第1章 年〜年

ヤシカ:諏訪の八洲精機の創業と二眼レフカメラの量産

1949年〜東洋バルブで工場管理を覚えた牛山善政氏と、資本金50万円で興した八洲精機

牛山善政氏は1939年、18歳で上諏訪に新設された東洋バルブの工場に平の工員として入った。砲弾の信管をつくる軍需工場で、能率の上がらない部署へ次々に配された。ある部署では月産3,000〜4,000個だった生産を、半年足らずで1万個に引き上げた。最後は通常なら専門学校卒に任せる設計に回され、機械工学や材料力学を独学で身につけた。1945年、牛山善政氏による諏訪での八洲精機製作所の創業。借り入れた2万円で中古の機械をそろえ、弟の牛山治三郎氏を含む8人で計器部品の下請けから始めた。図面と部品を見て工程・作業時間・原価を見積もれた工業管理の経験が、資本の乏しい独立を支えたとみられる。

  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [1]牛山善政は1939年上諏訪の東洋バルブ(信管の軍需工場)に入り、月産3〜4千個の部署を半年で1万個へ、のち設計を担当。独立時は借入2万円・8人で計器部品の下請けを開始
    • [2]牛山善政は1939年上諏訪の東洋バルブ(信管の軍需工場)に入り、月産3〜4千個の部署を半年で1万個へ、のち設計を担当。独立時は借入2万円・8人で計器部品の下請けを開始
    • [3]牛山善政は1939年上諏訪の東洋バルブ(信管の軍需工場)に入り、月産3〜4千個の部署を半年で1万個へ、のち設計を担当。独立時は借入2万円・8人で計器部品の下請けを開始
    • [4]牛山善政は1939年上諏訪の東洋バルブ(信管の軍需工場)に入り、月産3〜4千個の部署を半年で1万個へ、のち設計を担当。独立時は借入2万円・8人で計器部品の下請けを開始
    • [7]牛山善政は1939年上諏訪の東洋バルブ(信管の軍需工場)に入り、月産3〜4千個の部署を半年で1万個へ、のち設計を担当。独立時は借入2万円・8人で計器部品の下請けを開始
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「ヤシカ」
    • [5]1945年5月、牛山善政が八洲精機製作所を創業
  • 実業往来 1974年
    • [6]牛山善政は1945年に八州精機製作所を設立

八洲精機製作所は創業から4年で、従業員250名の計器部品メーカーとなった。設備と製品の品質は、下請工場としては高い評価を得ていた。ところが世の中が落ち着くにつれ、親工場は外注していた部品を自社で内製し始めた。牛山善政氏は部品から完成品への転換を考えて置時計を試作したものの、時計の販路を確保できなかった。共同出資者とのあいだでも対立が起きた。牛山善政氏はそれまでの事業を清算し、1949年12月23日に長野県諏訪市で八洲精機株式会社を設立した。資本金は50万円、目的は通信器具と部品の製造である。共同出資の関係を解き、意思決定を自らに集めるために株式会社を選び直したのだろう。

