三和銀行:ピープルズバンク構想とUFJホールディングスの設立
1973年〜住宅融資のローンレディーと、生え抜き頭取赤司俊雄のピープルズバンク構想
三和銀行は1972年8月、住宅ローンの相談から抵当の設定、貸し出しまでを女性行員が受け持つ「ローンレディー」を置いた。石油危機を境に企業は設備投資の資金を手元資金や直接金融で調えるようになり、銀行は借り手を個人や中小企業へ移さざるを得なくなった。1975年には専務の村井七郎氏が、大企業・中小企業とあわせて個人を重んじる庶民性を長期計画の基盤に据えると打ち出した。住宅ローンに回すよう大蔵省が求めた比率は融資総額の14〜15%だったが、三和は同年7〜9月期にそれを上回る20%を目標とした。ローンレディーも8月の時点で約80人に達し、212ある支店のほぼ3店に1人の割合で配された。企業向けの貸出が先細るなか、個人の住宅資金を新たな貸出先として育てる狙いがあったとみられる。
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [1]1972年8月にローンレディー制度を開始。融資相談から抵当設定・貸出まで原則女性が処理。1975年8月時点で約80人、全212支店の約3店に1人。1975年7〜9月期の住宅ローン比率目標20%(大蔵省指導は融資総額の14〜15%)
- [4]1972年8月にローンレディー制度を開始。融資相談から抵当設定・貸出まで原則女性が処理。1975年8月時点で約80人、全212支店の約3店に1人。1975年7〜9月期の住宅ローン比率目標20%(大蔵省指導は融資総額の14〜15%)
- [5]1972年8月にローンレディー制度を開始。融資相談から抵当設定・貸出まで原則女性が処理。1975年8月時点で約80人、全212支店の約3店に1人。1975年7〜9月期の住宅ローン比率目標20%(大蔵省指導は融資総額の14〜15%)
- 日経ビジネス 1979年11月5日号
- [2]石油危機後の低成長で企業の借入意欲が一変し、設備投資は自己資金や直接金融で賄われるようになり、銀行は個人・個人事業主・中小企業へ運用先を広げる必要に迫られた
- 財政金融ジャーナル 15(8)(1975年)「"ピープルズ・バンク"を行動の基本に――三和銀行専務取締役村井七郎氏に聞く」
- [3]専務村井七郎:三和は昔からピープルズ・バンクで庶民性を基盤とし、大企業・中小企業・個人を大事にする庶民性を長期計画で見失わないとする(1975年)
1976年4月、副頭取の赤司俊雄氏が頭取に昇格した。1933年に三和銀行が発足してから43年目で、行内から育った初めての頭取だった。前頭取の村野辰雄氏は、企業集団を背に持たない三和の立場を『ウチはバックに何もありません。』と言い表し、消費者金融部を他行に先駆けて置くなど個人取引を広げてきた。赤司氏は就任の記者会見でピープルズバンクを目指すと述べ、他行も同じだと返されて「ひと味違う」と言い足したという。強大な企業グループを持たない三和には、この方針のほかに生き残る手立てはないという認識だった。外から来た頭取の下で築かれた大衆化の方針は、生え抜きの頭取に渡ったことで行内の路線として固まったとみられる。
- 日経ビジネス 1976年6月7日号
- [6]赤司俊雄は1942年入行、1973年1月副頭取、1976年4月頭取就任。三和発足43年で初の生え抜き頭取
- [7]赤司俊雄は1942年入行、1973年1月副頭取、1976年4月頭取就任。三和発足43年で初の生え抜き頭取
- 月刊経済 23(5)(1976年)
- [8]赤司は審査畑でユニチカ再建を手がけた。村野前頭取は「ウチはバックに何もありません」とし、大衆化路線に徹してきた。三和は他行に先がけ消費者金融部を設置
- 日経ビジネス 1979年11月5日号
- [9]赤司は1976年4月の頭取就任会見でピープルズバンクを目指すと述べ、記者に他行も同じと言われて「ひと味違う」と付け加えた。強大な企業グループを持たない三和にはこの道しかないとの認識
- [10]赤司は1976年4月の頭取就任会見でピープルズバンクを目指すと述べ、記者に他行も同じと言われて「ひと味違う」と付け加えた。強大な企業グループを持たない三和にはこの道しかないとの認識
「ひと味違うピープルズバンク」は、1978年3月に金融界で最初に売り出したサンワ・クローバーカード・ローンで商品の形をとった。カード1枚で50万円まで無担保・無保証で借りられ、1979年11月時点で融資件数は10万件に達した。発売の半年前には会社員1000人に借入の実情を尋ね、使い道を縛らない品ぞろえと返済方法の選択に生かした。1979年には個人客22万人への調査に4000万円を投じ、全国内支店で来店客の満足度も集めた。1980年の年頭、赤司氏は品質管理のクローバーサークル活動を「三和らしさ」の原点と位置づけ、顧客本位を行員に求めた。商品も金利も揃いやすい都市銀行の間で、三和は客を調べてから売る手順を差の源にしたと推察される。
- 日経ビジネス 1979年11月5日号
- [11]1978年3月に金融界で最初にサンワ・クローバーカード・ローン(カード1枚で50万円まで無担保・無保証)を発売し、1979年11月時点で融資件数10万件。発売半年前にサラリーマン1000人に消費者金融の実態調査。1979年7月に個人顧客22万人のサービス実態調査(費用4000万円)、10月から全国内支店で来店客の満足度投票
