第3章 年〜年

三和銀行:3行合同による三和銀行の設立と戦時の銀行統合

1933年〜頭取中根貞彦で発足した資本金1億720万円の三和と、戦時に吸収した9地方銀行

1933年12月9日、三十四・山口・鴻池の三行が合同し、資本金1億720万円の三和銀行が大阪で発足した。初代頭取には、合同の斡旋にあたった日銀理事の中根貞彦氏が就任した。中根氏は日銀から下山元一氏を伴って乗り込み、後を継いだ岡野清豪氏と渡辺忠雄氏も日銀の出身だった。1934年末の第一期決算で預金は10億2500万円となり、三和は275店を持つ国内初の10億円銀行として預金量の首位に立った。経営の基本理念には、取引先・株主・行員の融合を説く「三和主義」が置かれた。山口・鴻池の両家のどちらにも属さない日銀出身者を頭取に据えたことで、三和は旧家の銀行ではなく大阪の銀行として立ち上がったとみられる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
    • [1]1933年12月、三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の合同で創立、頭取中根貞彦、資本金1億720万円で発足
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
    • [2]初代頭取には合併の労をとった日銀理事中根貞彦が就任
    • [4]1934年末の第一期決算で預金総額10億2500万円を記録して首位を占め、店舗数275の国内初の10億円銀行となった
    • [5]経営の基本理念は「三和主義」(取引先・株主・銀行当事者の融合統一)と「三業主義」だった
  • 金融界 2(6)(1950年)「人物評論 三和銀行頭取 渡邊忠雄論」矢須元
    • [3]初代頭取中根貞彦は日銀から下山元一を連れて三和に入り、次代の岡野清豪、三代目の渡辺忠雄も日銀出身で、三代の頭取が日銀で固められた

1940年、三和は東京本部を開設し、重工業分野の取引の開拓を始めた。1937年7月からの戦時経済への移行は、大阪を地盤に軽工業中心の民需産業と結びついていた三和に不利に働いた。産業の軍需化と統制による商取引の縮小に加え、中央集権化によって官庁との連絡でも後れを取った。東京本部の設置で中央官庁との連絡は円滑になり、戦時中に立ち遅れていた重化学工業との取引の釣り合いも改善した。常務の上枝一雄氏は1953年、融資先に軍需工業を持たない三和は日華事変から太平洋戦争にかけて一時雌伏期に入ったと振り返った。東京に拠点を持たないままでは、統制経済の下で資金の流れから外れると頭取の中根貞彦氏らは判断したのだろう。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
    • [6]1940年に東京本部を開設し、重工業分野の開拓を進め、設立当初の取引の地域的・業種的偏向の改善に努めた
  • 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
    • [7]1937年7月からの戦時経済移行は、大阪を地盤とし軽工業中心の民需産業に深く関わる三和に、軍需化・商取引縮小・官庁との連絡の不利という悪条件を重ねた
    • [8]1937年7月からの戦時経済移行は、大阪を地盤とし軽工業中心の民需産業に深く関わる三和に、軍需化・商取引縮小・官庁との連絡の不利という悪条件を重ねた
    • [9]1940年の東京本部設置で中央官庁との連絡が円滑になり、戦時中に重化学工業との取引バランスが改善した
  • 日本経済新報 6(30)(1953年)
    • [10]上枝一雄は、融資先に軍需工業をもたない三和は日華事変から太平洋戦争期に一時雌伏期に入ったと述べた

