デンソー:電子部品の優位と親会社トヨタの内製化・超円高への対応
1982年〜部品専業のまま1兆円へ届いた収益構造
1990年12月期の売上高は1兆3793億円、経常利益は1102億円へ達し、いずれも前期比12.1%の増加となった。このときの売上高経常利益率は8%で、自動車部品業界の平均である4%の倍に当たった。売上構成は冷暖房機器4914億円、電装品・制御製品3914億円、燃料噴射装置2218億円の順で、上位3分野が売上高の8割を占めた。1兆4000億円弱という規模は、スズキやいすゞ自動車といった完成車メーカーを上回っていた。それでも一般にはあまり知られておらず、石丸典生社長は知名度を懸案に挙げている。部品を納める立場のまま、納入先である完成車メーカーと並ぶ規模へ達していた。
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [1]1990年12月期は売上高1兆3793億円、経常利益1102億円で、それぞれ前年と比べて12.1%の増加だった
- [2]1990年12月期の売上高経常利益率は8%で、自動車部品業界の平均である4%の倍の水準だった
- [3]1990年12月期の売上高構成は冷暖房機器4914億円(35.6%)、電装品・制御製品3914億円(28.4%)、燃料噴射装置2218億円(16.1%)、ラジエーター836億円、メーター716億円、フィルター443億円
- 日経ビジネス 1992年8月24日号
- [4]売上高1兆4000億円弱という規模はスズキやいすゞ自動車など完成車メーカーをしのいでいた
- [5]一般にはあまり知られていない企業であることを石丸典生社長が懸案に挙げていた
この収益力を支えたのは電子部品だった。日立製作所や東京芝浦電気のような総合電機は、先の見えない自動車の分野に深入りする理由を持たなかったが、日本電装には自動車のほかに頼れる事業がなかった。研究開発費は売上高の6.5%前後で推移し、1990年12月期には905億円に達した。自動車部品業界の平均が売上高の3%、最大手のトヨタ自動車でも5%だったから、際立って大きな配分である。やがて自動車市場が急速に膨らむと日本電装の地盤は盤石になり、1992年時点の株価は1400円前後とトヨタ自動車に並んで本田技研工業を上回った。道が限られていたことが、かえって一点に集中した蓄積を生んだ。
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [6]総合電機メーカーである日立や東芝は、海のものとも山のものとも分からない自動車に力を注ぐ必要はなかったが、日本電装は車をやるしか手がなかったと戸田憲吾相談役が振り返っている
- [7]日本電装は常に売上高の6.5%前後を研究開発費に回しており、1990年12月期は売上高の6.6%に当たる905億円を投じた
- [8]自動車部品業界の平均では研究開発費はせいぜい売上高の3%、トヨタでも5%だった
- [9]その後に自動車市場が一気に拡大し、日本電装の基盤が揺るぎないものとなった
- 日経ビジネス 1992年8月24日号
- [10]1992年時点の日本電装の株価は1400円前後とトヨタに並ぶ高い水準で推移しており、本田技研工業を上回り、日産自動車や三菱自動車工業の2倍強だった
優位はやがて取引関係の緊張を生む種になった。トヨタ自動車はそれまで、車に使う部品はすべて自前で作れる力量を備えているとされ、部品メーカーへの技術指導と原価引き下げの要求は他社に比べても手厳しかった。いくらの原価でどれほどの品質を実現できるかを自ら数字で示せる立場にあったからである。ところが電子部品となると勝手が違った。トヨタにとって日本電装が手がけるそれは触れたことのない領域で、技術も原価も見当がつかず、このままでは相手の言い値で買わされかねないという警戒心を招いた。トヨタにとって日本電装は、鉄鋼メーカー相手の値上げ交渉よりも扱いにくい価格交渉の相手になっていた。売上高の5割強をトヨタに頼る構造が、この緊張をさらに深めた。
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [11]従来トヨタは自動車に使うすべての部品を内製できる技術を持っていると言われ、部品メーカーに対する技術指導、コスト引き下げ要求は他社と比較しても厳しかった