- [12]1978年3月に金融界で最初にサンワ・クローバーカード・ローン(カード1枚で50万円まで無担保・無保証)を発売し、1979年11月時点で融資件数10万件。発売半年前にサラリーマン1000人に消費者金融の実態調査。1979年7月に個人顧客22万人のサービス実態調査(費用4000万円)、10月から全国内支店で来店客の満足度投票
- [13]1978年3月に金融界で最初にサンワ・クローバーカード・ローン(カード1枚で50万円まで無担保・無保証)を発売し、1979年11月時点で融資件数10万件。発売半年前にサラリーマン1000人に消費者金融の実態調査。1979年7月に個人顧客22万人のサービス実態調査(費用4000万円)、10月から全国内支店で来店客の満足度投票
- [14]1978年3月に金融界で最初にサンワ・クローバーカード・ローン(カード1枚で50万円まで無担保・無保証)を発売し、1979年11月時点で融資件数10万件。発売半年前にサラリーマン1000人に消費者金融の実態調査。1979年7月に個人顧客22万人のサービス実態調査(費用4000万円)、10月から全国内支店で来店客の満足度投票
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三和銀行」赤司俊雄
- [15]1980年年頭、赤司頭取はクローバーサークル活動を「三和らしさ」の原点とし、顧客志向の徹底と「ひと味違う、真のピープルズバンク」づくりを行員に求めた
参考文献[1]-[15]
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [1]1972年8月にローンレディー制度を開始。融資相談から抵当設定・貸出まで原則女性が処理。1975年8月時点で約80人、全212支店の約3店に1人。1975年7〜9月期の住宅ローン比率目標20%(大蔵省指導は融資総額の14〜15%)
- [4]1972年8月にローンレディー制度を開始。融資相談から抵当設定・貸出まで原則女性が処理。1975年8月時点で約80人、全212支店の約3店に1人。1975年7〜9月期の住宅ローン比率目標20%(大蔵省指導は融資総額の14〜15%)
- [5]1972年8月にローンレディー制度を開始。融資相談から抵当設定・貸出まで原則女性が処理。1975年8月時点で約80人、全212支店の約3店に1人。1975年7〜9月期の住宅ローン比率目標20%(大蔵省指導は融資総額の14〜15%)
- 日経ビジネス 1979年11月5日号
- [2]石油危機後の低成長で企業の借入意欲が一変し、設備投資は自己資金や直接金融で賄われるようになり、銀行は個人・個人事業主・中小企業へ運用先を広げる必要に迫られた
- [9]赤司は1976年4月の頭取就任会見でピープルズバンクを目指すと述べ、記者に他行も同じと言われて「ひと味違う」と付け加えた。強大な企業グループを持たない三和にはこの道しかないとの認識
- [10]赤司は1976年4月の頭取就任会見でピープルズバンクを目指すと述べ、記者に他行も同じと言われて「ひと味違う」と付け加えた。強大な企業グループを持たない三和にはこの道しかないとの認識
- [11]1978年3月に金融界で最初にサンワ・クローバーカード・ローン(カード1枚で50万円まで無担保・無保証)を発売し、1979年11月時点で融資件数10万件。発売半年前にサラリーマン1000人に消費者金融の実態調査。1979年7月に個人顧客22万人のサービス実態調査(費用4000万円)、10月から全国内支店で来店客の満足度投票
- [12]1978年3月に金融界で最初にサンワ・クローバーカード・ローン(カード1枚で50万円まで無担保・無保証)を発売し、1979年11月時点で融資件数10万件。発売半年前にサラリーマン1000人に消費者金融の実態調査。1979年7月に個人顧客22万人のサービス実態調査(費用4000万円)、10月から全国内支店で来店客の満足度投票
- [13]1978年3月に金融界で最初にサンワ・クローバーカード・ローン(カード1枚で50万円まで無担保・無保証)を発売し、1979年11月時点で融資件数10万件。発売半年前にサラリーマン1000人に消費者金融の実態調査。1979年7月に個人顧客22万人のサービス実態調査(費用4000万円)、10月から全国内支店で来店客の満足度投票
- [14]1978年3月に金融界で最初にサンワ・クローバーカード・ローン(カード1枚で50万円まで無担保・無保証)を発売し、1979年11月時点で融資件数10万件。発売半年前にサラリーマン1000人に消費者金融の実態調査。1979年7月に個人顧客22万人のサービス実態調査(費用4000万円)、10月から全国内支店で来店客の満足度投票
- 財政金融ジャーナル 15(8)(1975年)「"ピープルズ・バンク"を行動の基本に――三和銀行専務取締役村井七郎氏に聞く」
- [3]専務村井七郎:三和は昔からピープルズ・バンクで庶民性を基盤とし、大企業・中小企業・個人を大事にする庶民性を長期計画で見失わないとする(1975年)
- 日経ビジネス 1976年6月7日号
- [6]赤司俊雄は1942年入行、1973年1月副頭取、1976年4月頭取就任。三和発足43年で初の生え抜き頭取
- [7]赤司俊雄は1942年入行、1973年1月副頭取、1976年4月頭取就任。三和発足43年で初の生え抜き頭取
