東京計器:和田計器製作所の創業から東京計器製作所への改組まで
1896年〜小石川原町の工場で始めた圧力計と、海軍の輸入を止めた和田式指圧器
和田嘉衡氏は1896年5月1日、東京市小石川区原町120番地の茶畑に小屋を建て、和田計器製作所として圧力計の研究製作を始めた。現在の東京計器の起点は、和田嘉衡氏が原町に開いた計器工場にある。創業の契機は、汽車で知り合った海軍機関大尉の山本安太郎氏の助言で、計器の国内自給を急ぐべきだと和田嘉衡氏が考えたことにあった。当時の国内には近代的な計器の製作者がほかになく、比べる製品も参考書もほとんど無かった。作業場は約6平方米、所員は和田嘉衡氏のほかに4名で、創業期は収入に比べて支出が多く、経営は再三苦境に陥った。輸入品の代わりを手本なしで作る仕事は、試作の手戻りを重くしたと推察される。
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [1]1896年5月1日、和田嘉衡が小石川区原町120番地に和田計器製作所を建て圧力計の研究製作を開始。海軍機関大尉山本安太郎の助言が契機、所員は和田のほか4名、創業期は経営難
- [3]1896年5月1日、和田嘉衡が小石川区原町120番地に和田計器製作所を建て圧力計の研究製作を開始。海軍機関大尉山本安太郎の助言が契機、所員は和田のほか4名、創業期は経営難
- [4]1896年5月1日、和田嘉衡が小石川区原町120番地に和田計器製作所を建て圧力計の研究製作を開始。海軍機関大尉山本安太郎の助言が契機、所員は和田のほか4名、創業期は経営難
- [5]1896年5月1日、和田嘉衡が小石川区原町120番地に和田計器製作所を建て圧力計の研究製作を開始。海軍機関大尉山本安太郎の助言が契機、所員は和田のほか4名、創業期は経営難
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [2]東京計器製造所の起源は1896年5月に和田嘉衡が原町に創立した計器工場
和田嘉衡氏は1899年に特許和田式指圧器を完成し、海軍は外国製品の輸入を中止して和田式に切り替えた。海軍の判断の根拠は、それまで使っていた外国製の指圧器と比べた性能の優位だった。工場は圧力計の製作に成功した後、回転計・動力計・温度計へと品目を広げた。英国ロンドンのリューケントバルブ社は指圧器の世界一手販売権を求めたものの、和田式の名を外す条件を付けたため、和田嘉衡氏は交渉を打ち切った。1900年には航海計器に着手して海軍の指定工場となり、海軍技師から特許を譲り受けた磁気羅針儀を納入した。輸入品を置き換えた実績が、海軍との取引の入口になったとみられる。
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [6]1899年に特許和田式指圧器を完成、外国製より優れ海軍が輸入を中止して採用。英リューケントバルブ社の一手販売権交渉は名称問題で打切り。1900年航海計器に着手し海軍指定工場
- [7]1899年に特許和田式指圧器を完成、外国製より優れ海軍が輸入を中止して採用。英リューケントバルブ社の一手販売権交渉は名称問題で打切り。1900年航海計器に着手し海軍指定工場
- [9]1899年に特許和田式指圧器を完成、外国製より優れ海軍が輸入を中止して採用。英リューケントバルブ社の一手販売権交渉は名称問題で打切り。1900年航海計器に着手し海軍指定工場
- [10]1899年に特許和田式指圧器を完成、外国製より優れ海軍が輸入を中止して採用。英リューケントバルブ社の一手販売権交渉は名称問題で打切り。1900年航海計器に着手し海軍指定工場
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [8]圧力計の製作に成功し、次いで回転計・動力計・温度計・航海計器を製作
増える需要を個人経営で受け切れなくなり、和田嘉衡氏は1902年5月9日に資本金2万円の合名会社東京計器製作所へ組織を改めた。組織を本部と工場部の2部に分け、和田嘉衡氏が技師長を兼ねた。合名会社の代表社員は和田嘉衡氏が務めた。改組を機に航海用テレグラフや圧力計試験器、回転計試験器の製作に着手した。続いて東京帝国大学教授の横田成年氏と末広恭二氏の指導と監督を受け、振動計や振動分解器、末広式トーションメーターを完成させた。大学の学者を招いたことで、個人の工夫に依存した製作を測定の理論で裏づける段階へ進めたのだろう。
