日本農薬:旭電化工業農業薬品部と藤井製薬の合併による発足
1928年〜在庫の山を抱えた旭電化の大井農業薬品工場と、代表2人で発足した日本農薬
旭電化工業は1925年5月31日、古河電気工業から大井の農業薬品製造所を譲り受け、旭電化大井農業薬品工場と改めた。権利金と譲渡代金は計125,771円60銭で、土地と建物は賃借である。農薬の研究は月100円で古河の理化試験所に委託した。試験所の本業が多忙となったため、研究は1926年1月限りで打ち切られた。製品の滞留と不良品の返品も重なり、資金繰りが悪化した。砒酸鉛の製造業者は15社に増え、1ポンド1円20銭前後だった価格は60銭以下に低下。大井工場は1926年下期から毎期欠損を計上した。大阪で1926年2月に株式会社として設立された藤井製薬も、同じ砒酸鉛を扱う旭電化の競合相手である。研究を外部に依存したまま価格競争に入ったことが、事業を早々に行き詰まらせたとみられる。
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [1]1925年5月31日、古河電工の農業薬品製造所を旭電化が譲受(権利金・譲渡代金計125,771円60銭、土地建物は賃借)
- [2]1925年5月31日、古河電工の農業薬品製造所を旭電化が譲受(権利金・譲渡代金計125,771円60銭、土地建物は賃借)
- [3]研究を古河理化試験所に月100円で委託、試験所多忙で1926年1月限り中止。製品ストックと不良品返品で金融的に困窮
- [4]研究を古河理化試験所に月100円で委託、試験所多忙で1926年1月限り中止。製品ストックと不良品返品で金融的に困窮
- [5]研究を古河理化試験所に月100円で委託、試験所多忙で1926年1月限り中止。製品ストックと不良品返品で金融的に困窮
- [6]1927年11月の古河合名への報告:同業者15社、価格1ポンド1円20銭→60銭以下、前年下期以来毎期欠損
- [7]1927年11月の古河合名への報告:同業者15社、価格1ポンド1円20銭→60銭以下、前年下期以来毎期欠損
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [8]藤井製薬は大正15年(1926年)2月10日設立、資本金20万円
旭電化工業は1926年夏、大井の工場を自社の尾久工場構内へ移す許可を警視庁に求めた。尾久は毒物の製造が許される特別地区の外にあり、陳情を重ねても許可は下りなかった。1928年9月14日、古河電気工業は理化試験所の拡張を理由に、1930年3月までの工場移転を書簡で求めた。旭電化工業は同年10月、移転に多額の資金を投じれば採算を失うとして、古河電気工業に援助を仰いだ。古河電気工業は賃貸借を1929年5月31日限りで解除すると通知し、旭電化工業は移転を約束した。古河電気工業大阪販売店長の春日井佐吾一氏が藤井製薬の上田源三郎氏との間を取り持ち、合併の協議が始まった。1928年11月、旭電化の農業薬品部は藤井製薬に合併された。移転先の制約と費用の負担が、競合相手との統合を現実の選択肢にしたのだろう。
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [9]1926年夏に尾久工場構内への移転を警視庁に願い出たが、尾久は毒物製造の特別地区外で、約1年の陳情も不許可
- [10]1926年夏に尾久工場構内への移転を警視庁に願い出たが、尾久は毒物製造の特別地区外で、約1年の陳情も不許可
- [11]1928年9月14日古河電工が1930年3月までの移転を要請、10月に旭電化が援助を要請、古河電工は賃貸借を1929年5月31日限りで解除と通知
- [12]1928年9月14日古河電工が1930年3月までの移転を要請、10月に旭電化が援助を要請、古河電工は賃貸借を1929年5月31日限りで解除と通知
- [13]1928年9月14日古河電工が1930年3月までの移転を要請、10月に旭電化が援助を要請、古河電工は賃貸借を1929年5月31日限りで解除と通知
- [14]古河電工大阪販売店長の春日井佐吾一氏が藤井製薬の上田源三郎氏との間に入り、合併条件の協議が始まる
