やまびこ:共立農機の創立とスピードスプレーヤの発売
1947年〜航空発動機の技術者4人が資本金18万円で興した共立農機と、三鷹工場の手動散粉機
共立農機は1947年9月6日、資本金18万円で東京都杉並区に設立された。創業陣は社長の小林房男氏、田中修吾氏、伴内徳司氏、片田江星輝氏の4人で、いずれも航空技術に携わった同志だった。設立の目的は手動散粉機の製造。背景にあるのは、農地改革と農産物の増産奨励が農村の機械化を促し、防除機を含む農機具の需要を押し上げた事情である。会社は病害虫を簡易に効率よく防ぐ方法を農家に広め、食糧の増産に寄与することを事業の目的に掲げた。航空発動機で培った精密機械の技術を、戦後の食糧問題に振り向ける選択だったとみられる。
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)「共立農機」
- [1]1947年9月6日設立、資本金18万円、東京杉並。目的は簡易能率的な病害虫防除法の普及と食糧増産
- [5]1947年9月6日設立、資本金18万円、東京杉並。目的は簡易能率的な病害虫防除法の普及と食糧増産
- 野田経済 818 1962年5月21日
- [2]経営陣の小林房男社長・田中修吾専務・伴内徳司常務・片田江星輝常務の4人は航空技術者の同志。戦後の農地改革・増産奨励が農村機械化と防除機などの需要増をもたらした
- [4]経営陣の小林房男社長・田中修吾専務・伴内徳司常務・片田江星輝常務の4人は航空技術者の同志。戦後の農地改革・増産奨励が農村機械化と防除機などの需要増をもたらした
- 証券業報 (11)(133) 1960年11月「共立農機(株)」
- [3]1947年9月、手動散粉機の製造を目的に資本金18万円で設立
共立農機は設立と同じ1947年9月に、共立手動散粉機の生産を始めた。この散粉機は国内で最初の散粉機とされ、社長の小林房男氏以下の役員と社員が研究して生み出した製品だった。量産の拠点として、会社は1948年1月に神奈川県横須賀市浦郷へ横須賀工場を設けた。翌1949年4月には、東京都三鷹市に三鷹工場を設置。設立から2年で構えた三鷹と横須賀の2工場は、1960年時点でも会社の生産拠点だった。散粉機を全国の農家に行き渡らせるには、試作の段階を早く抜けて量産へ移る必要があったと考えられる。
- 共立 有価証券報告書(2006年12月提出)【沿革】
- [6]1947年9月共立手動散粉機の生産開始、1948年1月横須賀市浦郷に横須賀工場、1949年4月三鷹市に三鷹工場を設置
- [8]1947年9月共立手動散粉機の生産開始、1948年1月横須賀市浦郷に横須賀工場、1949年4月三鷹市に三鷹工場を設置
- [9]1947年9月共立手動散粉機の生産開始、1948年1月横須賀市浦郷に横須賀工場、1949年4月三鷹市に三鷹工場を設置
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)「共立農機」
- [7]国内最初の散粉機「共立手動散粉機」は小林社長以下役員・社員の研究発明による
- 証券業報 (11)(133) 1960年11月「共立農機(株)」
- [10]1948年に横須賀工場、1949年に三鷹工場を建設。1960年時点の工場は三鷹・横須賀
参考文献[1]-[10]
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)「共立農機」
- [1]1947年9月6日設立、資本金18万円、東京杉並。目的は簡易能率的な病害虫防除法の普及と食糧増産
- [5]1947年9月6日設立、資本金18万円、東京杉並。目的は簡易能率的な病害虫防除法の普及と食糧増産
- [7]国内最初の散粉機「共立手動散粉機」は小林社長以下役員・社員の研究発明による
- 野田経済 818 1962年5月21日
- [2]経営陣の小林房男社長・田中修吾専務・伴内徳司常務・片田江星輝常務の4人は航空技術者の同志。戦後の農地改革・増産奨励が農村機械化と防除機などの需要増をもたらした
- [4]経営陣の小林房男社長・田中修吾専務・伴内徳司常務・片田江星輝常務の4人は航空技術者の同志。戦後の農地改革・増産奨励が農村機械化と防除機などの需要増をもたらした