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [11]1902年5月9日、資本金2万円の合名会社東京計器製作所に改組し本部・工場部に分け、和田嘉衡が代表社員兼技師長。試験器類に着手し、横田成年・末広恭二の指導で振動計等を完成
- [12]1902年5月9日、資本金2万円の合名会社東京計器製作所に改組し本部・工場部に分け、和田嘉衡が代表社員兼技師長。試験器類に着手し、横田成年・末広恭二の指導で振動計等を完成
- [14]1902年5月9日、資本金2万円の合名会社東京計器製作所に改組し本部・工場部に分け、和田嘉衡が代表社員兼技師長。試験器類に着手し、横田成年・末広恭二の指導で振動計等を完成
- [15]1902年5月9日、資本金2万円の合名会社東京計器製作所に改組し本部・工場部に分け、和田嘉衡が代表社員兼技師長。試験器類に着手し、横田成年・末広恭二の指導で振動計等を完成
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [13]1902年に個人経営から法人組織に改め合名会社東京計器製作所とし、代表社員に和田嘉衡が就任
参考文献[1]-[15]
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [1]1896年5月1日、和田嘉衡が小石川区原町120番地に和田計器製作所を建て圧力計の研究製作を開始。海軍機関大尉山本安太郎の助言が契機、所員は和田のほか4名、創業期は経営難
- [3]1896年5月1日、和田嘉衡が小石川区原町120番地に和田計器製作所を建て圧力計の研究製作を開始。海軍機関大尉山本安太郎の助言が契機、所員は和田のほか4名、創業期は経営難
- [4]1896年5月1日、和田嘉衡が小石川区原町120番地に和田計器製作所を建て圧力計の研究製作を開始。海軍機関大尉山本安太郎の助言が契機、所員は和田のほか4名、創業期は経営難
- [5]1896年5月1日、和田嘉衡が小石川区原町120番地に和田計器製作所を建て圧力計の研究製作を開始。海軍機関大尉山本安太郎の助言が契機、所員は和田のほか4名、創業期は経営難
- [6]1899年に特許和田式指圧器を完成、外国製より優れ海軍が輸入を中止して採用。英リューケントバルブ社の一手販売権交渉は名称問題で打切り。1900年航海計器に着手し海軍指定工場
- [7]1899年に特許和田式指圧器を完成、外国製より優れ海軍が輸入を中止して採用。英リューケントバルブ社の一手販売権交渉は名称問題で打切り。1900年航海計器に着手し海軍指定工場
- [9]1899年に特許和田式指圧器を完成、外国製より優れ海軍が輸入を中止して採用。英リューケントバルブ社の一手販売権交渉は名称問題で打切り。1900年航海計器に着手し海軍指定工場
- [10]1899年に特許和田式指圧器を完成、外国製より優れ海軍が輸入を中止して採用。英リューケントバルブ社の一手販売権交渉は名称問題で打切り。1900年航海計器に着手し海軍指定工場
- [11]1902年5月9日、資本金2万円の合名会社東京計器製作所に改組し本部・工場部に分け、和田嘉衡が代表社員兼技師長。試験器類に着手し、横田成年・末広恭二の指導で振動計等を完成
- [12]1902年5月9日、資本金2万円の合名会社東京計器製作所に改組し本部・工場部に分け、和田嘉衡が代表社員兼技師長。試験器類に着手し、横田成年・末広恭二の指導で振動計等を完成
- [14]1902年5月9日、資本金2万円の合名会社東京計器製作所に改組し本部・工場部に分け、和田嘉衡が代表社員兼技師長。試験器類に着手し、横田成年・末広恭二の指導で振動計等を完成
- [15]1902年5月9日、資本金2万円の合名会社東京計器製作所に改組し本部・工場部に分け、和田嘉衡が代表社員兼技師長。試験器類に着手し、横田成年・末広恭二の指導で振動計等を完成
