百十四銀行:新設合併による高松百十四銀行の設立と百十四銀行への改称
1924年〜県下2大銀行の対等合併で生まれた高松百十四銀行と、資本金1262万円
旧高松百十四銀行は頭取の都崎秀太郎氏のもと、1924年1月4日に高松銀行と合併の仮契約を結んだ。両行は当時、香川県下の2大銀行という位置づけ。第1次大戦後の反動で株式と商品の相場が崩れ、銀行の貸出は固定化した。各地で取付が起きると、政府は銀行の合同を救済策の軸に据えた。香川県でも1920年5月17日、知事が県下の銀行業者を高松に招き、合併を勧めた。それでも八十年誌は、この合併を勧奨を受けてのものではなく両行首脳の自主判断と位置づける。総会に諮った合併の理由は、『時代ノ趨勢ト事業ノ前途ニ鑑ミ合併ヲ計画シ以テ他日ノ大成ヲ期セントス』というものだった。行政の勧奨を待たずに動いたことで、両行は資本の割り振りや役員の構成を自らの協議で決められたとみられる。
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第1章「高松百十四銀行の新立とその経過」
- [1]1924年1月4日、両行代表者が合併仮契約書を締結。合併公告に高松百十四銀行の取締役頭取として都崎秀太郎
- [3]欧州大戦後の反動で株式・商品市場が暴落し貸出が固定化、取付の発生を受け政府は救済策として銀行合同を推進
- [4]欧州大戦後の反動で株式・商品市場が暴落し貸出が固定化、取付の発生を受け政府は救済策として銀行合同を推進
- [6]新立合併は勧奨を受けたものでなく両行首脳の自主的見地から出たものと記述
- 会社銀行八十年史(1955)「百十四銀行」
- [2]1924年、県下の二大銀行である高松百十四銀行と高松銀行が合併
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第3編(大正9年の合併勧奨)
- [5]1920年5月17日、知事主催で県下銀行業者を招集し合併を勧誘奨励
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第1章(合併公告・大正13年1月28日)
- [7]合併の理由は時代の趨勢と事業の前途に鑑み他日の大成を期すこと(1924年1月の総会)
合併前の旧高松百十四銀行は公称資本金390万円・払込済資本金1,655千円で、県下最大の資本を持った。2位の高松銀行は公称・払込とも150万円である。公称資本の差に比べて払込資本の差は小さく、両行は対等の新設合併を選んだ。新銀行の公称資本金は1,262万円、払込済資本は3,155千円と決めた。仮契約では、新銀行の取締役を旧高松百十四銀行から5名、高松銀行から4名選ぶと定めた。1924年3月15日に大蔵大臣の認可が下りた。両行は3月30日付で新設合併し、新しい高松百十四銀行を設立した。旧高松百十四銀行は県下に広く支店を置きながら、坂出・琴平・多度津には支店がなかった。両行の支店は同じ町に並んでおらず、合併で互いの営業地盤を補った。
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第1章(合併の理由・資本の決め方)
- [8]合併前、高松百十四銀行は公称資本金390万円・払込済1,655千円で県下最大、高松銀行は公称・払込とも150万円で第2位
- [9]合併前、高松百十四銀行は公称資本金390万円・払込済1,655千円で県下最大、高松銀行は公称・払込とも150万円で第2位
- [10]両行の払込資本金に大差がないことを基礎に対等合併とし、新銀行は公称資本金1,262万円・払込済3,155千円
- [11]両行の払込資本金に大差がないことを基礎に対等合併とし、新銀行は公称資本金1,262万円・払込済3,155千円
- [15]両行の支店は同地に併立せず、高松百十四銀行は坂出・琴平・多度津に支店がなく、合併で営業地盤を補完
- [16]両行の支店は同地に併立せず、高松百十四銀行は坂出・琴平・多度津に支店がなく、合併で営業地盤を補完
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第1章(合併公告・大正13年1月28日)
- [12]合併仮契約書第6条:新銀行の取締役は甲(高松百十四)から5名・乙(高松)から4名、監査役各2名
