとして一括償却
- [2]安宅処理の決算で内部留保276億円を取り崩した
- [4]磯田頭取は、安宅から逃げていれば損失はうんと少なくて済んだと認めた
- [5]磯田頭取は、損失は承知で自らの意思で処理した、逃げていれば内外に信用恐慌を起こしたと答えた
- [6]安宅の清算会社エーシー産業に1691億円の貸出残があり、資産処分のめどは立っていなかった
- [7]磯田頭取は3年以内に収益トップの座を奪回する方針を示した
- 金融財政事情 35(1)(1984年1月2・9日号)
- [3]小松康は1976年に安宅産業へ出向し社長。安宅従業員3600人中2500人を整理する案で労組と交渉
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- [8]住友銀行と関西相互銀行の合併構想は1978年秋に流産した
- [9]関西相銀の従業員のほぼ全員が反対し、8月2日に取引先が「関西相銀を守る会」を結成
- [10]守る会の強硬派は東大阪の取引先で、多くが住友と合併した旧河内銀行の取引先だった
- [12]銀行局長の圧力にかかわらず9月13日に相互銀行協会理事会が合併反対を決議
- 日経ビジネス 1978年9月25日号
- [11]住友銀行は小松康専務に岩沢正二副頭取の補佐を命じ、株主・取引先・従業員への手紙など対話作戦を取った
- [13]時評は、新金融効率化行政の実績を欲する官僚が合併を後押ししたとみた
- 日経ビジネス 1979年9月10日号
- [14]1979年9月7日の臨時株主総会でフォードの25%資本参加を承認し、11月1日に資本提携
- [15]1975年3月に住銀と住友信託が緊急融資。1975年12月に住銀常務の村井勉を副社長に派遣
- [16]磯田は東洋工業をつぶさないと決めていた。広島経済の4分の1を占め、再就職先も探せないため
- [18]基本合意の20〜25%の幅は、15%では少なく30〜35%ではフォード支配と受け取られるための選択と巽専務が説明
- 日経ビジネス 1988年1月4日号
- [17]1977年7月、常務の巽外夫が磯田頭取の親書を持ってデトロイトへ行き、フォード幹部と9時間会談
- 日経ビジネス 1982年9月20日号
- [19]住友銀行は1981年度(56年度)に富士銀行を抜いて収益首位に返り咲いた
1983年〜小松康頭取の下で買収したスイスのゴッタルド銀行と、ゴールドマン・サックスへの資本参加
1983年11月、頭取の磯田一郎氏は会長に移り、副頭取の小松康氏が頭取に就任した。交代の前年には、全銀協副会長の任期切れや1981年度の収益首位回復を区切りとして、磯田氏の勇退説が流れていた。小松氏は経理部長や審議室長を経たうえ、加州住友銀行や国際企画部長も務め、国際畑にも通じていた。磯田氏は交代の1年ほど前から後任選びと引き継ぎの体制づくりに入り、自分に仕事ができるのは5、6年がせいぜいとの考えを示した。後任には『前任者の路線を踏襲してというのでは困る』と告げてバトンを渡したという。小松氏は就任の挨拶で、創造性と顧客指向、やりがいのある職場づくりの3点を掲げた。ただ磯田氏は代表の座を離れずに会長として残り、のちの頭取人事を左右する位置を保ったと考えられる。
- 金融財政事情 35(1)(1984年1月2・9日号)
- [20]小松康は1981年副頭取、1983年(58年)11月頭取に就任。磯田は会長
- [24]磯田は前任者の路線を踏襲するのでは困ると言って小松にバトンを渡した
- [25]小松は行内向けの就任挨拶で創造性・顧客指向・やりがいのある職場づくりの3点を強調
- 日経ビジネス 1982年9月20日号
- [21]1982年9月時点で、全銀協副会長の任期切れ・56年度収益首位・バンカー・オブ・ザ・イヤーを花道に磯田勇退説
- [22]小松は経理部長・審議室長を歴任し、加州住友銀行副頭取・国際企画部長も務めた
- 日経ビジネス 1984年1月9日号
- [23]磯田は交代の1年ほど前から後任と引き継ぎ体制を準備し、何かやれるのは5、6年がせいぜいと語った
頭取の小松康氏の下で、住友銀行は1984年にスイスのゴッタルド銀行を買収した。買収の目的には、スイスでの信託・証券業務が掲げられた。背景には、大企業が銀行借入より内外の資本市場で直接資金を調達する流れがあり、ユーロ市場での外債引受を強める必要があった。ところが住友銀行系の現地法人が扱った日系企業の外債引受幹事の件数は、1983年の1位から1984年度に2位、1985年度に4位へ低下した。ゴッタルド銀行は日本の資本が多数を占める銀行とみなされて営業が伸びず、ユーロ市場の中心がロンドンだったことも重なった。暴落した永久債を多く抱えたことも、のちに問題となった。現地の銀行を買えば顧客も付いてくるという読みが、欧州の銀行界では通りにくかったと推察される。
- Decide 1987年