- 証券業報 (11)(133) 1960年11月「共立農機(株)」
- [3]1947年9月、手動散粉機の製造を目的に資本金18万円で設立
- [10]1948年に横須賀工場、1949年に三鷹工場を建設。1960年時点の工場は三鷹・横須賀
- 共立 有価証券報告書(2006年12月提出)【沿革】
- [6]1947年9月共立手動散粉機の生産開始、1948年1月横須賀市浦郷に横須賀工場、1949年4月三鷹市に三鷹工場を設置
- [8]1947年9月共立手動散粉機の生産開始、1948年1月横須賀市浦郷に横須賀工場、1949年4月三鷹市に三鷹工場を設置
- [9]1947年9月共立手動散粉機の生産開始、1948年1月横須賀市浦郷に横須賀工場、1949年4月三鷹市に三鷹工場を設置
1951年〜海軍の航空発動機の研究を生かした発動機の内製と、りんご園を回る共立スピードスプレーヤ
1951年7月、共立農機は本社を三鷹市へ移し、共立背負動力散粉機の生産を始めた。1955年6月には、動力機の心臓部にあたる発動機の生産にも着手した。技術陣は戦時中に海軍で航空機用の発動機を研究した人たちで構成され、役員以下のほとんどが技術者だった。専務の田中修吾氏は社長の小林房男氏と旅順工科大学の同窓で、海軍空技廠などで約20年、航空発動機の研究と製造に携わった。経営陣は発足以来、『儲かるといって他社と同じ製品を作らない』という方針を貫いた。発動機を内製する体制は、他社にない製品を出し続ける方針の前提だったと推察される。
- 共立 有価証券報告書(2006年12月提出)【沿革】
- [11]1951年7月本社を三鷹市に移転し共立背負動力散粉機の生産開始、1955年6月発動機の生産開始
- [12]1951年7月本社を三鷹市に移転し共立背負動力散粉機の生産開始、1955年6月発動機の生産開始
- 実業の世界 58(10) 1961年10月
- [13]技術陣は戦時中に海軍で航空機用発動機を研究した技術者で、役員以下ほぼ全員が技術者。「儲かるといって他社と同じ製品を作らない」方針を発足以来貫く
- [15]技術陣は戦時中に海軍で航空機用発動機を研究した技術者で、役員以下ほぼ全員が技術者。「儲かるといって他社と同じ製品を作らない」方針を発足以来貫く
- 野田経済 818 1962年5月21日
- [14]田中修吾専務は小林社長と旅順工大の同窓で、海軍空技廠などで約20年航空発動機の実験研究製造に従事
1956年6月、共立農機は共立スピードスプレーヤの生産を始めた。1960年の証券業報は、型式SS-2のスピードスプレーヤがりんご園で薬剤を散布する写真を掲げた。1961年時点の主製品は、いずれも他の農機具メーカーが製造していない病害虫防除機、高速度散布機、草刈兼刈払機の3品目。高速度散布機とは、このスピードスプレーヤを指す。独自開発の積み重ねにより、特許と実用新案の保有は1961年時点で350件近くに達した。自社の発動機を積むことで、背負機では手の回らない果樹園の広い面積を防除する大型機が成り立ったと思われる。
- 共立 有価証券報告書(2006年12月提出)【沿革】
- [16]1956年6月共立スピードスプレーヤの生産開始
- 証券業報 (11)(133) 1960年11月「共立農機(株)」
- [17]共立スピードスプレーヤSS-2によるりんご園の薬剤散布の写真を掲載
- 実業の世界 58(10) 1961年10月
- [18]主製品は病害虫防除機・高速度散布機(スピードスプレヤー)・草刈兼刈払機などで、いずれも他の農機具メーカーが作っていない。特許・実用新案は350件近く(1961年)
- [19]主製品は病害虫防除機・高速度散布機(スピードスプレヤー)・草刈兼刈払機などで、いずれも他の農機具メーカーが作っていない。特許・実用新案は350件近く(1961年)
- [20]主製品は病害虫防除機・高速度散布機(スピードスプレヤー)・草刈兼刈払機などで、いずれも他の農機具メーカーが作っていない。特許・実用新案は350件近く(1961年)
各種病害虫防除機の需要が増え、共立農機の事業は順調に拡大した。創業期の販路は、専務の田中修吾氏が散粉機を携えて真夏の水田に入り、農家に使い方を教えながら全国を回って築いた。販路をさらに広げるため、会社は福岡・大阪・青森・仙台・広島に出張所を開設した。資本金は設立時の18万円から、1951年8月までの3回の増資で500万円になった。その後も増資を重ね、1958年9月に6千万円、1959年7月に7千万円とした。増資で得た資金と全国の出張所が、1960年代の新製品と海外への展開を支える土台になったのだろう。