  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [8]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
    • [9]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
    • [10]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
    • [11]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
    • [12]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
    • [14]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤシカ」
    • [13]1949年12月23日、通信器具および部品の製造を目的に長野県諏訪市に八洲精機㈱を設立(資本金500千円)
    • [15]1949年12月23日、通信器具および部品の製造を目的に長野県諏訪市に八洲精機㈱を設立(資本金500千円)
参考文献[1]-[15]
  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [1]牛山善政は1939年上諏訪の東洋バルブ(信管の軍需工場)に入り、月産3〜4千個の部署を半年で1万個へ、のち設計を担当。独立時は借入2万円・8人で計器部品の下請けを開始
    • [2]牛山善政は1939年上諏訪の東洋バルブ(信管の軍需工場)に入り、月産3〜4千個の部署を半年で1万個へ、のち設計を担当。独立時は借入2万円・8人で計器部品の下請けを開始
    • [3]牛山善政は1939年上諏訪の東洋バルブ(信管の軍需工場)に入り、月産3〜4千個の部署を半年で1万個へ、のち設計を担当。独立時は借入2万円・8人で計器部品の下請けを開始
    • [4]牛山善政は1939年上諏訪の東洋バルブ(信管の軍需工場)に入り、月産3〜4千個の部署を半年で1万個へ、のち設計を担当。独立時は借入2万円・8人で計器部品の下請けを開始
    • [7]牛山善政は1939年上諏訪の東洋バルブ(信管の軍需工場)に入り、月産3〜4千個の部署を半年で1万個へ、のち設計を担当。独立時は借入2万円・8人で計器部品の下請けを開始
    • [8]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
    • [9]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
    • [10]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
    • [11]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
    • [12]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
    • [14]製作所は4年で従業員250名。親工場の部品内製化で限界、置時計を試作したが販路に行き詰まり共同出資者とも対立。事業を清算し資本金50万円で八洲精機株式会社を設立(1949年12月)
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「ヤシカ」
    • [5]1945年5月、牛山善政が八洲精機製作所を創業
  • 実業往来 1974年
    • [6]牛山善政は1945年に八州精機製作所を設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤシカ」
    • [13]1949年12月23日、通信器具および部品の製造を目的に長野県諏訪市に八洲精機㈱を設立(資本金500千円)
    • [15]1949年12月23日、通信器具および部品の製造を目的に長野県諏訪市に八洲精機㈱を設立(資本金500千円)

1951年〜ヤシマフレックスで入った二眼レフと、写真機の製造へ改めた八洲光学精機

牛山善政氏は1951年ごろ、計器部品の仕事に飽き足らず、時計とカメラの製作に着手した。最初のカメラは二眼レフのヤシマ・フレックス、続いてヤシカ・フレックスの機種群。二眼レフはメーカーにとって造りやすく、消費者にとって扱いやすい機種である。終戦直後と朝鮮動乱期の2度のカメラ・ブームで、最も売れたのも二眼レフだった。日本のカメラメーカーの多くがレンズから出発したのに対し、八洲精機は計器部品の出身でボディの精密加工を得意とした。本格的なカメラの生産は1953年に始まった。置時計で販路に行き詰まった経験から、すでに需要の見えていた二眼レフを完成品に選んだと考えられる。

  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [16]1951年(昭和26年)ごろ時計とカメラの製作に着手、最初は二眼レフのヤシマ・フレックス。二眼レフは2度のカメラ・ブームで最も売れた機種。計器出身でボディの精密加工が得意
    • [17]1951年(昭和26年)ごろ時計とカメラの製作に着手、最初は二眼レフのヤシマ・フレックス。二眼レフは2度のカメラ・ブームで最も売れた機種。計器出身でボディの精密加工が得意
    • [18]1951年(昭和26年)ごろ時計とカメラの製作に着手、最初は二眼レフのヤシマ・フレックス。二眼レフは2度のカメラ・ブームで最も売れた機種。計器出身でボディの精密加工が得意
    • [19]1951年(昭和26年)ごろ時計とカメラの製作に着手、最初は二眼レフのヤシマ・フレックス。二眼レフは2度のカメラ・ブームで最も売れた機種。計器出身でボディの精密加工が得意
    • [20]1951年(昭和26年)ごろ時計とカメラの製作に着手、最初は二眼レフのヤシマ・フレックス。二眼レフは2度のカメラ・ブームで最も売れた機種。計器出身でボディの精密加工が得意
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤシカ」
    • [21]1953年からカメラの生産を開始
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「ヤシカ」
    • [22]1953年に二眼レフカメラを発売