- [12]トヨタではこれだけのコストでこれだけの品質のものを作れると具体的に示すことが可能だったため、要求が厳しかった
- [13]日本電装の作る電子部品はトヨタにとって手付かずの分野であり、技術もコストも分からず、このままでは言い値で買うことにもなりかねないという警戒感をトヨタが募らせた
- [14]トヨタの役員が、鉄鋼メーカーとの値上げ交渉より日本電装との価格交渉のほうがずっとやっかいだと漏らした
- 日経ビジネス 1992年8月24日号
- [15]1992年時点で日本電装は売上高の5割強をトヨタに依存していた
参考文献[1]-[15]
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [1]1990年12月期は売上高1兆3793億円、経常利益1102億円で、それぞれ前年と比べて12.1%の増加だった
- [2]1990年12月期の売上高経常利益率は8%で、自動車部品業界の平均である4%の倍の水準だった
- [3]1990年12月期の売上高構成は冷暖房機器4914億円(35.6%)、電装品・制御製品3914億円(28.4%)、燃料噴射装置2218億円(16.1%)、ラジエーター836億円、メーター716億円、フィルター443億円
- [6]総合電機メーカーである日立や東芝は、海のものとも山のものとも分からない自動車に力を注ぐ必要はなかったが、日本電装は車をやるしか手がなかったと戸田憲吾相談役が振り返っている
- [7]日本電装は常に売上高の6.5%前後を研究開発費に回しており、1990年12月期は売上高の6.6%に当たる905億円を投じた
- [8]自動車部品業界の平均では研究開発費はせいぜい売上高の3%、トヨタでも5%だった
- [9]その後に自動車市場が一気に拡大し、日本電装の基盤が揺るぎないものとなった
- [11]従来トヨタは自動車に使うすべての部品を内製できる技術を持っていると言われ、部品メーカーに対する技術指導、コスト引き下げ要求は他社と比較しても厳しかった
- [12]トヨタではこれだけのコストでこれだけの品質のものを作れると具体的に示すことが可能だったため、要求が厳しかった
- [13]日本電装の作る電子部品はトヨタにとって手付かずの分野であり、技術もコストも分からず、このままでは言い値で買うことにもなりかねないという警戒感をトヨタが募らせた
- [14]トヨタの役員が、鉄鋼メーカーとの値上げ交渉より日本電装との価格交渉のほうがずっとやっかいだと漏らした
- 日経ビジネス 1992年8月24日号
- [4]売上高1兆4000億円弱という規模はスズキやいすゞ自動車など完成車メーカーをしのいでいた
- [5]一般にはあまり知られていない企業であることを石丸典生社長が懸案に挙げていた
- [10]1992年時点の日本電装の株価は1400円前後とトヨタに並ぶ高い水準で推移しており、本田技研工業を上回り、日産自動車や三菱自動車工業の2倍強だった
- [15]1992年時点で日本電装は売上高の5割強をトヨタに依存していた
1989年〜親会社の電子内製化に応じた三階層の開発体制
愛知県豊田市の広瀬工場は、トヨタ自動車が1989年に新設した拠点で、電子制御装置やセンサーを量産するとともに、集積回路については研究開発から試作までを担った。トヨタにとっての目的は、車の出来を左右する電子部品について技術とコストを手の内に置くことであり、日本電装への発注を減らすほどの生産量は想定していなかった。それでも、主力である電子事業の領域に親会社が入ってきたことで、日本電装の社内には一気に緊張が走った。技術を統べる村山正雄専務の読みはトヨタとは違っていた。開発に始まり設計・製造までを一社で抱えてこそ集積回路や電子部品の技術は育つというのが専務の持論で、開発にとどめるはずだった当初方針を越えてトヨタが製造まで事業を拡大した以上、数量も同じ道筋で膨らむと専務は判断した。完成車側と部品側の考えの食い違いはこれから一段と大きくなる、とも専務は予想していた。
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [16]1989年にトヨタが広瀬工場(愛知県豊田市)を新設し、電子制御装置やセンサーの生産、ICの研究開発、試作に乗り出した