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [2]東京計器製造所の起源は1896年5月に和田嘉衡が原町に創立した計器工場
- [8]圧力計の製作に成功し、次いで回転計・動力計・温度計・航海計器を製作
- [13]1902年に個人経営から法人組織に改め合名会社東京計器製作所とし、代表社員に和田嘉衡が就任
1904年〜日露戦争の軍需で伸びた合名会社と、資本金300万円の株式会社への改組
1904年2月に日露戦争が始まると、東京計器製作所は軍需工場に指定され、政府の国産化方針の下で多量の注文を受けた。軍需工場として需要を受けたことで社業は拡大した。戦後も海軍からロシアの戦利艦艇に使う修整式磁気羅針儀100台を受注し、全数を納めた。並行して電気の普及を見込み、他社より早く電気計器の研究製作を始め、直流から交流の計器へ品目を広げた。ロシアの戦利艦に積まれていた電気式のモリナリ式回転計も製作した。海軍向けの航海計器で得た受注の厚みが、電気計器という新しい分野へ投資する余力を生んだと思われる。
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [16]1904年2月日露戦争開戦、軍需工場に指定され政府の国産化方針で多量受注。戦後に戦利艦艇用磁気羅針儀100台を受注・完納。電気計器の研究製作を開始
- [18]1904年2月日露戦争開戦、軍需工場に指定され政府の国産化方針で多量受注。戦後に戦利艦艇用磁気羅針儀100台を受注・完納。電気計器の研究製作を開始
- [19]1904年2月日露戦争開戦、軍需工場に指定され政府の国産化方針で多量受注。戦後に戦利艦艇用磁気羅針儀100台を受注・完納。電気計器の研究製作を開始
- [20]1904年2月日露戦争開戦、軍需工場に指定され政府の国産化方針で多量受注。戦後に戦利艦艇用磁気羅針儀100台を受注・完納。電気計器の研究製作を開始
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [17]1904年に軍需工場として社業が伸張
東京計器製作所の品目は、圧力計に続いて回転計・動力計・温度計・航海計器へ広がった。1906年には光学計器を扱う工場を社内に新設し、プリズムとレンズの研磨を始めた。1907年には英国ケルビン社と神戸での共同出資会社を準備したものの、ケルビン卿の急逝で中止となり、のちにケルビン社から航海計器の製作権を得た。1914年1月の英国バー・エンド・ストラウト社との光学計器の共同製作は、大戦の勃発で決定を延ばし実現しなかった。同年2月にはドイツのシーメンス・シュッケルト社と弱電流製品の製作を調印の直前まで詰めた。シーメンス事件で先方の交渉委員が帰国し、計画は事実上中止となった。
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [21]圧力計に続き回転計・動力計・温度計・航海計器を製作
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [22]1906年光学計器工場を設置。1907年英ケルビン社との合弁計画はケルビン卿急逝で中止、後に製作権獲得。1914年1月英バー・エンド・ストラウト社の共同製作は大戦で延期、同年2月独シーメンス・シュッケルトとの弱電流製品製作はシーメンス事件で中止
- [23]1906年光学計器工場を設置。1907年英ケルビン社との合弁計画はケルビン卿急逝で中止、後に製作権獲得。1914年1月英バー・エンド・ストラウト社の共同製作は大戦で延期、同年2月独シーメンス・シュッケルトとの弱電流製品製作はシーメンス事件で中止
- [24]1906年光学計器工場を設置。1907年英ケルビン社との合弁計画はケルビン卿急逝で中止、後に製作権獲得。1914年1月英バー・エンド・ストラウト社の共同製作は大戦で延期、同年2月独シーメンス・シュッケルトとの弱電流製品製作はシーメンス事件で中止