- 月刊経済 23(5)(1976年)
- [8]赤司は審査畑でユニチカ再建を手がけた。村野前頭取は「ウチはバックに何もありません」とし、大衆化路線に徹してきた。三和は他行に先がけ消費者金融部を設置
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三和銀行」赤司俊雄
- [15]1980年年頭、赤司頭取はクローバーサークル活動を「三和らしさ」の原点とし、顧客志向の徹底と「ひと味違う、真のピープルズバンク」づくりを行員に求めた
1979年〜シティコープとの国際化度の差と、中期計画ユニバーサルプロジェクト90
1976年10月時点で、三和銀行の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点で、米シティコープの101カ国684拠点とは桁が違った。海外部門の収益への寄与は1975年度下期にようやく16%となり、利益の70%を海外で得るシティコープに遠く届かなかった。同じ1976年2月には米小売のW・T・グラントの破産で、2000万ドルの融資の多くが焦げ付いた。1970年に4支店と1駐在員事務所だった海外網は、大衆化と並べて国際化を掲げたことで6年のうちに広がった。それでも1979年の三和は国内220店に対して海外は9店で、頭取の赤司俊雄氏には海外勤務の経験がなかった。国際企画部長の巽啓吾氏は、非財閥系の三和は個人取引を国際化の軸とし、中小企業の進出が多い東南アジアを重んじるという方針を示した。
- 日経ビジネス 1976年10月25日号
- [16]1976年時点で三和の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点(シティコープは101カ国684拠点)。海外部門の収益寄与率は1975年度下期で16%(シティコープは利益の70%が海外)。1976年2月のW・T・グラント破産で融資2000万ドルの多くが焦げ付き。1970年の海外網は4支店・1駐在員事務所。巽啓吾国際企画部長はリテール志向を国際化の柱とし東南アジアを重視するとした
- [17]1976年時点で三和の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点(シティコープは101カ国684拠点)。海外部門の収益寄与率は1975年度下期で16%(シティコープは利益の70%が海外)。1976年2月のW・T・グラント破産で融資2000万ドルの多くが焦げ付き。1970年の海外網は4支店・1駐在員事務所。巽啓吾国際企画部長はリテール志向を国際化の柱とし東南アジアを重視するとした
- [18]1976年時点で三和の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点(シティコープは101カ国684拠点)。海外部門の収益寄与率は1975年度下期で16%(シティコープは利益の70%が海外)。1976年2月のW・T・グラント破産で融資2000万ドルの多くが焦げ付き。1970年の海外網は4支店・1駐在員事務所。巽啓吾国際企画部長はリテール志向を国際化の柱とし東南アジアを重視するとした
- [19]1976年時点で三和の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点(シティコープは101カ国684拠点)。海外部門の収益寄与率は1975年度下期で16%(シティコープは利益の70%が海外)。1976年2月のW・T・グラント破産で融資2000万ドルの多くが焦げ付き。1970年の海外網は4支店・1駐在員事務所。巽啓吾国際企画部長はリテール志向を国際化の柱とし東南アジアを重視するとした
- [21]1976年時点で三和の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点(シティコープは101カ国684拠点)。海外部門の収益寄与率は1975年度下期で16%(シティコープは利益の70%が海外)。1976年2月のW・T・グラント破産で融資2000万ドルの多くが焦げ付き。1970年の海外網は4支店・1駐在員事務所。巽啓吾国際企画部長はリテール志向を国際化の柱とし東南アジアを重視するとした
- 経済ライフ 13(2)(1979年)「体質強化作戦を展開する三和銀行――赤司俊雄頭取が狙うものとは」
- [20]1979年時点で三和は国内220店舗・海外9店舗。赤司頭取は審査・人事畑で海外経験はない
1982年6月、ロンドン支店長を2度務め国際本部長を経た副頭取の川勝堅二氏が、生え抜きで2人目の頭取に就任した。川勝氏の頭取在任中の1986年8月、米国子会社の加州三和銀行がカリフォルニア州のロイズ銀行を買収した。買収前の総資産は加州三和の16億ドルに対してロイズが30億ドルで、統合後は50億ドルに達した。個人預金が全預金の7割を占めるロイズを加え、コストの低い資金を調達する力を得る狙いだった。1991年に予定された米国の州際業務の解禁に備え、先に規模を積む判断でもあった。国内で磨いた個人取引を海外でも軸に置くという方針が、買収先の選び方に表れたと考えられる。
- 政経人(1983年)「金融国際化を進める新しい旗手(三和銀行頭取川勝堅二)」
- [22]川勝堅二は1982年6月に赤司から頭取を継ぎ、生え抜き頭取の2人目。ロンドン支店長を2度、国際本部長、1977年12月副頭取・国際本部長を歴任した国際派