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [15]昭和3年(1928年)11月、旭電化農業薬品部を合併し現商号に変更
1928年10月30日、旭電化工業と藤井製薬が合併契約に署名。手続き上の不便が残ったため、両社は11月に契約を結び直した。新契約では藤井製薬が減資したうえで25万円を増資し、資本金50万円の新会社と見なす方式である。増資の5,000株のうち3,500株は、旭電化が大井工場の設備と営業権を現物出資して引き受けた。藤井製薬は11月17日の臨時株主総会で商号を日本農薬株式会社に改め、12月1日から新会社として営業を始めた。代表取締役は、藤井製薬側から芝富四郎氏、旭電化側から夏目廉介氏の2人である。旭電化の磯部愉一郎氏は、競争で残った2社の合併だったとして『日本でただ一つの農薬会社という意味で新会社に日本農薬という商号を用いた』と商号の由来を説明した。資本金は1926年の設立時の20万円から、1928年11月に50万円となった。
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [16]10月30日の合併契約を手続上の不便から11月に更改。藤井製薬を減資・25万円増資して資本金50万円の新会社とし、新株5,000株中3,500株を旭電化が大井工場設備・営業権の現物出資で引受
- [17]10月30日の合併契約を手続上の不便から11月に更改。藤井製薬を減資・25万円増資して資本金50万円の新会社とし、新株5,000株中3,500株を旭電化が大井工場設備・営業権の現物出資で引受
- [18]10月30日の合併契約を手続上の不便から11月に更改。藤井製薬を減資・25万円増資して資本金50万円の新会社とし、新株5,000株中3,500株を旭電化が大井工場設備・営業権の現物出資で引受
- [19]10月30日の合併契約を手続上の不便から11月に更改。藤井製薬を減資・25万円増資して資本金50万円の新会社とし、新株5,000株中3,500株を旭電化が大井工場設備・営業権の現物出資で引受
- [20]1928年11月17日藤井製薬臨時株主総会で商号を日本農薬株式会社に変更、12月1日から営業。代表取締役は芝富四郎(藤井側)・夏目廉介(旭電化側)
- [21]1928年11月17日藤井製薬臨時株主総会で商号を日本農薬株式会社に変更、12月1日から営業。代表取締役は芝富四郎(藤井側)・夏目廉介(旭電化側)
- [22]1928年11月17日藤井製薬臨時株主総会で商号を日本農薬株式会社に変更、12月1日から営業。代表取締役は芝富四郎(藤井側)・夏目廉介(旭電化側)
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [23]資本金:大正15年2月20万円(設立)、昭和1年12月25万円、昭和3年11月50万円
参考文献[1]-[23]
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [1]1925年5月31日、古河電工の農業薬品製造所を旭電化が譲受(権利金・譲渡代金計125,771円60銭、土地建物は賃借)
- [2]1925年5月31日、古河電工の農業薬品製造所を旭電化が譲受(権利金・譲渡代金計125,771円60銭、土地建物は賃借)
- [3]研究を古河理化試験所に月100円で委託、試験所多忙で1926年1月限り中止。製品ストックと不良品返品で金融的に困窮
- [4]研究を古河理化試験所に月100円で委託、試験所多忙で1926年1月限り中止。製品ストックと不良品返品で金融的に困窮
- [5]研究を古河理化試験所に月100円で委託、試験所多忙で1926年1月限り中止。製品ストックと不良品返品で金融的に困窮
- [6]1927年11月の古河合名への報告:同業者15社、価格1ポンド1円20銭→60銭以下、前年下期以来毎期欠損
- [7]1927年11月の古河合名への報告:同業者15社、価格1ポンド1円20銭→60銭以下、前年下期以来毎期欠損
- [9]1926年夏に尾久工場構内への移転を警視庁に願い出たが、尾久は毒物製造の特別地区外で、約1年の陳情も不許可
- [10]1926年夏に尾久工場構内への移転を警視庁に願い出たが、尾久は毒物製造の特別地区外で、約1年の陳情も不許可
