ヤオハン:上海第一八佰伴の開店から会社更生法の申請まで
浦東の百貨店と1,000店構想から主力16店の売却、負債1,689億円での更生法申請へ
1995年〜上海第一八佰伴の開店とグループ本部の浦東移転
和田一夫氏が上海に賭けた根拠は、長江下流域の消費の伸びにあった。上海市に江蘇・浙江の両省を加えた地域は人口1億2,000万人で中国のGNPの3割を占め、消費は年20%を超えて伸びていると一夫氏はみていた。中国で最初に上位の中間層が育つのもこの地域だという読みである。1995年12月、浦東新区に売場面積11万3,000平方メートルの百貨店ネクステージ上海が開業し、部分開業の初日には100万人を超える市民が詰めかけた。運営する上海第一八佰伴は、香港の持株会社YIHが36%、ヤオハンジャパンが19%、上海第一百貨店が45%を出す合弁であった。翌1996年6月に一夫氏は住まいを上海へ移し、7月1日にはグループ本部も香港から浦東へ移している。本部とは建物ではなく最高経営責任者の居る場所だというのが、一夫氏の考え方であった。
- JMAマネジメントレビュー 1996年8月号「ヤオハン和田代表の21世紀戦略 上海を本拠に中国の流通革命に挑む」(和田一夫)
- [1]上海市・江蘇省・浙江省の1市2省は人口1億2,000万人で中国のGNPの3割を占め、消費は軒並み20%以上伸びていると和田一夫は述べた
- [2]和田一夫はこの地域が中国で最も早くアッパーミドル層を形成すると考えていた
- [7]和田一夫は立派なビルのある所ではなく、CEOのいる所が本部だと述べた
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [3]1995年12月、上海・浦東新区に売り場面積11万3,000平方メートルの百貨店「ネクステージ上海」が開店した
- Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
- [4]1995年12月の部分開業初日には100万人を超す上海市民が来店した
- [6]1996年6月2日に和田一夫は住まいを香港から上海・浦東新区へ移し、7月1日にグループ本部も同新区へ移転した
- 日経ビジネス 1997年10月20日号
- [5]上海第一八佰伴の出資比率はヤオハン・インターナショナル・ホールディングス36%、ヤオハンジャパン19%、上海第一百貨店45%
中国への投資の出し方について、一夫氏はヤオハンジャパンとは別の会社から出していると繰り返した『中国への投資は日本(ヤオハンジャパン)からではなく香港(ヤオハンインターナショナル・ホールディングス)から行っています。この2つの会社はまったく別もので,仮に中国事業が失敗してもヤオハンジャパンの株主の皆さんにご迷惑をかけることはありません。』。百貨店は初年度から償却前の利益を確保できる見込みで、大きな投資はほぼ終えたので5年で回収するという見通しも示している。ただし、切り離しは資本の系列の上にとどまった。ヤオハンジャパンは上海第一八佰伴の借入のうち4,000万米ドル(約45億円)を保証しており、出資比率に照らせばYIHより重い負担を負っていた。1996年3月期末には、ヤオハンジャパンの関連会社への投融資が国内371億円に対し、香港84億円、中国32億円、それ以外の海外345億円に及んでいた。香港の信用だけでは足りない分を、日本の上場会社の信用で埋める構図であった。
- JMAマネジメントレビュー 1996年8月号「ヤオハン和田代表の21世紀戦略 上海を本拠に中国の流通革命に挑む」(和田一夫)
- [8]和田一夫は中国への投資はヤオハンジャパンではなく香港のヤオハンインターナショナル・ホールディングスから行っていると説明した
- [9]和田一夫は上海の百貨店が初年度から償却前利益を確保できそうだとし、大きな投資はほぼ終わったのでほぼ5年で回収したいと述べた
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [10]上海第一八佰伴への金融機関の融資に対し、YIHが4,800万米ドル、ヤオハンジャパンが4,000万米ドル(約45億円)を保証し、出資比率を考えるとヤオハンジャパンの保証が相対的に大きい
- 日経ビジネス 1997年4月7日号
- [11]1996年3月期末のヤオハンジャパンの関連会社への投融資は国内371億円、香港84億円、中国32億円、香港・中国を除く海外345億円
百貨店と並んで掲げたのが、中国でのスーパー1,000店構想である。2010年に1,000店を目指す計画で、1997年半ばまでに上海と無錫で36店を開いた。構想にはファストフード3,000店も並び、中国事業全体で1999年12月期に売上高1,000億円を目標とした。グループが中国に投じた資金は総額600億円に達し、一時は上海だけで日本から160人の社員が送り込まれている。その間、国内の単体の業績は伸びを失っていた。1996年3月期の売上高は1,615億円と前期の1,528億円を上回ったものの、当期純利益は8億円から6億円へ減った。国内の店を支える人と資金が海を渡った分、足元の利益が細っていった。