1953年6月、八洲精機は商号を八洲光学精機に改めた。あわせて主たる事業目的を、通信器具と部品の製造から写真機の製造に変更した。社名から精機の部品メーカーを外し、光学機器のメーカーとして名乗り直したことになる。社名に残したヤシマの語は、創業時に戦時中の言葉を連想させるとして社内外から反対を受けていた。牛山善政氏は、ヤシマには世界という意味があると主張して押し通した。町工場の段階から、世界を相手にするメーカーになる目標を社名に込めていた。のちにヤシマ・カメラを縮めたヤシカの名が、製品名から社名へ広がった。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「ヤシカ」
    • [23]1953年6月、商号を八洲光学精器に変更
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤシカ」
    • [24]1953年6月、商号を八洲光学精機㈱に変更し、主たる事業目的を写真機の製造に変更
    • [25]1953年6月、商号を八洲光学精機㈱に変更し、主たる事業目的を写真機の製造に変更
    • [26]1953年6月、商号を八洲光学精機㈱に変更し、主たる事業目的を写真機の製造に変更
  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [27]ヤシマの名には戦時語を連想させると反対があったが、牛山善政は世界の意味があると主張。のちヤシマ・カメラを略してヤシカと名乗った
    • [28]ヤシマの名には戦時語を連想させると反対があったが、牛山善政は世界の意味があると主張。のちヤシマ・カメラを略してヤシカと名乗った
    • [29]ヤシマの名には戦時語を連想させると反対があったが、牛山善政は世界の意味があると主張。のちヤシマ・カメラを略してヤシカと名乗った
    • [30]ヤシマの名には戦時語を連想させると反対があったが、牛山善政は世界の意味があると主張。のちヤシマ・カメラを略してヤシカと名乗った