戦時金融体制の確立を趣旨に政府が銀行合同を促すなか、三和も店舗配置の適正化と経営の効率化を掲げて他行を取り込んだ。1942年以降は辻林・更池・河泉・乙訓・山城八幡・尾州の各行から営業の全部または一部を譲り受けた。1945年5月には三和信託と大同銀行を吸収合併して資本金を1億4645万円とし、信託業も兼ねた。1941年から1945年に吸収した地方銀行は9行に及び、店舗は四国・九州・東北にも広がった。三和信託の合併を機に中根氏は頭取を退き、副頭取の岡野清豪氏が2代頭取に就任した。太平洋戦争下の4年足らずで預金は2倍を超え、1945年9月末には102億円に達した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
    • [11]戦時金融体制確立の趣旨から銀行合同が一段と促進され、三和も店舗配置の適正化と経営の効率化を図った
    • [12]1942年以降、辻林・更池・河泉・乙訓・山城八幡・尾州の各銀行の営業を全部または一部譲り受けた
    • [13]1945年5月に三和信託・大同銀行を吸収合併して資本金1億4645万円に増資し、信託業を兼営した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
    • [14]1941年から1945年にかけて大和田・大同など9地方銀行を吸収し、四国・九州・東北などの未開拓地域に店舗を拡張した
  • 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
    • [15]1945年5月、中根頭取は三和信託合併を機に辞任し、副頭取岡野清豪が後任頭取に就任した
    • [16]太平洋戦争下の4年足らずで預金は2倍を超え、1945年9月末の預金高は102億円となった
参考文献[1]-[16]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
    • [1]1933年12月、三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の合同で創立、頭取中根貞彦、資本金1億720万円で発足
    • [11]戦時金融体制確立の趣旨から銀行合同が一段と促進され、三和も店舗配置の適正化と経営の効率化を図った
    • [12]1942年以降、辻林・更池・河泉・乙訓・山城八幡・尾州の各銀行の営業を全部または一部譲り受けた
    • [13]1945年5月に三和信託・大同銀行を吸収合併して資本金1億4645万円に増資し、信託業を兼営した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
    • [2]初代頭取には合併の労をとった日銀理事中根貞彦が就任
    • [4]1934年末の第一期決算で預金総額10億2500万円を記録して首位を占め、店舗数275の国内初の10億円銀行となった
    • [5]経営の基本理念は「三和主義」(取引先・株主・銀行当事者の融合統一)と「三業主義」だった
    • [6]1940年に東京本部を開設し、重工業分野の開拓を進め、設立当初の取引の地域的・業種的偏向の改善に努めた
    • [14]1941年から1945年にかけて大和田・大同など9地方銀行を吸収し、四国・九州・東北などの未開拓地域に店舗を拡張した
  • 金融界 2(6)(1950年)「人物評論 三和銀行頭取 渡邊忠雄論」矢須元
    • [3]初代頭取中根貞彦は日銀から下山元一を連れて三和に入り、次代の岡野清豪、三代目の渡辺忠雄も日銀出身で、三代の頭取が日銀で固められた
  • 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
    • [7]1937年7月からの戦時経済移行は、大阪を地盤とし軽工業中心の民需産業に深く関わる三和に、軍需化・商取引縮小・官庁との連絡の不利という悪条件を重ねた
    • [8]1937年7月からの戦時経済移行は、大阪を地盤とし軽工業中心の民需産業に深く関わる三和に、軍需化・商取引縮小・官庁との連絡の不利という悪条件を重ねた
    • [9]1940年の東京本部設置で中央官庁との連絡が円滑になり、戦時中に重化学工業との取引バランスが改善した
    • [15]1945年5月、中根頭取は三和信託合併を機に辞任し、副頭取岡野清豪が後任頭取に就任した
    • [16]太平洋戦争下の4年足らずで預金は2倍を超え、1945年9月末の預金高は102億円となった
  • 日本経済新報 6(30)(1953年)
    • [10]上枝一雄は、融資先に軍需工業をもたない三和は日華事変から太平洋戦争期に一時雌伏期に入ったと述べた

1945年〜資本金10億円で新発足した三和と、甲種外国為替銀行の指定で開いたサンフランシスコ支店

1945年11月、三和は復興融資部を設け、中小企業の復興に向けた資金の融通を強めた。軍需中心の経済が崩れて金融機関にも民主的な運営が求められたが、民需産業を地盤としてきた三和にとって、それは本来の姿への復帰だった。当時の経済は生産力が極端に落ち、悪性のインフレが広がっていた。1946年8月以降は旧勘定から切り離した新勘定をどう伸ばすかが再建の鍵となり、救国貯蓄運動を機に預金が増え始めた。上枝一雄氏は1953年、平和産業の復活とともに三和の預金は急上昇し、市中銀行で3位を保ってきたと語った。戦時に軍需の取引先を持たなかった不利が、敗戦後は整理すべき貸出の少なさとして効いたと推察される。