- 日経ビジネス 1988年6月13日号
- [23]加州三和銀行が1986年8月にロイズ銀行(カリフォルニア)を買収。買収前総資産は加州三和16億ドル・ロイズ30億ドルで合併後50億ドル。ロイズは個人預金が全預金の7割で低コスト資金の吸収力向上を狙った。1991年の州際業務解禁に備えスケールメリットを追求
- [24]加州三和銀行が1986年8月にロイズ銀行(カリフォルニア)を買収。買収前総資産は加州三和16億ドル・ロイズ30億ドルで合併後50億ドル。ロイズは個人預金が全預金の7割で低コスト資金の吸収力向上を狙った。1991年の州際業務解禁に備えスケールメリットを追求
- [25]加州三和銀行が1986年8月にロイズ銀行(カリフォルニア)を買収。買収前総資産は加州三和16億ドル・ロイズ30億ドルで合併後50億ドル。ロイズは個人預金が全預金の7割で低コスト資金の吸収力向上を狙った。1991年の州際業務解禁に備えスケールメリットを追求
- [26]加州三和銀行が1986年8月にロイズ銀行(カリフォルニア)を買収。買収前総資産は加州三和16億ドル・ロイズ30億ドルで合併後50億ドル。ロイズは個人預金が全預金の7割で低コスト資金の吸収力向上を狙った。1991年の州際業務解禁に備えスケールメリットを追求
三和銀行は1987年4月、1990年3月までの3年間の中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト90」を始めた。最新かつ最強の世界的なユニバーサルバンクを経営目標に掲げ、あわせて収益で首位の銀行を目指すと内外に宣言した。1988年2月には資本市場本部と情報開発本部を新設し、7本部29部を10本部37部に改めた。計画の取りまとめを中心で担った副頭取の渡辺滉氏は、1988年6月に頭取に就任した。三和は資金量で上位都銀の5位にとどまる一方、営業利益は4位につけていた。金利の自由化で調達と運用の巧拙が利益を分ける局面は、規模で劣る三和には順位を入れ替える機会に映ったのではないか。
- 銀行時評 22(5)(1988年)「本部組織を改革し収益第一位へ挑戦する三和銀行」
- [27]1987年4月から3年間の中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト(UP)」を開始し、経営目標「最新にして最強、世界のユニバーサルバンク」を掲げ収益ナンバーワンを宣言。1988年2月1日に資本市場本部・情報開発本部などを新設し7本部29部を10本部37部に改めた。資金量は上位都銀5位、営業利益は4位
- [28]1987年4月から3年間の中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト(UP)」を開始し、経営目標「最新にして最強、世界のユニバーサルバンク」を掲げ収益ナンバーワンを宣言。1988年2月1日に資本市場本部・情報開発本部などを新設し7本部29部を10本部37部に改めた。資金量は上位都銀5位、営業利益は4位
- [29]1987年4月から3年間の中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト(UP)」を開始し、経営目標「最新にして最強、世界のユニバーサルバンク」を掲げ収益ナンバーワンを宣言。1988年2月1日に資本市場本部・情報開発本部などを新設し7本部29部を10本部37部に改めた。資金量は上位都銀5位、営業利益は4位
- [31]1987年4月から3年間の中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト(UP)」を開始し、経営目標「最新にして最強、世界のユニバーサルバンク」を掲げ収益ナンバーワンを宣言。1988年2月1日に資本市場本部・情報開発本部などを新設し7本部29部を10本部37部に改めた。資金量は上位都銀5位、営業利益は4位
- 日経ビジネス 1988年9月26日号
- [30]渡辺滉は1987年から取り組む中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト90」を中心になってまとめ、1987年副頭取、1988年6月頭取就任
参考文献[16]-[31]
- 日経ビジネス 1976年10月25日号
- [16]1976年時点で三和の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点(シティコープは101カ国684拠点)。海外部門の収益寄与率は1975年度下期で16%(シティコープは利益の70%が海外)。1976年2月のW・T・グラント破産で融資2000万ドルの多くが焦げ付き。1970年の海外網は4支店・1駐在員事務所。巽啓吾国際企画部長はリテール志向を国際化の柱とし東南アジアを重視するとした
- [17]1976年時点で三和の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点(シティコープは101カ国684拠点)。海外部門の収益寄与率は1975年度下期で16%(シティコープは利益の70%が海外)。1976年2月のW・T・グラント破産で融資2000万ドルの多くが焦げ付き。1970年の海外網は4支店・1駐在員事務所。巽啓吾国際企画部長はリテール志向を国際化の柱とし東南アジアを重視するとした
