キヤノン:賀来龍三郎の再建とHPへのレーザープリンターOEM供与
1977年〜無配から社長に就任した賀来龍三郎氏の事業部制と、世界の優良企業を掲げた構想
1974年暮れ、同年8月に常務へ就任したばかりの賀来龍三郎氏は、会長の御手洗毅氏に個人用電卓からの撤退を直訴した。その年の暮れ、電卓の製品在庫は前年同期の9億4000万円から21億7000万円に膨らんでいた。無配ののち、賀来龍三郎氏は優良企業構想の立案から実施までを中心で担った。1977年5月に社長の前田武男氏が死去し、6月2日の取締役会で51歳の賀来龍三郎氏が社長に就任した。1978年1月にはカメラ・事務機・光学機器の3事業部制を本格的に敷き、国内外の販売会社を地域事業部と位置づけた。下丸子と玉川の工場には複数の事業が雑居しており、事業部長は権限を持ちながら場所の取り合いに追われていた。そこで小杉工場に光学機器、福島工場にカメラ、取手工場に事務機を振り分け、事業部ごとに工場を持たせた。
- Decide 1988年6(4)
- [1]1974年暮れ 常務の賀来龍三郎氏が会長の御手洗毅氏に個人用電卓からの撤退を直訴
- [2]1974年末 電卓の製品在庫が21億7000万円(前年同期9億4000万円)
- 社史『キヤノン史 技術と製品の50年』(1987年)
- [3]賀来龍三郎氏は優良企業構想の立案から実施まで中心的な役割を果たした
- [4]1977年5月21日 前田武男社長死去、6月2日 賀来龍三郎常務が代表取締役社長に就任(51歳)
- [5]1978年1月 カメラ・事務機・光学機器の製品別3事業部制を本格実施、販売会社を地域事業部に位置づけ
- 日経ビジネス 1979年5月7日号
- [6]工場の雑居で事業部制が機能せず、小杉工場に光学機器・福島工場にカメラ・取手工場に事務機を振り分けた
- [7]工場の雑居で事業部制が機能せず、小杉工場に光学機器・福島工場にカメラ・取手工場に事務機を振り分けた
優良企業構想は、1976年からの3年間で日本の、続く3年間で世界の優良企業になる計画だった。1979年の年頭には、予定どおり後半の目標である世界の優良企業を掲げた。尺度は成長性・安定性・収益性のすべてで優れることとし、開発・生産・販売にキヤノン式の仕組みを作る委員を置いた。生産ではコストダウンの目標を初年度60億〜70億円、2年度100億円、3年度120億円とし、ほぼ達成した。販売では、独自の製品を出しても1〜2年で後発に追い抜かれることを反省点とした。賀来龍三郎氏は複写機の販売力がリコーに遠く及ばないとみて、技術で製品を差別化する方針を取った。人事では、キヤノンUSAで直販網を築いた滝川精一氏を呼び戻し、国内販売を統括するキヤノン販売の社長に充てた。
- 日経ビジネス 1979年5月7日号
- [8]優良企業構想は最初の3年で日本の、次の3年で世界の優良企業を目指し、1979年正月に世界の優良企業を掲げた
- [9]優良企業構想は最初の3年で日本の、次の3年で世界の優良企業を目指し、1979年正月に世界の優良企業を掲げた
- [10]優良企業の尺度は成長性・安定性・収益性。生産・開発・販売ごとに委員を決めてキヤノン式システム作りを始めた
- [11]コストダウン目標は初年度60億〜70億円・2年度100億円・3年目120億円で、ほぼ達成
- [12]独自製品も1〜2年で後発に抜かれる販売の弱さを反省点とし、複写機の販売力はリコーに遠く及ばないため技術で差別化する
- [13]独自製品も1〜2年で後発に抜かれる販売の弱さを反省点とし、複写機の販売力はリコーに遠く及ばないため技術で差別化する
- Decide 1988年6(4)
- [14]賀来龍三郎氏の社長就任にあわせ、キヤノンUSA社長の滝川精一氏を呼び戻してキヤノン販売社長に据えた
1976年度の販売総額は1,019億円と初めて1,000億円を超え、その65%を輸出が占めた。米国では、キヤノンUSAのカメラ売上高が1976年に1億4000万ドルに達し、日本製カメラの約25%を占めた。欧州の生産拠点である西独のキヤノン・ギーセンは、1979年夏にアムステルダムの販売会社の管理から本社の管轄へ移った。需要の繁閑に合わせて増減産する運営を改め、手送りの工程をベルトコンベヤーに換えて3年以内に月産を倍にする計画を立てた。1981年12月期の単独売上高は2,820億円、経常利益は260億円だった。優良企業構想を掲げてから、10期連続で増収増益を重ねている。販売を直販で押さえ、工場を本社の計画に組み込み直したことが、輸出の伸びを利益に結びつけたとみられる。