- [17]トヨタ東富士研究所副所長の井上恵太取締役が、内製を始めたのは車の性能を左右する電子部品の技術・コストを把握するためであり、日本電装に影響が出るほど量産するつもりはないと語った
- [18]屋台骨である電子事業にトヨタが参入してきたことで、日本電装の緊張感が一気に高まった
- [19]村山正雄専務が、ICや電子部品は開発から設計、生産のすべてを自前でやらないと技術の水準が上がらず、トヨタも当初は開発だけの方針だったのが生産まで行うようになったのだから生産量も比例して伸びると分析した
- 日経ビジネス 1992年8月24日号
- [20]村山正雄専務が、完成車メーカーと部品メーカーとの意見の食い違いはますます大きくなっていくだろうと予測した
応じた手は開発体制の三階層化だった。1991年3月、日本電装は名古屋市郊外の日進町に敷地面積8万1000平方メートル・延べ床面積4万2000平方メートルの基礎研究所を完成させ、土地の購入代を含む投資額は270億円に上った。研究予算は年50億円から60億円を見込み、総勢300人の陣容を1995年までに400人へ増やす計画を置いた。半導体、新素材、人工知能、バイオテクノロジー、マイクロマシンを対象に、10年先をにらんだ研究へテーマを絞っている。これで技術部・開発部、総合技術本部、基礎研究所の三階層となり、豊田中央研究所と東富士研究所と本社技術部というトヨタの体制に並んだ。基礎研究所ではトヨタグループで初めて技術者の年俸制を導入し、技術者150人のうち80人をコアタイムのないフレックスタイムへ移して残業時間を把握しないことにした。石丸典生社長は定年退職者の再雇用とあわせ、トヨタグループの先陣を切って人事の新機軸を打ち出していた。
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [21]1991年3月19日に日本電装の基礎研究所が完成した。名古屋市郊外の日進町にあり、敷地面積8万1000平方メートル、延べ床面積4万2000平方メートル、土地の購入代を含めた投資額は270億円
- [22]基礎研究所の年間の研究予算は50億円から60億円を見込み、総勢300人の陣容を1995年までに400人へ増やす計画だった
- [23]基礎研究所は半導体、新素材、人工知能、バイオテクノロジー、マイクロマシンなど車に生かせる先端技術に取り組み、目先の利益にとらわれず10年先をにらんだ研究にテーマを絞った
- [24]基礎研究所が加わったことで日本電装の開発体制は技術・開発部、総合技術本部、基礎研の3階層となり、豊田中央研究所・東富士研究所・本社技術部というトヨタの3体制に引けを取らなくなった
- [25]基礎研究所ではトヨタグループで初めて技術者の年俸制を導入し、技術者150人のうち経験と実績を持つ80人をコアタイムのないフレックスタイムとし、残業時間は把握しないことにした
- 日経ビジネス 1993年9月6日号
- [26]石丸典生氏はトヨタグループの先陣を切って定年退職者の再雇用、技術者の年俸制など新機軸を打ち出してきた
同じ時期、提携先ボッシュとの間合いも変わり始めた。日本電装は海外展開にあたり、世話になったボッシュの商圏を侵さないよう、ぶつからない商品を選んで進出していた。ボッシュの拠点である欧州へは、両社が競い合わない品目としてエアコンを軸に送り出していた。1992年の欧州共同体による市場統合を控え、日本の完成車メーカーが欧州で現地生産を本格化させる見通しが強まると、日本電装は需要全体が膨らむのだからボッシュの商売の邪魔をせずに伸びる余地はあるはずだと判断を割り切った。1992年から英国でエアコンの現地生産に切り替え、フィアットグループとの合弁で1995年に年産40万台を目指した。国内では日産自動車とだけ取引が無く、自動車の性能を左右する部品を売れば競合を利することになりかねないという理由からだった。完成車メーカーと資本関係を持たず取引先を世界へ散らすボッシュとは、立つ位置が違った。
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [27]技術ではボッシュと対等になった後も、海外展開では恩義のあるボッシュの市場を荒らさないよう競合しない商品を選び、ボッシュの膝元である欧州では競争関係にないエアコンを中心に輸出を続けていた