- 日経ビジネス 1997年11月10日号
- [12]和田一夫は中国で「スーパー1000店構想」を打ち出した
- [14]大型ショッピングセンター構想、スーパー1000店構想、ファストフード3000店構想などにより、99年12月期に売上高1,000億円を目指す計画を掲げた
- [16]一時期は上海だけで日本から160人の社員が送り込まれた
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [13]2010年に1,000店を目指して展開を始めたスーパーマーケット事業は、上海と無錫に36店を出店した(1997年7月時点)
- [15]八佰伴グループがこれまでに中国に投じた資金は総額600億円に達する
- ヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』・1995年3月期〜1997年3月期)
- [17]単体売上高は1995年3月期1,528億円、1996年3月期1,615億円。当期純利益は8億円から6億円
参考文献[1]-[17]
- JMAマネジメントレビュー 1996年8月号「ヤオハン和田代表の21世紀戦略 上海を本拠に中国の流通革命に挑む」(和田一夫)
- [1]上海市・江蘇省・浙江省の1市2省は人口1億2,000万人で中国のGNPの3割を占め、消費は軒並み20%以上伸びていると和田一夫は述べた
- [2]和田一夫はこの地域が中国で最も早くアッパーミドル層を形成すると考えていた
- [7]和田一夫は立派なビルのある所ではなく、CEOのいる所が本部だと述べた
- [8]和田一夫は中国への投資はヤオハンジャパンではなく香港のヤオハンインターナショナル・ホールディングスから行っていると説明した
- [9]和田一夫は上海の百貨店が初年度から償却前利益を確保できそうだとし、大きな投資はほぼ終わったのでほぼ5年で回収したいと述べた
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [3]1995年12月、上海・浦東新区に売り場面積11万3,000平方メートルの百貨店「ネクステージ上海」が開店した
- [10]上海第一八佰伴への金融機関の融資に対し、YIHが4,800万米ドル、ヤオハンジャパンが4,000万米ドル(約45億円)を保証し、出資比率を考えるとヤオハンジャパンの保証が相対的に大きい
- [13]2010年に1,000店を目指して展開を始めたスーパーマーケット事業は、上海と無錫に36店を出店した(1997年7月時点)
- [15]八佰伴グループがこれまでに中国に投じた資金は総額600億円に達する
- Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
- [4]1995年12月の部分開業初日には100万人を超す上海市民が来店した
- [6]1996年6月2日に和田一夫は住まいを香港から上海・浦東新区へ移し、7月1日にグループ本部も同新区へ移転した
- 日経ビジネス 1997年10月20日号
- [5]上海第一八佰伴の出資比率はヤオハン・インターナショナル・ホールディングス36%、ヤオハンジャパン19%、上海第一百貨店45%
- 日経ビジネス 1997年4月7日号
- [11]1996年3月期末のヤオハンジャパンの関連会社への投融資は国内371億円、香港84億円、中国32億円、香港・中国を除く海外345億円
- 日経ビジネス 1997年11月10日号
- [12]和田一夫は中国で「スーパー1000店構想」を打ち出した
- [14]大型ショッピングセンター構想、スーパー1000店構想、ファストフード3000店構想などにより、99年12月期に売上高1,000億円を目指す計画を掲げた
- [16]一時期は上海だけで日本から160人の社員が送り込まれた
- ヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』・1995年3月期〜1997年3月期)
- [17]単体売上高は1995年3月期1,528億円、1996年3月期1,615億円。当期純利益は8億円から6億円
1996年〜社債470億円の償還と主力16店のセイフーへの売却
危機が表に出たのは1996年11月末で、117億円のワラント債の償還を前に資金繰りの悪化が明るみに出た。12月10日の償還は保証先の大和銀行などからの借り換えで乗り切ったが、1996年3月末の時点で社債は約470億円が未償還のまま残り、1997年5月に約100億円、2001年までにさらに400億円弱の償還を控えていた。これに対し、1996年3月期の経常利益は46億5,000万円にすぎない。12月16日のリストラ案の会見で具体策が示されず、11月19日に740円だった株価は12月19日に363円まで落ちた。資金を市場から集めてきたことの裏側を、のちに社長となる和田光正氏は銀行との関係の薄さとして振り返っている『市場から簡単におカネが入るので、どうしても金融機関との十分な関係をつくれなかったのです。』。