- [13]1924年3月15日大蔵大臣が新立合併を認可、合併期日を3月30日に変更
- 百十四銀行 有価証券報告書【沿革】
- [14]1924年3月、高松百十四銀行と高松銀行の新設合併で高松百十四銀行を設立
参考文献[1]-[16]
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第1章「高松百十四銀行の新立とその経過」
- [1]1924年1月4日、両行代表者が合併仮契約書を締結。合併公告に高松百十四銀行の取締役頭取として都崎秀太郎
- [3]欧州大戦後の反動で株式・商品市場が暴落し貸出が固定化、取付の発生を受け政府は救済策として銀行合同を推進
- [4]欧州大戦後の反動で株式・商品市場が暴落し貸出が固定化、取付の発生を受け政府は救済策として銀行合同を推進
- [6]新立合併は勧奨を受けたものでなく両行首脳の自主的見地から出たものと記述
- 会社銀行八十年史(1955)「百十四銀行」
- [2]1924年、県下の二大銀行である高松百十四銀行と高松銀行が合併
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第3編(大正9年の合併勧奨)
- [5]1920年5月17日、知事主催で県下銀行業者を招集し合併を勧誘奨励
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第1章(合併公告・大正13年1月28日)
- [7]合併の理由は時代の趨勢と事業の前途に鑑み他日の大成を期すこと(1924年1月の総会)
- [12]合併仮契約書第6条:新銀行の取締役は甲(高松百十四)から5名・乙(高松)から4名、監査役各2名
- [13]1924年3月15日大蔵大臣が新立合併を認可、合併期日を3月30日に変更
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第1章(合併の理由・資本の決め方)
- [8]合併前、高松百十四銀行は公称資本金390万円・払込済1,655千円で県下最大、高松銀行は公称・払込とも150万円で第2位
- [9]合併前、高松百十四銀行は公称資本金390万円・払込済1,655千円で県下最大、高松銀行は公称・払込とも150万円で第2位
- [10]両行の払込資本金に大差がないことを基礎に対等合併とし、新銀行は公称資本金1,262万円・払込済3,155千円
- [11]両行の払込資本金に大差がないことを基礎に対等合併とし、新銀行は公称資本金1,262万円・払込済3,155千円
- [15]両行の支店は同地に併立せず、高松百十四銀行は坂出・琴平・多度津に支店がなく、合併で営業地盤を補完
- [16]両行の支店は同地に併立せず、高松百十四銀行は坂出・琴平・多度津に支店がなく、合併で営業地盤を補完
- 百十四銀行 有価証券報告書【沿革】
- [14]1924年3月、高松百十四銀行と高松銀行の新設合併で高松百十四銀行を設立
1927年〜金融恐慌後に6行を消した銀行整理と、讃岐貯蓄銀行の譲受で成った一県一行
1927年の金融恐慌のあと、香川県に本店を置く銀行は相次いで姿を消した。昭和の初めに県内へ本店を置く銀行は普通銀行9行・貯蓄銀行1行で、1927年中に丸亀・琴平の2行が山陽銀行に吸収された。同じ1927年10月1日には坂出同盟銀行と讃岐銀行が新設合併し、同盟銀行となった。高松百十四銀行は1928年7月1日に小豆島銀行を吸収し、1934年8月15日に同盟銀行の営業も譲り受けた。1935年までに県内の6行が消え、1936年2月16日には松山銀行も営業を高松百十四銀行に譲渡した。八十年誌は、この間の預金の増加と県内の預金に占める比率の上昇を、主に譲受の結果と位置づける。恐慌で揺らいだ小規模行の整理を、高松百十四銀行は県内の預金基盤を広げる機会に変えたと推察される。
- 百十四銀行百年誌(1979)(昭和初期の銀行整理)
- [17]昭和初頭の県内本店銀行は普通銀行9行・貯蓄銀行1行。1927年9月1日丸亀銀行、10月6日琴平銀行が山陽銀行に吸収合併、10月1日坂出同盟銀行と讃岐銀行が新立合併し同盟銀行
- [18]昭和初頭の県内本店銀行は普通銀行9行・貯蓄銀行1行。1927年9月1日丸亀銀行、10月6日琴平銀行が山陽銀行に吸収合併、10月1日坂出同盟銀行と讃岐銀行が新立合併し同盟銀行