- [28]1992年の欧州共同体(EC)市場統合を控え、欧州での日本車メーカーの現地生産は1993年に年産40万台、1995年に60万台前後まで拡大する予定だった
- [29]全体の需要が拡大するのだからボッシュの商売を邪魔しないで伸びる余地はあると割り切った
- [30]それまで日本から運んでいたエアコンを1992年から英国での現地生産に切り替え、フィアットグループとの合弁で1995年に年産40万台を目指した
- [31]国内のメーカーでは唯一日産との取引がなく、日本電装の製品は自動車の性能を左右する重要な部品であるため、部品を売って日産車の性能が上がれば敵に塩を送ることにもなりかねないと石丸典生社長が述べた
- 日経ビジネス 1995年3月27日号
- [32]ボッシュは自動車メーカーと直接の資本関係を持たず、取引相手も世界各国に散らばっているのに対し、日本電装は売上高の5割がトヨタ自動車だと石丸典生社長が語った
参考文献[16]-[32]
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [16]1989年にトヨタが広瀬工場(愛知県豊田市)を新設し、電子制御装置やセンサーの生産、ICの研究開発、試作に乗り出した
- [17]トヨタ東富士研究所副所長の井上恵太取締役が、内製を始めたのは車の性能を左右する電子部品の技術・コストを把握するためであり、日本電装に影響が出るほど量産するつもりはないと語った
- [18]屋台骨である電子事業にトヨタが参入してきたことで、日本電装の緊張感が一気に高まった
- [19]村山正雄専務が、ICや電子部品は開発から設計、生産のすべてを自前でやらないと技術の水準が上がらず、トヨタも当初は開発だけの方針だったのが生産まで行うようになったのだから生産量も比例して伸びると分析した
- [21]1991年3月19日に日本電装の基礎研究所が完成した。名古屋市郊外の日進町にあり、敷地面積8万1000平方メートル、延べ床面積4万2000平方メートル、土地の購入代を含めた投資額は270億円
- [22]基礎研究所の年間の研究予算は50億円から60億円を見込み、総勢300人の陣容を1995年までに400人へ増やす計画だった
- [23]基礎研究所は半導体、新素材、人工知能、バイオテクノロジー、マイクロマシンなど車に生かせる先端技術に取り組み、目先の利益にとらわれず10年先をにらんだ研究にテーマを絞った
- [24]基礎研究所が加わったことで日本電装の開発体制は技術・開発部、総合技術本部、基礎研の3階層となり、豊田中央研究所・東富士研究所・本社技術部というトヨタの3体制に引けを取らなくなった
- [25]基礎研究所ではトヨタグループで初めて技術者の年俸制を導入し、技術者150人のうち経験と実績を持つ80人をコアタイムのないフレックスタイムとし、残業時間は把握しないことにした
- [27]技術ではボッシュと対等になった後も、海外展開では恩義のあるボッシュの市場を荒らさないよう競合しない商品を選び、ボッシュの膝元である欧州では競争関係にないエアコンを中心に輸出を続けていた
- [28]1992年の欧州共同体(EC)市場統合を控え、欧州での日本車メーカーの現地生産は1993年に年産40万台、1995年に60万台前後まで拡大する予定だった
- [29]全体の需要が拡大するのだからボッシュの商売を邪魔しないで伸びる余地はあると割り切った
- [30]それまで日本から運んでいたエアコンを1992年から英国での現地生産に切り替え、フィアットグループとの合弁で1995年に年産40万台を目指した
- [31]国内のメーカーでは唯一日産との取引がなく、日本電装の製品は自動車の性能を左右する重要な部品であるため、部品を売って日産車の性能が上がれば敵に塩を送ることにもなりかねないと石丸典生社長が述べた
- 日経ビジネス 1992年8月24日号
- [20]村山正雄専務が、完成車メーカーと部品メーカーとの意見の食い違いはますます大きくなっていくだろうと予測した
- 日経ビジネス 1993年9月6日号
- [26]石丸典生氏はトヨタグループの先陣を切って定年退職者の再雇用、技術者の年俸制など新機軸を打ち出してきた
- 日経ビジネス 1995年3月27日号
