富山栄市郎
経歴1924〜1978年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1924年主要役職の状況(推定含む目安)1978年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 富山玩具製作所(個人経営) | 1924 | 創業 | ||
| 1927 | 設立 | ||||
| 三陽工業(1963年にトミー工業へ改称。現タカラトミー) | 1953 | 設立 | |||
| 1974 | 異動 | ||||
| 1978 | 死去 | ||||
| 他 | 東京輸出玩具工業協同組合 | 1959 | — |
創業ストーリー
創業ストーリー
富山栄市郎氏は13歳で玩具店の徒弟となり、以来玩具一筋に歩んだ。奉公先で目にした外国雑誌のドイツ製玩具に心を奪われ、11歳の時には世界の子どもを夢中にさせる玩具を自分の手で作ると志していた。
- マネジメント 1979年10月号(松島明)
- [1]トミー・グループは、昨年亡くなったトミー工業会長富山栄市郎氏が大正13年(1924年)に創業した。13歳で玩具店の徒弟にはいって以来オモチャ一筋で生き抜いた同氏が、金属玩具の製造を始めた
- タカラトミー アニュアルレポート2020「タカラトミーグループの価値観」
- [2]丁稚奉公先で目にした外国雑誌の美しいドイツ玩具に魅了された少年は、いつか世界中の子どもたちを夢中にさせる素晴らしいおもちゃを自分の手で作り出したいと、わずか11歳にしておもちゃづくりを志しました。少年の名は富山栄市郎。21歳でタカラトミーの前身である富山玩具製作所を設立しました
1924年2月2日、21歳の富山栄市郎氏は東京府北豊島郡西巣鴨町に富山玩具製作所を創業した。最初の商品はゼンマイ仕掛けの赤い競走自動車で、続いてアルミ地金でフランスのブレゲ機を模した飛行機の玩具を作り、「飛行機の富山」の異名を得た。1927年5月には東京市向島区寺島町へ移って合資会社富山工場を設けた。工場には玩具業界で初めて流れ作業を取り入れ、玩具の研究部門も置いた。
- タカラトミー 会社案内(2010年)「沿革」
- [3]1924/2 富山栄市郎が東京府北豊島郡西巣鴨町に富山玩具製作所を創設。トミーは1924年2月2日、創業者富山栄市郎が富山玩具製作所を創設。1927/5 東京市向島区寺島町に移転し合資会社富山工場を設立
- [5]1924/2 富山栄市郎が東京府北豊島郡西巣鴨町に富山玩具製作所を創設。トミーは1924年2月2日、創業者富山栄市郎が富山玩具製作所を創設。1927/5 東京市向島区寺島町に移転し合資会社富山工場を設立
- タカラトミー 公式サイト「沿革」
- [4]1924年2月2日に創業者の富山栄市郎が富山玩具製作所を創設。第一号商品は「ゼンマイ仕掛けの赤い競走自動車」で、続けてアルミ地金製の「AEROPLANE BREGUET」を作り、「飛行機の富山」として知られるようになった。玩具業界初となる流れ作業方式の工場や玩具研究部門の設置を進めた
- [6]1924年2月2日に創業者の富山栄市郎が富山玩具製作所を創設。第一号商品は「ゼンマイ仕掛けの赤い競走自動車」で、続けてアルミ地金製の「AEROPLANE BREGUET」を作り、「飛行機の富山」として知られるようになった。玩具業界初となる流れ作業方式の工場や玩具研究部門の設置を進めた
昭和恐慌のさなかには、流れ作業で量産した宙返り飛行機が売れ、尾翼に製造者の印を刷る当時としては珍しい手も打った。自らの名の頭文字を取った「E.T.CO.」のロゴを使い始めたのもこの時期である。業界では同じ志の仲間と東京玩具工業同志会を結成し、模造品を戒め、新しい考案で優良品を作ることを起草文に記した。日中戦争で金属玩具の製造が禁じられると木や竹の玩具に切り替え、戦況が悪化した終戦までの数年は軍需の仕事に転じた。