  • 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
    • [17]1945年11月に復興融資部を創設し、中小企業の復興に資金融通を強化した
    • [18]軍需経済の崩壊と金融機関の民主的運営の要請による転換は、民需産業を基盤としてきた三和には本来の姿への復帰とうけとられた
    • [20]1946年8月以降に分離された新勘定の発展が再建の鍵で、インフレ下の救国貯蓄運動を契機に預金が増加しはじめた
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
    • [19]戦後の日本経済は生産力が極端に低下し、悪性インフレが蔓延していた
  • 日本経済新報 6(30)(1953年)
    • [21]上枝一雄は、終戦後平和産業が復活すると三和の預金高は急上昇し、常に全市中銀行中第3位を維持してきたと述べた

1947年2月、岡野清豪頭取が戦時中から在職の役員全員とともに退き、専務の渡辺忠雄氏が頭取に就任した。渡辺氏は日銀の出身で、中根・岡野両氏の強い懇請を受けて戦後すぐ三和に入っていた。三和は発足以来一部門に集中しない取引を続けてきたため、集中排除法の適用を受けず、再建を滞りなく進められた。1948年10月には金融機関再建整備法に基づく整備計画を終え、資本金10億円で新たに発足した。預金は1945年9月末の102億円から1949年3月末の406億円へ、約4倍に増えた。渡辺氏は、金持ちだけを回るやり方では預金が集まらないとして「ピープルズ・バンク」を経営の方針に掲げた。

  • 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
    • [22]1947年2月、岡野清豪頭取が戦時中から在職の役員全員とともに辞任し、専務取締役渡辺忠雄が新頭取に就任した
    • [23]渡辺忠雄は中根・岡野両氏の強い懇請により戦後すぐ日銀から三和入りした
    • [26]預金は1945年9月末の102億円から1949年3月末には406億円に達した
    • [27]渡辺忠雄は、庶民を大切にしなければ預金は集まらないとして「ピープルズ・バンク」を経営の指針とした
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
    • [24]発足以来一部門に集中しない取引方針を貫いたことで、終戦の混乱期に集中排除法の適用外となり再建が円滑に進んだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
    • [25]1948年10月、金融機関再建整備法による整備計画を完了し、資本金10億円で新発足した