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [18]1996年11月末、ワラント債117億円の償還に際してヤオハンジャパンの資金繰りの悪化が明らかになった
- 日経ビジネス 1997年1月6日号
- [19]1996年12月10日に償還した米ドル建てワラント債は、保証先の大和銀行などからの借り換えでしのいだ
- [20]社債の未償還残高は1996年3月末で約470億円。1997年5月に約100億円、2001年までに400億円弱の償還が控える
- [21]1996年3月期の経常利益は46億5,000万円
- [22]12月16日のリストラ案発表の会見で具体的な対応策は語られず、11月19日に740円だった株価は12月19日の終値で363円となった
- 日経ビジネス 1997年4月7日号
- [23]和田光正は、八佰伴グループが株式市場から直接資金を調達して拡大してきたため、金融機関と十分な関係を築けなかったことを反省点に挙げた
1997年1月、副社長だった和田光正氏が社長に就き、一夫氏から財務の立て直しを任された。2月3日に公表した計画は、1999年3月期に有利子負債を単体で40%減の600億円、連結で45%減の900億円まで落とすものであったが、利益の目標は記者に問われても最後まで出さなかった。光正氏の見立てでは、1996年3月期末の総資産1,789億円に対して営業利益は49億5,000万円で、総資産営業利益率は3%ほどしかない。単体1,018億円の有利子負債を2年で400億円削り、利益を落とさずに資産を縮めることを柱に据えた。中国でも1月初めに、スーパーを含む新規出店を1年間止めると決めている。
- 日経ビジネス 1997年4月7日号
- [24]和田光正は1989年に副社長となり、1997年1月にヤオハンジャパン社長に就任した
- [28]ヤオハンジャパンの総資産は1996年3月期末で1,789億円、営業利益は49億5,000万円で、総資産営業利益率は3%ほど
- [29]和田光正は1,018億円の有利子負債を2年間で400億円減らし、資産を圧縮しつつ利益を落とさずに利益率を高める目標を示した
- 日経ビジネス 1997年1月6日号
- [25]和田一夫代表は新社長の和田光正に財務のリストラを託すとした
- 日経ビジネス 1997年2月10日号
- [26]2月3日の記者会見で、1999年3月期に有利子負債を単体で40%減の600億円、連結で45%減の900億円にする目標を示した
- [27]99年3月期の利益目標について和田光正社長は最後まで具体的な数字を明かさなかった
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [30]八佰伴グループは1997年1月初め、中国でのスーパーマーケットを含む新規出店を1年間凍結すると発表した
資産売却の核に据えたのは、国内の主力店の切り離しであった。2月17日、ヤオハンジャパンはダイエー子会社のセイフーへ国内16店を330億円で売ると発表した。仲介に立ったのは主力銀行の東海銀行である。16店は年に20億円の営業利益を上げる店で、売上の4割を担っていた。稼ぐ店をなぜ手放すのかという声に、光正氏は社員の雇用を理由に挙げた『収益性の高いうちに店舗を売却すれば、そこの社員も相手先企業に引き取ってもらいやすいからです。』。ブラジルから完全に撤退した際、現地で雇った社員が職を失った経験が念頭にあった。1997年5月、直営15店が304億円でセイフーへ営業譲渡された。雇用を守る売却は、同時に負債を返す力の源を手放すことでもあった。
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [31]1997年2月17日、ヤオハンジャパンはダイエー子会社のセイフーに国内16店舗を330億円で売却すると発表した
- [34]売り上げの4割を稼いでいた主力店を一挙に手放した
- Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
- [32]セイフーへの店舗売却を仲介したのは東海銀行
- 日経ビジネス 1997年4月7日号
- [33]ダイエーへ売却する16店舗では年間20億円の営業利益を稼いでいた
- [35]収益性の高い店舗を売ったことについて、和田光正は社員の雇用確保を考えてのことだと説明した
- [36]ブラジル店の閉鎖は完全撤退で、現地採用の社員は職を失った。和田光正はその二の舞いを避けたかったと述べた
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [37]1997年5月 直営15店舗をセイフーに営業譲渡(売却代金304億円)
参考文献[18]-[37]