- [18]1976年時点で三和の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点(シティコープは101カ国684拠点)。海外部門の収益寄与率は1975年度下期で16%(シティコープは利益の70%が海外)。1976年2月のW・T・グラント破産で融資2000万ドルの多くが焦げ付き。1970年の海外網は4支店・1駐在員事務所。巽啓吾国際企画部長はリテール志向を国際化の柱とし東南アジアを重視するとした
- [19]1976年時点で三和の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点(シティコープは101カ国684拠点)。海外部門の収益寄与率は1975年度下期で16%(シティコープは利益の70%が海外)。1976年2月のW・T・グラント破産で融資2000万ドルの多くが焦げ付き。1970年の海外網は4支店・1駐在員事務所。巽啓吾国際企画部長はリテール志向を国際化の柱とし東南アジアを重視するとした
- [21]1976年時点で三和の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点(シティコープは101カ国684拠点)。海外部門の収益寄与率は1975年度下期で16%(シティコープは利益の70%が海外)。1976年2月のW・T・グラント破産で融資2000万ドルの多くが焦げ付き。1970年の海外網は4支店・1駐在員事務所。巽啓吾国際企画部長はリテール志向を国際化の柱とし東南アジアを重視するとした
- 経済ライフ 13(2)(1979年)「体質強化作戦を展開する三和銀行――赤司俊雄頭取が狙うものとは」
- [20]1979年時点で三和は国内220店舗・海外9店舗。赤司頭取は審査・人事畑で海外経験はない
- 政経人(1983年)「金融国際化を進める新しい旗手(三和銀行頭取川勝堅二)」
- [22]川勝堅二は1982年6月に赤司から頭取を継ぎ、生え抜き頭取の2人目。ロンドン支店長を2度、国際本部長、1977年12月副頭取・国際本部長を歴任した国際派
- 日経ビジネス 1988年6月13日号
- [23]加州三和銀行が1986年8月にロイズ銀行(カリフォルニア)を買収。買収前総資産は加州三和16億ドル・ロイズ30億ドルで合併後50億ドル。ロイズは個人預金が全預金の7割で低コスト資金の吸収力向上を狙った。1991年の州際業務解禁に備えスケールメリットを追求
- [24]加州三和銀行が1986年8月にロイズ銀行(カリフォルニア)を買収。買収前総資産は加州三和16億ドル・ロイズ30億ドルで合併後50億ドル。ロイズは個人預金が全預金の7割で低コスト資金の吸収力向上を狙った。1991年の州際業務解禁に備えスケールメリットを追求
- [25]加州三和銀行が1986年8月にロイズ銀行(カリフォルニア)を買収。買収前総資産は加州三和16億ドル・ロイズ30億ドルで合併後50億ドル。ロイズは個人預金が全預金の7割で低コスト資金の吸収力向上を狙った。1991年の州際業務解禁に備えスケールメリットを追求
- [26]加州三和銀行が1986年8月にロイズ銀行(カリフォルニア)を買収。買収前総資産は加州三和16億ドル・ロイズ30億ドルで合併後50億ドル。ロイズは個人預金が全預金の7割で低コスト資金の吸収力向上を狙った。1991年の州際業務解禁に備えスケールメリットを追求
- 銀行時評 22(5)(1988年)「本部組織を改革し収益第一位へ挑戦する三和銀行」
- [27]1987年4月から3年間の中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト(UP)」を開始し、経営目標「最新にして最強、世界のユニバーサルバンク」を掲げ収益ナンバーワンを宣言。1988年2月1日に資本市場本部・情報開発本部などを新設し7本部29部を10本部37部に改めた。資金量は上位都銀5位、営業利益は4位
- [28]1987年4月から3年間の中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト(UP)」を開始し、経営目標「最新にして最強、世界のユニバーサルバンク」を掲げ収益ナンバーワンを宣言。1988年2月1日に資本市場本部・情報開発本部などを新設し7本部29部を10本部37部に改めた。資金量は上位都銀5位、営業利益は4位
- [29]1987年4月から3年間の中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト(UP)」を開始し、経営目標「最新にして最強、世界のユニバーサルバンク」を掲げ収益ナンバーワンを宣言。1988年2月1日に資本市場本部・情報開発本部などを新設し7本部29部を10本部37部に改めた。資金量は上位都銀5位、営業利益は4位
- [31]1987年4月から3年間の中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト(UP)」を開始し、経営目標「最新にして最強、世界のユニバーサルバンク」を掲げ収益ナンバーワンを宣言。1988年2月1日に資本市場本部・情報開発本部などを新設し7本部29部を10本部37部に改めた。資金量は上位都銀5位、営業利益は4位
- 日経ビジネス 1988年9月26日号