1949年11月、三和は甲種外国為替銀行の指定を受け、欧米の有力銀行とのコルレス契約を進めた。三和の外国為替業務は旧行時代の1910年に始まり、台湾・朝鮮の支店や満州・中国の出張所を持っていたが、これらの外地拠点は敗戦で一挙に失われた。1953年1月、三和は初の海外支店としてサンフランシスコ支店を開設し、同年8月には台北駐在事務所を置いた。常務の上枝一雄氏は同年、この支店は為替手数料が主な収入で、政府の外貨預託もあるため現地の預金が無くても成り立つと説明した。上枝氏は、日本から最も近い米国西部の発展を見込んで支店を出したとも語った。外地の拠点を失った後の貿易金融を、米国側に窓口を置くことから組み直そうとしたものと思われる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
    • [28]1949年11月に甲種外国為替銀行の指定を受け、欧米各国の有力銀行とコルレス契約の締結を進めた
    • [30]1953年1月にサンフランシスコ支店を開設し、同年8月に台北駐在事務所を設置した
  • 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
    • [29]外国為替業務は旧行時代の1910年に始まり、台湾・朝鮮に支店、満関支に出張所を置いたが、終戦で外地拠点は一挙に失われた
  • 日本経済新報 6(30)(1953年)
    • [31]上枝一雄は、最初の海外支店サンフランシスコ支店は為替手数料が主な収入で、政府の外貨預託もあり現地預金がなくてもやっていけると述べた
    • [32]上枝一雄は、米国西部は今後も発展し日本から最も近いので西部に支店をつくったのはよかったと述べた
参考文献[17]-[32]
  • 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
    • [17]1945年11月に復興融資部を創設し、中小企業の復興に資金融通を強化した
    • [18]軍需経済の崩壊と金融機関の民主的運営の要請による転換は、民需産業を基盤としてきた三和には本来の姿への復帰とうけとられた
    • [20]1946年8月以降に分離された新勘定の発展が再建の鍵で、インフレ下の救国貯蓄運動を契機に預金が増加しはじめた
    • [22]1947年2月、岡野清豪頭取が戦時中から在職の役員全員とともに辞任し、専務取締役渡辺忠雄が新頭取に就任した
    • [23]渡辺忠雄は中根・岡野両氏の強い懇請により戦後すぐ日銀から三和入りした
    • [26]預金は1945年9月末の102億円から1949年3月末には406億円に達した
    • [27]渡辺忠雄は、庶民を大切にしなければ預金は集まらないとして「ピープルズ・バンク」を経営の指針とした
    • [29]外国為替業務は旧行時代の1910年に始まり、台湾・朝鮮に支店、満関支に出張所を置いたが、終戦で外地拠点は一挙に失われた
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
    • [19]戦後の日本経済は生産力が極端に低下し、悪性インフレが蔓延していた
    • [24]発足以来一部門に集中しない取引方針を貫いたことで、終戦の混乱期に集中排除法の適用外となり再建が円滑に進んだ
  • 日本経済新報 6(30)(1953年)
    • [21]上枝一雄は、終戦後平和産業が復活すると三和の預金高は急上昇し、常に全市中銀行中第3位を維持してきたと述べた
    • [31]上枝一雄は、最初の海外支店サンフランシスコ支店は為替手数料が主な収入で、政府の外貨預託もあり現地預金がなくてもやっていけると述べた
    • [32]上枝一雄は、米国西部は今後も発展し日本から最も近いので西部に支店をつくったのはよかったと述べた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
    • [25]1948年10月、金融機関再建整備法による整備計画を完了し、資本金10億円で新発足した
    • [28]1949年11月に甲種外国為替銀行の指定を受け、欧米各国の有力銀行とコルレス契約の締結を進めた
    • [30]1953年1月にサンフランシスコ支店を開設し、同年8月に台北駐在事務所を設置した

1953年〜東洋信託銀行への信託業務の譲渡と、上枝一雄頭取が掲げた大衆化路線

1959年、三和は兼営してきた信託部門を切り離し、神戸銀行・野村証券とともに東洋信託銀行を設けた。発端は野村證券が1954年1月に大蔵省へ出した証券信託銀行の構想で、同年6月に蔵相が銀行の新設を認めない方針を示し、単独設立の道は閉ざされた。大蔵省は非公式に、信託を併営する2行の信託部門と組むよう野村に促した。信託併営の利点を最も享受していた大和銀行が応じない一方、三和と神戸との折衝は順調に進み、1959年9月に三者の首脳が覚書に調印した。新銀行の資本金は25億円で、三和の信託業務の営業譲渡は1963年4月に済んだ。長期金融と短期の商業金融を分け、それぞれを専業とする体制がこれで整った。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
    • [33]1959年に信託部門の分離を行い、神戸銀行・野村証券とともに東洋信託銀行を設立した
  • 私の証券昭和史(1986年)「東洋信託銀行の設立」
    • [34]野村證券の証券信託銀行構想は1954年1月24日付で大蔵省に提出されたが、同年6月10日に小笠原蔵相が銀行の新設不許可の方針を公にし、単独設立構想の修正を迫られた
    • [35]大蔵省側から非公式に、野村證券のつくる信託銀行は二行の信託部門と組むようにとの意見が示された
    • [36]信託併営のメリットを最も享受していた大和銀行は寺尾頭取の反対で応じず、三和銀行・神戸銀行との折衝は順調に進み、1959年9月に三者トップが覚書に調印した
  • 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
    • [37]東洋信託銀行は資本金25億円で設立され、三和の信託部門は1963年4月に営業譲渡された
    • [38]信託分離により長期金融と短期商業金融とを分離し、それぞれの経営を専業化した