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [18]1996年11月末、ワラント債117億円の償還に際してヤオハンジャパンの資金繰りの悪化が明らかになった
- [30]八佰伴グループは1997年1月初め、中国でのスーパーマーケットを含む新規出店を1年間凍結すると発表した
- [31]1997年2月17日、ヤオハンジャパンはダイエー子会社のセイフーに国内16店舗を330億円で売却すると発表した
- [34]売り上げの4割を稼いでいた主力店を一挙に手放した
- 日経ビジネス 1997年1月6日号
- [19]1996年12月10日に償還した米ドル建てワラント債は、保証先の大和銀行などからの借り換えでしのいだ
- [20]社債の未償還残高は1996年3月末で約470億円。1997年5月に約100億円、2001年までに400億円弱の償還が控える
- [21]1996年3月期の経常利益は46億5,000万円
- [22]12月16日のリストラ案発表の会見で具体的な対応策は語られず、11月19日に740円だった株価は12月19日の終値で363円となった
- [25]和田一夫代表は新社長の和田光正に財務のリストラを託すとした
- 日経ビジネス 1997年4月7日号
- [23]和田光正は、八佰伴グループが株式市場から直接資金を調達して拡大してきたため、金融機関と十分な関係を築けなかったことを反省点に挙げた
- [24]和田光正は1989年に副社長となり、1997年1月にヤオハンジャパン社長に就任した
- [28]ヤオハンジャパンの総資産は1996年3月期末で1,789億円、営業利益は49億5,000万円で、総資産営業利益率は3%ほど
- [29]和田光正は1,018億円の有利子負債を2年間で400億円減らし、資産を圧縮しつつ利益を落とさずに利益率を高める目標を示した
- [33]ダイエーへ売却する16店舗では年間20億円の営業利益を稼いでいた
- [35]収益性の高い店舗を売ったことについて、和田光正は社員の雇用確保を考えてのことだと説明した
- [36]ブラジル店の閉鎖は完全撤退で、現地採用の社員は職を失った。和田光正はその二の舞いを避けたかったと述べた
- 日経ビジネス 1997年2月10日号
- [26]2月3日の記者会見で、1999年3月期に有利子負債を単体で40%減の600億円、連結で45%減の900億円にする目標を示した
- [27]99年3月期の利益目標について和田光正社長は最後まで具体的な数字を明かさなかった
- Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
- [32]セイフーへの店舗売却を仲介したのは東海銀行
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [37]1997年5月 直営15店舗をセイフーに営業譲渡(売却代金304億円)
1997年〜純損失359億円から会社更生法の申請とジャスコの支援へ
店の売却は、手元に資金を残さなかった。売却代金はほとんどが銀行への返済に回り、5月には96億円の転換社債の償還が重なって、資金繰りは再び行き詰まった。1997年3月期の単体売上高は1,568億円で、当期純損失は359億円に達した。英国子会社に対する債権の貸倒引当金などを特別損失に積んだためで、日本公社債研究所は既発債の格付けをシングルBへ下げた。7月10日、光正氏は和議申請の報道を打ち消す会見を開き、大手取引先60社と約45億円の買掛金の支払いを一時棚上げすることで合意したと明かした。下期に百貨店の業態を売って約100億円を得る見込みも示している。取引先への支払いを延ばしてしのぐ段階に入った時点で、再建の手立ては店の外に移っていた。
- Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
- [38]セイフーへの店舗売却で得た資金はヤオハンの手元にほとんど残らず、銀行への返却資金となった
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [39]5月の転換社債償還(96億円)で再び資金繰りの悪化が表面化した。店舗売却で得た330億円の大半を銀行借り入れの返済に回さざるを得なかった
- [41]1996年度決算で英国子会社に対する債権の貸倒引当金などを特別損失に計上し、最終損益は359億円の赤字となった。日本公社債研究所は既発行債券の格付けをシングルBに変更した
- [42]1997年7月10日、和田光正社長は和議申請の報道を否定する会見を開き、約45億円の買掛金の一時棚上げで大手取引先60社と合意していると述べた
- [43]和田光正社長は下期に百貨店業態の売却で約100億円の調達を見込んでいるとした
- ヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』・1995年3月期〜1997年3月期)