- [32]ボッシュは自動車メーカーと直接の資本関係を持たず、取引相手も世界各国に散らばっているのに対し、日本電装は売上高の5割がトヨタ自動車だと石丸典生社長が語った
1993年〜中期計画の途中破棄と拡販路線への転換
成長の型は1980年代半ばで変わっていた。1975年から1985年までの11年間、日本電装は売上高を年平均14.9%伸ばしたが、1985年から1992年までは年平均5.9%増へ低下した。主要な自動車部品メーカー29社の平均も同じ期間に10.6%増から5.5%増へ縮まっており、日本電装だけが低迷したわけではない。1991年12月期には1949年12月の設立以来はじめての減収減益に追い込まれる。冷暖房機器、電装品・制御製品、エンジン燃料噴射装置という売上高の8割を占める3分野は、他社に先駆けて市場へ投入し自ら市場を育てる型で伸びてきたが、先行者としての利益を食いつぶす間に、ほかの部品メーカーと同じ位置へ並ばれた。
- 日経ビジネス 1995年3月27日号
- [33]1975年度から1985年度までの11年間、日本電装は売上高を年平均14.9%伸ばしたが、1985年度から1992年度までは平均5.9%増に落ち込んだ
- [34]主な自動車部品メーカー29社の平均伸び率も同じ期間に10.6%増から5.5%増へ縮まった
- [36]売上高の8割を占める冷暖房機器、電装品・制御製品、エンジン燃料噴射装置の3分野は、製品を他社に先駆けて市場に投入し自ら市場を育ててきた
- [37]先行者メリットを食いつぶしている間に、ほかの部品メーカーと同じスタートラインに立ってしまった
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [35]1991年12月期は1949年12月の設立以来はじめての減収減益となり、売上高が2%、経常利益が17%それぞれ減少する見通しだった
売上高の5割を超える部分をトヨタに依存する日本電装にとって、石丸典生社長の危機意識を決定づけたのは同社からのコスト削減の要請だった。部品メーカー各社に向けたトヨタの要求は1996年末を期限とする15%の値下げで、日本電装に対してだけは20%が課された。1994年2月、1987年に始動した9年間の中期経営計画は、最終年の1995年を迎える前に打ち切られ、期間3年の緊急経営計画に置き換えられた。これに先立ち石丸社長は、静岡県三ヶ日町にある浜名湖研修所へ役員34人を招集し、国内首位の座に長年安住してきたという自覚を全員で確かめたうえで、立て直しの案を出させていた。新計画が掲げた柱は2点である。1997年以降に年5%以上の増収を続けること、そして7000人いる技術者のうち1000人を選んで製品ごとのチームを組むことだった。1ドル100円を想定した事業体制も同じ計画が求めた。
- 日経ビジネス 1995年3月27日号
- [38]石丸典生社長の危機感を決定的にしたのは、売上高の5割以上を依存しているトヨタからの原価低減要求だった
- [39]トヨタは取引関係のあるすべての部品メーカーに対し1996年末までに部品価格を15%引き下げるよう求めたが、日本電装に示した数字は20%だった
- [40]1995年を最終年とする中期経営計画(1987年から9年間)を期間途中で破棄し、期間3年の緊急経営計画(中期経営方針)に切り替えたのは1994年2月だった
- [41]石丸典生社長が静岡県三ヶ日町の浜名湖研修所に34人の役員を集め、国内最大メーカーの地位に安穏としすぎた、今の経営のやり方では利益が出なくなると述べて意見を求めた
- [42]新しい計画の柱は、1997年以降に売上高を毎年5%以上伸ばすことと、技術者7000人の中から1000人を選び製品ごとのチームへ結集することの2つだった
- 日経ビジネス 1994年5月16日号
- [43]1994年2月に発表した3カ年計画で石丸典生社長はミニマム5%成長を実現できる事業体質と1ドル100円を想定した事業体制の2つを求めた