- [26]住友銀行は1984年(59年)2月にスイスのゴッタルド銀行を買収
- [30]ゴッタルド銀行は日本資本が多数の日本の銀行とみなされて不調、ユーロ市場もロンドン中心
- [31]ゴッタルド銀行絡みで暴落した永久債の保有が多かったことが問題となった
- 日経ビジネス 1986年10月13日号
- [27]都銀の外国金融機関買収の表で、住友のゴッタルド買収の目的はスイスでの信託・証券業務
- [28]大企業が銀行借入より資本市場で直接調達する傾向が強まり、住友の証券現地法人の不振はその対応不足の表れとされた
- [29]日系企業の外債引受幹事件数で住友は1983年1位、1984年度2位、1985年度4位
1986年8月6日、住友銀行は米投資銀行ゴールドマン・サックスへ約5億ドルを出資すると発表した。前年にマッキンゼーと業務を見直した折、欧州にある証券の現地法人は顧客に役立っていないとの指摘を受けていた。今回の出資は、議決権を持たない有限責任出資者として加わり、収益の約12.5%を1988年度末まで受け取ることになっていた。経営への参加も役員の派遣もしないことが条件だった。金融界では、銀行と証券を隔てる規制がなくなった場合に証券業務へ参入するための布石だとみられた。小松康頭取は狙いについて多くを語らず、『これは布石ではなく結論。言ってみれば“終点”だ』と言い切るにとどめた。ところが米連邦準備制度理事会は、役員はおろか研修生の派遣にまで制限を課した。ロンドンで合弁の証券会社を設ける案も認めなかった。
- 日経ビジネス 1986年10月13日号
- [32]1986年8月6日深夜、住友銀行はゴールドマン・サックスへの約5億ドルの資本参加を発表
- [33]前年初めのマッキンゼーによる業務見直しで、欧州の証券現地法人が顧客の役に立っていないと指摘された
- [34]出資形態はリミテッドパートナー(議決権なし)、収益参加比率は1988年度末までに約12.5%、経営不参加・役員不派遣
- [35]合意事項として、ゴールドマン・サックスの経営には参加せず役員も派遣しない
- [37]小松頭取は資本参加について布石ではなく結論、終点だと言い切った
- Decide 1986年
- [36]住友の狙いは、銀行と証券の垣根が取り払われた時に備え、いつでも証券業務に進出できる体制を整えることとされた
- Decide 1987年
- [38]FRBが経営参加・役員派遣・研修生派遣を規制し、ロンドンでの合弁証券子会社もFRBに阻止された
- [39]FRBが経営参加・役員派遣・研修生派遣を規制し、ロンドンでの合弁証券子会社もFRBに阻止された
参考文献[20]-[39]
- 金融財政事情 35(1)(1984年1月2・9日号)
- [20]小松康は1981年副頭取、1983年(58年)11月頭取に就任。磯田は会長
- [24]磯田は前任者の路線を踏襲するのでは困ると言って小松にバトンを渡した
- [25]小松は行内向けの就任挨拶で創造性・顧客指向・やりがいのある職場づくりの3点を強調
- 日経ビジネス 1982年9月20日号
- [21]1982年9月時点で、全銀協副会長の任期切れ・56年度収益首位・バンカー・オブ・ザ・イヤーを花道に磯田勇退説
- [22]小松は経理部長・審議室長を歴任し、加州住友銀行副頭取・国際企画部長も務めた
- 日経ビジネス 1984年1月9日号
- [23]磯田は交代の1年ほど前から後任と引き継ぎ体制を準備し、何かやれるのは5、6年がせいぜいと語った
- Decide 1987年
- [26]住友銀行は1984年(59年)2月にスイスのゴッタルド銀行を買収
- [30]ゴッタルド銀行は日本資本が多数の日本の銀行とみなされて不調、ユーロ市場もロンドン中心
- [31]ゴッタルド銀行絡みで暴落した永久債の保有が多かったことが問題となった
- [38]FRBが経営参加・役員派遣・研修生派遣を規制し、ロンドンでの合弁証券子会社もFRBに阻止された
- [39]FRBが経営参加・役員派遣・研修生派遣を規制し、ロンドンでの合弁証券子会社もFRBに阻止された
- 日経ビジネス 1986年10月13日号
- [27]都銀の外国金融機関買収の表で、住友のゴッタルド買収の目的はスイスでの信託・証券業務
- [28]大企業が銀行借入より資本市場で直接調達する傾向が強まり、住友の証券現地法人の不振はその対応不足の表れとされた
- [29]日系企業の外債引受幹事件数で住友は1983年1位、1984年度2位、1985年度4位
- [32]1986年8月6日深夜、住友銀行はゴールドマン・サックスへの約5億ドルの資本参加を発表
- [33]前年初めのマッキンゼーによる業務見直しで、欧州の証券現地法人が顧客の役に立っていないと指摘された
- [34]出資形態はリミテッドパートナー(議決権なし)、収益参加比率は1988年度末までに約12.5%、経営不参加・役員不派遣