- [30]渡辺滉は1987年から取り組む中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト90」を中心になってまとめ、1987年副頭取、1988年6月頭取就任
1989年〜業務純益で首位に立った三和と、東洋信用金庫の救済からUFJへの株式移転
頭取の渡辺滉氏の下、1990年3月時点で三和銀行の業務純益の順位は前年の5位から2位に上がった。大企業取引の層が薄い三和は中堅企業に私募債の発行を持ちかけ、1991年2月時点で代表受託件数の首位を半期ごとに9期続けていた。受託した約350社のうち2割では、私募債をきっかけに三和の取引順位が上がった。首都圏の店舗網の見劣りは駅前に置く無人店舗で補い、1993年3月末には有人353店と無人653店で計1006店に達した。1993年3月期、三和は業務純益・経常利益・当期利益の3部門で都市銀行の首位に立った。預金の規模では財閥系に届かない三和が、中堅企業と身近な店舗に絞って利益の物差しで競ったことが首位を支えたと思われる。
- Decide(1990年)
- [32]1990年3月時点の記事で、三和銀行の業務純益が前年の5位から2位に上昇。頭取は渡辺滉
- 日経ビジネス 1991年2月11日号
- [33]三和は私募債の代表受託件数で半期9期連続首位(1991年2月時点)。受託企業約350社のうち2割で取引序列が上昇。大企業取引の層の薄さが永年の悩み
- [34]三和は私募債の代表受託件数で半期9期連続首位(1991年2月時点)。受託企業約350社のうち2割で取引序列が上昇。大企業取引の層の薄さが永年の悩み
- 日経公社債情報 11月22日(906)(1993年)「三和銀行の研究――世界の優良銀行を視野」
- [35]三和は1993年3月期に業務純益・経常利益・当期利益の3部門で都銀首位。首都圏店舗網の見劣りを無人店舗で補い、1993年3月末に無人653店・有人353店の計1006店
- [36]三和は1993年3月期に業務純益・経常利益・当期利益の3部門で都銀首位。首都圏店舗網の見劣りを無人店舗で補い、1993年3月末に無人653店・有人353店の計1006店
架空の預金証書3655億円分を残した東洋信用金庫の処理で、大蔵省は1992年初め、三和銀行による救済合併のほかに道はないとする姿勢をとった。証書を担保にノンバンクが尾上縫被告へ貸した債権が約2200億円に上り、地方銀行や信用金庫との合併では処理できない額とみたためだった。頭取の渡辺滉氏は、利点のない合併は株主に説明できないとして要請を拒み続けた。三和の役員も、大蔵省が初めから合併という枠をはめてきたとして不満を示した。それでも三和は1992年10月1日に東洋信用金庫を合併し、出資1.5口に三和株1株を割り当てた。株主への説明を盾に負担の分け方を詰めたうえで、信用秩序の維持を引き受けたと推測される。
- 日経ビジネス 1992年2月17日号
- [37]東洋信金の架空預金証書は3655億円分が残存、尾上縫被告向けのノンバンク債権は約2200億円。大蔵省は三和との合併以外に方法がないとの姿勢。渡辺滉頭取はメリットのない合併は株主に説明できないと反論し、三和役員は大蔵省が最初から合併の枠をはめてきたと不満
- [38]東洋信金の架空預金証書は3655億円分が残存、尾上縫被告向けのノンバンク債権は約2200億円。大蔵省は三和との合併以外に方法がないとの姿勢。渡辺滉頭取はメリットのない合併は株主に説明できないと反論し、三和役員は大蔵省が最初から合併の枠をはめてきたと不満
- [39]東洋信金の架空預金証書は3655億円分が残存、尾上縫被告向けのノンバンク債権は約2200億円。大蔵省は三和との合併以外に方法がないとの姿勢。渡辺滉頭取はメリットのない合併は株主に説明できないと反論し、三和役員は大蔵省が最初から合併の枠をはめてきたと不満
- [40]東洋信金の架空預金証書は3655億円分が残存、尾上縫被告向けのノンバンク債権は約2200億円。大蔵省は三和との合併以外に方法がないとの姿勢。渡辺滉頭取はメリットのない合併は株主に説明できないと反論し、三和役員は大蔵省が最初から合併の枠をはめてきたと不満
- 三和銀行 ディスクロージャー誌(1997年)「東洋信用金庫との合併」
- [41]1992年10月1日に東洋信用金庫と合併。合併比率は東洋信用金庫出資1.5口に対し三和株式1株
1999年6月、国際畑の室町鐘緒氏が頭取に就任し、さくら銀行との合併を探ったという。さくら銀行が住友銀行を選び、親密な損保の3社統合も2000年2月に崩れて、三和は単独では規模が足りない現実に直面した。東京三菱銀行と組めば主導権を握られるため、三和は2000年3月14日、東海銀行とあさひ銀行の連合への合流を発表した。室町氏は統合後も『我々はミドル・リテールのナンバーワンブランドを狙います。』として、中堅企業と個人の取引を軸に据えた。同年7月11日には三和・東海・東洋信託銀行の3行として、2005年度に連結業務純益1兆円を出す目標を公表した。収益で首位に立った三和も、主導権を保てる相手を選んで統合に進むほかなかったようだ。
- 日経ビジネス 2000年3月20日号
- [42]室町鐘緒は1999年6月頭取就任の国際派で再編論者、就任後さくら銀行との合併を模索したがさくらは住友と合併。親密損保3社の統合は2000年2月14日に瓦解。東京三菱との合併では主導権を握られるため、2000年3月14日に東海・あさひ連合への参加を発表
