「時代を先取り」の多角化と3,000億円企業構想
生理用品トップは、女性・子供・老人へと事業をどう広げようとしたか
更新:
- 概要
- 1985年3月の東証第1部上場を機に、高原慶一朗社長が、生理用品(サニタリー)から紙おむつなどのベビー用品、さらに老人向けのシルバー分野へと商品を広げる多角化と、売上高2,000億〜3,000億円規模を目指す成長構想を対外的に明確化した経営判断。
- 背景
- 1961年設立のユニ・チャームは、脱脂綿が主流の時代に衛生紙綿による生理用ナプキンへ参入し、120社が競う消耗戦を勝ち抜いて1972年に国内トップへ立った。不織布加工品への集中で高い収益性を保つ一方、生理用品市場の成熟を前に次の柱を欠く懸念があった。
- 内容
- 高原社長は「常に時代を先取りして実行していく企業」を掲げ、女性→子供→老人と生活の段階に沿って商品を広げる5分野(サニタリー/ベビー/ヘルス&ビューティー/ハウスホールド/シルバー)展開を打ち出した。紙おむつは花王・P&Gと数社で競い合いながら市場を拡大する立場をとり、環太平洋・欧州・米州の三大市場と中国も見据えた。
- 含意
- 紙おむつは読み通り急拡大し1980年代半ばに主力へ育ったが、掲げた5分野の伸びには濃淡があり、シルバーやペットが第2・第3の柱と呼べる規模へ育つのは1990年代後半を待った。先取りの構想と、絞り込んだ単品経営の重さが同居する出発点となった。
先取りの構想と、絞り込みの重さ
高原慶一朗氏が1985年に描いた3,000億円企業構想は、女性から子供、そして老人へと生活の各段階に商品を広げる、息の長い多角化の設計図であった。紙おむつという次の柱を早くから見抜いた先見は、その後の同社の成長を大きく支えたとみることができる。ただ、構想として並べた5分野が等しく育ったわけではなく、掛け声と実際に利益を生む事業との間には距離が残った。先取りの構想は、時間をかけて選別されながら形になっていったといえる。
不織布加工品への集中は、高い収益性の源泉であったと同時に、市場が成熟し競合が安値を仕掛けたときに逃げ場の少ない単品経営の弱さにもつながった。時代を先取りする構想の華やかさと、絞り込んだ事業構造の重さ——この二つをどう両立させるかという問いは、多角化の掛け声とともに二代目の経営へと持ち越されていったようにみえる。構想を語ることと、柱を育てきることの落差に、この判断のその後がにじんでいる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
生理用品トップからの出発
ユニ・チャームは1961年に高原慶一朗氏が設立し、脱脂綿が主流であった時代に衛生紙綿による生理用ナプキンの製造販売へ踏み込んだ。先発の「アンネ」が代名詞とされた市場で、大手中小あわせて120社が競う消耗戦を戦い抜き、1972年に国内トップへ立った。1976年に東京証券取引所第2部へ上場した時点で、高原氏は「女性専科で世界の王座を目指す」と語り、生理用品の一本足からの脱皮を早くから見据えていた[1]。
同社の強みは、不織布や吸収体の加工品に経営資源を絞り込んだ集中にあった。本体は300名弱で過半がセールスマン、少数の陣容で全国の核代理店網を束ね、1人あたりの利益率を高く保つ身軽な体質を築いていた。ただ、生理用品市場は成熟へ向かい、次の柱を欠けば成長が止まる懸念が同時に存在した。紙おむつという新しい市場が、その次の柱の候補として浮かび上がっていた[2]。
決断
時代を先取りする多角化と3,000億円構想
1985年3月、ユニ・チャームは念願の東証第1部上場を果たした。高原社長はこれを機に、女性向けのサニタリーから子供向けのベビー用品、さらに老人向けのシルバー分野へと商品を広げる多角化を対外的に明確化した。「常に時代を先取りして実行していく企業」を掲げ、経営規模として売上高2,000億〜3,000億円企業を見通せる位置に立つという構想を語った。生理用品で築いたトップの地位を土台に、生活の各段階へ事業を伸ばす設計であった[3]。
高原社長は、紙おむつ市場を花王やP&Gと競い合いながら拡大させる立場をとった。数社で需要を創造し技術を競う方が、1社で抱えるより市場は速く伸びるという読みであった。合わせて、環太平洋・欧州・米州の三大市場と中国を見据えた海外展開、女性の生活を支えるという企業理念(NOLA&DOLA)を掲げ、サニタリー・ベビー・ヘルス&ビューティー・ハウスホールド・シルバーの5分野を成長の軸に据えた。多角化は思いつきの拡張ではなく、生活の段階に沿って並べた構想として提示された[4]。
結果
構想の帰結と単品経営の重さ
紙おむつは高原社長の読み通り急拡大し、1980年代半ばに同社の主力へ育った。生理用品トップの地位も保ち、会社は1988年に売上1,000億円規模へ近づいた。一方で、多角化として掲げた5分野の伸びには濃淡があり、老人用おむつなどのシルバー関連やペット関連が実際に第2・第3の柱と呼べる規模へ育つのは、1990年代後半へずれ込んだ。時代を先取りする構想は、長い時間をかけて部分的に形をとっていった[5]。
1990年代後半には、集中の裏返しである単品経営の弱みも表面化した。紙おむつで後塵を拝した花王が安値攻勢を仕掛け、同社は1997年に社内で「非常事態宣言」を出して全社で防戦に回った。不織布加工品に絞った事業構造は高い収益性の源泉であると同時に、市場が成熟し競合が値を崩したときに逃げ場が少ない構造でもあった。時代を先取りする多角化という構想は、成熟する主力を補う新事業の育成という現実的な課題として、次の世代へ引き継がれていった[6]。
次の柱として浮かんだ海外
1985年の構想で掲げた海外展開は、国内の成熟が進んだ1990年代後半に、次の柱の候補として輪郭を現し始めた。年率2〜3割で市場が広がる中国や東南アジアでの生産販売である。同社は1998年3月期に中国・マレーシアの子会社を新たに連結へ組み入れ、翌1999年3月期にはインドネシアを加えた。成熟へ向かう国内の紙おむつ・生理用品を補う成長の源を、多角化の5分野以上に海外へ求める傾向が、このころ鮮明になっていった[7]。
ただし海外は、すぐに利益を生む事業ではなかった。立ち上げからおよそ3年は負担が先行して赤字が続き、利益貢献が見込めるのは2000年以降とされた。その成否を分けるのは、国内で磨いた危機意識と小回りの利く体制を、異なる市場でどこまで再現できるかにあるとみられていた。1985年に語られた三大市場と中国への展開は、掛け声から実際の連結利益へと変わるまでに、十数年の時間と現地での試行を要したことになる[8]。
- 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号「ユニ・チャーム 女性専科で世界の王座を目指す」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- 証券アナリストジャーナル 1985年 第23巻第6号「ユニ・チャーム 常に時代を先取りして3,000億円企業へ」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- 週刊東洋経済 1998年4月4日号「強い会社・伸びる会社 ユニ・チャーム 最高益下の非常事態宣言」
- ユニ・チャーム 会社年鑑(単体業績)