拡販の裏で製品の整理も進んだ。日本電装はそれまでも生産性の向上や原価低減の特別委員会を三つ設けて収益の改善に取り組んでいたが、円高が進むなかで、その延長ではもう対応できなくなっていた。1993年初めには岡田卓司専務を委員長とする不採算製品改善特別委員会を設け、不採算の製品を30品目挙げて生産方式の見直しで原価を下げられるかを調べた。値上げや汎用品への切り替えを完成車メーカーと交渉した結果、生産継続が決まったのは20品目強で、10品目近くを打ち切った。1994年12月には創立以来の事業本部制を廃止し、事業部ごとの採算を社内へ開いている。赤字でも続けるべき取引を切ったことが、改革の本気を社内へ伝えた。
- 日経ビジネス 1993年9月6日号
- [44]生産性の向上や原価低減などの特別委員会を三つ設置して収益改善の取り組みを進めてきたが、この延長ではもう対応できないと石丸典生社長が述べ、1993年下期から特別委員会を新たに二つ作った
- 日経ビジネス 1995年3月27日号
- [45]1993年初めに岡田卓司専務を委員長とする不採算製品改善特別委員会を設置し、不採算製品を30品目リストアップして生産方式の見直しで原価低減ができるかを調べた
- [46]生産方式の見直しや値上げなどで生産継続の決まった製品は20品目強で、10品目近くがどうしても採算の合わない製品として残り、打ち切られた
- [47]1994年12月に事業本部制を廃止する創立以来の組織改革を行い、製品ごとの収益状況が社内のだれの目にもさらされることになった
- [48]生産打ち切りの対象に挙がった製品をすべて切ったことで、社長は本気で経営改革をやる気だという意識が社内に浸透した
参考文献[33]-[48]
- 日経ビジネス 1995年3月27日号
- [33]1975年度から1985年度までの11年間、日本電装は売上高を年平均14.9%伸ばしたが、1985年度から1992年度までは平均5.9%増に落ち込んだ
- [34]主な自動車部品メーカー29社の平均伸び率も同じ期間に10.6%増から5.5%増へ縮まった
- [36]売上高の8割を占める冷暖房機器、電装品・制御製品、エンジン燃料噴射装置の3分野は、製品を他社に先駆けて市場に投入し自ら市場を育ててきた
- [37]先行者メリットを食いつぶしている間に、ほかの部品メーカーと同じスタートラインに立ってしまった
- [38]石丸典生社長の危機感を決定的にしたのは、売上高の5割以上を依存しているトヨタからの原価低減要求だった
- [39]トヨタは取引関係のあるすべての部品メーカーに対し1996年末までに部品価格を15%引き下げるよう求めたが、日本電装に示した数字は20%だった
- [40]1995年を最終年とする中期経営計画(1987年から9年間)を期間途中で破棄し、期間3年の緊急経営計画(中期経営方針)に切り替えたのは1994年2月だった
- [41]石丸典生社長が静岡県三ヶ日町の浜名湖研修所に34人の役員を集め、国内最大メーカーの地位に安穏としすぎた、今の経営のやり方では利益が出なくなると述べて意見を求めた
- [42]新しい計画の柱は、1997年以降に売上高を毎年5%以上伸ばすことと、技術者7000人の中から1000人を選び製品ごとのチームへ結集することの2つだった
- [45]1993年初めに岡田卓司専務を委員長とする不採算製品改善特別委員会を設置し、不採算製品を30品目リストアップして生産方式の見直しで原価低減ができるかを調べた
- [46]生産方式の見直しや値上げなどで生産継続の決まった製品は20品目強で、10品目近くがどうしても採算の合わない製品として残り、打ち切られた
- [47]1994年12月に事業本部制を廃止する創立以来の組織改革を行い、製品ごとの収益状況が社内のだれの目にもさらされることになった
- [48]生産打ち切りの対象に挙がった製品をすべて切ったことで、社長は本気で経営改革をやる気だという意識が社内に浸透した
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- [35]1991年12月期は1949年12月の設立以来はじめての減収減益となり、売上高が2%、経常利益が17%それぞれ減少する見通しだった
- 日経ビジネス 1994年5月16日号
- [43]1994年2月に発表した3カ年計画で石丸典生社長はミニマム5%成長を実現できる事業体質と1ドル100円を想定した事業体制の2つを求めた
- 日経ビジネス 1993年9月6日号
- [44]生産性の向上や原価低減などの特別委員会を三つ設置して収益改善の取り組みを進めてきたが、この延長ではもう対応できないと石丸典生社長が述べ、1993年下期から特別委員会を新たに二つ作った