- [25]1906年光学計器工場を設置。1907年英ケルビン社との合弁計画はケルビン卿急逝で中止、後に製作権獲得。1914年1月英バー・エンド・ストラウト社の共同製作は大戦で延期、同年2月独シーメンス・シュッケルトとの弱電流製品製作はシーメンス事件で中止
- [26]1906年光学計器工場を設置。1907年英ケルビン社との合弁計画はケルビン卿急逝で中止、後に製作権獲得。1914年1月英バー・エンド・ストラウト社の共同製作は大戦で延期、同年2月独シーメンス・シュッケルトとの弱電流製品製作はシーメンス事件で中止
第1次世界大戦で陸海軍の注文は激増し、海軍を通じてロシア政府から火薬信管の大量注文も受けた。1916年6月の増資で資本金を50万円としたものの、機械的計器・電気計器・光学計器の主要製品にはさらに研究と製作が要るようになった。50万円では将来の発展は難しいとみなされ、資本金の大幅な増額と経営組織の改革を求める意見が強まった。和田嘉衡氏と男爵の近藤廉平氏ほか数名の発起人は合名会社の買収を計画し、1917年5月31日に株式会社東京計器製作所を設立し、登記を済ませた。株式組織に改めた新会社の資本金は300万円だった。個人の出資に依存した合名会社では、大戦期の注文増に設備投資が追いつかないと判断したと考えられる。
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [27]大戦で注文激増、露国政府の火薬信管も受注。1916年6月資本金50万円に増資、なお資本不足とされ、和田嘉衡・近藤廉平ら発起人が合名会社を買収し1917年5月31日資本金300万円(払込210万円)の株式会社東京計器製作所を設立登記
- [28]大戦で注文激増、露国政府の火薬信管も受注。1916年6月資本金50万円に増資、なお資本不足とされ、和田嘉衡・近藤廉平ら発起人が合名会社を買収し1917年5月31日資本金300万円(払込210万円)の株式会社東京計器製作所を設立登記
- [29]大戦で注文激増、露国政府の火薬信管も受注。1916年6月資本金50万円に増資、なお資本不足とされ、和田嘉衡・近藤廉平ら発起人が合名会社を買収し1917年5月31日資本金300万円(払込210万円)の株式会社東京計器製作所を設立登記
- [30]大戦で注文激増、露国政府の火薬信管も受注。1916年6月資本金50万円に増資、なお資本不足とされ、和田嘉衡・近藤廉平ら発起人が合名会社を買収し1917年5月31日資本金300万円(払込210万円)の株式会社東京計器製作所を設立登記
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [31]1917年5月、資本金300万円で株式組織に改めた
参考文献[16]-[31]
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [16]1904年2月日露戦争開戦、軍需工場に指定され政府の国産化方針で多量受注。戦後に戦利艦艇用磁気羅針儀100台を受注・完納。電気計器の研究製作を開始
- [18]1904年2月日露戦争開戦、軍需工場に指定され政府の国産化方針で多量受注。戦後に戦利艦艇用磁気羅針儀100台を受注・完納。電気計器の研究製作を開始
- [19]1904年2月日露戦争開戦、軍需工場に指定され政府の国産化方針で多量受注。戦後に戦利艦艇用磁気羅針儀100台を受注・完納。電気計器の研究製作を開始
- [20]1904年2月日露戦争開戦、軍需工場に指定され政府の国産化方針で多量受注。戦後に戦利艦艇用磁気羅針儀100台を受注・完納。電気計器の研究製作を開始
- [22]1906年光学計器工場を設置。1907年英ケルビン社との合弁計画はケルビン卿急逝で中止、後に製作権獲得。1914年1月英バー・エンド・ストラウト社の共同製作は大戦で延期、同年2月独シーメンス・シュッケルトとの弱電流製品製作はシーメンス事件で中止
- [23]1906年光学計器工場を設置。1907年英ケルビン社との合弁計画はケルビン卿急逝で中止、後に製作権獲得。1914年1月英バー・エンド・ストラウト社の共同製作は大戦で延期、同年2月独シーメンス・シュッケルトとの弱電流製品製作はシーメンス事件で中止