- [11]1928年9月14日古河電工が1930年3月までの移転を要請、10月に旭電化が援助を要請、古河電工は賃貸借を1929年5月31日限りで解除と通知
- [12]1928年9月14日古河電工が1930年3月までの移転を要請、10月に旭電化が援助を要請、古河電工は賃貸借を1929年5月31日限りで解除と通知
- [13]1928年9月14日古河電工が1930年3月までの移転を要請、10月に旭電化が援助を要請、古河電工は賃貸借を1929年5月31日限りで解除と通知
- [14]古河電工大阪販売店長の春日井佐吾一氏が藤井製薬の上田源三郎氏との間に入り、合併条件の協議が始まる
- [16]10月30日の合併契約を手続上の不便から11月に更改。藤井製薬を減資・25万円増資して資本金50万円の新会社とし、新株5,000株中3,500株を旭電化が大井工場設備・営業権の現物出資で引受
- [17]10月30日の合併契約を手続上の不便から11月に更改。藤井製薬を減資・25万円増資して資本金50万円の新会社とし、新株5,000株中3,500株を旭電化が大井工場設備・営業権の現物出資で引受
- [18]10月30日の合併契約を手続上の不便から11月に更改。藤井製薬を減資・25万円増資して資本金50万円の新会社とし、新株5,000株中3,500株を旭電化が大井工場設備・営業権の現物出資で引受
- [19]10月30日の合併契約を手続上の不便から11月に更改。藤井製薬を減資・25万円増資して資本金50万円の新会社とし、新株5,000株中3,500株を旭電化が大井工場設備・営業権の現物出資で引受
- [20]1928年11月17日藤井製薬臨時株主総会で商号を日本農薬株式会社に変更、12月1日から営業。代表取締役は芝富四郎(藤井側)・夏目廉介(旭電化側)
- [21]1928年11月17日藤井製薬臨時株主総会で商号を日本農薬株式会社に変更、12月1日から営業。代表取締役は芝富四郎(藤井側)・夏目廉介(旭電化側)
- [22]1928年11月17日藤井製薬臨時株主総会で商号を日本農薬株式会社に変更、12月1日から営業。代表取締役は芝富四郎(藤井側)・夏目廉介(旭電化側)
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [8]藤井製薬は大正15年(1926年)2月10日設立、資本金20万円
- [15]昭和3年(1928年)11月、旭電化農業薬品部を合併し現商号に変更
- [23]資本金:大正15年2月20万円(設立)、昭和1年12月25万円、昭和3年11月50万円
1929年〜佃工場で200万ポンドを超えた砒酸鉛と、満州・朝鮮・台湾への進出
日本農薬は1930年9月6日、大阪府南河内郡天野村小山田を試験農場の用地に決めた。周辺は長十郎梨を主とする梨の産地で、ぶどうと柑橘の栽培地も近かった。同年12月に地主と10年の賃貸借契約を結び、1,452坪の日本農薬河内病虫害研究農場を開設した。初代農場長には大分県農事試験場の新開悟氏を招いた。常務取締役の夏目廉介氏は開場式で、製品の改良と施薬の指針づくりを目的に挙げた。海外の一流農薬会社はすでに付属農場を持ち、その研究発表は学界でも重視されていた。1931年3月には機関誌の農薬時報を創刊し、試験成績を特約店と農家に伝えた。資本金は1933年1月に50万円から60万円へ増えた。亜砒酸鉛との混同で普及が遅れた経験が、効き目を自ら実証する設備を求めさせたと推察される。
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [24]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [25]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [26]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [27]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [28]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [29]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [30]1931年3月機関誌「農薬時報」を創刊、試験成績の発表と施薬指導に利用