- タカラトミー 公式サイト「沿革」
- [7]昭和恐慌の中、流れ作業で量産した「LOOPING PLANE」がヒット。尾翼に製造者マークを印字したのは当時の業界では異例。日中戦争で金属玩具が製造禁止となり、木や竹を使った玩具製作に移った。戦況の悪化で玩具製作が難しくなり、終戦までの数年間は軍需産業への転身を余儀なくされた。この頃から「Eiichiro Tomiyama」の頭文字に由来する「E.T.CO.」のロゴ・マークを使い始めた
- [8]昭和恐慌の中、流れ作業で量産した「LOOPING PLANE」がヒット。尾翼に製造者マークを印字したのは当時の業界では異例。日中戦争で金属玩具が製造禁止となり、木や竹を使った玩具製作に移った。戦況の悪化で玩具製作が難しくなり、終戦までの数年間は軍需産業への転身を余儀なくされた。この頃から「Eiichiro Tomiyama」の頭文字に由来する「E.T.CO.」のロゴ・マークを使い始めた
- [10]昭和恐慌の中、流れ作業で量産した「LOOPING PLANE」がヒット。尾翼に製造者マークを印字したのは当時の業界では異例。日中戦争で金属玩具が製造禁止となり、木や竹を使った玩具製作に移った。戦況の悪化で玩具製作が難しくなり、終戦までの数年間は軍需産業への転身を余儀なくされた。この頃から「Eiichiro Tomiyama」の頭文字に由来する「E.T.CO.」のロゴ・マークを使い始めた
- タカラトミー アニュアルレポート2020「タカラトミーグループの価値観」
- [9]昭和初期、同じ志をもつ仲間たちと東京玩具工業同志会を結成し、その理想を起草文にまとめた。同業者が似たようなものを作りあって競争することは無益であること、模造品を作るなどは最も恥ずべきものであること、常に商品の改良に努め新規考案に励むべきこと、「確信ある優良品」をつくることが記された
戦後は1945年8月に工場を葛飾区本田立石へ移し、1951年に作った大型のフリクション玩具「B-29」が国内外で売れて、大型玩具の輸出の先駆けとなった。1952年ごろには、国内ではまだ珍しかった樹脂の射出成型機を導入し、のちの素材転換に備えた。1953年1月17日に三陽工業株式会社を設立し、社名には三つの太陽で世界を照らし続けるように玩具を世界に届ける意図を込めた。1959年には大手玩具問屋の下請けを離れ、自ら作った商品を自ら売るため販売会社の富山商事を設けた。同じ年に東京輸出玩具工業協同組合の理事長に選ばれ、藍綬褒章を受けた。
- タカラトミー 会社案内(2010年)「沿革」
- [11]1945/8 葛飾区本田立石に工場を移転。1951 大型フリクション玩具 アメリカ爆撃機「B-29」を製作し大ヒット。1953/1 三陽工業株式会社を設立。「三陽」は3つの太陽を意味し、地球上に太陽が3つあれば世界を24時間照らすことができ、自社のおもちゃが世界中にあまねくいきわたるという意気込みを表現。1963年3月9日トミー工業株式会社へ社名変更。当時生産高の約半分を輸出が占め、国内市場よりも米国市場で「トミヤーマ」として知名度が高かった
- [13]1945/8 葛飾区本田立石に工場を移転。1951 大型フリクション玩具 アメリカ爆撃機「B-29」を製作し大ヒット。1953/1 三陽工業株式会社を設立。「三陽」は3つの太陽を意味し、地球上に太陽が3つあれば世界を24時間照らすことができ、自社のおもちゃが世界中にあまねくいきわたるという意気込みを表現。1963年3月9日トミー工業株式会社へ社名変更。当時生産高の約半分を輸出が占め、国内市場よりも米国市場で「トミヤーマ」として知名度が高かった