- [43]室町鐘緒は1999年6月頭取就任の国際派で再編論者、就任後さくら銀行との合併を模索したがさくらは住友と合併。親密損保3社の統合は2000年2月14日に瓦解。東京三菱との合併では主導権を握られるため、2000年3月14日に東海・あさひ連合への参加を発表
- [44]室町鐘緒は1999年6月頭取就任の国際派で再編論者、就任後さくら銀行との合併を模索したがさくらは住友と合併。親密損保3社の統合は2000年2月14日に瓦解。東京三菱との合併では主導権を握られるため、2000年3月14日に東海・あさひ連合への参加を発表
- 日経ビジネス 2000年4月24日号
- [45]室町頭取:3行はミドル・リテールのナンバーワンブランドを狙い、これは変えないと表明
- 三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行 お知らせ(2000年7月11日)「3行による経営統合について」
- [46]三和(頭取室町鐘緒)・東海・東洋信託の3行が経営統合の財務目標を公表:2005年度連結で業務純益1兆円・当期利益5000億円・ROE12%程度。重複店舗約70・人員約2600人の追加削減
参考文献[32]-[46]
- Decide(1990年)
- [32]1990年3月時点の記事で、三和銀行の業務純益が前年の5位から2位に上昇。頭取は渡辺滉
- 日経ビジネス 1991年2月11日号
- [33]三和は私募債の代表受託件数で半期9期連続首位(1991年2月時点)。受託企業約350社のうち2割で取引序列が上昇。大企業取引の層の薄さが永年の悩み
- [34]三和は私募債の代表受託件数で半期9期連続首位(1991年2月時点)。受託企業約350社のうち2割で取引序列が上昇。大企業取引の層の薄さが永年の悩み
- 日経公社債情報 11月22日(906)(1993年)「三和銀行の研究――世界の優良銀行を視野」
- [35]三和は1993年3月期に業務純益・経常利益・当期利益の3部門で都銀首位。首都圏店舗網の見劣りを無人店舗で補い、1993年3月末に無人653店・有人353店の計1006店
- [36]三和は1993年3月期に業務純益・経常利益・当期利益の3部門で都銀首位。首都圏店舗網の見劣りを無人店舗で補い、1993年3月末に無人653店・有人353店の計1006店
- 日経ビジネス 1992年2月17日号
- [37]東洋信金の架空預金証書は3655億円分が残存、尾上縫被告向けのノンバンク債権は約2200億円。大蔵省は三和との合併以外に方法がないとの姿勢。渡辺滉頭取はメリットのない合併は株主に説明できないと反論し、三和役員は大蔵省が最初から合併の枠をはめてきたと不満
- [38]東洋信金の架空預金証書は3655億円分が残存、尾上縫被告向けのノンバンク債権は約2200億円。大蔵省は三和との合併以外に方法がないとの姿勢。渡辺滉頭取はメリットのない合併は株主に説明できないと反論し、三和役員は大蔵省が最初から合併の枠をはめてきたと不満
- [39]東洋信金の架空預金証書は3655億円分が残存、尾上縫被告向けのノンバンク債権は約2200億円。大蔵省は三和との合併以外に方法がないとの姿勢。渡辺滉頭取はメリットのない合併は株主に説明できないと反論し、三和役員は大蔵省が最初から合併の枠をはめてきたと不満
- [40]東洋信金の架空預金証書は3655億円分が残存、尾上縫被告向けのノンバンク債権は約2200億円。大蔵省は三和との合併以外に方法がないとの姿勢。渡辺滉頭取はメリットのない合併は株主に説明できないと反論し、三和役員は大蔵省が最初から合併の枠をはめてきたと不満
- 三和銀行 ディスクロージャー誌(1997年)「東洋信用金庫との合併」
- [41]1992年10月1日に東洋信用金庫と合併。合併比率は東洋信用金庫出資1.5口に対し三和株式1株
- 日経ビジネス 2000年3月20日号
- [42]室町鐘緒は1999年6月頭取就任の国際派で再編論者、就任後さくら銀行との合併を模索したがさくらは住友と合併。親密損保3社の統合は2000年2月14日に瓦解。東京三菱との合併では主導権を握られるため、2000年3月14日に東海・あさひ連合への参加を発表
- [43]室町鐘緒は1999年6月頭取就任の国際派で再編論者、就任後さくら銀行との合併を模索したがさくらは住友と合併。親密損保3社の統合は2000年2月14日に瓦解。東京三菱との合併では主導権を握られるため、2000年3月14日に東海・あさひ連合への参加を発表
- [44]室町鐘緒は1999年6月頭取就任の国際派で再編論者、就任後さくら銀行との合併を模索したがさくらは住友と合併。親密損保3社の統合は2000年2月14日に瓦解。東京三菱との合併では主導権を握られるため、2000年3月14日に東海・あさひ連合への参加を発表
- 日経ビジネス 2000年4月24日号
- [45]室町頭取:3行はミドル・リテールのナンバーワンブランドを狙い、これは変えないと表明
- 三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行 お知らせ(2000年7月11日)「3行による経営統合について」