- [24]1906年光学計器工場を設置。1907年英ケルビン社との合弁計画はケルビン卿急逝で中止、後に製作権獲得。1914年1月英バー・エンド・ストラウト社の共同製作は大戦で延期、同年2月独シーメンス・シュッケルトとの弱電流製品製作はシーメンス事件で中止
- [25]1906年光学計器工場を設置。1907年英ケルビン社との合弁計画はケルビン卿急逝で中止、後に製作権獲得。1914年1月英バー・エンド・ストラウト社の共同製作は大戦で延期、同年2月独シーメンス・シュッケルトとの弱電流製品製作はシーメンス事件で中止
- [26]1906年光学計器工場を設置。1907年英ケルビン社との合弁計画はケルビン卿急逝で中止、後に製作権獲得。1914年1月英バー・エンド・ストラウト社の共同製作は大戦で延期、同年2月独シーメンス・シュッケルトとの弱電流製品製作はシーメンス事件で中止
- [27]大戦で注文激増、露国政府の火薬信管も受注。1916年6月資本金50万円に増資、なお資本不足とされ、和田嘉衡・近藤廉平ら発起人が合名会社を買収し1917年5月31日資本金300万円(払込210万円)の株式会社東京計器製作所を設立登記
- [28]大戦で注文激増、露国政府の火薬信管も受注。1916年6月資本金50万円に増資、なお資本不足とされ、和田嘉衡・近藤廉平ら発起人が合名会社を買収し1917年5月31日資本金300万円(払込210万円)の株式会社東京計器製作所を設立登記
- [29]大戦で注文激増、露国政府の火薬信管も受注。1916年6月資本金50万円に増資、なお資本不足とされ、和田嘉衡・近藤廉平ら発起人が合名会社を買収し1917年5月31日資本金300万円(払込210万円)の株式会社東京計器製作所を設立登記
- [30]大戦で注文激増、露国政府の火薬信管も受注。1916年6月資本金50万円に増資、なお資本不足とされ、和田嘉衡・近藤廉平ら発起人が合名会社を買収し1917年5月31日資本金300万円(払込210万円)の株式会社東京計器製作所を設立登記
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [17]1904年に軍需工場として社業が伸張
- [21]圧力計に続き回転計・動力計・温度計・航海計器を製作
- [31]1917年5月、資本金300万円で株式組織に改めた
1917年〜日本光学工業へ移した光学計器課と、スペリー社から得たジャイロコンパスの製造権
1917年7月25日、東京計器製作所と三菱合資会社の共同出資による、資本金200万円の日本光学工業株式会社の発足。翌26日、東京計器製作所は日本光学工業へ光学計器課をすべて移した。分離の理由は、光学計器が深い学理と高い技能に加えて大きな研究・製造設備を要し、科学部の一部門では運営できないと結論づけたことにある。新会社は東京計器製作所の光学計器工場と岩城硝子の反射鏡部門を統合し、三菱合資との共同経営で発足した。社長には和田嘉衡氏が兼務で就任し、専務取締役は三菱合資の曾根増吉氏が務めた。投資の重い光学を別会社に移し、本体の資本を計器の量産に集中させたと解される。
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [32]光学計器は大設備を要し科学部の一部では経営不能と結論、近藤廉平・岩崎小弥太と協議し三菱合資と共同出資で1917年7月25日資本金200万円の日本光学工業を設立、社長和田嘉衡・専務曾根増吉。7月26日光学計器課全部を移譲
- [33]光学計器は大設備を要し科学部の一部では経営不能と結論、近藤廉平・岩崎小弥太と協議し三菱合資と共同出資で1917年7月25日資本金200万円の日本光学工業を設立、社長和田嘉衡・専務曾根増吉。7月26日光学計器課全部を移譲
- [34]光学計器は大設備を要し科学部の一部では経営不能と結論、近藤廉平・岩崎小弥太と協議し三菱合資と共同出資で1917年7月25日資本金200万円の日本光学工業を設立、社長和田嘉衡・専務曾根増吉。7月26日光学計器課全部を移譲