1953年に出した二眼レフは大衆カメラとして人気を呼び、量産体制の整備とあわせて事業は安定した。牛山善政氏は、その年に売れ残っても翌年には需要が追いつくとみて、在庫の積み上がりを恐れずに作り続けるよう工場へ命じた。積み上がった製品は3年で売り切れ、5カ年計画は2年半で達成。上諏訪の工場が手狭になると、下諏訪の遊休工場を取得し、従業員が機具を手で運んで移転した。計器部品で鍛えた工程の合理化を組立にも持ち込み、原価を他社より低く抑えた。1961年時点の下諏訪工場は、ベルト・コンベア方式の組立ラインを備える。売る前に量産体制を整えたことが、次の値決めの前提になったと推測される。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「ヤシカ」
    • [31]1953年発売の二眼レフが大衆カメラとして人気を呼び、量産体制の整備とあいまって社業が軌道に乗った
  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [32]社長は売れなくても生産を続けよと指示、3年で売り切り5カ年計画を2年半で達成。上諏訪から下諏訪の遊休工場を取得して移転。工程合理化で原価が低い。1961年の下諏訪工場はベルト・コンベア方式
    • [33]社長は売れなくても生産を続けよと指示、3年で売り切り5カ年計画を2年半で達成。上諏訪から下諏訪の遊休工場を取得して移転。工程合理化で原価が低い。1961年の下諏訪工場はベルト・コンベア方式
    • [34]社長は売れなくても生産を続けよと指示、3年で売り切り5カ年計画を2年半で達成。上諏訪から下諏訪の遊休工場を取得して移転。工程合理化で原価が低い。1961年の下諏訪工場はベルト・コンベア方式
    • [35]社長は売れなくても生産を続けよと指示、3年で売り切り5カ年計画を2年半で達成。上諏訪から下諏訪の遊休工場を取得して移転。工程合理化で原価が低い。1961年の下諏訪工場はベルト・コンベア方式
    • [36]社長は売れなくても生産を続けよと指示、3年で売り切り5カ年計画を2年半で達成。上諏訪から下諏訪の遊休工場を取得して移転。工程合理化で原価が低い。1961年の下諏訪工場はベルト・コンベア方式
参考文献[16]-[36]
  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [16]1951年(昭和26年)ごろ時計とカメラの製作に着手、最初は二眼レフのヤシマ・フレックス。二眼レフは2度のカメラ・ブームで最も売れた機種。計器出身でボディの精密加工が得意
    • [17]1951年(昭和26年)ごろ時計とカメラの製作に着手、最初は二眼レフのヤシマ・フレックス。二眼レフは2度のカメラ・ブームで最も売れた機種。計器出身でボディの精密加工が得意
    • [18]1951年(昭和26年)ごろ時計とカメラの製作に着手、最初は二眼レフのヤシマ・フレックス。二眼レフは2度のカメラ・ブームで最も売れた機種。計器出身でボディの精密加工が得意
    • [19]1951年(昭和26年)ごろ時計とカメラの製作に着手、最初は二眼レフのヤシマ・フレックス。二眼レフは2度のカメラ・ブームで最も売れた機種。計器出身でボディの精密加工が得意
    • [20]1951年(昭和26年)ごろ時計とカメラの製作に着手、最初は二眼レフのヤシマ・フレックス。二眼レフは2度のカメラ・ブームで最も売れた機種。計器出身でボディの精密加工が得意
    • [27]ヤシマの名には戦時語を連想させると反対があったが、牛山善政は世界の意味があると主張。のちヤシマ・カメラを略してヤシカと名乗った
    • [28]ヤシマの名には戦時語を連想させると反対があったが、牛山善政は世界の意味があると主張。のちヤシマ・カメラを略してヤシカと名乗った
    • [29]ヤシマの名には戦時語を連想させると反対があったが、牛山善政は世界の意味があると主張。のちヤシマ・カメラを略してヤシカと名乗った
    • [30]ヤシマの名には戦時語を連想させると反対があったが、牛山善政は世界の意味があると主張。のちヤシマ・カメラを略してヤシカと名乗った
    • [32]社長は売れなくても生産を続けよと指示、3年で売り切り5カ年計画を2年半で達成。上諏訪から下諏訪の遊休工場を取得して移転。工程合理化で原価が低い。1961年の下諏訪工場はベルト・コンベア方式
    • [33]社長は売れなくても生産を続けよと指示、3年で売り切り5カ年計画を2年半で達成。上諏訪から下諏訪の遊休工場を取得して移転。工程合理化で原価が低い。1961年の下諏訪工場はベルト・コンベア方式
    • [34]社長は売れなくても生産を続けよと指示、3年で売り切り5カ年計画を2年半で達成。上諏訪から下諏訪の遊休工場を取得して移転。工程合理化で原価が低い。1961年の下諏訪工場はベルト・コンベア方式
    • [35]社長は売れなくても生産を続けよと指示、3年で売り切り5カ年計画を2年半で達成。上諏訪から下諏訪の遊休工場を取得して移転。工程合理化で原価が低い。1961年の下諏訪工場はベルト・コンベア方式
    • [36]社長は売れなくても生産を続けよと指示、3年で売り切り5カ年計画を2年半で達成。上諏訪から下諏訪の遊休工場を取得して移転。工程合理化で原価が低い。1961年の下諏訪工場はベルト・コンベア方式
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤシカ」
    • [21]1953年からカメラの生産を開始
    • [24]1953年6月、商号を八洲光学精機㈱に変更し、主たる事業目的を写真機の製造に変更
    • [25]1953年6月、商号を八洲光学精機㈱に変更し、主たる事業目的を写真機の製造に変更
    • [26]1953年6月、商号を八洲光学精機㈱に変更し、主たる事業目的を写真機の製造に変更
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「ヤシカ」
    • [22]1953年に二眼レフカメラを発売
    • [23]1953年6月、商号を八洲光学精器に変更
    • [31]1953年発売の二眼レフが大衆カメラとして人気を呼び、量産体制の整備とあいまって社業が軌道に乗った