1960年、上枝一雄氏が渡辺忠雄氏の後を継いで頭取に就任した。三和の預金は1953年の時点で富士・三菱に次ぐ市中3位で、上枝氏は東京では東京系の大銀行を凌げないとみていた。1960年8月1日、三和は京阪神・奈良・和歌山の108店のどこからでも引き出せるネット・サービス預金を始めた。上枝氏は続く消費者金融の狙いの一つに、メーカーや商社だけに貸す従来のやり方への疑問を挙げた。二つ目の狙いは新たな得意先の獲得で、上枝氏は『われわれのような性格の銀行はやはり新たな貯蓄層を探して行かにやいけない』と語った。上位2行と同じ大企業の取引を追うより、個人の預金と貸出に差を詰める余地を見たと考えられる。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
    • [39]1960年に上枝一雄が頭取に就任した
  • 日本経済新報 6(30)(1953年)
    • [40]1953年、三和の預金高は東京系の富士・三菱に次ぐ市中第3位で、上枝は東京では東京系の大銀行を凌駕できないと述べた
  • 野田経済 725(1960年9月5日号)
    • [41]1960年8月1日から京阪神・奈良・和歌山地区の108店のどこからも引き出せるネット・サービス預金を開始し、次に計画する消費者金融の狙いの一つとしてメーカー・商社だけに融資する従来のやり方への疑問と融資の安全度を挙げた
    • [42]1960年8月1日から京阪神・奈良・和歌山地区の108店のどこからも引き出せるネット・サービス預金を開始し、次に計画する消費者金融の狙いの一つとしてメーカー・商社だけに融資する従来のやり方への疑問と融資の安全度を挙げた
    • [43]消費者金融の第二の狙いは新たな得意先(消費者)をつかみ、新たな貯蓄層を探すことだと述べた

1967年、上枝頭取はピープルズ・バンクの意味を、庶民や中小企業に限らず業種と階層を問わない銀行だと定め直した。当時の三和は中小企業向け貸出の比率が最も高く、ファミリーチェックや各種の消費者金融、リースを手がけていた。1970年の対談で上枝氏は国際化に対処した大衆化路線を掲げ、この2、3年で個人の貯蓄の考え方が大きく変わったとの見方を示した。頭取の村野辰雄氏のもと、三和は有力都市銀行に先がけて消費者金融部を設け、住宅ローンに注力した。1972年9月の時点で消費者ローンは総貸出の約2%で、1975年に5%へ高める目標だった。村野氏は企業中心のモルガン流と大衆中心のバンク・オブ・アメリカ流を比べ、『ウチは後者を決断した。新設部はその姿勢を表わしたもの』と語った。

