日本毛織のアルゼンチン子会社、度重なる政変・クーデターを乗り切る

「船が沈んでも船長は逃げない」——南米の政情不安下で貫いた現地経営

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時期 1977年8月
意思決定者 藤井一義 日本毛織・アルゼンチナ社長
論点 海外現地法人の危機対応と事業継続
概要
1956年に伊藤忠商事・兼松江商との合弁でアルゼンチンに設立した現地法人ニホンケオリアルゼンチナが、度重なる軍事クーデターと高インフレという不安定な事業環境の中で、二十年以上にわたり現地経営を維持し続けた経営判断。
背景
日本毛織は1956年、繊維専業メーカーとしては数少ない本格的な海外進出としてアルゼンチンに現地法人を設立した。同国は戦後、軍事クーデターと民政移管を繰り返す不安定な政治環境にあり、1973年からの第3次ペロン政権期には年率400%のインフレと極左テロが横行した。
内容
現地法人の藤井一義社長は、経営幹部への脅迫や取引銀行への襲撃が相次ぐ中でも一時帰国の勧めを退け、「船が沈みそうになっても船長は決して逃げ出してはならない」と従業員に結束を訴えた。過激派を入社させない徹底した採用審査や給料の遅配なしといった労務対策を積み重ね、従業員の支持をつなぎとめた。
含意
1976年3月の無血クーデターを経て発足した新政権下でも、同社は「最も問題のない会社」と評価され、その後は政情安定を見込んで積極投資に転じた。単一の同時代報道が主な裏付けだが、高度成長期の日本企業が数少ない本格的な海外進出先でどう危機に対応したかを示す実例である。
筆者の見解

財務の合理より、逃げないという意思

この経営判断の核心は、財務的な打算というより、政変が続く現地でなお経営を続けるという意思そのものにあったとみることができる。米国系企業の重役が続々と帰国するなかで、日本からの唯一の進出企業が現地に踏みとどまり、経営幹部が身の危険を冒してまで陣頭に立ち続けた背景には、1956年の進出以来20年をかけて積み上げた労務対策への確信があったといえる。過激派を入れない採用審査、給料の遅配なし、家族ぐるみのクラブ活動という地味な積み重ねが、政変のたびに問われる従業員の支持という一点を支え続けた。

もっとも、日経ビジネスがこの記事を組んだ1977年8月の時点でも、アルゼンチンの政情は「政情さえ落ち着けば有望」という留保つきの評価にとどまっていた。同社の経営はなお継続中の物語であり、その後の展開まで本稿の一次資料からは追いきれない。それでも、国内市場が成熟しつつあった当時の日本企業にとって成長のはけ口を海外に求める動きが避けられなくなるという記事の見立ては、高度成長期の海外進出のあり方を考えるうえで示唆に富む。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

繊維専業メーカーとしての数少ない本格的海外進出

日本毛織は1896年(明治29年)、創立者・川西清兵衛氏が神戸在住の有志とともに資本金50万円で設立した毛織物メーカーである。加古川工場を拠点に赤毛布からセル・サージ・ラシャへと製品を広げ、大正期の姫路・岐阜・印南工場の新設や増資を重ねて、毛織物製造の一貫会社としての地位を固めた。戦後は1949年5月に東京証券取引所へ上場し、1950年ごろには梳毛紡績で国内シェア27%を占める国内首位の毛織メーカーとなっていた[1]

繊維専業メーカーの多くが国内市場を主戦場としていた時代に、日本毛織は1956年、伊藤忠商事・兼松江商との合弁でアルゼンチンに現地法人ニホンケオリアルゼンチナ社を設立した。資本金は約720万ペソ、日本毛織側の出資比率は84.8%に達し、ブエノスアイレス郊外でトップや織糸、メリヤス糸といった毛紡製品の現地生産に着手した。当時、日本から同国へ現地生産拠点を構えた企業は同社のほかになく、繊維専業メーカーとしては異例なほど早い本格的な海外進出であった[2]

アルゼンチンの政情不安という進出条件

アルゼンチンは日本から地理的に最も遠い国であり、経済面でも日本にとって主要な取引相手ではなかった。それ以上に事業環境を左右したのは、同国特有の政治の不安定さである。戦後まもない1946年にフアン・ペロン氏が大統領に就任して以来、1973年に同氏が政権に復帰するまでの30年足らずの間に12人が大統領の座に就き、このうち合法的な国民選挙で選ばれたのはわずか4人であった。残りは軍事クーデターによる政権交代であり、民政と軍政が交互に入れ替わる歴史が繰り返されてきた[3]