- [19]昭和初頭の県内本店銀行は普通銀行9行・貯蓄銀行1行。1927年9月1日丸亀銀行、10月6日琴平銀行が山陽銀行に吸収合併、10月1日坂出同盟銀行と讃岐銀行が新立合併し同盟銀行
- [21]1928年7月1日小豆島銀行を吸収、1934年8月15日同盟銀行が営業譲渡、1935年までに6行消滅、1936年2月16日松山銀行が営業譲渡
- 百十四銀行 有価証券報告書【沿革】
- [20]1928年に小豆島銀行、1934年に同盟銀行、1936年に松山銀行の営業を譲受
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第3節「デフレ下の当行営業の推移」
- [22]昭和初期10年間の預金は停滞しており、県内総預金に占める比率の上昇も小豆島・同盟・松山各行の買収によると記述
1936年2月の松山銀行の譲受を経て、香川県に本店を置く銀行は高松百十四銀行・多度津銀行・讃岐貯蓄銀行の3行になった。多度津銀行は1891年8月1日に資本金3万円で設立された銀行で、景山甚右衛門氏が初代頭取を務めた。時局の要請を受け、日本銀行岡山支店長が両行の間を斡旋した。両行は1941年2月5日に覚書を交わし、2月10日に営業譲渡の仮契約を結んだ。仮契約では資産の値付けで協議が整わない場合、日本銀行岡山支店長の裁定に委ねると定めた。高松百十四銀行は暖簾料10万円を支払い、3月28日に引継ぎを終えた。多度津銀行の本店と琴平支店は立地と建物が良く、高松百十四銀行は自行の多度津・琴平両支店をその店舗へ移転した。
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第5編第3章第1節「多度津銀行の営業譲受」
- [23]1936年2月の松山銀行の営業譲渡以後、県内は高松百十四・多度津・讃岐貯蓄の3行
- [24]多度津銀行は1891年8月1日資本金3万円で設立、初代頭取景山甚右衛門。時局の要請と日本銀行岡山支店長の斡旋で営業譲渡、1941年2月5日覚書、2月10日仮契約
- [25]多度津銀行は1891年8月1日資本金3万円で設立、初代頭取景山甚右衛門。時局の要請と日本銀行岡山支店長の斡旋で営業譲渡、1941年2月5日覚書、2月10日仮契約
- [26]多度津銀行は1891年8月1日資本金3万円で設立、初代頭取景山甚右衛門。時局の要請と日本銀行岡山支店長の斡旋で営業譲渡、1941年2月5日覚書、2月10日仮契約
- [27]仮契約第3条:引継資産価額は両代表者の協議で定め、不一致の時は日本銀行岡山支店長に一任。第7条:暖簾料10万円
- [29]多度津銀行本店・琴平支店は好位置で建物も良好のため、当行の多度津・琴平両支店をその店舗に移転
- 百十四銀行百年誌(1979)(昭和初期の銀行整理)
- [28]1941年3月28日、多度津銀行が営業を当行へ譲渡
讃岐貯蓄銀行は、普通銀行の貯蓄業務の兼営を禁じた貯蓄銀行法を受け、県下の兼営9行が1921年11月に合同で設けた銀行である。政府の合同政策に沿い、讃岐貯蓄銀行も営業を高松百十四銀行へ譲渡することになった。両行は1943年2月23日に営業譲渡の契約を結び、暖簾料は5万円とした。同年3月には普通銀行が貯蓄銀行の業務を兼ねることを認める法律が公布され、5月20日に施行された。高松百十四銀行は6月27日付で引継ぎを終え、貯蓄銀行業務の兼営を始めた。これで高松百十四銀行は香川県に本店を置く唯一の銀行となり、県内の一県一行が完成した。1945年には高松信用組合の営業も譲り受けた。普通銀行に貯蓄業務が開かれた直後の譲受で、高松百十四銀行は県内の普通預金と貯蓄預金をただ1行で受け入れる銀行になったのだろう。
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第5編第3章第2節「讃岐貯蓄銀行の営業譲受」
- [30]讃岐貯蓄銀行は貯蓄銀行法による兼営禁止を受け県下貯蓄兼営9行が1921年11月に合同創設。1943年3月普通銀行の貯蓄銀行業務兼営許可の法律公布、5月20日施行
- [31]多度津・讃岐貯蓄両行も政府の合同政策に沿って高松百十四銀行に吸収され、一県一行主義が完成
- [32]1943年2月23日付の営業譲渡契約、暖簾料5万円