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [31]資本金:昭和8年1月60万円
日本農薬は1932年末から、長柄・箕島・神戸の3工場を統合する新工場の用地を探した。条件は、輸出の増加を見込んだ水運の便と、毒物を扱える特別工業地帯の予定地であることの2点である。1933年3月25日、大阪市西淀川区佃町の土地2,924坪を坪当たり18円で取得した。常務取締役の夏目廉介氏の説明によれば、3工場の分散では事業の統制がとれず需要増にも応じられない。佃工場は同年12月29日に石灰硫黄合剤の製造を始め、1934年5月26日に落成式を挙行した。砒酸鉛の販売量は1934農薬年度に年間100万ポンドを超えた。1937年9月末に終わる年度には、内地向けで200万ポンドを突破した。資本金は1937年9月に120万円へ倍増。生産を1か所に集約したことが、3年余りでの販売量の倍増を支えたと考えられる。
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [32]1932年末から3工場(長柄・箕島・神戸)を統合する新工場用地を物色、水運・特別工業地帯を条件に1933年3月25日佃町2,924坪を坪18円で買収
- [33]1932年末から3工場(長柄・箕島・神戸)を統合する新工場用地を物色、水運・特別工業地帯を条件に1933年3月25日佃町2,924坪を坪18円で買収
- [34]1932年末から3工場(長柄・箕島・神戸)を統合する新工場用地を物色、水運・特別工業地帯を条件に1933年3月25日佃町2,924坪を坪18円で買収
- [35]夏目常務の年頭の辞:3工場分散では事業統制が不十分で需要増に応じられない。1933年12月29日製造開始、1934年5月26日落成式
- [36]夏目常務の年頭の辞:3工場分散では事業統制が不十分で需要増に応じられない。1933年12月29日製造開始、1934年5月26日落成式
- [37]砒酸鉛は1934農薬年度に年間100万ポンド突破、1937年9月末の年度に内地売り200万ポンド突破
- [38]砒酸鉛は1934農薬年度に年間100万ポンド突破、1937年9月末の年度に内地売り200万ポンド突破
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [39]資本金:昭和12年9月120万円(1:1)
満州国は1932年3月に建国を宣言し、1935年の産業五カ年計画で農薬を綿花増産の必需品に位置づけた。日本農薬はデリス石鹸の輸出で得た評価を足がかりに、1937年10月1日に奉天出張所を開設した。続いて満州農薬株式会社を設け、満州国内の需要と北支への進出に備えた。1938年5月には台湾総督府にデリス栽培の事業計画書を提出し、殺虫剤の原料となるデリス根の自給を図った。計画書が挙げた理由は、満州国と北支の綿作害虫向け需要の急増である。朝鮮では朝鮮農薬株式会社の仁川工場が砒酸石灰を製造した。1943年9月には農薬統制株式会社が発足し、その社長は専務取締役の夏目廉介氏である。資本金は1942年2月に200万円へ増えた。統制が強まる中で、原料と販路の双方を日本の勢力圏に求めた拡大だったといえる。
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [40]1932年満州国建国、1935年産業五カ年計画で農薬を綿花増産の必需品に。デリス石鹸輸出の好評を受け1937年10月1日奉天出張所を開設、満州農薬株式会社設立へ
- [41]1932年満州国建国、1935年産業五カ年計画で農薬を綿花増産の必需品に。デリス石鹸輸出の好評を受け1937年10月1日奉天出張所を開設、満州農薬株式会社設立へ
- [42]1932年満州国建国、1935年産業五カ年計画で農薬を綿花増産の必需品に。デリス石鹸輸出の好評を受け1937年10月1日奉天出張所を開設、満州農薬株式会社設立へ
- [43]1938年5月台湾総督府にデリス栽培事業計画書を提出、満州国・北支の綿作害虫向け需要増に対し原料自給を計画