とりわけ1973年に発足した第3次ペロン政権下では、経済政策の混乱から年率400%にも達するインフレが経済を直撃した。加えてペロン派内部の左右対立に端を発した極左テロが横行し、誘拐や暗殺の対象は政府要人にとどまらず企業経営者にも広がった。ペロン氏は米国のITT、西独のシーメンスといった外資系企業を接収する政策を掲げており、これが外資系企業の経営者を狙うテロ活動をまん延させる一因ともなっていた[4]

決断

経営幹部への危険下で貫いた「逃げない」対応

外資系企業の中でもとりわけ標的にされたのは、アルゼンチンで最大の経済力を持つ米国系企業だった。GMやフォードなどでは重役や技術者が身の危険を理由に帰国する例が相次ぎ、その数は200人に達した。日本からの唯一の進出企業であったニホンケオリアルゼンチナも無縁ではいられず、取引先の東京銀行ブエノスアイレス支店は二度にわたり爆発物を投げ込まれる被害に遭い、藤井一義社長のもとにも脅迫の電話がかかってくるようになった。同社は出社・帰宅時間を毎日ずらし、工場内の空き地で経営幹部が急きょ射撃練習に励むなど、身辺の防御を固めた[5]

こうした状況を心配した周囲からは、藤井社長以下幹部に一時帰国を勧める声が大勢を占めた。しかし藤井社長はこれを退け、「船が沈みそうになっても船長は決して逃げ出してはならない」と全従業員に訴えて結束を固めた。「甘やかされて育った連中に大したことができるとは思えない。こちらが毅然としていれば、相手も手を出さないだろう」というのが同社長の読みであり、精神論にとどまらず、長年築いてきた労務対策への自信に裏づけられた判断であった[6]

徹底した労務対策で従業員の支持をつなぎとめる

同社の労務対策の基本は、過激派を入社させないことにあった。採用にあたっては徹底した身辺調査を行い、それでも侵入を完全には防げないが、その場合は2年でも3年でも待って職務上の落ち度が生じた時点で解雇に踏み切った。赤松隆工場長は、個人テロや会社施設の破壊は内部からの手引きがなければ起こりえないとし、1956年の進出以来長年かけて培ってきた労務対策が外部からの過激派の潜入を跳ね返してくれるとの確信を語っている[7]

給料は規定の給料日に遅配なく支払い続けた。前ペロン政権下で銀行から資金を借りられずに苦しんだ時期も、経営者側の支払いを後回しにしてでも従業員への支給を優先した。遅配が珍しくない現地企業の中で、この律義さは従業員の信頼を集めた。経営者と従業員、その家族が分け隔てなく参加するフットボールや卓球大会、焼肉パーティーといったクラブ活動も日本的経営の一端として取り入れられ、こうした積み重ねの結果、同社の欠勤率は繊維産業平均を大きく下回る水準にとどまった[8]

結果

無血クーデターと「最も問題のない会社」という評価

1976年3月、ペロン政権は軍事クーデターで崩壊した。クーデターといっても銃弾一発も飛ばず、インフレへの民心の離反がそのまま政権交代につながった形だった。新政権誕生直後、ニホンケオリアルゼンチナの幹部は警察から呼び出しを受け、前政権下で被害がなかったか、過激派が潜んでいないかの事情聴取を受けたが、同社は「最も問題のない会社」として評価されたという[9]

経営内容に目を移すと、進出後10年間は赤字が続いたが、その後は政変にかかわらず収益を計上するようになり、平均配当は30%にのぼった。ただし利益送金が制限されていたため、配当はすべて株式配当とせざるをえなかった。1977年6月期は第3次ペロン政権期の経済混乱が尾を引いて操業率が70%に低下し、売上18億ペソ・税引き利益1200万ペソにとどまったものの、同社は最近10年間抑えてきた設備投資を政情安定の見通しとともに積極化させ、イタリアから最新鋭の機械を導入する方針を固めた[10]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1977年8月1日号「日本毛織(アルゼンチン)。度重なる政変・クーデター耐え抜く」
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968年)
  • 日本毛織 会社年鑑(単体)