日本毛織、中山工場跡地の商業施設化による不動産事業の柱化
縮小する祖業工場をどう畳むか——ニッケが「売らず貸す」道を選んだ理由
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- 概要
- 1982年3月に千葉県市川市の中山工場を閉鎖した日本毛織が、跡地を売却せず、1984年2月に加古川市で「ニッケパークタウン」、1988年11月に市川市で「ニッケコルトンプラザ」を開業し、賃貸を軸とする商業施設として再生させた経営判断。
- 背景
- 石油危機後の繊維不況で毛織物専業の事業基盤が縮小するなか、1961年のニッケ不動産設立以来の不動産・商事多角化の布石がすでにあり、老朽化した工場跡地の使い道として売却以外の選択肢を後押しした。
- 内容
- 中山工場閉鎖後の跡地を賃貸モデルで運営する方針を固め、加古川・市川の両工場跡地を相次いで商業施設に転用、1991年には本社機能も神戸から大阪へ移して多角化企業としての体制を整えた。
- 含意
- 工場跡地の商業施設化から40年近くにわたり不動産事業を継続し、2023年には自ら開発した不動産でテナント事業も手がける手法が同社の資産効率戦略の核と位置付けられるまでに至った。
跡地処分から資産効率戦略への40年
この経営判断の核心は、縮小する祖業の後始末を、単なる資産処分ではなく次の事業への転換点としてとらえた点にある。1961年のニッケ不動産設立以来、日本毛織の経営陣は繊維専業からの脱却先を探り続けており、1982年の中山工場閉鎖は、その布石が具体的な跡地と結びついた出来事だったとみることができる。売却して現金化する選択肢もあったなかで、賃貸を軸とする長期の収益モデルを選んだことが、その後40年にわたる不動産事業の骨格を決めた。
もっとも、この判断が当初から明確な長期戦略として描かれていたかは判然としない。工場跡地の商業施設化は個別の不動産案件として始まり、1991年の大阪本社移転を経て、次第に会社の中核事業のひとつへと育っていったとみるほうが実態に近い。2023年に岡本CFOが「自らテナントとしても事業を行い資産効率を高める」と語った不動産戦略は、1980年代の工場跡地処分という受け身の判断を、能動的な事業モデルへ後年になって言語化したものといえる。祖業の縮小に直面した経営が、跡地という制約をどう機会に転じたかを示す事例といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
石油危機と繊維専業の構造不況
1971年8月のニクソン・ショックと1973年10月の第一次石油危機は、繊維業界全体を直撃した。原油高で合成繊維の原料コストが上がり、円高で輸出採算が悪化し、韓国・台湾勢の追い上げも重なった。日本毛織は1974年11月期に14億円の最終赤字、1975年11月期に52億円の経常赤字を計上し、創業以来初めての本格的な赤字に沈んだ[1]。
業績悪化を受け、日本毛織は1979年7月に700名の人員削減へ踏み切り、国内の毛糸・毛織物生産を縮小した。共立モスリンの買収で戦前に取得した中山工場(千葉県市川市)は、戦後復興期から稼働してきた主力拠点のひとつだったが、繊維事業の縮小圧力を最も強く受ける工場になっていた。老朽化した設備を抱える工場を専業メーカーとしてどう処分するかが、経営上の課題として浮上した[2]。
1961年以来の不動産・商事多角化という布石
工場閉鎖に先立つ1961年、日本毛織は繊維事業以外の収益源確保に動いていた。1月にニッケ不動産株式会社を設立して加古川市内の自社所有地を不動産事業として収益化する道筋をつくり、5月には信成商事株式会社(現・ニッケ商事)の経営に参加して商事機能を取り込んだ。合成繊維の台頭で天然繊維メーカーの立場が脅かされるなか、繊維専業からの脱却をにらんだ最初の一手であった[3]。
1967年11月にはアカツキ商事を設立して繊維周辺商材の取扱いを広げ、1970年4月には機械製作所を設けて毛織物製造機械の自社開発にも着手した。1960年代から70年代にかけて商事・不動産・機械という3方向に子会社を伸ばしていたことが、1980年代に入り工場跡地の使い道を検討する際、売却ではなく自社事業化という選択肢を後押しする土壌になった[4]。