- [33]讃岐貯蓄銀行は貯蓄銀行法による兼営禁止を受け県下貯蓄兼営9行が1921年11月に合同創設。1943年3月普通銀行の貯蓄銀行業務兼営許可の法律公布、5月20日施行
- [34]1943年6月27日現在で引継完了、貯蓄銀行業務を兼営
- 百十四銀行百年誌(1979)(昭和初期の銀行整理)
- [35]讃岐貯蓄銀行が1943年6月27日に営業を譲渡したのを最後に、当行は本県唯一の本店銀行となる
- 百十四銀行 有価証券報告書【沿革】
- [36]1941年に多度津銀行、1943年に讃岐貯蓄銀行、1945年に高松信用組合の営業を譲受
参考文献[17]-[36]
- 百十四銀行百年誌(1979)(昭和初期の銀行整理)
- [17]昭和初頭の県内本店銀行は普通銀行9行・貯蓄銀行1行。1927年9月1日丸亀銀行、10月6日琴平銀行が山陽銀行に吸収合併、10月1日坂出同盟銀行と讃岐銀行が新立合併し同盟銀行
- [18]昭和初頭の県内本店銀行は普通銀行9行・貯蓄銀行1行。1927年9月1日丸亀銀行、10月6日琴平銀行が山陽銀行に吸収合併、10月1日坂出同盟銀行と讃岐銀行が新立合併し同盟銀行
- [19]昭和初頭の県内本店銀行は普通銀行9行・貯蓄銀行1行。1927年9月1日丸亀銀行、10月6日琴平銀行が山陽銀行に吸収合併、10月1日坂出同盟銀行と讃岐銀行が新立合併し同盟銀行
- [21]1928年7月1日小豆島銀行を吸収、1934年8月15日同盟銀行が営業譲渡、1935年までに6行消滅、1936年2月16日松山銀行が営業譲渡
- [28]1941年3月28日、多度津銀行が営業を当行へ譲渡
- [35]讃岐貯蓄銀行が1943年6月27日に営業を譲渡したのを最後に、当行は本県唯一の本店銀行となる
- 百十四銀行 有価証券報告書【沿革】
- [20]1928年に小豆島銀行、1934年に同盟銀行、1936年に松山銀行の営業を譲受
- [36]1941年に多度津銀行、1943年に讃岐貯蓄銀行、1945年に高松信用組合の営業を譲受
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第3節「デフレ下の当行営業の推移」
- [22]昭和初期10年間の預金は停滞しており、県内総預金に占める比率の上昇も小豆島・同盟・松山各行の買収によると記述
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第5編第3章第1節「多度津銀行の営業譲受」
- [23]1936年2月の松山銀行の営業譲渡以後、県内は高松百十四・多度津・讃岐貯蓄の3行
- [24]多度津銀行は1891年8月1日資本金3万円で設立、初代頭取景山甚右衛門。時局の要請と日本銀行岡山支店長の斡旋で営業譲渡、1941年2月5日覚書、2月10日仮契約
- [25]多度津銀行は1891年8月1日資本金3万円で設立、初代頭取景山甚右衛門。時局の要請と日本銀行岡山支店長の斡旋で営業譲渡、1941年2月5日覚書、2月10日仮契約
- [26]多度津銀行は1891年8月1日資本金3万円で設立、初代頭取景山甚右衛門。時局の要請と日本銀行岡山支店長の斡旋で営業譲渡、1941年2月5日覚書、2月10日仮契約
- [27]仮契約第3条:引継資産価額は両代表者の協議で定め、不一致の時は日本銀行岡山支店長に一任。第7条:暖簾料10万円
- [29]多度津銀行本店・琴平支店は好位置で建物も良好のため、当行の多度津・琴平両支店をその店舗に移転
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第5編第3章第2節「讃岐貯蓄銀行の営業譲受」
- [30]讃岐貯蓄銀行は貯蓄銀行法による兼営禁止を受け県下貯蓄兼営9行が1921年11月に合同創設。1943年3月普通銀行の貯蓄銀行業務兼営許可の法律公布、5月20日施行
- [31]多度津・讃岐貯蓄両行も政府の合同政策に沿って高松百十四銀行に吸収され、一県一行主義が完成
- [32]1943年2月23日付の営業譲渡契約、暖簾料5万円
- [33]讃岐貯蓄銀行は貯蓄銀行法による兼営禁止を受け県下貯蓄兼営9行が1921年11月に合同創設。1943年3月普通銀行の貯蓄銀行業務兼営許可の法律公布、5月20日施行
- [34]1943年6月27日現在で引継完了、貯蓄銀行業務を兼営