- [44]1938年5月台湾総督府にデリス栽培事業計画書を提出、満州国・北支の綿作害虫向け需要増に対し原料自給を計画
- [45]朝鮮農薬株式会社の仁川工場で砒酸石灰を製造
- [46]1943年9月農薬統制株式会社発足、日本農薬専務の夏目廉介氏が社長に就任
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [47]資本金:昭和17年2月200万円
参考文献[24]-[47]
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [24]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [25]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [26]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [27]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [28]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [29]1930年9月6日天野村小山田に決定、12月に10年契約で1,452坪を借りて河内病虫害研究農場を開場、初代場長新開悟、夏目常務が目的を説明
- [30]1931年3月機関誌「農薬時報」を創刊、試験成績の発表と施薬指導に利用
- [32]1932年末から3工場(長柄・箕島・神戸)を統合する新工場用地を物色、水運・特別工業地帯を条件に1933年3月25日佃町2,924坪を坪18円で買収
- [33]1932年末から3工場(長柄・箕島・神戸)を統合する新工場用地を物色、水運・特別工業地帯を条件に1933年3月25日佃町2,924坪を坪18円で買収
- [34]1932年末から3工場(長柄・箕島・神戸)を統合する新工場用地を物色、水運・特別工業地帯を条件に1933年3月25日佃町2,924坪を坪18円で買収
- [35]夏目常務の年頭の辞:3工場分散では事業統制が不十分で需要増に応じられない。1933年12月29日製造開始、1934年5月26日落成式
- [36]夏目常務の年頭の辞:3工場分散では事業統制が不十分で需要増に応じられない。1933年12月29日製造開始、1934年5月26日落成式
- [37]砒酸鉛は1934農薬年度に年間100万ポンド突破、1937年9月末の年度に内地売り200万ポンド突破
- [38]砒酸鉛は1934農薬年度に年間100万ポンド突破、1937年9月末の年度に内地売り200万ポンド突破
- [40]1932年満州国建国、1935年産業五カ年計画で農薬を綿花増産の必需品に。デリス石鹸輸出の好評を受け1937年10月1日奉天出張所を開設、満州農薬株式会社設立へ
- [41]1932年満州国建国、1935年産業五カ年計画で農薬を綿花増産の必需品に。デリス石鹸輸出の好評を受け1937年10月1日奉天出張所を開設、満州農薬株式会社設立へ
- [42]1932年満州国建国、1935年産業五カ年計画で農薬を綿花増産の必需品に。デリス石鹸輸出の好評を受け1937年10月1日奉天出張所を開設、満州農薬株式会社設立へ
- [43]1938年5月台湾総督府にデリス栽培事業計画書を提出、満州国・北支の綿作害虫向け需要増に対し原料自給を計画
- [44]1938年5月台湾総督府にデリス栽培事業計画書を提出、満州国・北支の綿作害虫向け需要増に対し原料自給を計画
- [45]朝鮮農薬株式会社の仁川工場で砒酸石灰を製造
- [46]1943年9月農薬統制株式会社発足、日本農薬専務の夏目廉介氏が社長に就任
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [31]資本金:昭和8年1月60万円
- [39]資本金:昭和12年9月120万円(1:1)
- [47]資本金:昭和17年2月200万円
1945年〜外地資産を失った戦後とホリドールの東京工場、海野景正氏の本社東京移転
