高原豪久社長への親子承継と「受命体質」からの脱却
カリスマ創業者は、業績の陰りのなかで39歳の二代目に何を託したか
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- 概要
- 2001年6月、創業者の高原慶一朗氏が、業績に陰りが見え始めたユニ・チャームの社長を、三和銀行を経て入社10年の長男・高原豪久氏(当時39歳)へ譲った経営判断。世代の引き継ぎにとどまらず、カリスマ経営が残した「指示待ち」の社風を作り替える役割を託した。
- 背景
- 衛生用品トップとして順調に成長してきた同社は、2000年代に入って業績に陰りが見え始めた。2001年3月期の営業利益は前年同期比13%減、翌期は減益が続くなか売上高も減少した。1997年には花王の安値攻勢に「非常事態宣言」で対抗しており、単品経営の強みが市場成熟の前で弱みに転じつつあった。
- 内容
- 高原慶一朗氏は「40年の成功体験を捨てるにはトップが代わるしかない。私自身が否定される覚悟を持たなければならない」と述べ、代表権を持つ会長に退いて豪久氏に社長を委ねた。豪久社長は、カリスマのトップダウンが生んだ受命体質を変えることを自らの課題に据えた。
- 含意
- 就任後の豪久社長は現場主義と週次の目標管理を進め、2003年3月期・2004年3月期と2期連続で最高益を更新した。父の型を継ぐのではなく、意図して別の経営の型を選ぶ承継であった。
成功体験を捨てる承継
この承継の要は、創業者が自らの成功体験を「捨てるべきもの」と見なした点にあった。40年かけて築いた型が、成熟と競争のなかで組織の重荷に変わりつつあるとき、その型を体現する自分ごと退く——慶一朗会長の選択には、カリスマ経営の限界を創業者自身が見切る潔さがうかがえる。多くの創業者が手放せない成功体験を、次代のために否定してみせた点に、この交代の特異さがある。
一方で、39歳・入社10年の二代目に託されたのは、華やかな新規事業ではなく、指示待ち体質という目に見えにくい社風の作り替えであった。血縁による承継でありながら、経営の型はむしろ断絶させる——この逆説をどこまで実行できるかが、その後の高原豪久体制の課題として引き継がれたようにみえる。承継が成否を分けるのは就任の時点ではなく、託された課題をやり遂げられるかどうかにあったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
成長の陰りと指示待ち体質
高原慶一朗氏が1961年に創業したユニ・チャームは、衛生用品のトップメーカーとして順調な成長を続けてきた。その業績に陰りが見え始めたのは2000年代に入ってからで、2001年3月期の営業利益は前年同期比13%の減益、翌2002年3月期は減益が続くなかで売上高も3%減った。カリスマ的な創業者によるトップダウンの経営が長く続き、社内にはいつしか「指示待ち」の空気が広がっていた[1]。
危機の芽は、より早く現れていた。1997年、紙おむつで後塵を拝した花王が主力商品に安値攻勢を仕掛け、同社は社内で「非常事態宣言」を出して全社で防戦に回った。不織布加工品に集中する単品経営の強みが、市場の成熟と値崩れの前で弱みに転じつつあった。成長を続けてきた会社が、次の柱と組織のあり方をあらためて問われる時期に入っていた[2]。
決断
39歳の二代目への承継
2001年6月、高原慶一朗氏の長男・高原豪久氏がユニ・チャーム代表取締役社長に就任した。三和銀行(現・三菱UFJ銀行)を経て1991年に入社し、10年の社内経験を積んでの就任で、39歳での親子間トップ交代であった。慶一朗氏は会長として代表権を保った。順調に成長してきた会社が業績の踊り場に差しかかるなか、舵取りが二代目へ委ねられた[3]。
交代は世代の引き継ぎにとどまらず、社風の転換を託すものであった。慶一朗会長は「40年の成功体験を捨てるにはトップが代わるしかない。そして、私自身が否定される覚悟を持たなければならないと思った」と語った。豪久社長も「まず社員に染みついた受命体質を変える必要があった」とし、指示待ちが意思決定の遅れや商品力の弱体化を招いたとの問題意識を継いだ。承継の主眼は、事業の相続ではなく社風の作り替えに置かれた[4]。
自己否定を説いた創業者
「成功体験を捨てる」という言葉は、承継のために急ごしらえされたものではなかった。慶一朗氏はかねて、自己否定と創造的破壊なくして成功はないと繰り返し説いていた。承継の3年前にあたる1998年にも、自己否定と創造的破壊なくして成功はないと語り、闘う経営者像を自らの信条として掲げていた。29歳で起業し45歳で東証2部上場まで会社を育てた道のりも、時流に合う職種を見いだし規制に挑む闘いの連続だったと振り返っていた[5]。
この信条に照らせば、40年かけて築いた成功の型を「捨てる」ためにトップを退くという判断は、慶一朗氏が長く言葉にしてきた自己否定を、自らの退任によって実践したものと読める。カリスマが自分の型ごと第一線を退くことで、次代には事業の相続ではなく社風の作り替えを託した。承継は突然の身の引き方ではなく、創業者が一貫して掲げてきた考え方の延長線上にあったとみられる。40年の成功を築いた当人が、その成功ごと手放してみせた点に、この承継の重みがあった[6]。
結果
別の型を選んだ二代目
就任直後から豪久社長は、「小手先の工夫で数字を作ることよりも、もっと消費者に近づいてライバルの気づいていないニーズを吸い上げよう」と社員に説き続けた。2003年には週単位で目標と成果を管理するSAPS経営会議を始め、自ら考える社風の定着を図った。改革は徐々に実を結び、ユニ・チャームは一時の踊り場を脱して、2003年3月期・2004年3月期と2期連続で最高益を更新した[7]。
この承継は、血縁の継承でありながら、経営の型はむしろ断絶させるものであった。「先代のようなカリスマ経営者なら、会社の競争力を1人で担うことができるかもしれない。しかし、私はそういうタイプではない」と豪久社長は語った。カリスマ一人が競争力を担う経営から、社員全員の知恵を集める経営へ——二代目は父の型を継ぐのではなく、意図して別の型を選んだとみられる[8]。
- 日経ビジネス 2004年8月9日号「ユニ・チャーム『脱・指示待ち』で第2の創業」
- 週刊東洋経済 1998年4月4日号「強い会社・伸びる会社 ユニ・チャーム 最高益下の非常事態宣言」
- ユニ・チャーム 有価証券報告書【沿革】