- 証券業報 (11)(133) 1960年11月「共立農機(株)」
- [21]各種病害虫防除機の需要増で事業が順調に伸び、販路拡張のため福岡・大阪・青森・仙台・広島などに出張所を開設
- [23]各種病害虫防除機の需要増で事業が順調に伸び、販路拡張のため福岡・大阪・青森・仙台・広島などに出張所を開設
- 野田経済 818 1962年5月21日
- [22]田中修吾専務は創立当時、散粉機を持って真夏の稲田で実地指導しながら全国に販路拡張の旅を続けた
- 株式会社年鑑 1962年版「共立農機」
- [24]株式会社年鑑の資本金移動:1947年9月18万円、1951年8月500万円(3回の増資)、1958年9月6千万円、1959年7月7千万円
- [25]株式会社年鑑の資本金移動:1947年9月18万円、1951年8月500万円(3回の増資)、1958年9月6千万円、1959年7月7千万円
参考文献[11]-[25]
- 共立 有価証券報告書(2006年12月提出)【沿革】
- [11]1951年7月本社を三鷹市に移転し共立背負動力散粉機の生産開始、1955年6月発動機の生産開始
- [12]1951年7月本社を三鷹市に移転し共立背負動力散粉機の生産開始、1955年6月発動機の生産開始
- [16]1956年6月共立スピードスプレーヤの生産開始
- 実業の世界 58(10) 1961年10月
- [13]技術陣は戦時中に海軍で航空機用発動機を研究した技術者で、役員以下ほぼ全員が技術者。「儲かるといって他社と同じ製品を作らない」方針を発足以来貫く
- [15]技術陣は戦時中に海軍で航空機用発動機を研究した技術者で、役員以下ほぼ全員が技術者。「儲かるといって他社と同じ製品を作らない」方針を発足以来貫く
- [18]主製品は病害虫防除機・高速度散布機(スピードスプレヤー)・草刈兼刈払機などで、いずれも他の農機具メーカーが作っていない。特許・実用新案は350件近く(1961年)
- [19]主製品は病害虫防除機・高速度散布機(スピードスプレヤー)・草刈兼刈払機などで、いずれも他の農機具メーカーが作っていない。特許・実用新案は350件近く(1961年)
- [20]主製品は病害虫防除機・高速度散布機(スピードスプレヤー)・草刈兼刈払機などで、いずれも他の農機具メーカーが作っていない。特許・実用新案は350件近く(1961年)
- 野田経済 818 1962年5月21日
- [14]田中修吾専務は小林社長と旅順工大の同窓で、海軍空技廠などで約20年航空発動機の実験研究製造に従事
- [22]田中修吾専務は創立当時、散粉機を持って真夏の稲田で実地指導しながら全国に販路拡張の旅を続けた
- 証券業報 (11)(133) 1960年11月「共立農機(株)」
- [17]共立スピードスプレーヤSS-2によるりんご園の薬剤散布の写真を掲載
- [21]各種病害虫防除機の需要増で事業が順調に伸び、販路拡張のため福岡・大阪・青森・仙台・広島などに出張所を開設
- [23]各種病害虫防除機の需要増で事業が順調に伸び、販路拡張のため福岡・大阪・青森・仙台・広島などに出張所を開設
- 株式会社年鑑 1962年版「共立農機」
- [24]株式会社年鑑の資本金移動:1947年9月18万円、1951年8月500万円(3回の増資)、1958年9月6千万円、1959年7月7千万円
- [25]株式会社年鑑の資本金移動:1947年9月18万円、1951年8月500万円(3回の増資)、1958年9月6千万円、1959年7月7千万円
出典・参考
6件
- 共立 有価証券報告書(2006年12月提出)【沿革】
- 株式会社年鑑 1962年版「共立農機」
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)「共立農機」
- 証券業報 (11)(133) 1960年11月「共立農機(株)」
- 実業の世界 58(10) 1961年10月
- 野田経済 818 1962年5月21日