敗戦で日本農薬は、朝鮮農薬株式会社の仁川工場を含む外地の事業をすべて失った。フィリピン事業部では、初代農場長の新開悟氏を含む責任者が戦死または行方不明となった。1945年8月末には、外地からの引揚者を抱えたまま第1次の人員整理を実施した。1943年12月から社長を務めた夏目廉介氏の死去は、1948年11月23日である。1949年4月30日、旭電化工業の取締役だった行友威彦氏が社長の座に就いた。同年10月19日には本社を大阪市北区堂島浜通の古河ビルへ移した。旭電化工業の持株は財閥解体で持株会社整理委員会の管理下に入り、1951年1月に旭電化工業は再び大株主となった。1963年3月末時点の持株は、旭電化工業が2,032,800株、行友威彦氏が40,920株である。
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [48]外地資産(朝鮮農薬仁川工場、フィリピン事業部等)を喪失、新開悟氏ら死亡、1945年8月末に第一次人員整理
- [49]外地資産(朝鮮農薬仁川工場、フィリピン事業部等)を喪失、新開悟氏ら死亡、1945年8月末に第一次人員整理
- [50]外地資産(朝鮮農薬仁川工場、フィリピン事業部等)を喪失、新開悟氏ら死亡、1945年8月末に第一次人員整理
- [51]夏目廉介氏は1943年12月社長、1948年11月23日逝去。1949年4月30日旭電化取締役の行友威彦氏が社長就任、10月19日本社を堂島浜通古河ビルへ。旭電化は1951年1月に再び大株主
- [52]夏目廉介氏は1943年12月社長、1948年11月23日逝去。1949年4月30日旭電化取締役の行友威彦氏が社長就任、10月19日本社を堂島浜通古河ビルへ。旭電化は1951年1月に再び大株主
- [53]夏目廉介氏は1943年12月社長、1948年11月23日逝去。1949年4月30日旭電化取締役の行友威彦氏が社長就任、10月19日本社を堂島浜通古河ビルへ。旭電化は1951年1月に再び大株主
- [54]夏目廉介氏は1943年12月社長、1948年11月23日逝去。1949年4月30日旭電化取締役の行友威彦氏が社長就任、10月19日本社を堂島浜通古河ビルへ。旭電化は1951年1月に再び大株主
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [55]大株主(1963年3月31日):旭電化工業2,032,800株、行友威彦40,920株
戦後の稲作では、二化螟虫の駆除が長く懸案として残っていた。バイエル社のパラチオン乳剤ホリドールは1951年に輸入され、螟虫に高い効果を示した。日本農薬は1952年、バイエル社から輸入した原料の供給を日本特殊農薬製造から受け、日農ホリドールの名で製造販売を始めた。ホリドールは人畜に猛毒で除毒設備を要し、大阪工場の敷地では増産に対応できなかった。関東と東北への進出も、日本農薬にとって多年の懸案だった。日本農薬は1952年9月20日、埼玉県北足立郡戸田町にあった古河電気工業の休止工場3,923坪を譲り受けると決めた。東京工場は1953年4月11日に粉剤設備の試運転を行い、6月に全工場が操業に入った。ホリドール粉剤の1958年度の生産は1,542,888キログラムである。
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [56]パラチオン剤ホリドールは1951年輸入、螟虫に特効。1952年から日本特殊農薬製造経由でバイエル原料を受け日農ホリドールを製造。1958年度粉剤1,542,888kg
- [57]パラチオン剤ホリドールは1951年輸入、螟虫に特効。1952年から日本特殊農薬製造経由でバイエル原料を受け日農ホリドールを製造。1958年度粉剤1,542,888kg
- [58]パラチオン剤ホリドールは1951年輸入、螟虫に特効。1952年から日本特殊農薬製造経由でバイエル原料を受け日農ホリドールを製造。1958年度粉剤1,542,888kg
- [59]ホリドールの猛毒性と大阪工場の敷地の限界、関東・東北進出の懸案から、1952年9月20日戸田町の古河電工休止工場3,923坪の譲受を決定、1953年4月11日粉剤設備試運転、6月全面操業
- [60]ホリドールの猛毒性と大阪工場の敷地の限界、関東・東北進出の懸案から、1952年9月20日戸田町の古河電工休止工場3,923坪の譲受を決定、1953年4月11日粉剤設備試運転、6月全面操業