  • 野田経済 1030(1967年8月9日号)
    • [44]上枝一雄は、ピープルズ・バンクは庶民や中小企業に限定せず業種・階層を問わない、大企業と中小企業の分け隔てのない意味だと述べた
    • [45]三和は都市銀行で最も高い中小企業向け貸出比率を保ち、ファミリーチェック・各種消費者金融・リースなどを開拓していた
  • 金融財政事情 21(1)(1970年) 上枝一雄
    • [46]1970年のインタビューで上枝一雄は国際化に対処した大衆化路線を掲げ、ここ2、3年の間に個人の貯蓄の考え方がかなり変わったと述べた
  • 日経ビジネス 1972年9月18日号
    • [47]三和銀行は有力都銀に先がけて消費者金融部を設け、住宅ローンを目玉とした
    • [48]1972年9月時点で総貸出に占める消費者ローンは約2%で、1975年に5%、将来は10%台を目標とした
    • [49]村野辰雄頭取は企業中心のモルガン流か大衆中心のバンク・オブ・アメリカ流かを問い、後者を決断したと述べた
参考文献[33]-[49]
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
    • [33]1959年に信託部門の分離を行い、神戸銀行・野村証券とともに東洋信託銀行を設立した
    • [39]1960年に上枝一雄が頭取に就任した
  • 私の証券昭和史(1986年)「東洋信託銀行の設立」
    • [34]野村證券の証券信託銀行構想は1954年1月24日付で大蔵省に提出されたが、同年6月10日に小笠原蔵相が銀行の新設不許可の方針を公にし、単独設立構想の修正を迫られた
    • [35]大蔵省側から非公式に、野村證券のつくる信託銀行は二行の信託部門と組むようにとの意見が示された
    • [36]信託併営のメリットを最も享受していた大和銀行は寺尾頭取の反対で応じず、三和銀行・神戸銀行との折衝は順調に進み、1959年9月に三者トップが覚書に調印した
  • 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
    • [37]東洋信託銀行は資本金25億円で設立され、三和の信託部門は1963年4月に営業譲渡された
    • [38]信託分離により長期金融と短期商業金融とを分離し、それぞれの経営を専業化した
  • 日本経済新報 6(30)(1953年)
    • [40]1953年、三和の預金高は東京系の富士・三菱に次ぐ市中第3位で、上枝は東京では東京系の大銀行を凌駕できないと述べた
  • 野田経済 725(1960年9月5日号)
    • [41]1960年8月1日から京阪神・奈良・和歌山地区の108店のどこからも引き出せるネット・サービス預金を開始し、次に計画する消費者金融の狙いの一つとしてメーカー・商社だけに融資する従来のやり方への疑問と融資の安全度を挙げた
    • [42]1960年8月1日から京阪神・奈良・和歌山地区の108店のどこからも引き出せるネット・サービス預金を開始し、次に計画する消費者金融の狙いの一つとしてメーカー・商社だけに融資する従来のやり方への疑問と融資の安全度を挙げた
    • [43]消費者金融の第二の狙いは新たな得意先(消費者)をつかみ、新たな貯蓄層を探すことだと述べた
  • 野田経済 1030(1967年8月9日号)
    • [44]上枝一雄は、ピープルズ・バンクは庶民や中小企業に限定せず業種・階層を問わない、大企業と中小企業の分け隔てのない意味だと述べた
    • [45]三和は都市銀行で最も高い中小企業向け貸出比率を保ち、ファミリーチェック・各種消費者金融・リースなどを開拓していた
  • 金融財政事情 21(1)(1970年) 上枝一雄
    • [46]1970年のインタビューで上枝一雄は国際化に対処した大衆化路線を掲げ、ここ2、3年の間に個人の貯蓄の考え方がかなり変わったと述べた
  • 日経ビジネス 1972年9月18日号
    • [47]三和銀行は有力都銀に先がけて消費者金融部を設け、住宅ローンを目玉とした
    • [48]1972年9月時点で総貸出に占める消費者ローンは約2%で、1975年に5%、将来は10%台を目標とした
    • [49]村野辰雄頭取は企業中心のモルガン流か大衆中心のバンク・オブ・アメリカ流かを問い、後者を決断したと述べた

1933年〜1972年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 193 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 261 n/a n/a 12 4.6% n/a
1958年03月期 単体 349 +33.7% n/a 13 3.7% n/a
1959年03月期 単体 389 +11.5% n/a 13 3.3% n/a
1960年03月期 単体 446 +14.7% n/a 19 4.3% n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 656 n/a n/a 27 4.1% n/a
1963年03月期 単体 785 +19.7% n/a 30 3.8% n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a 57 n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 1,678 n/a n/a 139 8.3% n/a
1970年03月期 単体 1,968 +17.3% n/a 174 8.8% n/a
1971年03月期 単体 2,344 +19.1% 338 195 8.3% n/a
1972年03月期 単体 2,672 +14.0% 411 209 7.8% n/a

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、上場会社総覧(1961年版)半期合算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算

出典・参考

10件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
  • 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三和銀行」の項
  • 日経ビジネス 1972年9月18日号
  • 金融界 2(6)(1950年)「人物評論 三和銀行頭取 渡邊忠雄論」矢須元
  • 日本経済新報 6(30)(1953年)
  • 野田経済 725(1960年9月5日号)
  • 野田経済 1030(1967年8月9日号)
  • 金融財政事情 21(1)(1970年) 上枝一雄
  • 私の証券昭和史(1986年)「東洋信託銀行の設立」

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