- 社史『キヤノン史 技術と製品の50年』(1987年)
- [15]1976年度の販売総額1,019億円(初の1,000億円超)、うち輸出65%
- 日経ビジネス 1977年4月11日号
- [16]キヤノンUSAの1976年のカメラ売上高1億4000万ドル、日本製カメラの約25%
- 日経ビジネス 1980年3月24日号
- [17]1979年夏 キヤノン・ギーセンをアムステルダムの管理下から本社管轄へ移し、生産の平準化とベルトコンベヤー化で3年以内の倍増を計画
- [18]1979年夏 キヤノン・ギーセンをアムステルダムの管理下から本社管轄へ移し、生産の平準化とベルトコンベヤー化で3年以内の倍増を計画
- 会社年鑑 1986年版
- [19]1981年12月期 単独売上高2,820億円・経常利益260億円
- 日経ビジネス 1989年5月8日号
- [20]優良企業構想(1976〜86年)を掲げて以後、10期連続の増収増益
参考文献[1]-[20]
- Decide 1988年6(4)
- [1]1974年暮れ 常務の賀来龍三郎氏が会長の御手洗毅氏に個人用電卓からの撤退を直訴
- [2]1974年末 電卓の製品在庫が21億7000万円(前年同期9億4000万円)
- [14]賀来龍三郎氏の社長就任にあわせ、キヤノンUSA社長の滝川精一氏を呼び戻してキヤノン販売社長に据えた
- 社史『キヤノン史 技術と製品の50年』(1987年)
- [3]賀来龍三郎氏は優良企業構想の立案から実施まで中心的な役割を果たした
- [4]1977年5月21日 前田武男社長死去、6月2日 賀来龍三郎常務が代表取締役社長に就任(51歳)
- [5]1978年1月 カメラ・事務機・光学機器の製品別3事業部制を本格実施、販売会社を地域事業部に位置づけ
- [15]1976年度の販売総額1,019億円(初の1,000億円超)、うち輸出65%
- 日経ビジネス 1979年5月7日号
- [6]工場の雑居で事業部制が機能せず、小杉工場に光学機器・福島工場にカメラ・取手工場に事務機を振り分けた
- [7]工場の雑居で事業部制が機能せず、小杉工場に光学機器・福島工場にカメラ・取手工場に事務機を振り分けた
- [8]優良企業構想は最初の3年で日本の、次の3年で世界の優良企業を目指し、1979年正月に世界の優良企業を掲げた
- [9]優良企業構想は最初の3年で日本の、次の3年で世界の優良企業を目指し、1979年正月に世界の優良企業を掲げた
- [10]優良企業の尺度は成長性・安定性・収益性。生産・開発・販売ごとに委員を決めてキヤノン式システム作りを始めた
- [11]コストダウン目標は初年度60億〜70億円・2年度100億円・3年目120億円で、ほぼ達成
- [12]独自製品も1〜2年で後発に抜かれる販売の弱さを反省点とし、複写機の販売力はリコーに遠く及ばないため技術で差別化する
- [13]独自製品も1〜2年で後発に抜かれる販売の弱さを反省点とし、複写機の販売力はリコーに遠く及ばないため技術で差別化する
- 日経ビジネス 1977年4月11日号
- [16]キヤノンUSAの1976年のカメラ売上高1億4000万ドル、日本製カメラの約25%
- 日経ビジネス 1980年3月24日号
- [17]1979年夏 キヤノン・ギーセンをアムステルダムの管理下から本社管轄へ移し、生産の平準化とベルトコンベヤー化で3年以内の倍増を計画
- [18]1979年夏 キヤノン・ギーセンをアムステルダムの管理下から本社管轄へ移し、生産の平準化とベルトコンベヤー化で3年以内の倍増を計画
- 会社年鑑 1986年版
- [19]1981年12月期 単独売上高2,820億円・経常利益260億円
- 日経ビジネス 1989年5月8日号
- [20]優良企業構想(1976〜86年)を掲げて以後、10期連続の増収増益
1981年〜HPへ供与したレーザープリンターのエンジンと、賀来龍三郎氏の第二の創業