筆者考察
部品メーカーの優位は、完成車メーカーが自分で作れない領域を持てるかどうかで決まる。日本電装が1990年12月期に売上高経常利益率8%と業界平均の倍を確保できたのは、高温と振動に耐える車載の集積回路を、総合電機が見向きもしない時期から積み上げたからだった。日立製作所や東京芝浦電気には自動車以外の市場があり、日本電装には自動車しかない。選択肢の狭さが、結果として一点集中の蓄積になった。ただしその優位は、原価の見えない相手をトヨタの側に作ることでもある。鉄鋼メーカーとの値上げ交渉より日本電装との価格交渉のほうがやっかいだというトヨタ役員の言葉は、力関係が動きかけていたことを示している。
1989年の広瀬工場は、親会社が原価の物差しを取り戻す動きだった。日本電装が返した手は値下げではなく、開発体制をもう一段深くすることである。270億円を投じた基礎研究所とグループ初の年俸制は、追われる速度より先へ出るための投資だった。しかし1990年代前半に効いたのは技術ではなく、為替と需要である。売上高の伸びは年14.9%から5.9%へ落ち、1991年12月期には設立以来はじめての減収減益となる。トヨタが示した20%の原価低減要求を受け、日本電装は9年間の計画を最終年の前に捨てた。不採算の10品目を切り、事業本部制を廃したのは、優位を製品ごとの採算へ分解して初めて、どこが赤字かが見えたからである。
- 1992年12月期は手元の資料に連結の値がない。
1982年〜1995年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1982年12月期 | 単体 | 6,078 | n/a | 556 | 263 | 4.3% | 三重県大安町に大安製作所を建設(1982/04) |
| 1983年12月期 | 単体 | 6,888 | +13.3% | 664 | 310 | 4.5% | n/a |
| 1984年12月期 | 単体 | 7,892 | +14.6% | 817 | 359 | 4.5% | n/a |
| 1985年12月期 | 単体 | 9,088 | +15.2% | n/a | 413 | 4.5% | n/a |
| 1986年12月期 | 単体 | 9,647 | +6.2% | n/a | 287 | 3.0% | n/a |
| 1987年12月期 | 単体 | 9,940 | +3.0% | n/a | 278 | 2.8% | 愛知県幸田町に幸田製作所を建設(1987/05) |
| 1988年03月期 | 連結 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 連結 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年12月期 | 連結 | 15,116 | n/a | n/a | 630 | 4.2% | 愛知県阿久比町に阿久比製作所を建設(1990/02)愛知県日進町に基礎研究所を建設(1990/11) |
| 1991年12月期 | 連結 | 14,813 | ▲2.0% | n/a | 607 | 4.1% | n/a |
| 1992年12月期 | 連結 | 15,237 | +2.9% | n/a | 419 | 2.7% | n/a |
| 1993年12月期 | 連結 | 14,246 | ▲6.5% | n/a | 272 | 1.9% | 北九州市に北九州製作所を建設(1993/07) |
| 1994年12月期 | 連結 | 14,122 | ▲0.9% | n/a | 372 | 2.6% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 3,393 | ▲76.0% | n/a | 74 | 2.2% | n/a |
出所:会社年鑑、投資月報37、ヤノレポート、投資月報45(7)
出典・参考
5件
- 日経ビジネス 1991年8月26日号
- 日経ビジネス 1992年8月24日号
- 日経ビジネス 1993年9月6日号
- 日経ビジネス 1994年5月16日号
- 日経ビジネス 1995年3月27日号