1954年〜新宿の本店と9500円のヤシカ・レフA型と、ニューヨーク駐在所から始めた輸出

1954年4月、八洲光学精機は本店を東京都新宿区新宿3丁目に移した。同時に設立したのが、ヤシカ製品の国内販売を担うヤシカ産業である。新宿伊勢丹の筋向かいに設けた最初の東京事務所は6坪で、机を4つ並べると来客の座る場所もなかった。牛山善政氏は同じ時期に自動車3台を購入し、外国製の高級車で銀行や特約店を訪ねた。当時の特約店は1軒で国内市場を一手に握っており、牛山善政氏はこれを2軒に増やした。反発した旧特約店が取扱停止を全国に呼びかけ、問屋から返品が相次いだ。牛山善政氏は200万円の宣伝費を投じ、のちに常務となる宮田義弘氏が旧特約店との仲介に入った。本店の移転と販売会社の設立は、1軒の特約店に依存した販路を自社で握るための手立てだったと思われる。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤシカ」
    • [37]1954年4月、本店を東京都新宿区新宿3丁目に移転し、国内販売を目的にヤシカ産業㈱を設立
    • [38]1954年4月、本店を東京都新宿区新宿3丁目に移転し、国内販売を目的にヤシカ産業㈱を設立
  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [39]新宿伊勢丹前に6坪の事務所、外車で銀行・特約店を訪問。特約店を1軒から2軒に増やし紛争、返品が殺到。200万円の宣伝費を投入し、宮田義弘(1961年常務)が仲介
    • [40]新宿伊勢丹前に6坪の事務所、外車で銀行・特約店を訪問。特約店を1軒から2軒に増やし紛争、返品が殺到。200万円の宣伝費を投入し、宮田義弘(1961年常務)が仲介
    • [41]新宿伊勢丹前に6坪の事務所、外車で銀行・特約店を訪問。特約店を1軒から2軒に増やし紛争、返品が殺到。200万円の宣伝費を投入し、宮田義弘(1961年常務)が仲介
    • [42]新宿伊勢丹前に6坪の事務所、外車で銀行・特約店を訪問。特約店を1軒から2軒に増やし紛争、返品が殺到。200万円の宣伝費を投入し、宮田義弘(1961年常務)が仲介
    • [43]新宿伊勢丹前に6坪の事務所、外車で銀行・特約店を訪問。特約店を1軒から2軒に増やし紛争、返品が殺到。200万円の宣伝費を投入し、宮田義弘(1961年常務)が仲介

1955年、牛山善政氏は二眼レフのヤシカ・レフA型を9,500円で発売した。当時の二眼レフの売値は1台2万円近い。二眼レフのブームは峠を越し、300種に及んだ機種のなかで群小メーカーの倒産が続いていた。業界は採算を割るダンピングとみて、業界紙ではまた1軒倒産が出ると噂された。他社は月産500〜1,000台を基準に価格を決めていた。牛山善政氏は当初から月産3,000台で生産し、原価を下げて安値でも採算を確保した。大量販売を可能にしたのは、大量生産による原価の切り下げと徹底した宣伝である。同年12月、八洲光学精機は商号を八洲光学工業に改めた。月産の規模から値段を逆算したことが、峠を越した市場に後発が割り込む余地を生んだと推察される。

  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [44]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [45]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [46]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [47]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [48]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [49]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤシカ」
    • [50]大量生産でコストを切り下げ、安値と徹底的な宣伝で大量販売に成功。1955年12月商号を八洲光学工業㈱に変更
    • [51]大量生産でコストを切り下げ、安値と徹底的な宣伝で大量販売に成功。1955年12月商号を八洲光学工業㈱に変更