1970年代後半、製品技術研究所は複写機の次を担う記録技術を調べ、インクジェット方式に参入の余地があると判断した。既存のインクジェット技術は未完成とみて、研究グループを再発足させた。1977年、実験中のはんだごてがインク入りの注射針に触れ、熱でインクが噴き出す現象が見つかった。同じ年に、中央研究所の技術者だった遠藤一郎氏がこの原理を発明し、特許を出願している。熱で泡を作ってインクを押し出す方式は、ヒーターを並べてノズルを増やせるため、高速印字への道を開いた。1981年8月に「バブルジェット」と名付け、同年11月のキヤノングランドフェアで技術を展示した。量産の第1号ヘッドを積んだBJ80は1985年に生産を始め、不良を直して同年10月に再開した。
- 社史『キヤノン史 技術と製品の50年』(1987年)
- [21]1970年代後半 製品技術研究所がポスト複写機の記録技術を調査し、インクジェットに参入余地ありとして研究グループを再発足
- [22]1970年代後半 製品技術研究所がポスト複写機の記録技術を調査し、インクジェットに参入余地ありとして研究グループを再発足
- [23]はんだごてが注射針に触れて熱でインクが吐出する現象を発見し、1977年にサーマルヘッドと結びつけてノズルのマルチ化を可能にした
- [25]はんだごてが注射針に触れて熱でインクが吐出する現象を発見し、1977年にサーマルヘッドと結びつけてノズルのマルチ化を可能にした
- [26]1981年8月「バブルジェット」と命名、同年11月 キヤノングランドフェアで技術展示
- [27]BJヘッド量産第1号のBJ80は1985年に生産開始、不良対策後の同年10月に再開
- 日経ビジネス 1994年9月12日号
- [24]1977年 中央研究所の技術者 遠藤一郎氏がBJPの原理を発明し特許を出願
1979年4月に投入したレーザービームプリンターLBP-10は、価格の高さが導入先を一部の専門分野にとどめた。ワープロやパソコン向けの大きな市場に出るため、ミニコピアのカートリッジ方式を使った小型のLBP-CXを開発した。米国で他社が小型機を売り始めたと知り、事務機事業本部長の山路敬三氏は1983年4月に試作機を持って渡米した。各社を回ったこの訪問が、ヒューレット・パッカード社などのOEM先の獲得につながった。同じ1983年4月には、HP社とバブルジェットヘッドの開発協力契約も結んでいる。1984年2月発売のLBP-CXは、1986年までの出荷累計55万台のうち90%がOEMだった。パソコンから出力するソフトを自前で作れず、自社のセールスマンが直接売る方式を取れなかったためである。
- 社史『キヤノン史 技術と製品の50年』(1987年)
- [28]LBP-10は1979年4月発売、価格面から特殊な用途に限られた
- [29]ワープロ・パソコン市場向けに、ミニコピアのプロセスカートリッジを使う小型乾式LBP-CXを開発
- [30]1983年4月 山路敬三事務機事業本部長がLBP-CX試作機を持って渡米し、ヒューレット・パッカード社などOEM先を開拓
- [31]1983年4月 山路敬三事務機事業本部長がLBP-CX試作機を持って渡米し、ヒューレット・パッカード社などOEM先を開拓
- [32]1983年4月 ヒューレット・パッカード社とBJヘッドの開発協力契約を締結
- [33]LBP-CXは1984年2月発売、1986年までの出荷累計55万台のうち90%がOEM
- 日経ビジネス 1989年5月8日号
- [34]LBPはパソコンから出力するソフトを自前で開発できず、直接販売の方式が取れないためOEM中心になった
1985年秋からの円高で、1986年12月期の経常利益は前期の425億円から131億円に減少した。同年下期には営業損益が赤字になり、減配に追い込まれた。賀来龍三郎氏は、日本の強い製造業が国外へ出て、国の競争力が低下していくと見ていた。1988年1月に賀来龍三郎氏が打ち出した「第2の創業ビジョン」は、国境を越えて世界と共に栄える真のグローバル企業への転換を目標とした。市場のある地域に生産拠点を置き、製品企画から研究開発、製造、販売までを現地で一貫させる方針である。1987〜88年に玉川工場を閉鎖して大分工場へ生産を移し、電子タイプライター事業は事業部ごと米国へ移した。約18%だった海外生産比率は、2000年までに60%へ高める目標を置いた。1988年12月期の経常利益は435億円と、円高前の最高を上回った。
- 日経ビジネス 1992年12月21日号
- [35]円高で1986年度の経常利益が前年度425億円から131億円へ
- 日経ビジネス 1989年5月8日号