1945年〜9割減資からの百十四銀行への改称と、預金195億円の地方銀行
戦後の金融機関再建整備法のもとで、高松百十四銀行は損失の穴埋めに資本金の9割を充てた。1945年10月31日から頭取を務めた里見信三氏が、この再建整備を率いた。新しい資本金は6千万円で、リスク・アセットに対する比率は6.9%。商号の変更は1948年2月16日の臨時株主総会で決まり、5月20日に大蔵大臣から認可を得た。百十四銀行の名では6月22日に営業を始めた。高松の地名を外したのは、百十四の数字が戦後の店舗網の拡大で浸透し、地名を冠した長い名が不便になったためである。国立銀行の番号を名に残す銀行は、百十四銀行を含め8行に減っていた。八十年誌は地名の削除を再建整備の一環と位置づけ、新しい資本と新しい名で出直したと記す。
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第2章「通貨措置と再建整備」
- [37]再建整備で損失の補塡に資本金の9割を充当
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第4章「里見頭取の逝去と綾田新頭取の出現」
- [38]里見信三は1945年10月31日に頭取に就任し、終戦直後と再建整備の時代を率いた
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第3章「二 商号の変更―百十四銀行の発足」
- [39]新資本6千万円(リスク・アセットの6.9%)。商号変更は1948年2月16日臨時総会で可決、5月20日大蔵大臣認可、6月22日実施。理由は百十四の数字の浸透と地名冠称の冗長・不便。数字を冠する銀行は8行
- [40]新資本6千万円(リスク・アセットの6.9%)。商号変更は1948年2月16日臨時総会で可決、5月20日大蔵大臣認可、6月22日実施。理由は百十四の数字の浸透と地名冠称の冗長・不便。数字を冠する銀行は8行
- [42]新資本6千万円(リスク・アセットの6.9%)。商号変更は1948年2月16日臨時総会で可決、5月20日大蔵大臣認可、6月22日実施。理由は百十四の数字の浸透と地名冠称の冗長・不便。数字を冠する銀行は8行
- [43]新資本6千万円(リスク・アセットの6.9%)。商号変更は1948年2月16日臨時総会で可決、5月20日大蔵大臣認可、6月22日実施。理由は百十四の数字の浸透と地名冠称の冗長・不便。数字を冠する銀行は8行
- [44]新資本6千万円(リスク・アセットの6.9%)。商号変更は1948年2月16日臨時総会で可決、5月20日大蔵大臣認可、6月22日実施。理由は百十四の数字の浸透と地名冠称の冗長・不便。数字を冠する銀行は8行
- 百十四銀行 有価証券報告書【沿革】
- [41]1948年6月、商号を株式会社百十四銀行に変更
百十四銀行は1952年5月15日に東京・日本橋へ東京支店を開設し、初日の預金残高は10億円を超えた。高松には四国財務局や四国通産局など中央官庁の出先が集まり、四国の政治と経済の中心として東京との結びつきが強かった。百十四銀行は1948年の再建整備計画書で東京進出を掲げ、同年11月に支店の設置を申請した。大蔵省の方針が固まらず許可は下りなかったため、1949年11月末に八丁堀へ置いたのは東京事務所である。1950年9月には大阪支店を開設。その成績が予想を上回ったため、1952年3月に東京支店を改めて申請した。開店を待った頭取の里見信三氏は4月8日に急逝し、専務の綾田整治氏が頭取を継いだ。大阪で得た実績が、慎重だった大蔵省を動かす材料になったとうかがえる。
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第4章「東京支店の開設」
- [45]1952年5月6日許可、5月15日に日本橋通3丁目で東京支店開店、当日預金残10億円突破
- [46]高松は四国経済の中心で、四国財務局・四国通産局など中央の出先官庁が集まり東京との関係が密接
- [47]1948年の再建整備計画書で東京進出を表明、同年11月申請。大蔵省の方針が熟さず許可が下りず、1949年11月末に八丁堀に東京事務所開設
- [48]1948年の再建整備計画書で東京進出を表明、同年11月申請。大蔵省の方針が熟さず許可が下りず、1949年11月末に八丁堀に東京事務所開設
