潮田健次郎
経歴1946〜1998年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1946年主要役職の状況(推定含む目安)1998年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 妙見屋(父・潮田竹次郎氏の木製建具小売店) | 1946 | 入店 | ||
| 1947 | 開業 | ||||
| LIXIL | 1949 | 創業 代表取締役社長 | |||
| 1998 | 代表取締役会長 | ||||
| 1998 | 社長退任 |
社長就任までの出自
出自
1926年6月4日、東京で生まれた。小学校6年で結核を患い、8年間をサナトリウムで送ったため、学校で体系立てて学んだ経験を持たない。1946年に療養を終えると、父の潮田竹次郎氏が1923年9月に開いた木製建具の小売店「妙見屋」を手伝い始めた。2006年3月末時点で、潮田健次郎氏は発行済株式の4.95%にあたる16,474千株を個人で持つ大株主だった。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1947年、妙見屋とは別に建具の問屋業を起こし、事業を広げることに反対した父を押し切った。1949年9月の会社の創設とともに取締役社長に就任し、1998年10月に取締役会長へ移るまでの49年間、社長を務めた。後任の社長には、副社長として長く補佐してきた飛田英一氏が就任した。
在任中の主な施策
施策
1960年に商号を東洋ドアーへ改め、1966年4月に住宅用アルミサッシ「トーヨーサッシD-75型」を売り出した。1967年9月には三菱商事と三菱金属工業の出資を受けて製造子会社の東洋サッシを設け、野田・名張・下妻に工場を開設した。1971年10月に販売会社4社とあわせてトーヨーサッシへ統合し、1985年8月1日に株式を上場した。1992年7月には社名をトステムに改めた。
創業ストーリー
創業ストーリー
潮田健次郎氏は療養を終えたころ、小学校の代用教員になることを考えていた。進路を変えたのは、古本屋で見つけた米国の百貨店経営者ワナメーカーの伝記である。客として味わった不満を新しい売り方に変えた話に惹かれ、「商売を通じて社会の役に立とう」と決めて家業の建具に目を向けた。
- 日経ベンチャー編『創業者精神』(1993)「会社を留守に四十歳からセミナー通い」
- [15]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- [16]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- [17]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
小売の扱い量では足りないとみて、1947年に父の反対を押して建具の問屋を始めた。戦後の住宅不足が追い風となり、1952年ごろには都内に4店を持つ業界最大手の問屋に育った。それでも金の勘定に追われる暮らしに半年で飽き、川上嘉一氏の著書『事業と経営』を読んでものづくりへの転身を決めた。葛飾の工場を240万円で買収する資金には、大森に建てたばかりの自宅を売って充てた。1952年8月に製造販売の会社として妙見屋建具を設け、1953年8月に葛飾工場で木製ドアーの生産を始めた。
- 日経ベンチャー編『創業者精神』(1993)「会社を留守に四十歳からセミナー通い」
- [18]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- [19]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- [20]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- [21]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- 証券 37(9) 1985年
- [22]昭和27年8月 木製建具の製造販売を目的に妙見屋建具㈱として設立。昭和28年8月 葛飾工場(木製ドアー製造工場)操業開始。昭和41年4月 トーヨーサッシD-75型発売。昭和42年9月 三菱商事・三菱金属工業の資本参加を得て東洋サッシ設立、昭和44年8月 野田工場。昭和46年10月 販売面で競合していた販売会社4社とともにトーヨーサッシに吸収合併。上場年月日 昭和60年8月1日
木製建具は工場での量産に向かなかった。節や木目、寸法が一本ずつ異なり、機械化しても歩留まりが上がらず、資金繰りに走る年が10年近く続いた。1963年に施工の手間を省いたスピード雨戸が当たり、1965年に3,600万円の累積赤字を消した。同じ1963年、他社が住宅用アルミサッシを初めて発売したことは、木製建具だけでは先が無いと潮田健次郎氏に考えさせた。
- 日経ベンチャー編『創業者精神』(1993)「会社を留守に四十歳からセミナー通い」
- [23]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- [24]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- [25]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- 日経ビジネス 1974年8月19日号
- [26]昭和38年に不二サッシ工業が初めて住宅用アルミサッシを発売し、妙見屋は「木製建具だけではいずれ立ち行かなくなる」と衝撃を受けた。月産20万セット規模の新工場の建設資金60億円、自己資金は1億円に足りず銀行に融資を断られた。三菱商事もアルミ地金で後発で安定的な供給先を捜しており、完成する工場を担保に商社金融を受けた