- [36]1986年12月期 経常7割減・減配、1986年下期は営業損益が赤字
- [38]1988年1月「第2の創業ビジョン」で真のグローバル企業を掲げ、市場のある地域に生産拠点と一貫体制を築く方針
- [39]1988年1月「第2の創業ビジョン」で真のグローバル企業を掲げ、市場のある地域に生産拠点と一貫体制を築く方針
- [40]1987〜88年 玉川工場を閉鎖し大分工場へ移管、電子タイプライター事業を事業部ごと米国へ移管
- [41]海外生産比率 約18%(1989年)を2000年までに60%へ
- [42]1988年12月期 経常利益435億円、円高前の過去最高425億円を上回る
- Decide 1988年6(4)
- [37]賀来龍三郎氏は日本の製造業が国外に出て空洞化し競争力が低下すると予測し、第二の創業を説いた
参考文献[21]-[42]
- 社史『キヤノン史 技術と製品の50年』(1987年)
- [21]1970年代後半 製品技術研究所がポスト複写機の記録技術を調査し、インクジェットに参入余地ありとして研究グループを再発足
- [22]1970年代後半 製品技術研究所がポスト複写機の記録技術を調査し、インクジェットに参入余地ありとして研究グループを再発足
- [23]はんだごてが注射針に触れて熱でインクが吐出する現象を発見し、1977年にサーマルヘッドと結びつけてノズルのマルチ化を可能にした
- [25]はんだごてが注射針に触れて熱でインクが吐出する現象を発見し、1977年にサーマルヘッドと結びつけてノズルのマルチ化を可能にした
- [26]1981年8月「バブルジェット」と命名、同年11月 キヤノングランドフェアで技術展示
- [27]BJヘッド量産第1号のBJ80は1985年に生産開始、不良対策後の同年10月に再開
- [28]LBP-10は1979年4月発売、価格面から特殊な用途に限られた
- [29]ワープロ・パソコン市場向けに、ミニコピアのプロセスカートリッジを使う小型乾式LBP-CXを開発
- [30]1983年4月 山路敬三事務機事業本部長がLBP-CX試作機を持って渡米し、ヒューレット・パッカード社などOEM先を開拓
- [31]1983年4月 山路敬三事務機事業本部長がLBP-CX試作機を持って渡米し、ヒューレット・パッカード社などOEM先を開拓
- [32]1983年4月 ヒューレット・パッカード社とBJヘッドの開発協力契約を締結
- [33]LBP-CXは1984年2月発売、1986年までの出荷累計55万台のうち90%がOEM
- 日経ビジネス 1994年9月12日号
- [24]1977年 中央研究所の技術者 遠藤一郎氏がBJPの原理を発明し特許を出願
- 日経ビジネス 1989年5月8日号
- [34]LBPはパソコンから出力するソフトを自前で開発できず、直接販売の方式が取れないためOEM中心になった
- [36]1986年12月期 経常7割減・減配、1986年下期は営業損益が赤字
- [38]1988年1月「第2の創業ビジョン」で真のグローバル企業を掲げ、市場のある地域に生産拠点と一貫体制を築く方針
- [39]1988年1月「第2の創業ビジョン」で真のグローバル企業を掲げ、市場のある地域に生産拠点と一貫体制を築く方針
- [40]1987〜88年 玉川工場を閉鎖し大分工場へ移管、電子タイプライター事業を事業部ごと米国へ移管
- [41]海外生産比率 約18%(1989年)を2000年までに60%へ
- [42]1988年12月期 経常利益435億円、円高前の過去最高425億円を上回る
- 日経ビジネス 1992年12月21日号
- [35]円高で1986年度の経常利益が前年度425億円から131億円へ
- Decide 1988年6(4)
- [37]賀来龍三郎氏は日本の製造業が国外に出て空洞化し競争力が低下すると予測し、第二の創業を説いた
1989年〜山路敬三社長の大連進出と、輸出8割でも増益にしたバブルジェットプリンター
1989年3月末、11年9カ月社長を務めた賀来龍三郎氏は会長となり、山路敬三氏が社長に就任した。同年9月、中国に佳能大連事務機有限公司を設立した。賀来龍三郎氏は1989年、NIESは為替が上がりアセアンもコストが上がっていくと見ていた。11億人の人口を抱える中国はコストの上がり方が最も遅く、最終的な生産基地になるという判断である。中国の近代化を支えることは、第2の創業で掲げた世界人類との共生にもつながると位置づけた。1988年のマレーシアに続き、1989年に大連、1990年に中国・珠海とタイへ製造拠点を広げた。大連工場は、世界から回収したプリンター用カートリッジを再生する最終工程も担った。