- [40]1997年3月期の単体売上高は1,568億円、当期純利益は▲359億円
1997年9月18日の午後5時、ヤオハンジャパンは東京証券取引所で会社更生法の申請を発表した。主力銀行の東海銀行に連絡が入ったのは、会見のわずか30分前であった。6月末に取引先へ手形の繰り延べを頼んで以降、相談に応じる金融機関は減り、8月には地元の信用金庫や信用組合にまで協力を求めていた。8月下旬、一夫氏が香港の友人から200億円の融資が入ると地元紙に語ると、財務部門が交渉していた金融機関は一斉に手を引いた。銀行との関係は、取引先の反対を押し切って本部を香港へ移した1990年を境に冷えていた。1990年3月期に451億円だった連結の有利子負債は、1997年3月期には1,689億円となり、総資産の73%を占めた。申請は時期だけが問われる段階にあった。
- 日経ビジネス 1997年9月29日号
- [44]1997年9月18日午後5時から、ヤオハンは東京証券取引所で会社更生法申請の記者会見を開いた
- [45]主力銀行の東海銀行に連絡が入ったのは会見のわずか30分前だった
- [46]6月末に取引先へ手形の繰り延べを依頼した後、相談に乗った金融機関は東京相和銀行だけといわれ、8月には地元の信用金庫や信用組合にまで協力を要請していた
- [47]和田一夫代表が8月下旬に香港の友人から200億円の融資が入ると地元新聞社に語ったことで、財務部門が交渉を進めていた金融機関が一斉に手を引いた
- [48]金融機関との関係は1990年の香港への本社移転を境に冷ややかになった。当時の取引先金融機関は揃って香港進出に反対した
- [49]連結ベースの有利子負債は1990年3月期の451億円から1997年3月期には1,689億円となり、総資産に占める割合は73%に達した
- Decide 1997年15巻7号(白尾芳輝)
- [50]ヤオハンジャパンの会社更生法申請は以前から予測されており、問題はいつかという時間だけだった
再建の支援を表明したのはジャスコであった。ただし支援には海外事業を完全に切り離すという前提が付き、ジャスコの岡田元也社長はその条件をはっきり示した『海外事業の完全な切り離しが前提条件』。一夫氏が日本とは別だと説いてきた香港と中国の事業も、申請の後は急速に弱った。香港・マカオに10店を持つヤオハン香港では有力な納入業者が商品を止め、1997年3月期は9,991万香港ドルの営業赤字で、3期続けての赤字となった。上海第一八佰伴では3月に日本人幹部6人がそろって退社しており、グループは自前で店を回せなくなっていた。1997年12月、会社更生手続の開始が決まり、ヤオハンジャパンは海外事業から手を引いた。海外で市場を取って国内へ持ち帰るという創業期からの順序は、国内の店を他社に委ねる形で終わった。
- 日経ビジネス 1997年10月20日号
- [51]ヤオハンジャパンの再建に関してジャスコが支援を発表した
- [52]ジャスコの支援は海外事業の完全な切り離しが前提条件だと岡田元也社長は述べた
- [53]香港・マカオに10店舗あるヤオハン香港では、ヤオハンジャパン倒産の後、複数の有力納入業者が商品供給を停止した
- [54]ヤオハン香港は1997年3月期に9,991万香港ドルの営業赤字を計上し、95年3月期以来3期連続の赤字となった
- [55]1997年3月に上海第一八佰伴の副総経理を含む日本人幹部6人が集団退社し、ヤオハングループは自前で店舗を運営できない事態に陥った
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [56]1997年12月 会社更生手続の開始が決定、海外事業から撤退
参考文献[38]-[56]
- Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
- [38]セイフーへの店舗売却で得た資金はヤオハンの手元にほとんど残らず、銀行への返却資金となった
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [39]5月の転換社債償還(96億円)で再び資金繰りの悪化が表面化した。店舗売却で得た330億円の大半を銀行借り入れの返済に回さざるを得なかった
- [41]1996年度決算で英国子会社に対する債権の貸倒引当金などを特別損失に計上し、最終損益は359億円の赤字となった。日本公社債研究所は既発行債券の格付けをシングルBに変更した
- [42]1997年7月10日、和田光正社長は和議申請の報道を否定する会見を開き、約45億円の買掛金の一時棚上げで大手取引先60社と合意していると述べた
- [43]和田光正社長は下期に百貨店業態の売却で約100億円の調達を見込んでいるとした
- ヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』・1995年3月期〜1997年3月期)
- [40]1997年3月期の単体売上高は1,568億円、当期純利益は▲359億円