- [61]ホリドールの猛毒性と大阪工場の敷地の限界、関東・東北進出の懸案から、1952年9月20日戸田町の古河電工休止工場3,923坪の譲受を決定、1953年4月11日粉剤設備試運転、6月全面操業
- [62]ホリドールの猛毒性と大阪工場の敷地の限界、関東・東北進出の懸案から、1952年9月20日戸田町の古河電工休止工場3,923坪の譲受を決定、1953年4月11日粉剤設備試運転、6月全面操業
- [63]パラチオン剤ホリドールは1951年輸入、螟虫に特効。1952年から日本特殊農薬製造経由でバイエル原料を受け日農ホリドールを製造。1958年度粉剤1,542,888kg
1957年1月30日に行友威彦氏が社長を退任し、翌31日に旭電化工業常務取締役の海野景正氏が社長に就任した。海野景正氏は日本生産性本部の派遣でアメリカの工場を視察し、帰国した直後にあたる。就任の挨拶で海野景正氏は、メーカーにかえる方針の下で『他社の追随を許さない独特の太い柱を立てることを目標として研究と生産に励まねばならない』と従業員に示した。1957年10月には専務取締役の井上保氏が東南アジア各国の農薬事情を約2か月かけて調べた。1958年時点で日本農薬の製品は100種を超え、全国需要の13%を占めた。1959年1月、日本農薬は本社を大阪から東京へ移した。1962年9月期の販売高のうち自家製品は8割を占め、仕入商品は2割にとどまった。本社の東京移転と自家製品の比率の引き上げが、株式上場の前提を整えたと思われる。
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [64]1957年1月30日行友社長退任、31日旭電化常務の海野景正氏が社長就任(生産性本部の米国派遣から帰国直後)。メーカーにかえる大方針。1957年10月井上保専務が東南アジア視察。製品100種超、全国需要の13%
- [65]1957年1月30日行友社長退任、31日旭電化常務の海野景正氏が社長就任(生産性本部の米国派遣から帰国直後)。メーカーにかえる大方針。1957年10月井上保専務が東南アジア視察。製品100種超、全国需要の13%
- [66]1957年1月30日行友社長退任、31日旭電化常務の海野景正氏が社長就任(生産性本部の米国派遣から帰国直後)。メーカーにかえる大方針。1957年10月井上保専務が東南アジア視察。製品100種超、全国需要の13%
- [67]1957年1月30日行友社長退任、31日旭電化常務の海野景正氏が社長就任(生産性本部の米国派遣から帰国直後)。メーカーにかえる大方針。1957年10月井上保専務が東南アジア視察。製品100種超、全国需要の13%
- [68]1957年1月30日行友社長退任、31日旭電化常務の海野景正氏が社長就任(生産性本部の米国派遣から帰国直後)。メーカーにかえる大方針。1957年10月井上保専務が東南アジア視察。製品100種超、全国需要の13%
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [69]昭和34年(1959年)1月本社を大阪から東京へ移転。昭和37年9月期の販売高は自家製品8割・仕入商品2割
- [70]昭和34年(1959年)1月本社を大阪から東京へ移転。昭和37年9月期の販売高は自家製品8割・仕入商品2割
参考文献[48]-[70]
- 社史日本農薬株式会社(1960)
- [48]外地資産(朝鮮農薬仁川工場、フィリピン事業部等)を喪失、新開悟氏ら死亡、1945年8月末に第一次人員整理
- [49]外地資産(朝鮮農薬仁川工場、フィリピン事業部等)を喪失、新開悟氏ら死亡、1945年8月末に第一次人員整理
- [50]外地資産(朝鮮農薬仁川工場、フィリピン事業部等)を喪失、新開悟氏ら死亡、1945年8月末に第一次人員整理
- [51]夏目廉介氏は1943年12月社長、1948年11月23日逝去。1949年4月30日旭電化取締役の行友威彦氏が社長就任、10月19日本社を堂島浜通古河ビルへ。旭電化は1951年1月に再び大株主
- [52]夏目廉介氏は1943年12月社長、1948年11月23日逝去。1949年4月30日旭電化取締役の行友威彦氏が社長就任、10月19日本社を堂島浜通古河ビルへ。旭電化は1951年1月に再び大株主