決断
中山工場閉鎖と「売らず貸す」への転換
1982年3月、日本毛織は千葉県市川市の中山工場を閉鎖した。共立モスリンの買収で取得して以来、戦後復興期から稼働してきた主力拠点の歴史に幕を下ろす決定であった。繊維専業としての規模を保つことが難しくなった当時、閉鎖した工場の跡地をどう処分するかは、多角化の方向性を左右する経営判断でもあった[5]。
日本毛織は好立地の跡地を単純売却せず、商業施設として再開発する道を選んだ。1984年2月、創業の地である加古川市に、自社所有地を活用したショッピングセンター「ニッケパークタウン」を建設して賃貸を開始した。土地を売却するのではなく賃貸モデルで運営する方針であり、長期の賃料収入を生む資産へと工場跡地を転換する選択であった[6]。
コルトンプラザ開業と大阪本社移転による体制転換
跡地転用の方針は、市川市の中山工場跡地にも適用された。1987年10月には株式会社ニッケレジャーサービス(現・ニッケウエルネス)を設立して商業施設に併設するスポーツ・レジャー事業を立ち上げ、1988年11月には複合施設「ニッケコルトンプラザ」を開業した。ショッピング・飲食・スポーツを組み合わせた施設は、加古川のニッケパークタウンに続く2件目の工場跡地商業施設となった[7]。
1991年4月には大阪市中央区瓦町に現本社ビルが完成し、本社機能を神戸から大阪へ移した。神戸創業の毛織物メーカーが、加古川と市川の商業施設を中心とした多角化企業へと姿を変えたことを象徴する移転であった。中山工場閉鎖から本社移転までの9年間で、日本毛織は繊維専業の体制から不動産事業を併せ持つ体制への組み替えを終えた[8]。
結果
4事業体制の定着と自営テナントモデルの始まり
工場跡地の商業施設化から20年余りが過ぎた2010年、日本毛織は宮城県のイオンモール名取エアリに大型屋内遊園地「ピュアハートキッズランド」を開業した。消費不況でテナント誘致に苦しむ商業施設が多いなか、月2万人規模の集客を集める人気施設となり、デベロッパーからの引き合いも強まった。不動産賃貸にとどまらず、自ら集客テナントとして事業を営む手法を、外部の商業施設でも試み始めた時期であった[9]。
工場跡地の商業施設運営を含む人とみらい開発事業は、時間の経過とともに連結業績の柱に育った。2015年11月期の連結売上高は1,028億円、経常利益は77億円となり、人とみらい開発事業の利益は衣料繊維事業を上回る規模になった。創業事業である毛織物よりも、加古川・市川の商業施設運営や周辺事業の方が連結利益への寄与度が大きい構造は、1984年のニッケパークタウン開業から30年を経て定着した結果であった[10]。
2022年リニューアルと2023年岡本CFOの不動産戦略総括
1988年の開業から34年を経た2022年10月、日本毛織は「ニッケコルトンプラザ」の館内一部を改装する大規模リニューアルを実施した。新規テナントの導入や既存テナントの移転・改装を進め、食・ギフト・生活雑貨・カルチャーの充実を図った。工場跡地に建てた商業施設を、開業から30年以上経っても更新投資を続けて維持してきたことは、施設を単なる資産としてではなく事業として運営し続けてきたことを示している[11]。
2023年、岡本雄博CFOは統合報告書で人とみらい開発事業の強みを総括し、開発した不動産で自らテナントとしても事業を行い資産効率を高められる点を日本毛織の強みとして挙げた。中山工場跡地を単に貸すだけでなく、ニッケコルトンプラザ南側隣接地や一宮市・加古川市の所有不動産再開発をさらなる成長の余地として挙げ、自社開発・自社運営という1980年代以来の型を、今後の成長戦略の柱として位置付けた[12]。
- 日本毛織 有価証券報告書 第195期(2025年11月期)【沿革】
- 日本毛織 会社年鑑(1975年版・1976年版)
- 日本毛織 有価証券報告書 第185期(2015年11月期)【主要な経営指標等の推移】
- 週刊東洋経済 2010年2月13日号「COLUMN Hot&Cool 商業施設集客の目玉となるか 親子で楽しめる室内遊園地」
- 日本経済新聞電子版(2022年9月7日)「ニッケ、『ニッケコルトンプラザ』をリニューアルオープン」
- 日本毛織 統合報告書2023