- マネジメント 1979年10月号(松島明)
- [12]昭和27年ごろに、当時日本で出はじめたばかりのプラスチック射出成型機を導入している。当時はまだ原料樹脂がキロ500円もして実際の生産にはあまり役立たなかったが、プラスチック移行への技術は早くから蓄積された
- 日経ビジネス 1977年10月24日号
- [14]同社は34年まで、ある大手おもちゃ問屋の下請けをしていたが、「自分で作ったものは自分で売ろう」(富山会長)という信念から下請けから脱皮した。トミー(販売会社)の設立は昭和34年。1959年、販売会社の富山商事株式会社を設立
- 東京玩具商報 92号(1959年7月)「富山栄市郎氏の藍綬褒章受賞祝賀会」
- [15]東京輸出玩具工業協同組合では五月二十八日の定時総会で役員改選を行い、理事長に富山栄市郎氏が決定した。同組合の現理事長富山栄市郎氏(本名富山栄次郎氏)は、多年金属玩具工業の発展と中小企業の振興に尽瘁した功績によって、今春四月、藍綬褒章を受賞した
1963年3月に三陽工業をトミー工業へ改めたのは、生産の半分ほどを輸出が占め、米国で「トミヤーマ」の名が通っていたためである。1971年のドル・ショックの際には、米国の玩具メーカー、エルドン社と提携して商品を共同で開発し、トミーが生産を担う方式で輸入業者への依存を減らしていた。続く1970年代には香港・シンガポール・米国・西独へ自前の現地法人を設けた(経営判断「香港・米国へ現地法人設立」)。創業50周年の1974年に代表取締役会長へ移り、社長を富山允就氏に譲った。跡を継いだ富山允就氏は長男で、富山栄市郎氏は1978年に死去した。
- タカラトミー 会社案内(2010年)「沿革」
- [16]1945/8 葛飾区本田立石に工場を移転。1951 大型フリクション玩具 アメリカ爆撃機「B-29」を製作し大ヒット。1953/1 三陽工業株式会社を設立。「三陽」は3つの太陽を意味し、地球上に太陽が3つあれば世界を24時間照らすことができ、自社のおもちゃが世界中にあまねくいきわたるという意気込みを表現。1963年3月9日トミー工業株式会社へ社名変更。当時生産高の約半分を輸出が占め、国内市場よりも米国市場で「トミヤーマ」として知名度が高かった
- 日経ビジネス 1971年10月4日号
- [17]トミーが打った手は、米国屈指のおもちゃメーカー、エルドン社と直接手を握ったことである。毎年1〜2回両社で商品開発の共同会議を開き、決定すれば生産はトミーが担当する。米国での販売はエルドンブランドである。メインの米国市場で輸入業者ばかりに頼っていられない
- 日経ビジネス 1977年10月24日号
- [18]1970年に香港、1972年にシンガポール、1973年に米国、1976年に西独へと現地法人を設立した
- タカラトミー 公式サイト「沿革」
- [19]1974年、創業50周年の年に二代目富山允就が社長に就任した。1974/3 富山栄市郎が代表取締役会長、富山允就が代表取締役社長に就任
- マネジメント 1979年10月号(松島明)
- [20]トミー・グループは、昨年亡くなったトミー工業会長富山栄市郎氏が大正13年(1924年)に創業した。創業者会長の跡を継いだ長男の富山允就社長(51歳)
参考文献4件
参考文献
- タカラトミー 会社案内(2010年)「沿革」
- タカラトミー 公式サイト「沿革」
- 東京玩具商報 92号(1959年7月)「富山栄市郎氏の藍綬褒章受賞祝賀会」
- マネジメント 1979年10月号「先進国進出・現地生産で売上げ急伸中(7) 異色中小企業 トミー工業」(松島明)
事実根拠:出所(タカラトミー)