1965年、潮田健次郎氏は幹部に会社をほぼ空けると告げ、生産性本部や能率協会の経営セミナーに通った。そこで得た結論は、資本力と知名度で上回る大手と同じ製品・同じ売り方で競えば劣位に立つ、というものである。米国の技術を写した大手のサッシは日本の住宅に寸法が合わなかったため、現場で微調整できるサッシを3年かけて開発し、1966年4月に売り出した。月産20万セットの工場には60億円が要ったが、自己資金は1億円に満たず、銀行には融資を断られた。アルミ地金の販路を求めていた三菱商事に50ページの事業計画を持ち込み、完成する工場を担保とする商社金融を引き出した。1967年9月、三菱商事と三菱金属工業が出資する東洋サッシが発足し、1969年8月に野田工場が稼働した。
- 日経ベンチャー編『創業者精神』(1993)「会社を留守に四十歳からセミナー通い」
- [27]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- [28]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- [29]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- [32]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- 証券 37(9) 1985年
- [30]昭和27年8月 木製建具の製造販売を目的に妙見屋建具㈱として設立。昭和28年8月 葛飾工場(木製ドアー製造工場)操業開始。昭和41年4月 トーヨーサッシD-75型発売。昭和42年9月 三菱商事・三菱金属工業の資本参加を得て東洋サッシ設立、昭和44年8月 野田工場。昭和46年10月 販売面で競合していた販売会社4社とともにトーヨーサッシに吸収合併。上場年月日 昭和60年8月1日
- [34]昭和27年8月 木製建具の製造販売を目的に妙見屋建具㈱として設立。昭和28年8月 葛飾工場(木製ドアー製造工場)操業開始。昭和41年4月 トーヨーサッシD-75型発売。昭和42年9月 三菱商事・三菱金属工業の資本参加を得て東洋サッシ設立、昭和44年8月 野田工場。昭和46年10月 販売面で競合していた販売会社4社とともにトーヨーサッシに吸収合併。上場年月日 昭和60年8月1日
- 日経ビジネス 1974年8月19日号
- [31]昭和38年に不二サッシ工業が初めて住宅用アルミサッシを発売し、妙見屋は「木製建具だけではいずれ立ち行かなくなる」と衝撃を受けた。月産20万セット規模の新工場の建設資金60億円、自己資金は1億円に足りず銀行に融資を断られた。三菱商事もアルミ地金で後発で安定的な供給先を捜しており、完成する工場を担保に商社金融を受けた
- [33]昭和38年に不二サッシ工業が初めて住宅用アルミサッシを発売し、妙見屋は「木製建具だけではいずれ立ち行かなくなる」と衝撃を受けた。月産20万セット規模の新工場の建設資金60億円、自己資金は1億円に足りず銀行に融資を断られた。三菱商事もアルミ地金で後発で安定的な供給先を捜しており、完成する工場を担保に商社金融を受けた
1971年10月、競合していた販売会社4社をトーヨーサッシへ統合して販売を一本化した。1985年8月1日に株式を上場し、1992年7月に社名をトステムへ改めた。1998年10月に社長を飛田英一氏に譲って会長に退き、2001年のINAXとの経営統合では持株会社INAXトステム・ホールディングスの会長兼CEOに就任した。
- 証券 37(9) 1985年
- [35]昭和27年8月 木製建具の製造販売を目的に妙見屋建具㈱として設立。昭和28年8月 葛飾工場(木製ドアー製造工場)操業開始。昭和41年4月 トーヨーサッシD-75型発売。昭和42年9月 三菱商事・三菱金属工業の資本参加を得て東洋サッシ設立、昭和44年8月 野田工場。昭和46年10月 販売面で競合していた販売会社4社とともにトーヨーサッシに吸収合併。上場年月日 昭和60年8月1日
- [37]昭和27年8月 木製建具の製造販売を目的に妙見屋建具㈱として設立。昭和28年8月 葛飾工場(木製ドアー製造工場)操業開始。昭和41年4月 トーヨーサッシD-75型発売。昭和42年9月 三菱商事・三菱金属工業の資本参加を得て東洋サッシ設立、昭和44年8月 野田工場。昭和46年10月 販売面で競合していた販売会社4社とともにトーヨーサッシに吸収合併。上場年月日 昭和60年8月1日
- 日経ベンチャー編『創業者精神』(1993)「会社を留守に四十歳からセミナー通い」
- [36]小学校の代用教員になるつもりだった。古本屋で見つけた「ジョンワナメーカー伝」が運命を変え、「商売を通じて社会の役に立とう」と家業の建具販売に思いが向かった。小売店では取扱量が知れていたので47年に問屋業を始め、父は反対した。1952年頃には都内に四店舗の業界最大手問屋。大森に家を建てたが半年で金の勘定ばかりの生活に嫌けがさし、川上嘉一氏「事業と経営」を読みメーカーの魅力に取りつかれた。葛飾の工場を240万円で買収、大森の家を売り払った。木製建具は工場生産に向かず、節・木目・寸法の違いで歩留まりが悪く、金策の日々が十年近く続いた。1963年「スピード雨戸」が大ヒットし、1965年に3600万円の累積赤字を一掃。1965年に幹部に宣言して生産性本部や能率協会の経営者セミナーに通い、「大企業と同じ土俵で戦っても勝ち目がない」との論理を得た。米国式のサッシは日本の住宅に合わず、寸法を微調整できるサッシの開発に3年を費やした。三菱商事に50ページの資料を持参。1992年7月トステムへ社名変更
- 住生活グループ 有価証券報告書(2006年3月期)【役員の状況】
- [38]平成10年10月 潮田健次郎 取締役会長(代表取締役)、飛田英一 取締役社長(代表取締役)
- 日経ビジネス 2003年5月19日号
- [39]98年、会長に就任。2001年、INAXとの経営統合により、INAXトステム・ホールディングス会長兼CEOに就く
参考文献5件
参考文献
- 住生活グループ 有価証券報告書(2006年3月期)【役員の状況】
- 日経ベンチャー編『創業者精神』(1993)「会社を留守に四十歳からセミナー通い」
- 証券 37(9) 1985年「新規上場会社紹介 トーヨーサッシ株式会社」
- 日経ビジネス 2001年4月16日号「トステムとINAX、相思相愛の経営統合 潮田トステム会長10年越しの夢叶う」
- 日経ビジネス 2003年5月19日号「潮田健次郎氏[INAXトステム・ホールディングス会長兼CEO]住宅が雇用を生む」
事実根拠:出所(LIXIL)