- [36]光学計器は大設備を要し科学部の一部では経営不能と結論、近藤廉平・岩崎小弥太と協議し三菱合資と共同出資で1917年7月25日資本金200万円の日本光学工業を設立、社長和田嘉衡・専務曾根増吉。7月26日光学計器課全部を移譲
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [35]1917年7月、光学計器工場を分離し岩城硝子の反射鏡部門と合わせ三菱合資との共同経営で日本光学工業を創立
第43議会で八八艦隊の完成予算案が可決され、艦船に積む装備品の国産化が急務となった。和田嘉衡氏は海軍機関大佐の与倉守之助氏の進言を受け、米国スペリー・ジャイロスコープ社にジャイロコンパスと高光度探照灯の特許について契約交渉を始めた。海軍大臣の許可を得て交渉を在米の与倉守之助氏に委ね、三井物産ニューヨーク支店を通じて探照灯は1917年に契約が成立した。1918年8月にはジャイロコンパスの製造販売権でも契約が成立し、以後ほかの製品でも技術提携を結んだ。探照灯は1920年秋に国産化して海軍へ納め、ジャイロコンパスは試作の完成が1923年末、海軍への本格納入は1925年以降となった。磁気羅針儀の次の世代となる装備品の製造権を得たことで、八八艦隊の需要の受注先となる準備を整えたといえる。
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [37]八八艦隊予算可決で艦船装備品の国産が急務、与倉守之助の進言でスペリー社と交渉、三井物産紐育支店を通じ探照灯1917年・ジャイロコンパス1918年に契約。探照灯1920年秋国産化、ジャイロは1923年末試作完成・1925年以降本格納入
- [38]八八艦隊予算可決で艦船装備品の国産が急務、与倉守之助の進言でスペリー社と交渉、三井物産紐育支店を通じ探照灯1917年・ジャイロコンパス1918年に契約。探照灯1920年秋国産化、ジャイロは1923年末試作完成・1925年以降本格納入
- [39]八八艦隊予算可決で艦船装備品の国産が急務、与倉守之助の進言でスペリー社と交渉、三井物産紐育支店を通じ探照灯1917年・ジャイロコンパス1918年に契約。探照灯1920年秋国産化、ジャイロは1923年末試作完成・1925年以降本格納入
- [41]八八艦隊予算可決で艦船装備品の国産が急務、与倉守之助の進言でスペリー社と交渉、三井物産紐育支店を通じ探照灯1917年・ジャイロコンパス1918年に契約。探照灯1920年秋国産化、ジャイロは1923年末試作完成・1925年以降本格納入
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [40]1918年8月、三井物産を通じ米スペリー社とジャイロコンパス・サーチライトの製造販売権契約、以後各種製品で技術提携
1918年の大戦終結で軍需品の注文は減り、小名木川分工場は1917年の暴風雨と海嘯、1918年の類焼で大きな損害を受けた。1割の配当を続けてきた東京計器製作所は、第5期(1919年5月〜10月)に無配となった。1922年にワシントン軍縮会議の協定が成立し、海軍関係の注文は激減して製作中の品も中途で廃棄に至った。1923年9月1日の関東大震災では建物に大きな被害を受け、2名の殉職者を出した。大正末期には航空計器の製作に着手し、のちにスペリー社と航空計器でも技術提携を結んだ。海軍の装備計画に依存した受注の振れが、航空と民需の計器を探る動機になったとうかがえる。
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [42]大戦終結で軍需注文減少、小名木川分工場が1917年風水害・1918年類焼で被災、第5期(1919年5〜10月)無配。ワシントン軍縮協定で海軍関係注文激減・製作中品を中途廃棄
- [43]大戦終結で軍需注文減少、小名木川分工場が1917年風水害・1918年類焼で被災、第5期(1919年5〜10月)無配。ワシントン軍縮協定で海軍関係注文激減・製作中品を中途廃棄
- [44]大戦終結で軍需注文減少、小名木川分工場が1917年風水害・1918年類焼で被災、第5期(1919年5〜10月)無配。ワシントン軍縮協定で海軍関係注文激減・製作中品を中途廃棄