- 日経ビジネス 1997年9月29日号
- [44]1997年9月18日午後5時から、ヤオハンは東京証券取引所で会社更生法申請の記者会見を開いた
- [45]主力銀行の東海銀行に連絡が入ったのは会見のわずか30分前だった
- [46]6月末に取引先へ手形の繰り延べを依頼した後、相談に乗った金融機関は東京相和銀行だけといわれ、8月には地元の信用金庫や信用組合にまで協力を要請していた
- [47]和田一夫代表が8月下旬に香港の友人から200億円の融資が入ると地元新聞社に語ったことで、財務部門が交渉を進めていた金融機関が一斉に手を引いた
- [48]金融機関との関係は1990年の香港への本社移転を境に冷ややかになった。当時の取引先金融機関は揃って香港進出に反対した
- [49]連結ベースの有利子負債は1990年3月期の451億円から1997年3月期には1,689億円となり、総資産に占める割合は73%に達した
- Decide 1997年15巻7号(白尾芳輝)
- [50]ヤオハンジャパンの会社更生法申請は以前から予測されており、問題はいつかという時間だけだった
- 日経ビジネス 1997年10月20日号
- [51]ヤオハンジャパンの再建に関してジャスコが支援を発表した
- [52]ジャスコの支援は海外事業の完全な切り離しが前提条件だと岡田元也社長は述べた
- [53]香港・マカオに10店舗あるヤオハン香港では、ヤオハンジャパン倒産の後、複数の有力納入業者が商品供給を停止した
- [54]ヤオハン香港は1997年3月期に9,991万香港ドルの営業赤字を計上し、95年3月期以来3期連続の赤字となった
- [55]1997年3月に上海第一八佰伴の副総経理を含む日本人幹部6人が集団退社し、ヤオハングループは自前で店舗を運営できない事態に陥った
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [56]1997年12月 会社更生手続の開始が決定、海外事業から撤退
筆者考察
上海への集中は、ヤオハンジャパンの信用を借りながら、その責任からは切り離すという二重の設計の上に立っていた。和田一夫氏は中国への投資を香港の持株会社から出すことで、日本の株主に負担は及ばないと説明した。ところが香港の中核会社である八佰伴香港は1995年3月期から営業赤字に落ち、上海第一八佰伴の借入にはヤオハンジャパンが4,000万米ドルの保証を付けていた。資本の系列は別でも、資金の出どころをたどれば国内のスーパーに行き着く。中国の店が育つまでの数年を、日本の店の稼ぎと上場会社の信用で持ちこたえる構図であった。
資金の集め方が、この構図を脆くした。ヤオハンは社債と株式市場から資金を得て、主力銀行と深い関係を結ばなかった。社債の償還期が重なったとき、借り換えを引き受ける貸し手はおらず、現金を作るには利益を出している店を売るほかなかった。年20億円の営業利益を生む16店の売却代金は銀行への返済に回り、残った店網では1,689億円の連結有利子負債を支えられない。1997年10月にジャスコが海外事業の切り離しを支援の条件に置いたのは、海外を国内の信用で支えるというヤオハンの組み立てを、そのまま断ち切るものであった。
- すべて単体。当期純利益は1993年3月期の25億円から毎期減り、1996年3月期に6億円、1997年3月期には359億円の損失となった。
- 出所はヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』)。
1995年〜1997年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1995年03月期 | 単体 | 1,528 | n/a | 8 | 0.5% | n/a |
| 1996年03月期 | 単体 | 1,615 | +5.7% | 6 | 0.4% | n/a |
| 1997年03月期 | 単体 | 1,568 | ▲2.9% | ▲359 | ▲22.9% | n/a |
出所:経営破綻企業と社債金融
出典・参考
12件
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- JMAマネジメントレビュー 1996年8月号「ヤオハン和田代表の21世紀戦略 上海を本拠に中国の流通革命に挑む」(和田一夫)
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
- 日経ビジネス 1997年10月20日号
- 日経ビジネス 1997年4月7日号
- 日経ビジネス 1997年11月10日号
- 日経ビジネス 1997年1月6日号
- 日経ビジネス 1997年2月10日号
- 日経ビジネス 1997年9月29日号
- Decide 1997年15巻7号(白尾芳輝)
- ヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』・1995年3月期〜1997年3月期)