1956年2月、八洲光学工業は米国ニューヨーク州に駐在所を開設した。輸出市場の開拓には1955年ごろから取り組んでいた。ニューヨークの拠点は支店となり、支店長の後町末春氏はのちに現地法人ヤシカインクの社長となった。1959年9月には、外国販売を目的とするヤシカインターナショナルコーポレーションを設立した。牛山善政氏は創業時、ヤシマの名に世界という意味を込め、世界を相手にするメーカーを目標に掲げていた。1961年には、製品の55%が海外への輸出である。国内の二眼レフ需要が峠を越すなかで、量産した数量の行き先を米国に求めた判断とみてよいだろう。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「ヤシカ」
    • [52]1956年2月、米ニューヨーク州に駐在所を開設
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤシカ」
    • [53]1955年ごろから輸出市場を開拓。1959年9月、外国販売目的のヤシカインターナショナルコーポレーションを設立
    • [55]1955年ごろから輸出市場を開拓。1959年9月、外国販売目的のヤシカインターナショナルコーポレーションを設立
  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [54]後町末春は八洲光学工業ニューヨーク支店長からヤシカインク社長へ。ヤシマ=世界の意。1961年時点で製品の55%を輸出
    • [56]後町末春は八洲光学工業ニューヨーク支店長からヤシカインク社長へ。ヤシマ=世界の意。1961年時点で製品の55%を輸出
    • [57]後町末春は八洲光学工業ニューヨーク支店長からヤシカインク社長へ。ヤシマ=世界の意。1961年時点で製品の55%を輸出
参考文献[37]-[57]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤシカ」
    • [37]1954年4月、本店を東京都新宿区新宿3丁目に移転し、国内販売を目的にヤシカ産業㈱を設立
    • [38]1954年4月、本店を東京都新宿区新宿3丁目に移転し、国内販売を目的にヤシカ産業㈱を設立
    • [50]大量生産でコストを切り下げ、安値と徹底的な宣伝で大量販売に成功。1955年12月商号を八洲光学工業㈱に変更
    • [51]大量生産でコストを切り下げ、安値と徹底的な宣伝で大量販売に成功。1955年12月商号を八洲光学工業㈱に変更
    • [53]1955年ごろから輸出市場を開拓。1959年9月、外国販売目的のヤシカインターナショナルコーポレーションを設立
    • [55]1955年ごろから輸出市場を開拓。1959年9月、外国販売目的のヤシカインターナショナルコーポレーションを設立
  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
    • [39]新宿伊勢丹前に6坪の事務所、外車で銀行・特約店を訪問。特約店を1軒から2軒に増やし紛争、返品が殺到。200万円の宣伝費を投入し、宮田義弘(1961年常務)が仲介
    • [40]新宿伊勢丹前に6坪の事務所、外車で銀行・特約店を訪問。特約店を1軒から2軒に増やし紛争、返品が殺到。200万円の宣伝費を投入し、宮田義弘(1961年常務)が仲介
    • [41]新宿伊勢丹前に6坪の事務所、外車で銀行・特約店を訪問。特約店を1軒から2軒に増やし紛争、返品が殺到。200万円の宣伝費を投入し、宮田義弘(1961年常務)が仲介
    • [42]新宿伊勢丹前に6坪の事務所、外車で銀行・特約店を訪問。特約店を1軒から2軒に増やし紛争、返品が殺到。200万円の宣伝費を投入し、宮田義弘(1961年常務)が仲介
    • [43]新宿伊勢丹前に6坪の事務所、外車で銀行・特約店を訪問。特約店を1軒から2軒に増やし紛争、返品が殺到。200万円の宣伝費を投入し、宮田義弘(1961年常務)が仲介
    • [44]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [45]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [46]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [47]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [48]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [49]1955年、ヤシカ・レフA型を9,500円で発売(相場は2万円近く)。業界は倒産必至と見た。他社は月産500〜1,000台基準で値決め、牛山善政は月産3,000台で量産
    • [54]後町末春は八洲光学工業ニューヨーク支店長からヤシカインク社長へ。ヤシマ=世界の意。1961年時点で製品の55%を輸出
    • [56]後町末春は八洲光学工業ニューヨーク支店長からヤシカインク社長へ。ヤシマ=世界の意。1961年時点で製品の55%を輸出
    • [57]後町末春は八洲光学工業ニューヨーク支店長からヤシカインク社長へ。ヤシマ=世界の意。1961年時点で製品の55%を輸出
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「ヤシカ」
    • [52]1956年2月、米ニューヨーク州に駐在所を開設

出典・参考

4件
出典・参考
  • 企業の現代史(1961)「世界にあわせた焦点(ヤシカ)」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「ヤシカ」
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤシカ」
  • 実業往来 1974年

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