- 日経ビジネス 1989年5月8日号
- [43]1989年3月末 賀来龍三郎氏(在任11年9カ月)が会長となり、山路敬三氏が社長に就任
- キヤノン 有価証券報告書(沿革)
- [44]1989年9月 中華人民共和国に佳能大連事務機有限公司を設立
- ビジネスリサーチ 1989年「キヤノン(株)代表取締役社長(企業研究会副会長)――賀来龍三郎」
- [45]賀来龍三郎氏はNIES・アセアンのコスト上昇に対し、中国はコストの上がり方が最も遅く最終的な生産基地になると述べ、共生の観点からも中国を重視
- [46]賀来龍三郎氏はNIES・アセアンのコスト上昇に対し、中国はコストの上がり方が最も遅く最終的な生産基地になると述べ、共生の観点からも中国を重視
- [47]賀来龍三郎氏はNIES・アセアンのコスト上昇に対し、中国はコストの上がり方が最も遅く最終的な生産基地になると述べ、共生の観点からも中国を重視
- 日経ビジネス 1992年12月21日号
- [48]1988年マレーシア、1989年中国・大連、1990年中国・珠海とタイに製造拠点
- ビジネスリサーチ 1992年「世界共生に貢献して前進するキヤノン――キヤノン㈱代表取締役社長 山路敬三」
- [49]回収したカートリッジのリサイクルの最終工程を中国の大連工場で行う
1990年に発売したノート型の「BJ-10v」が、バブルジェットプリンターの需要を一気に広げた。原理の発明から10年を経ても売上が伸びず、1987年夏に副社長の田中宏氏がLBPの開発部隊をBJPに合流させた。最初から個人を狙い、1987年暮れにキャビネットに収まる大きさと7万4800円の価格を決めた。BJPの販売台数は1993年に300万台、売上は900億円に達した。1994年6月中間期の経常利益は285億円と前年同期比83%増え、この時期の輸出比率は約80%だった。1994年3月末に36%だった連結の海外生産比率は、1995年3月末に45%へ上げる計画だった。本体が普及するほどインクの需要が積み上がるため、円高の吸収を支えたのは消耗品の収益だったのだろう。
- 日経ビジネス 1994年9月12日号
- [50]1990年 ノート型「BJ-10V」の発売でBJP市場が拡大
- [51]1987年夏 田中宏副社長がLBPの開発部隊をBJPの部隊に合流させた
- [52]1987年暮れ「キャビネットに収納できる大きさ」と価格7万4800円を決定、個人ユーザーを狙う
- [53]BJPの販売台数 1993年300万台、売上900億円
- [54]1994年6月中間期 経常利益285億円(前年同期比83%増)、輸出比率約80%
- 日経ビジネス 1994年7月11日号
- [55]連結の海外生産比率 36%(1994年3月末)を1995年3月末に45%へ引き上げる計画
1993年3月、創業者の御手洗毅氏の長男である御手洗肇氏が社長に就任した。就任した1993年は円高が1300億円の減益要因となり、利益が半減した。同年7月には1ドル100円を想定した「CR100」を始め、10%程度だった部品の海外調達比率を2倍にする目標を置いた。国内の既存工場は生産品目を入れ替えて残し、解雇につながる閉鎖はしない方針を取った。1994年12月期の経常利益は44%増え、円高の影響は650億円にとどまった。1995年3月、御手洗肇氏は国内の空洞化を防ぎながらドル建ての国際価格に対応する方針を示した『空洞化を防ぎ、なおかつ、グローバル対応ができることを身をもって示したいと思います。』。このとき経営を率いていたのは、御手洗肇氏と田中宏・御手洗冨士夫の両副社長の3人だった。御手洗肇氏は1995年8月、社長在任のまま死去した。
- 日経ビジネス 1995年3月13日号
- [56]1993年3月 御手洗肇氏が社長就任。1993年は円高が1300億円の減益要因で利益半減、1994年12月期は経常44%増で円高影響650億円。経営は御手洗肇氏と田中・御手洗冨士夫両副社長の3人
- [57]1993年3月 御手洗肇氏が社長就任。1993年は円高が1300億円の減益要因で利益半減、1994年12月期は経常44%増で円高影響650億円。経営は御手洗肇氏と田中・御手洗冨士夫両副社長の3人