- [50]1950年9月開店の大阪支店が予想外の好成績で、1952年3月に東京支店開設の認可を再申請
- 百十四銀行 有価証券報告書【沿革】
- [49]1950年9月大阪支店開設、1952年5月東京支店開設
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第4章「里見頭取の逝去と綾田新頭取の出現」
- [51]里見頭取は1952年4月8日に急逝、取締役会で綾田専務が頭取に繰上げ就任
1955年3月末の百十四銀行は預金195億円・貸出157億円・57店舗で、全国の地方銀行の20位前後に位置した。資本金は増資を重ね、1953年4月に3億6000万円となった。百十四銀行は店舗の新築と改造を進めつつ、増資と利益の留保で不動産比率を当局の上限70%以下に保った。1958年11月1日に創業80周年を迎え、記念として同年12月末までに預金400億円の目標を掲げた。頭取の綾田整治氏は記念式典で、県外支店が広島支店を含め13店となり、預金の約33%を占めると説明している。1959年2月には日本橋不動産を設立した。県外の預金が3分の1に達したことが、次の外国為替業務の開始と取引所一部への指定替えへ向かう土台になったと考えられる。
- 会社銀行八十年史(1955)「百十四銀行」
- [52]1955年3月末預金195億円・貸出157億円・57店舗で全国地方銀行中20位前後。1953年4月資本金3億6000万円
- [53]1955年3月末預金195億円・貸出157億円・57店舗で全国地方銀行中20位前後。1953年4月資本金3億6000万円
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第4章「里見頭取の逝去と綾田新頭取の出現」
- [54]店舗を積極的に新築・改造しつつ、適切な増資と利益留保で不動産比率70%を超えず
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第8編第1章「創業八十周年記念」
- [55]1958年11月1日に創業満80周年、記念に1958年12月末までの預金400億円達成運動
- [56]綾田頭取の式辞:県外支店は広島支店を入れて13店、県外支店の預金は本行預金の約33%
- 百十四銀行 有価証券報告書【沿革】
- [57]1959年2月、日本橋不動産株式会社を設立
参考文献[37]-[57]
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第2章「通貨措置と再建整備」
- [37]再建整備で損失の補塡に資本金の9割を充当
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第4章「里見頭取の逝去と綾田新頭取の出現」
- [38]里見信三は1945年10月31日に頭取に就任し、終戦直後と再建整備の時代を率いた
- [51]里見頭取は1952年4月8日に急逝、取締役会で綾田専務が頭取に繰上げ就任
- [54]店舗を積極的に新築・改造しつつ、適切な増資と利益留保で不動産比率70%を超えず
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第3章「二 商号の変更―百十四銀行の発足」
- [39]新資本6千万円(リスク・アセットの6.9%)。商号変更は1948年2月16日臨時総会で可決、5月20日大蔵大臣認可、6月22日実施。理由は百十四の数字の浸透と地名冠称の冗長・不便。数字を冠する銀行は8行
- [40]新資本6千万円(リスク・アセットの6.9%)。商号変更は1948年2月16日臨時総会で可決、5月20日大蔵大臣認可、6月22日実施。理由は百十四の数字の浸透と地名冠称の冗長・不便。数字を冠する銀行は8行
- [42]新資本6千万円(リスク・アセットの6.9%)。商号変更は1948年2月16日臨時総会で可決、5月20日大蔵大臣認可、6月22日実施。理由は百十四の数字の浸透と地名冠称の冗長・不便。数字を冠する銀行は8行
- [43]新資本6千万円(リスク・アセットの6.9%)。商号変更は1948年2月16日臨時総会で可決、5月20日大蔵大臣認可、6月22日実施。理由は百十四の数字の浸透と地名冠称の冗長・不便。数字を冠する銀行は8行