- [53]夏目廉介氏は1943年12月社長、1948年11月23日逝去。1949年4月30日旭電化取締役の行友威彦氏が社長就任、10月19日本社を堂島浜通古河ビルへ。旭電化は1951年1月に再び大株主
- [54]夏目廉介氏は1943年12月社長、1948年11月23日逝去。1949年4月30日旭電化取締役の行友威彦氏が社長就任、10月19日本社を堂島浜通古河ビルへ。旭電化は1951年1月に再び大株主
- [56]パラチオン剤ホリドールは1951年輸入、螟虫に特効。1952年から日本特殊農薬製造経由でバイエル原料を受け日農ホリドールを製造。1958年度粉剤1,542,888kg
- [57]パラチオン剤ホリドールは1951年輸入、螟虫に特効。1952年から日本特殊農薬製造経由でバイエル原料を受け日農ホリドールを製造。1958年度粉剤1,542,888kg
- [58]パラチオン剤ホリドールは1951年輸入、螟虫に特効。1952年から日本特殊農薬製造経由でバイエル原料を受け日農ホリドールを製造。1958年度粉剤1,542,888kg
- [59]ホリドールの猛毒性と大阪工場の敷地の限界、関東・東北進出の懸案から、1952年9月20日戸田町の古河電工休止工場3,923坪の譲受を決定、1953年4月11日粉剤設備試運転、6月全面操業
- [60]ホリドールの猛毒性と大阪工場の敷地の限界、関東・東北進出の懸案から、1952年9月20日戸田町の古河電工休止工場3,923坪の譲受を決定、1953年4月11日粉剤設備試運転、6月全面操業
- [61]ホリドールの猛毒性と大阪工場の敷地の限界、関東・東北進出の懸案から、1952年9月20日戸田町の古河電工休止工場3,923坪の譲受を決定、1953年4月11日粉剤設備試運転、6月全面操業
- [62]ホリドールの猛毒性と大阪工場の敷地の限界、関東・東北進出の懸案から、1952年9月20日戸田町の古河電工休止工場3,923坪の譲受を決定、1953年4月11日粉剤設備試運転、6月全面操業
- [63]パラチオン剤ホリドールは1951年輸入、螟虫に特効。1952年から日本特殊農薬製造経由でバイエル原料を受け日農ホリドールを製造。1958年度粉剤1,542,888kg
- [64]1957年1月30日行友社長退任、31日旭電化常務の海野景正氏が社長就任(生産性本部の米国派遣から帰国直後)。メーカーにかえる大方針。1957年10月井上保専務が東南アジア視察。製品100種超、全国需要の13%
- [65]1957年1月30日行友社長退任、31日旭電化常務の海野景正氏が社長就任(生産性本部の米国派遣から帰国直後)。メーカーにかえる大方針。1957年10月井上保専務が東南アジア視察。製品100種超、全国需要の13%
- [66]1957年1月30日行友社長退任、31日旭電化常務の海野景正氏が社長就任(生産性本部の米国派遣から帰国直後)。メーカーにかえる大方針。1957年10月井上保専務が東南アジア視察。製品100種超、全国需要の13%
- [67]1957年1月30日行友社長退任、31日旭電化常務の海野景正氏が社長就任(生産性本部の米国派遣から帰国直後)。メーカーにかえる大方針。1957年10月井上保専務が東南アジア視察。製品100種超、全国需要の13%
- [68]1957年1月30日行友社長退任、31日旭電化常務の海野景正氏が社長就任(生産性本部の米国派遣から帰国直後)。メーカーにかえる大方針。1957年10月井上保専務が東南アジア視察。製品100種超、全国需要の13%
- 証券 15(8)(171) 1963年
- [55]大株主(1963年3月31日):旭電化工業2,032,800株、行友威彦40,920株
- [69]昭和34年(1959年)1月本社を大阪から東京へ移転。昭和37年9月期の販売高は自家製品8割・仕入商品2割
- [70]昭和34年(1959年)1月本社を大阪から東京へ移転。昭和37年9月期の販売高は自家製品8割・仕入商品2割
出典・参考
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- 社史日本農薬株式会社(1960)
- 証券 15(8)(171) 1963年