- [60]1993年3月 御手洗肇氏が社長就任。1993年は円高が1300億円の減益要因で利益半減、1994年12月期は経常44%増で円高影響650億円。経営は御手洗肇氏と田中・御手洗冨士夫両副社長の3人
- [61]1993年3月 御手洗肇氏が社長就任。1993年は円高が1300億円の減益要因で利益半減、1994年12月期は経常44%増で円高影響650億円。経営は御手洗肇氏と田中・御手洗冨士夫両副社長の3人
- [62]1993年3月 御手洗肇氏が社長就任。1993年は円高が1300億円の減益要因で利益半減、1994年12月期は経常44%増で円高影響650億円。経営は御手洗肇氏と田中・御手洗冨士夫両副社長の3人
- 日経ビジネス 1994年9月12日号
- [58]1993年7月「CR100」を開始し部品の海外調達比率10%程度を2倍へ。国内工場の空洞化は避け、生産品目を入れ替えて解雇につながる閉鎖はしない
- [59]1993年7月「CR100」を開始し部品の海外調達比率10%程度を2倍へ。国内工場の空洞化は避け、生産品目を入れ替えて解雇につながる閉鎖はしない
- キヤノン 有価証券報告書【役員の状況】
- [63]1995年8月 御手洗肇氏が社長在職のまま死去
参考文献[43]-[63]
- 日経ビジネス 1989年5月8日号
- [43]1989年3月末 賀来龍三郎氏(在任11年9カ月)が会長となり、山路敬三氏が社長に就任
- キヤノン 有価証券報告書(沿革)
- [44]1989年9月 中華人民共和国に佳能大連事務機有限公司を設立
- ビジネスリサーチ 1989年「キヤノン(株)代表取締役社長(企業研究会副会長)――賀来龍三郎」
- [45]賀来龍三郎氏はNIES・アセアンのコスト上昇に対し、中国はコストの上がり方が最も遅く最終的な生産基地になると述べ、共生の観点からも中国を重視
- [46]賀来龍三郎氏はNIES・アセアンのコスト上昇に対し、中国はコストの上がり方が最も遅く最終的な生産基地になると述べ、共生の観点からも中国を重視
- [47]賀来龍三郎氏はNIES・アセアンのコスト上昇に対し、中国はコストの上がり方が最も遅く最終的な生産基地になると述べ、共生の観点からも中国を重視
- 日経ビジネス 1992年12月21日号
- [48]1988年マレーシア、1989年中国・大連、1990年中国・珠海とタイに製造拠点
- ビジネスリサーチ 1992年「世界共生に貢献して前進するキヤノン――キヤノン㈱代表取締役社長 山路敬三」
- [49]回収したカートリッジのリサイクルの最終工程を中国の大連工場で行う
- 日経ビジネス 1994年9月12日号
- [50]1990年 ノート型「BJ-10V」の発売でBJP市場が拡大
- [51]1987年夏 田中宏副社長がLBPの開発部隊をBJPの部隊に合流させた
- [52]1987年暮れ「キャビネットに収納できる大きさ」と価格7万4800円を決定、個人ユーザーを狙う
- [53]BJPの販売台数 1993年300万台、売上900億円
- [54]1994年6月中間期 経常利益285億円(前年同期比83%増)、輸出比率約80%
- [58]1993年7月「CR100」を開始し部品の海外調達比率10%程度を2倍へ。国内工場の空洞化は避け、生産品目を入れ替えて解雇につながる閉鎖はしない
- [59]1993年7月「CR100」を開始し部品の海外調達比率10%程度を2倍へ。国内工場の空洞化は避け、生産品目を入れ替えて解雇につながる閉鎖はしない
- 日経ビジネス 1994年7月11日号
- [55]連結の海外生産比率 36%(1994年3月末)を1995年3月末に45%へ引き上げる計画
- 日経ビジネス 1995年3月13日号
- [56]1993年3月 御手洗肇氏が社長就任。1993年は円高が1300億円の減益要因で利益半減、1994年12月期は経常44%増で円高影響650億円。経営は御手洗肇氏と田中・御手洗冨士夫両副社長の3人
- [57]1993年3月 御手洗肇氏が社長就任。1993年は円高が1300億円の減益要因で利益半減、1994年12月期は経常44%増で円高影響650億円。経営は御手洗肇氏と田中・御手洗冨士夫両副社長の3人