- [44]新資本6千万円(リスク・アセットの6.9%)。商号変更は1948年2月16日臨時総会で可決、5月20日大蔵大臣認可、6月22日実施。理由は百十四の数字の浸透と地名冠称の冗長・不便。数字を冠する銀行は8行
- 百十四銀行 有価証券報告書【沿革】
- [41]1948年6月、商号を株式会社百十四銀行に変更
- [49]1950年9月大阪支店開設、1952年5月東京支店開設
- [57]1959年2月、日本橋不動産株式会社を設立
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第4章「東京支店の開設」
- [45]1952年5月6日許可、5月15日に日本橋通3丁目で東京支店開店、当日預金残10億円突破
- [46]高松は四国経済の中心で、四国財務局・四国通産局など中央の出先官庁が集まり東京との関係が密接
- [47]1948年の再建整備計画書で東京進出を表明、同年11月申請。大蔵省の方針が熟さず許可が下りず、1949年11月末に八丁堀に東京事務所開設
- [48]1948年の再建整備計画書で東京進出を表明、同年11月申請。大蔵省の方針が熟さず許可が下りず、1949年11月末に八丁堀に東京事務所開設
- [50]1950年9月開店の大阪支店が予想外の好成績で、1952年3月に東京支店開設の認可を再申請
- 会社銀行八十年史(1955)「百十四銀行」
- [52]1955年3月末預金195億円・貸出157億円・57店舗で全国地方銀行中20位前後。1953年4月資本金3億6000万円
- [53]1955年3月末預金195億円・貸出157億円・57店舗で全国地方銀行中20位前後。1953年4月資本金3億6000万円
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第8編第1章「創業八十周年記念」
- [55]1958年11月1日に創業満80周年、記念に1958年12月末までの預金400億円達成運動
- [56]綾田頭取の式辞:県外支店は広島支店を入れて13店、県外支店の預金は本行預金の約33%
出典・参考
15件
- 百十四銀行 有価証券報告書【沿革】
- 会社銀行八十年史(1955)「百十四銀行」
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第1章「高松百十四銀行の新立とその経過」
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第3編(大正9年の合併勧奨)
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第1章(合併公告・大正13年1月28日)
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第1章(合併の理由・資本の決め方)
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第4編第3節「デフレ下の当行営業の推移」
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第5編第3章第1節「多度津銀行の営業譲受」
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第5編第3章第2節「讃岐貯蓄銀行の営業譲受」
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第2章「通貨措置と再建整備」
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第4章「里見頭取の逝去と綾田新頭取の出現」
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第3章「二 商号の変更―百十四銀行の発足」
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第6編第4章「東京支店の開設」
- 百十四銀行八十年誌(1959) 第8編第1章「創業八十周年記念」
- 百十四銀行百年誌(1979)(昭和初期の銀行整理)