- [45]1922年11月ワシントン軍縮会議成立で軍需生産減少。1923年9月1日関東大震災で建物に大被害、殉職者2名
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [46]大正末期から昭和初期に航空計器に着手し、スペリー社と技術提携
参考文献[32]-[46]
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)
- [32]光学計器は大設備を要し科学部の一部では経営不能と結論、近藤廉平・岩崎小弥太と協議し三菱合資と共同出資で1917年7月25日資本金200万円の日本光学工業を設立、社長和田嘉衡・専務曾根増吉。7月26日光学計器課全部を移譲
- [33]光学計器は大設備を要し科学部の一部では経営不能と結論、近藤廉平・岩崎小弥太と協議し三菱合資と共同出資で1917年7月25日資本金200万円の日本光学工業を設立、社長和田嘉衡・専務曾根増吉。7月26日光学計器課全部を移譲
- [34]光学計器は大設備を要し科学部の一部では経営不能と結論、近藤廉平・岩崎小弥太と協議し三菱合資と共同出資で1917年7月25日資本金200万円の日本光学工業を設立、社長和田嘉衡・専務曾根増吉。7月26日光学計器課全部を移譲
- [36]光学計器は大設備を要し科学部の一部では経営不能と結論、近藤廉平・岩崎小弥太と協議し三菱合資と共同出資で1917年7月25日資本金200万円の日本光学工業を設立、社長和田嘉衡・専務曾根増吉。7月26日光学計器課全部を移譲
- [37]八八艦隊予算可決で艦船装備品の国産が急務、与倉守之助の進言でスペリー社と交渉、三井物産紐育支店を通じ探照灯1917年・ジャイロコンパス1918年に契約。探照灯1920年秋国産化、ジャイロは1923年末試作完成・1925年以降本格納入
- [38]八八艦隊予算可決で艦船装備品の国産が急務、与倉守之助の進言でスペリー社と交渉、三井物産紐育支店を通じ探照灯1917年・ジャイロコンパス1918年に契約。探照灯1920年秋国産化、ジャイロは1923年末試作完成・1925年以降本格納入
- [39]八八艦隊予算可決で艦船装備品の国産が急務、与倉守之助の進言でスペリー社と交渉、三井物産紐育支店を通じ探照灯1917年・ジャイロコンパス1918年に契約。探照灯1920年秋国産化、ジャイロは1923年末試作完成・1925年以降本格納入
- [41]八八艦隊予算可決で艦船装備品の国産が急務、与倉守之助の進言でスペリー社と交渉、三井物産紐育支店を通じ探照灯1917年・ジャイロコンパス1918年に契約。探照灯1920年秋国産化、ジャイロは1923年末試作完成・1925年以降本格納入
- [42]大戦終結で軍需注文減少、小名木川分工場が1917年風水害・1918年類焼で被災、第5期(1919年5〜10月)無配。ワシントン軍縮協定で海軍関係注文激減・製作中品を中途廃棄
- [43]大戦終結で軍需注文減少、小名木川分工場が1917年風水害・1918年類焼で被災、第5期(1919年5〜10月)無配。ワシントン軍縮協定で海軍関係注文激減・製作中品を中途廃棄
- [44]大戦終結で軍需注文減少、小名木川分工場が1917年風水害・1918年類焼で被災、第5期(1919年5〜10月)無配。ワシントン軍縮協定で海軍関係注文激減・製作中品を中途廃棄
- [45]1922年11月ワシントン軍縮会議成立で軍需生産減少。1923年9月1日関東大震災で建物に大被害、殉職者2名
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- [35]1917年7月、光学計器工場を分離し岩城硝子の反射鏡部門と合わせ三菱合資との共同経営で日本光学工業を創立
- [40]1918年8月、三井物産を通じ米スペリー社とジャイロコンパス・サーチライトの製造販売権契約、以後各種製品で技術提携
- [46]大正末期から昭和初期に航空計器に着手し、スペリー社と技術提携
出典・参考
2件
- 会社銀行八十年史(1955)「東京計器製造所」
- 東京計器略史 65年の足跡(1961)