- [60]1993年3月 御手洗肇氏が社長就任。1993年は円高が1300億円の減益要因で利益半減、1994年12月期は経常44%増で円高影響650億円。経営は御手洗肇氏と田中・御手洗冨士夫両副社長の3人
- [61]1993年3月 御手洗肇氏が社長就任。1993年は円高が1300億円の減益要因で利益半減、1994年12月期は経常44%増で円高影響650億円。経営は御手洗肇氏と田中・御手洗冨士夫両副社長の3人
- [62]1993年3月 御手洗肇氏が社長就任。1993年は円高が1300億円の減益要因で利益半減、1994年12月期は経常44%増で円高影響650億円。経営は御手洗肇氏と田中・御手洗冨士夫両副社長の3人
- キヤノン 有価証券報告書【役員の状況】
- [63]1995年8月 御手洗肇氏が社長在職のまま死去
1977年〜1994年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1977年12月期 | 単体 | 1,239 | n/a | 99 | 59 | 4.8% | n/a |
| 1978年12月期 | 単体 | 1,369 | +10.5% | 116 | 74 | 5.4% | n/a |
| 1979年12月期 | 単体 | 1,874 | +36.9% | 186 | 113 | 6.0% | n/a |
| 1980年12月期 | 単体 | 2,407 | +28.4% | 258 | 147 | 6.1% | n/a |
| 1981年12月期 | 単体 | 2,820 | +17.2% | 260 | 157 | 5.6% | n/a |
| 1982年12月期 | 単体 | 3,065 | +8.7% | 285 | 167 | 5.4% | n/a |
| 1983年12月期 | 単体 | 3,741 | +22.1% | 317 | 175 | 4.7% | n/a |
| 1984年12月期 | 単体 | 4,850 | +29.6% | 387 | 210 | 4.3% | n/a |
| 1985年12月期 | 連結 | 9,557 | +97.1% | n/a | 370 | 3.9% | n/a |
| 1986年12月期 | 連結 | 8,892 | ▲7.0% | n/a | 107 | 1.2% | n/a |
| 1987年12月期 | 連結 | 9,767 | +9.8% | n/a | 132 | 1.4% | n/a |
| 1988年12月期 | 連結 | 11,060 | +13.2% | n/a | 371 | 3.4% | n/a |
| 1989年12月期 | 連結 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年12月期 | 連結 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年12月期 | 連結 | 18,689 | n/a | n/a | 521 | 2.8% | n/a |
| 1992年12月期 | 連結 | 19,144 | +2.4% | n/a | 356 | 1.9% | n/a |
| 1993年12月期 | 連結 | 18,361 | ▲4.1% | n/a | 211 | 1.1% | n/a |
| 1994年12月期 | 連結 | 19,333 | +5.3% | n/a | 410 | 2.1% | n/a |
出所:会社年鑑、証券調査
出典・参考
15件
- キヤノン 有価証券報告書(沿革)
- キヤノン 有価証券報告書【役員の状況】
- 社史『キヤノン史 技術と製品の50年』(1987年)
- 会社年鑑 1986年版
- 日経ビジネス 1977年4月11日号
- 日経ビジネス 1979年5月7日号
- 日経ビジネス 1980年3月24日号
- 日経ビジネス 1989年5月8日号
- 日経ビジネス 1992年12月21日号
- 日経ビジネス 1994年9月12日号
- 日経ビジネス 1994年7月11日号
- 日経ビジネス 1995年3月13日号
- Decide 1988年6(4)
- ビジネスリサーチ 1989年「キヤノン(株)代表取締役社長(企業研究会副会長)――賀来龍三郎」
- ビジネスリサーチ 1992年「世界共生に貢献して前進するキヤノン――キヤノン㈱代表取締役社長 山路敬三」