- [46]三和(頭取室町鐘緒)・東海・東洋信託の3行が経営統合の財務目標を公表:2005年度連結で業務純益1兆円・当期利益5000億円・ROE12%程度。重複店舗約70・人員約2600人の追加削減
1973年〜2001年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1973年03月期 | 単体 | 3,167 | n/a | 431 | 229 | 7.2% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 4,261 | +34.5% | 370 | 241 | 5.7% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 6,189 | +45.2% | 539 | 201 | 3.2% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 6,503 | n/a | 633 | 280 | 4.3% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 9,355 | +43.9% | 299 | 188 | 2.0% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 12,212 | +30.5% | 530 | 270 | 2.2% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 15,050 | +23.2% | 743 | 351 | 2.3% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 15,717 | +4.4% | 929 | 366 | 2.3% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 15,451 | ▲1.7% | 1,064 | 559 | 3.6% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 18,618 | +20.5% | 1,384 | 586 | 3.1% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1993年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1994年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1995年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1996年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1997年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1998年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1999年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 2000年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 2001年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑(1976年版)半期合算、会社年鑑(1986年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
20件
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- 財政金融ジャーナル 15(8)(1975年)「"ピープルズ・バンク"を行動の基本に――三和銀行専務取締役村井七郎氏に聞く」
- 日経ビジネス 1976年6月7日号
- 日経ビジネス 1976年10月25日号
- 日経ビジネス 1979年11月5日号
- 日経ビジネス 1988年6月13日号
- 日経ビジネス 1988年9月26日号
- 日経ビジネス 1991年2月11日号
- 日経ビジネス 1992年2月17日号
- 日経ビジネス 2000年3月20日号
- 日経ビジネス 2000年4月24日号
- 月刊経済 23(5)(1976年)
- 経済ライフ 13(2)(1979年)「体質強化作戦を展開する三和銀行――赤司俊雄頭取が狙うものとは」
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三和銀行」赤司俊雄
- 政経人(1983年)「金融国際化を進める新しい旗手(三和銀行頭取川勝堅二)」
- 銀行時評 22(5)(1988年)「本部組織を改革し収益第一位へ挑戦する三和銀行」
- Decide(1990年)
- 日経公社債情報 11月22日(906)(1993年)「三和銀行の研究――世界の優良銀行を視野」
- 三和銀行 ディスクロージャー誌(1997年)「東洋信用金庫との合併」
- 三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行 お知らせ(2000年7月11日)「3行による経営統合について」