- [35]合意事項として、ゴールドマン・サックスの経営には参加せず役員も派遣しない
- [37]小松頭取は資本参加について布石ではなく結論、終点だと言い切った
- Decide 1986年
- [36]住友の狙いは、銀行と証券の垣根が取り払われた時に備え、いつでも証券業務に進出できる体制を整えることとされた
1986年〜預金約24兆円に届いた平和相互銀行の合併と、会長磯田一郎の下の土地所有層への融資
1986年10月1日、住友銀行は首都圏を中心に103店舗を持つ平和相互銀行を吸収合併した。1985年3月には、創業家の持つ平和相互銀行株を川崎定徳が買い取る話が、伊藤万社長の河村良彦氏から会長の磯田一郎氏に伝わっていた。大企業との取引で利ざやを得にくくなり、国内の機会は中小企業と個人にあるとみた住友銀行にとって、支店の数は取引拡大の条件だった。磯田氏は、同じ規模の店網を自力で作れば『今あれだけの店を自分で作ろうとしたら 100年かかる』と、合併で時間を買った理由を示した。他の主要行が不良債権と3300人の従業員の扱いにためらうなか、住友銀行は初めから全員の雇用を引き受けると大蔵省に伝えた。頭取の小松康氏は、合併に伴う減益を3年目に克服し、利益首位へ戻る目標を掲げた。
- 日経ビジネス 1986年10月13日号
- [40]1986年10月1日に合併セレモニー。平和相互の合併で103店舗が増えた
- [42]大企業取引で儲けにくくなり、国内の機会は中小企業・個人にあるため支店数が競争の条件になるという発想
- [43]磯田会長は今あれだけの店を自分で作ろうとしたら100年かかると語った
- [44]他行は不良債権と3300人の扱いで二の足を踏んだが、住友は初めから3300人全員の面倒をみると大蔵省に伝えた
- [45]小松頭取は3年目に合併に伴う減益を克服し、利益日本一に復帰する目標を掲げた
- 日経ビジネス 1986年4月28日号
- [41]1985年3月下旬、河村良彦が小宮山一族の平和相互株を川崎定徳が買い取ると磯田会長に伝えた
1987年8月21日、会長の磯田一郎氏は頭取の小松康氏を退かせ、副頭取の巽外夫氏を昇格させる人事を内定した。巽氏は10月1日付で頭取に就任し、小松氏は代表権を持つ副会長に移った。表向きの交代理由は、小松氏の目の不調とされた。これに先立つ1987年1月末には、小松氏を支えた企画担当の青木久夫氏と国際担当の熊谷一弥氏の両副頭取が関連会社へ転じていた。交代の背景には、ゴールドマン・サックスへの出資が米国の規制で単なる投資にとどまった責任があったとされる。ゴッタルド銀行の不調も、国際部門の遅れとして問われた。巽氏は東洋工業の再建で行内の指揮を任され、1982年に副頭取となっていた。会長の磯田氏が頭取の任期と後任を決める構図が、この交代で行内に示されたと読める。
- Decide 1987年
- [46]1987年8月21日の取締役会で磯田会長が小松頭取を更迭し巽外夫副頭取の昇格を内定、10月1日付就任
- [47]表向きの交代理由は小松の目の不調。小松は代表権のある副会長に退いた
- [48]表向きの交代理由は小松の健康上の問題(目の不調)とされた
- [49]1987年1月末、企画担当の青木久夫副頭取と国際担当の熊谷一弥副頭取が退任し関連会社へ転出
- [50]ゴールドマン・サックス出資が当初の目的を果たせず、議決権のない株式取得の単なる投資にとどまった責任を小松が負ったとされる
- [51]国際部門の遅れとして、1984年2月に買収したゴッタルド銀行の不調も挙げられた
- 日経ビジネス 1988年1月4日号
- [52]巽外夫は東洋工業再建で行内指揮を任され、1982年副頭取、1987年10月頭取に就任
住友銀行は1988年9月中間決算で、経常・営業・税引き後の3つの利益で都市銀行の首位に戻った。合併時に掲げた1990年3月期の首位奪回を、1年半早く果たした形だった。1987年4月の支店長会議では中小企業と個人資産家の重点強化を打ち出した。1988年1月には総本部制を廃止し、支店の提案営業を支える法人部を置いた。首都圏では土地の有効活用や相続税対策を切り口に、ビルやマンションの建設資金を貸す営業が広がった。貸出金に占める不動産業向けの比率は、1986年3月期の7.9%から1989年3月期の12.1%に上がった。旧平和相互銀行の約100店のうち赤字店は、1987年9月末に数店まで減った。収益首位の回復は、地価上昇で膨らんだ担保価値に支えられていたとみてよい。
- 日経ビジネス 1989年1月30日号
- [53]1988年9月中間決算で経常・営業・税引後の3部門で利益トップ。目標の1990年3月期首位奪回より1年半早い
- [54]平和相互銀行の合併後、1990年3月期決算での首位奪回を目標に掲げていた
- [59]1987年9月末時点で旧平相店約100店舗のうち赤字店は数店舗
- 日経ビジネス 1989年8月14日号
- [55]1987年4月の支店長会議でミドルマーケット重点強化。1988年1月に総本部制を廃止し法人部を新設
- [56]1988年1月の組織改革で総本部制を廃止し、支店の提案営業を支援する法人部を新設
- [57]首都圏で土地所有者層に、有効活用・相続税対策を切り口にビル・マンション建設を提案し融資
- [58]貸出金の業種別内訳で不動産は1986年3月期7.9%、1989年3月期12.1%
参考文献[40]-[59]
- 日経ビジネス 1986年10月13日号
- [40]1986年10月1日に合併セレモニー。平和相互の合併で103店舗が増えた
- [42]大企業取引で儲けにくくなり、国内の機会は中小企業・個人にあるため支店数が競争の条件になるという発想
- [43]磯田会長は今あれだけの店を自分で作ろうとしたら100年かかると語った
- [44]他行は不良債権と3300人の扱いで二の足を踏んだが、住友は初めから3300人全員の面倒をみると大蔵省に伝えた
- [45]小松頭取は3年目に合併に伴う減益を克服し、利益日本一に復帰する目標を掲げた
- 日経ビジネス 1986年4月28日号
- [41]1985年3月下旬、河村良彦が小宮山一族の平和相互株を川崎定徳が買い取ると磯田会長に伝えた
- Decide 1987年
- [46]1987年8月21日の取締役会で磯田会長が小松頭取を更迭し巽外夫副頭取の昇格を内定、10月1日付就任
- [47]表向きの交代理由は小松の目の不調。小松は代表権のある副会長に退いた
- [48]表向きの交代理由は小松の健康上の問題(目の不調)とされた
- [49]1987年1月末、企画担当の青木久夫副頭取と国際担当の熊谷一弥副頭取が退任し関連会社へ転出
- [50]ゴールドマン・サックス出資が当初の目的を果たせず、議決権のない株式取得の単なる投資にとどまった責任を小松が負ったとされる
- [51]国際部門の遅れとして、1984年2月に買収したゴッタルド銀行の不調も挙げられた
- 日経ビジネス 1988年1月4日号
- [52]巽外夫は東洋工業再建で行内指揮を任され、1982年副頭取、1987年10月頭取に就任
- 日経ビジネス 1989年1月30日号
- [53]1988年9月中間決算で経常・営業・税引後の3部門で利益トップ。目標の1990年3月期首位奪回より1年半早い
- [54]平和相互銀行の合併後、1990年3月期決算での首位奪回を目標に掲げていた
- [59]1987年9月末時点で旧平相店約100店舗のうち赤字店は数店舗
- 日経ビジネス 1989年8月14日号
- [55]1987年4月の支店長会議でミドルマーケット重点強化。1988年1月に総本部制を廃止し法人部を新設
- [56]1988年1月の組織改革で総本部制を廃止し、支店の提案営業を支援する法人部を新設
- [57]首都圏で土地所有者層に、有効活用・相続税対策を切り口にビル・マンション建設を提案し融資
- [58]貸出金の業種別内訳で不動産は1986年3月期7.9%、1989年3月期12.1%
1977年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1977年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 16,013 | n/a | 1,051 | 6.6% | 556 | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 16,184 | +1.1% | 1,571 | 9.7% | 599 | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 16,618 | +2.7% | 1,673 | 10.1% | 783 | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 20,555 | +23.7% | 1,584 | 7.7% | 750 | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
14件
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- 日経ビジネス 1978年9月25日号
- 日経ビジネス 1979年9月10日号
- 日経ビジネス 1982年9月20日号
- 日経ビジネス 1984年1月9日号
- 日経ビジネス 1986年10月13日号
- 日経ビジネス 1986年4月28日号
- 日経ビジネス 1988年1月4日号
- 日経ビジネス 1989年1月30日号
- 日経ビジネス 1989年8月14日号
- 金融財政事情 35(1)(1984年1月2・9日号)
- Decide 1986年
- Decide 1987年